数字好きと会話のラリー
4桁の赤い数字が縦に3つ並んでいる。
予定、実績、差。
目標の数値と、実際にこなした数値。そしてその差。
鳥手が受け持っている作業は、基盤の上にメモリのような部品を取り付ける作業だった。ひとつ取り付けが終わるたびに作業机の上にあるスイッチを押す。
スイッチを押すと、作業机の上部に取りつけられたLED情報板の「実績」の数値がひとつ増える。鳥手の作業机のLED板は、実績が予定を大幅に上回っていた。
「うわー鳥手くんがイヤミな笑い顔してる」
右隣の作業机で仕事をしていた
鳥手はそう言われて顔を引き締め、作業をさらに続けようとしたが、目木が立ち上がったことで気づいた。
休憩だ。
工場では2時間おきに休憩時間が入る。
タッドリッケ・伊名井工場では、作業開始から2時間後の休憩、さらに2時間後に昼食休憩、そして2時間後の休憩、その後2時間後の定時終了の休憩、そしてもう一度2時間後に、残業中の休憩が入る。
休憩の号令は各班の班長が出す。今回も班長が「休憩です」と言ってはいたのだろうが、鳥手の耳には入っていなかったのだった。右隣の席の目木のおかげで休憩に気づいた鳥手は、作業をいったん止めた。
目木はすでに席にはいなかった。休憩室に行ったのであろう。鳥手はそう考えた。しかし、鳥手は休憩室に行く気はなかった。
休憩時には、休憩室を使える。
そこでおしゃべりに興じたり、ちょっとしたものを食べたり飲んだりしても各自の自由である。たばこを吸う者も伊名井工場には多かった。
鳥手はたばこを吸わなかったが、伊名井工場には非喫煙者用休憩室も存在していた。
だから鳥手が休憩室を使わないのはたばこのせいではない。
鳥手が休憩室を使わないのは、おしゃべりする相手がいないのと、おしゃべりする気がないからである。
鳥手はただ数字を見て単純な作業を繰り返していればいい仕事とは違い、言葉を話すのは苦手だった。休憩室でただ黙って休憩を取っていてもいいとは思うが、気まずい。
そういった気まずさを感じる感性はあった。
タッドリッケ・伊名井工場には座り仕事と立ち仕事の両方があったが、鳥手は座り仕事をしていた。1日中座っていても体に悪そうだ。
というわけで、ストレッチ代わりにそこら辺をそぞろ歩く。そこら辺と言ってもたかがしれている。工場の作業フロア内の、邪魔にならないような隅っこを、まだ作業中のほかの人間の邪魔にならないよう、すらすらとさすらう。
ただのほっつき歩きなのに、まるで目的があるかのように歩く。
そしてそのまま第1作業フロアを出て、階段を下り、工場2階の自販機コーナーに行く。そばにはゴミ箱があるだけで、椅子や灰皿などがない。そのためいつも人気がない自販機コーナーがあるのを鳥手は知っていた。そこでしばし休息をとる。
それが鳥手の休憩コースだった。
鳥手は数字が表示されたLED情報板のスイッチを、いったんオフにした。マスクと手袋を外し、作業机の脇に置く。椅子から立ち上がり、のびを一度した。
なんとなく右隣の目木の席を見た。隣とは言っても、ぴったり机が合わさっているわけではなく、背の低いワゴンや機械などがあいだに置かれているため、作業机と作業机のあいだは1.5メートルほど離れている。
LEDの画面が嫌でも鳥手の目についた。目木はLED情報板のスイッチを切り忘れて席を立ったようだった。人の机のスイッチを勝手に切るのもどうかと思い、鳥手は特に何もしなかった。が、作業机の上にあるLEDの進捗状況はそばに寄らなくとも、離れたところからも見える。
目木の作業机のLED情報板には、予定の数と、それをかなり下回った実績が表示されていた。
「……?」
鳥手は腑に落ちなかった。
そのままそこでじっと隣の作業机のLED情報板を見ているのもおかしかろうと気づき、歩き始めた。
歩きながら考える。
目木は鳥手よりもあとに工場で勤めはじめた。だが、同じ作業に就いて1週間ほどで鳥手の数字に追いつき始めた。追い抜きはしないものの、徐々に数字が迫ってくる。要領をつかむのがうまい人なのかな、という印象を持った。
誰にでもできる単純作業とはいうものの、慣れは必要だった。
少なくとも鳥手はそうだった。
目木はそれだけでなく、周囲の人間に溶け込むのもうまかった。
性別のせいなのだろうか。
