夜空のたくさんの星と、キャンディの箱
「予定」「実績」、そして「差」それぞれの数値が赤いLEDで表示されていた。
「実績」が「予定」を上回らなければならない。
……のだが、踊谷の「実績」は、いまだに「予定」に追い付けていない。
もう午後の作業が終わり、休憩を挟んで残業に突入したにもかかわらず、である。
「差」の数値の大きさが、踊谷にため息をつかせた。
まだこの工場、タッドリッケ・伊名井工場に来て日が浅いこともあり、踊谷は作業に慣れていなかった。
作業机の上部に取り付けられているため、LED情報板の赤く光る数値は、踊谷の作業机から離れたところからも見える。
自分の作業の遅さが可視化されている。
この作業フロア全体に、自分の作業のスローっぷりがバレている。
なんだか恥ずかしいような、こそばゆいような、いやそんなこと言っている場合ではないような。
そんな、こっぱずかしい思いをしながら、それでも踊谷は精一杯の早さで作業を進めていた。
足が痛い。
今、踊谷が履いている作業靴は、踊谷が所属している「インダストリアム・ファクトリアス」という、冗談のように長ったらしい名の派遣会社からレンタルしているものだった。最初に試し履きをしてからサイズを申告したにもかかわらず、足が痛くなった。
サイズを替えてもらおう。
踊谷はそう心に決めた。
これ以上履いたら足がどうにかなってしまう。今日の作業が終わったら、靴のサイズを替えてもらわなければ。
踊谷の作業は座り作業がメインで、靴の影響はあまり受けない作業ではあったが、それでも足の不都合が踊谷の気分に影響していた。
踊谷が受け持つ作業は、機械の組み立て作業……の、どこかの工程だった。
タッドリッケ・伊名井工場では、誰にでもできる作業にするために、作業が細分化されていた。細分化され過ぎていて、今自分が何をやっているのかを把握しにくかった。
前の工程までに、いくつかのパーツが取りつけられた四角い金属製のボックス。そこに、コードや小さなパーツを取り付ける。それが踊谷がやっている作業だった。
最終的に何になるのかは踊谷にはわからない。
そんな適当な勤務態度だから、自分はこんなスローペースなのだろうか。
踊谷は肩を落としながらそう思ったが、タッドリッケ・伊名井工場にいるだいたいの者が、自分が作っている物の最終形が何なのかよくわかっていないことには気づかなかった。ほかの工場では起きるはずのない現象が、ここタッドリッケ・伊名井工場では日常的に起こっていたのである。
作業机に影が落ちた。
踊谷が顔を上げると、吉島が作業机の横に立っていた。
「もう今日は作業終わりだってさ。夜勤組と交替だよ」
「あ、はい」
吉島にそう言われ周りを見ると、踊谷や吉島と同じ、多くの日勤組が片付け作業に入っていた。
遅々として進まない己の作業に気を取られるあまり、作業終了を告げる班長の声にも気付いていなかった。
踊谷は、すでに作業に入っていたひとつ分の作業を終わらせ、作業机の周辺を軽く片付けてから立ち上がった。
タッドリッケ・伊名井工場では、自分たちの班のリーダーが「お疲れ様でした」の挨拶をするまで帰ることができない。そして、全員が作業後の片付けを終わらせるまで、班長の「お疲れ様でした」の挨拶は出ない。
ゴミをまとめたり、捨てたりする作業が残っている者もいたが、片付け作業が少ない作業の者たちは、ぼんやり「お疲れ様でした」待ちをするくらいしかやることがない。
やることがないので、なんとなくおしゃべりをしている者が多い。
吉島と踊谷もそうだった。
ふたりは、交替する夜勤組と片付けをする日勤組の邪魔にならないよう、作業フロアの端に向かった。
「あれの名前知ってる? さっきまで踊谷さんが作業してたパーツ」
吉島は踊谷に問い掛けた。
踊谷は、12時間勤務でぼうっとした頭を回転させようとした。
「名前、ですか」
しかし、頭はぼうっとしたままだった。
「いやぁ、今日は名前に関して考える日みたいでさ、朝から『オポッサム』という名前について考えてる私です」
「あ、はい」
踊谷は、吉島に何を言われているのかよくわからなかったため、とりあえず返事をするしかなかった。
「名前ってさあ……、それ以上、意味がないものだよね……」
ふっと目を伏せながら吉島が言った。
