スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

湯気のあいだから

渡瀬はとんでもない発見をした。
自分が今日1日、Tシャツを後ろ前に着ていたことを発見したのである。
今日がもう終わろうというこの時間に、である。

 

なんとなく違和感は感じていた。
そのかすかな違和感は今、第2棟の大浴場の脱衣所で鏡に映ったことで可視化された。


タグが出ていたのである。
渡瀬が着ていたのは、首の後ろにタグがついているタイプのTシャツだった。

 

渡瀬が勤める宿泊施設「ログキャビン・イルズク」には制服がなく、私服で仕事をすることになっていた。
渡瀬の本日の服装(トップス)は、セーターだった。セーター・オン・Tシャツである。

 

渡瀬が、大浴場の清掃をするつもりで、ドアに利用時間終了の札をかけに行こうとしたときのことだった。
辺りに誰もいないこともあり、通りすがりに脱衣所の鏡に映った自分の姿をなんとなく見た。
そこでタグを発見した。
本来、首の後ろにあるはずのタグが顔の下に飛び出ていた。
鏡は何度か見ていたし、ガサガサチクチクしていたはずだが、渡瀬は1日中気づいていなかった。

 

今から直して意味があるのだろうか。
今日の仕事は、この大浴場の清掃でほぼ最後だというのに。

 

渡瀬は少し迷ったあと、手に持った札を脱衣所の棚に置き、セーターを脱いで、Tシャツから腕を引き抜き、ぐるりと回した。
しかし、Tシャツは完全には回らなかった。
着たままTシャツを回転させることはあきらめ、一回すべての服(トップス)を脱ぎ、今度は前と後ろを入念に確認したのち、正しくTシャツを着た。
それからセーターにもう一度両腕を通した。
再びセーターに頭を通す。
静電気のバリバリという音とともに一件落着である。


「これでよし」と札を再び手に取ると、大浴場の入り口に人がいることにようやく気づいた。

渡瀬は入り口に背を向けて静電気をバリバリいわせていたため、その人物に気づくのが遅れたのだった。

 

その人物は、渡瀬が脱衣所内に札を取りに行くために半開きにしていたドアの少し内側に、壁にもたれて立っていた。
こちらを見ている。髪には寝癖がついている。
イルズクの備え付けの浴衣を着ている。片手に洗面道具なのか、袋を提げていた。

 

ビクリ、と体を震わせたのち、渡瀬はとりあえず何かを言おうとして、口ごもった。

 

「あ、えっと、加藤さん」

 

ようやくそれだけ言った渡瀬に、寝癖の浴衣男性は、眠そうな顔で答える。

 

「ああ……。名前、覚えててくれたんですね。俺、こないだ名刺渡しそびれたのに。というか今も持ってないんですけど」

 

寝癖の浴衣男性は、空いているほうの手で、浴衣をパタ、パタと数回叩きながら言った。
浴衣なのでポケットも何もない、という意味らしい。それから引き続き眠そうな顔で渡瀬に問いかける。

 

「もう大浴場終わり?」
「あ、はい。表に終了の札はかけます。でもいいですよ、つかっていってください」
「いいの?」
「はい。あまり大っぴらに言われちゃうと困りますけど……、どうぞ」

 

できるだけ笑顔に見える顔を作りながら渡瀬は言った。
本来の業務が接客ではないので、こういう言い方でいいのだろうか、という手探り状態の言葉だった。
本当は、キッパリ断るべきなのかもしれない。あとで上司に、こういう場合にどう対応すればいいのか確認しよう。渡瀬はそう思った。

 

渡瀬は、寝癖の浴衣男性が誰なのか知っていた。
渡瀬の兄である。名は叶太(かなた)
しかし、渡瀬は今、実家を飛び出て、行方不明者として扱われている。

 

今の渡瀬は、なんだかんだあって、昔とは顔を変えていて、昔よりも声がしゃがれていた。
そしてこの職場には同じ姓の人間が多いため、「加藤渡瀬」という本名の、下の名前で呼ばれていた。「渡瀬」という名は、名前だが名字のようにも聞こえた。
そのせいなのか何なのか渡瀬にもよくわからなかったが、渡瀬の正体は兄に気づかれてはいないようだった。