一度そう考えたことがあった。女性のほうがコミュニケーションを取るのがうまいのだろうか。自分は男だから孤立するのだろうか。
たぶんそうじゃない。
自分が女性だったとしても、今と大差ない工場ライフを送っている気がする。
たとえ性別が変わっても、自分は今と変わらず、数字を好み、しゃべることを苦手としていたはずだ。
鳥手はそう結論づけた。
いつも疎ましく感じ、いつも自分をさいなむ要素。それが「自分らしさ」の大部分を占めている。姿や性別が変わっても、その部分だけは変わらないと信じている。
そこが自分だと思っている。
所詮例え話なのだから、どんな自分を想像してもいいはずである。
しかし、鳥手が想像したのは、見た目は違っていても、中身は今と同じ自分だった。
自分で欠点だと思っている部分を、自分を自分だと感じる「よりどころ」にしているのだなと感じた。
自分のアイデンティティは、欠点にある。
鳥手はそんな仮説を心の中で立ててみた。
自分でも気づかぬうちに、考えていたことがスライドしていた。
階段を下り、自販機にたどり着いたときにそのことに気づいた。
いつもは人がいない自販機のそばに、目木がいたのだった。
「あ、鳥手くん」
「……」
名前を呼ばれたところでどう返していいかわからず、迷っているうちに返事をするべきタイミングを逃した。鳥手は、自販機と目木の前で立ち尽くした。
さんざん迷ったあげく、今やっと返事をしてもおかしいだろうと思い直し、黙ったまま自販機の前に歩み寄った。
会話には制限時間がある。
鳥手はそう理解していた。理解してはいたが、いつも制限時間内に返事を思いつくことができないままでいた。目木は鳥手のために場所を少しずれ、自販機の横で手に持った缶の中のものをひとくち飲んでから言った。
「いつもどおり無口だね」
「……」
人に聞きたくなる。これはどう返すのが正解なのか。
正解、不正解などなく、好きな言葉を返せばいい。
そうわかっていても、鳥手は直球の質問以外の言葉にどう反応していいのかわからなかった。
無理に言葉を返してもおかしな顔をされるだけなのは学習済みだった。
今まで黙って生きてきた者がいきなりしゃべり出す衝撃、そういうジャンルの驚きがあることはすでに知っていた。
鳥手はポケットから携帯を取り出し、自販機と接続してから操作した。自販機の取り出し口に小さなペットボトルが落ちてくる。鳥手はそのペットボトルを取り出した。
鳥手は特に気まずさを感じていなかった。
むしろ、なぜ目木がこの場にいるのだろうかと考えていた。
「数字落ちてるって思ったでしょ」
「……」
確かに腑に落ちない気持ちにはなった。
だが、それをはっきり本人に伝えていいのか、鳥手にはわからなかった。
特に馬鹿にする意図でそう思ったわけではなかったが、自分にそれを不快でない形で説明できるのか、自信がなかった。
またしても時間切れ。
「鳥手くんはいつも人の顔より数字見てるから、気づくだろうなって思ったんだけど」
「……」
どう返せばいいというのか。
言っている内容は合っているが、なぜ自分のそんなところを見ているのだろう。
正直、気持ち悪い。
だが、そんなことを言ったら失礼にあたるのでは。
またしても時間切れ。
「ここの自販機って変わってるよね。つぶ入りマスカットジュースなんて初めて見た」
「……」
自分は自販機メーカーの人間ではない。
自販機マニアでもない。
実際につぶ入りマスカットジュースがあまりないのか、それともありふれているのか、判断できない。
つぶ入りマスカットジュースを「変わっている」という目木が手に持っているのは、カフェオレの缶だった。それに関してもどう言えばいいのかわからない。つぶ入りマスカットジュースに対して厳しすぎるのではないか。いや、そこまで肩入れするほど、自分はつぶ入りマスカットジュースに対して思い入れがあるわけでもない。
さらに言えば、人がいないのがここの自販機の魅力であって、飲み物の種類に関してはこだわって考えたことがなかった。
またしても時間切れ。
「私、今週いっぱいでやめるから」
目木は、空になったらしい缶を軽く振りながら告げた。
「……えっ」
鳥手はつい声を出した。
カラン。
目木は飲み終わった缶をゴミ箱に捨てた。