 

「いやぁ、すみませんね、仮眠をとったあと、もう1回風呂に入ろうと思って。あっちの大浴場とどう違うんだろうと思って、こっちの建物に来てみたはいいけど、歩いてる途中で大浴場終わりの時間になってしまったみたいで」

 

徐々に目が覚めてきたのか、叶太は、よどみなく自分の現状を説明した。
叶太は第1棟に泊まっていた。
「あっち」は第1棟、「こっち」は第2棟を指しているのであろう、渡瀬はそう見当をつけた。

 

「さっき、ここ来るまでにロビーの花も見ましたよ。1個巨大な花があって、いやぁ、迫力あった」

 

脱衣所で入浴のための準備をしながら叶太は言う。
渡瀬はできるかぎりの笑顔で相づちを打つと、大浴場のドアに札をかけて脱衣所に戻り、ドアを閉めた。
叶太が洗い場に入るのを見届ける。
脱衣所の棚に置かれたかごをひとつひとつチェックして、忘れ物がないかどうか調べる。特に何もない。

 

「昨日の夕方、雪が降ってましたね」

 

洗い場から叶太が言った。脱衣所と洗い場を仕切るガラスの扉は開け放たれており、声が届く。

 

「そうですね。あまり積もらなくてよかったですよね」

 

そう言葉を返して、脱衣所の隅に置かれた掃除機を手に取り、スイッチを入れた。
渡瀬が脱衣所に掃除機をかけ終えると、叶太は体を洗い終え、湯船に入ろうとしているところだった。

 

掃除機をかけ終わり、手持ち無沙汰になってしまった渡瀬は、「脱衣所でできる仕事は何かなかったか」と周囲を見渡した。
しかし何も仕事を見つけられず、これ以上特に何をすることもできず、渡瀬は洗い場の床の清掃を始めることにした。

客がいるのにいいのだろうか、と内心ドキドキしながら。

脱衣所のロッカーに入ったデッキブラシを持ち、とりあえず今洗う範囲だけ洗剤をかけ、洗い場の隅をゴシゴシこすっていると、背後から湯船の叶太が声をかけてきた。

 

「昨日、雪が降る中、耳木兎(ミミズク)山を歩くことになってしまって……、いや、遭難とかではないんですけどね。いろいろあって、筋肉痛です。運動不足だなぁ」

 

つぶやくように放った言葉の語尾が空中に溶ける。
渡瀬はどう言葉を返したものか迷い、曖昧な相づちを打った。

 

「弟を背負ったんですけどね、別にケガしたとかってわけじゃないんですけど、なんかそういう話の流れで。それが、あいつ痩せてるのにめちゃめちゃ重くて。誰に似たんだろう、俺も両親もそんなに背が高くないし、あいつはまだ高校に上がったばかりなのにやたら背が伸び始めてて」

 

渡瀬は「弟」という言葉に反応して、一瞬自分のことを言われているのかと錯覚し、そのあと気づいた。
渡瀬たち兄弟は3兄弟だった。叶太は、一番下の弟のことを言っているのだった。
渡瀬が手を止めて目をやると、叶太は湯につかりながら目を閉じていた。
渡瀬に言っているというよりも、独白に近い言葉なのだろうか。
中腰がきつくなり、一度背筋を伸ばす。それからゴシゴシを再開した。

 

「うち、今言った弟と、もうひとり弟がいるんですけどね」

 

不意に叶太がそう言った。
ドキリ。
渡瀬のブラシを操る手が止まりそうになり、動揺が叶太に伝わらないように、意識して手を止めないように努力する。

 

「ちょうど渡瀬さんくらいの背の高さで」

 

渡瀬が叶太のほうを見ると、叶太は目をつむったまま話している。
渡瀬が背筋を伸ばしたところを見て言ったわけではないらしい。
渡瀬の、ブラシを握る手が汗ばんでくる。

 

「背中にほくろがあった。Wみたいな……カシオペヤ座の形」

 

叶太は、うっすらと目を開け、指で宙にWの形を描いた。

 

「今、行方不明なんです、そいつ」

 

ゴシゴシ。
ゴシゴシ。

不自然にならないよう、リズムを意識して床をこする。

 

「別に、行きたいところに行けばいいと思うし、何かよくないことに巻き込まれているんでない限り、好きにすればいいと思う。けど……」
「……けど?」

 

渡瀬は、気づいたらブラシを止め、中腰のまま聞き返していた。
聞き返してから我に返り、再び下を向いてブラシを動かす。

 

「連絡先を知りたい」

 

渡瀬は、床をこすりながら一瞬息を止めた。
それからゆっくり息を吐き出した。
叶太がそれ以上何も言わなかったため、渡瀬は笑顔を作りながら問いかけた。

 

「『連絡先』なんですか」
「そう」

 

叶太は目を閉じて答える。

 

「『会いたい』とか『居場所を知りたい』じゃないんですか」
「……うん。違うね」

 

どういう意味なのか、それ以上聞くのもおかしい気がして、渡瀬は黙って床をこすり続けた。

 

その後、叶太はそのまま特に何を言うでもなく、入浴を終えた。
渡瀬も大浴場の清掃を終え、スタッフルームに戻った。上司がそこで待っていた。

 

「あ、渡瀬くん。終わりました? それじゃ、そろそろ帰りましょうか。名札ひっくり返して」

 

上司は名札を「出勤」を表す黄色から、裏の、「退勤」の緑にすることを指示した。
第2棟の日勤のスタッフの名が書かれたほかの札は、すべて緑になっている。
今、名札が黄色の面になっているのは、夜勤組だけだった。

 

さっきの会話は何だったのだろう。
名札をひっくり返しながら、渡瀬は考えた。
特に意味はないのだろうか。
渡瀬こそが、その探している弟だと気づいていないのだから、叶太が渡瀬に言った言葉にも特に意味はない、はずだ。
意味のない言葉だ……、

 

そう思おうとして、記憶がよみがえった。

 

Tシャツを後ろ前に着ていて、一度脱いで着直したことを。
再び服を着て、後ろを振り向くと叶太がいた。
背中のWのほくろを見られていたのだろうか。
いや、見られていなかったとしても、気づいていてもおかしくはない。

たとえ顔と声が変わっていても、会話して気づかれないわけがない、のかもしれない。
いや、そうではない。
気づかれていなかったとしても。

 

名札を裏返し、渡瀬は上司を振り返って尋ねた。

 

「あの、封筒みたいなものってありますかね」

 

***

 

翌日。
新人研修は今日で終わりである。
叶太は目を覚ますとベッドから下り、洗面所およびトイレに向かった。
途中で、部屋の入り口のドアの下に、何かが挟まっているのが見えた。
外側から挟み込んだもののように見えた。

 

叶太は、じゅうたんの上に落ちていたものを拾った。
封筒だった。
表にはクセのある字で、「加藤叶太様」と書かれていて、軽く封がされていた。
封筒にはイルズクのロゴが入っている。

 

封筒を開けると、中には名刺が入っていた。
名刺をひっくり返してみると、裏に「俺の名刺です。先日渡せなかったので」という言葉と、連絡先であろうアルファベットと数字が手書きで書き足されていた。

 

叶太はその文字をぼんやりと見ていた。
驚きはしていない。
だからといって、今、叶太が感じているのが、どの感情なのかもよくわからない。

 

もう一度、名刺をひっくり返した。
再び名刺の表を見つめ、叶太は少しだけ微笑んだ。
そこには、ずっと見たかった、いやそこまで思ってもいない、だけど待ち望んでいた、いやそこまで待ち望んでもいなかった、そんな意味不明な葛藤を叶太に感じさせる名前を構成する文字が並んでいた。

 

――加藤渡瀬。

 

叶太の弟の名だ。

 

(おわり 28/30)