「……うん。なんかそういうことになったから。おしらせ。隣の作業机の人間が突然いなくなったら驚くかと思って」
鳥手は、今の段階ですでにかなり驚いていた。それでもなんとか声を絞り出す。
「今週いっぱい、というのも、かなり」
「突然かなあ。そうだよね。正確にはこの日勤が終わったら、なんだけどね。あと3勤務。これは私の都合じゃなくて、派遣会社の都合なんだけど」
「……そう」
「まあ、驚かないか。この工場、人の出入り激しいもんね。いろんな人が入ってきて、出てく。鳥手くんにとったら、いつものことかもしれないけど」
「あ」
鳥手は唐突に理解した。
返事だから返しにくいのか。
「目木さん」
「あい、なんでしょ」
「数字落ちてたの、わざと、ではない」
「ん、どっち? 『わざとではない、でしょ』? えーと、はい。わざとじゃないです」
「やめたくない」
「わからない。もうこっちから願い下げとも思う」
「カフェオレのほうが好き」
「私? いや、カフェオレのほうが10円安かったんで選んだだけ」
「……」
鳥手はなぜか鳥肌が立った。
自分が、もし自分のような言葉を掛けられたら、ずっとどう返せばいいのかわからず、制限時間切れを繰り返していただろう。
この人は返事がうまい人なのか。
実際にうまいかどうかはわからなかったが、どういう言葉でも返そうとする、その心意気がある人なのか。
実際に鳥手の想像が当たっているのかどうかは鳥手にもわからなかった。だが、鳥手は目木に対して、今さらながら畏怖なのか尊敬なのか出所が判然としない、うっすらとした感情を持った。
「目木さん、テニスする?」
「しない。球技はボールが怖いから」
「うまいんじゃない?」
「うまくないよ絶対。鳥手くん、いきなり話し始めたと思ったらテニス?」
「うん。ふはは」
鳥手は思わず笑っていた。
自分でも「何を言っているのだろう」と思ったら、つい笑ってしまったのだった。
笑ってしまってから、しまった、目木に変な顔をされる、絶対そうだと思った。
が、目木も吹き出した。
なぜか笑いはじめた。
あっはっは、と声を上げ、隣にいた鳥手の肩をバシバシ叩いた。
返事をするのがうまいからと言って、いつもいつも相手に玉拾いをさせるような会話をするわけにもいかないし、そんなことを続けていたら今以上に自分の評判は悪くなるだろう。しかし、少なくとも目木は、会話をすることが下手だからという理由で他人を見下したりしないのではないか。もっと、話しかけてみればよかったのだろうか。鳥手は今さらながらそう感じた。
ひととおり笑い終わったあと、涙を拭きながら目木は言った。
「はー。休憩時間終わるよ、戻ろう」
そう言われて、鳥手は持っていたペットボトルの中のものを飲み干した。そして空きペットボトルをゴミ箱に捨てながら返事を返した。
「はい」
階段を上る。目木のあとをついて行く。横に並ぶと通行の邪魔になるかと思い、そうした。普通は人と階段を上るときにどこに並ぶのが正しいのか、鳥手にはわからなかった。
「どれー。なんか大笑いしたら肩の力も抜けたし、午後からいっちょ本気出しますか」
目木が、肩をゴキゴキ鳴らしながら朗らかに言い放った。
どう返せばいいのか。
そんなことはわからない。
それでも、とにかく返すんだと思うことにした。
実際に「ちゃんと」返せているのかどうかは自分ではよくわからないとしても。
「ここからいくつ数字上げられるか勝負」
「鳥手くんと? いや、勝負とか……。私たちは製品を作っているわけで、数字だけを見ているわけではなくて、品質は大事ですよ」
「それはもう、できてるでしょ、目木さん」
「ええー。仕方ないなあ。今日はでも、これまでの調子が悪いからね。勝てるかどうかわからないなあ」
「勝つつもりがあるとこがすごい」
自分の作業机について、座りながら言った。
鳥手の机を通り過ぎて自分の作業机に向かう途中の目木にベシ、と肩を叩かれた。
休憩前にオフにしていたLED情報板のスイッチを入れる。
休憩前に外していたマスクと手袋を嵌める。
鳥手はひとつまばたきをして、これから作業する製品を手に取った。
(おわり 002/030)
☆☆☆☆☆☆☆
工場編は基本的に1話完結ですが、同じ人物がほかの話にも微妙に出てきます。
よろしければどうぞ。
↓鳥手くんが地味に出てくる話。
↓目木さんの話。