唐突に、いいセリフふうにそんなことを言われても、本日のスロー作業がフロア中にバレていたダメージを勝手に負い、疲労困憊でぼうっとしていた踊谷は、どう返事していいのかわからなかった。
「そうですね……」
そんな返事を返すのが精一杯だった。
その返事をどう解釈したのか、吉島はさらに言った。
「お昼のときにさぁ、聞いたのよ、これの名前。メイさんに。そうしたら、名前以前に英語でどう聞けばいいかという壁にぶち当たってしまってさぁ」
当のメイは、所属している派遣会社が吉島たちとは違っており、残業のないシフトで働いていたため、本日はすでに帰宅済みである。
今から聞こうにも、ここに本人がいない。
踊谷は、吉島がマイペースに語る話を聞いていて、今日は吉島的には名前の日らしい、ということを理解した。
「英語ですか」
「うん。英語できていいなぁ、メイさん。旅行するの楽しそうだよなぁ」
「そうですね……」
旅行に特に興味がなかった踊谷は、それ以上言うことがなかった。
代わりに尋ねてみた。
「メイさんはどうやって『CB』の名前を知ったんでしょうか」
「さあ。それが聞けなくってさあ。英語でどう聞けばいいかわからないし、聞けたとしても答えの英語を私が理解できるのかというのがあってさぁ」
「なるほど……。作業途中のパーツの名前ですかぁ」
何を言えばいいのかよくわからず、踊谷は間延びした返事を返した。
吉島はうなずきながら話し続ける。
「そうそう。私なんて1年以上ここにいるけどさ、まあ途中で何か月か旅行行ったりしてたけど。でもさ、通算1年以上いても名前知らなかったのに、メイさん、どうやって知ったんだろ。まだ3か月くらいなのに」
「それって企業秘密、みたいなことなんでしょうか」
「どうだろ。単に、入れ替わりの激しいこの工場の派遣に、いちいち説明するのが面倒なだけなのかも」
そこまで話したところで、班長の「お疲れ様でした」の声が聞こえた。
本日の仕事は終了である。
ふたりそろってロッカールームでタイムカードに打刻したあと、工場の従業員玄関に向かおうとした吉島に、踊谷は言った。
「あ、吉島さん。私、帰りに事務室寄るので、えっと」
「あ、そうなの?」
「はい。靴を交換してもらわないと。私、靴のサイズが合ってなかったみたいで」
「そっか~。って、ふむ」
吉島は奇妙な相槌を打つと、澄んだ目で踊谷を見た。
「私も行く。そうか、事務室で聞けばいいんだ。派遣だと知らない人が多くても、社員さんだったら知ってる可能性大だよね」
「はあ」
吉島は、まだ名前のことを考えていたらしい。その執着力に驚いた踊谷ではあったが、特に何を言うでもなく、吉島のあとに続いて、のろのろと事務室に歩いて行った。
「ああ、靴ね。やっぱり合わなかった?」
工場内にある派遣会社の出張事務室で、踊谷は女性社員に声を掛けた。
「
踊谷と場藤が靴に関する話をしているあいだ、吉島は近くにいる社員を捕まえて、名前に関して今日1日考えていたことを話して聞かせた。
「はあ、名前。『CB』ですよね」
「
「はい。で、メイさんが言うには、『キャンディ・ボックス』らしいんですけど、意味。意味というか、略す前が『キャンディ・ボックス』」
「ええっ!」
粟石は妙に驚いた。
粟石の驚きっぷりに驚いた吉島は、率直に尋ねた。
「なんでそんなに驚くんですか」
「いえ、意味があったんだと思って」
「あ、ご存じなかったという」
「うん。知らなかった。こないだも話に出たよね、場藤さん」
踊谷との靴談義、いや靴に関する作戦会議を終えたところだった場藤は、粟石の言葉にうなずいた。
「出ましたね。そのときも踊谷さんがいたけど」
「え。私、覚えてないです」
踊谷は、靴を履き替えながら答えた。
「そのときも靴に集中してたからね」
そうつぶやいた場藤に、粟石が、まだ驚きが消えない表情のまま伝えた。
「場藤さん、『キャンディ・ボックス』らしいですよ」
「えっ『CB』が? あれって、単なる記号じゃなかったんですか」
「そうみたい」
「私がちょろっと耳にしたのは、『金太郎飴』だったんですけど、略しても『CB』にならないんですよね。だから単なる記号だと思い込んでました」
「『キャンディ・ボックス』だと『CB』になりますね」
「ですね」
はたからふたりの驚きっぷりを見て、踊谷は思った。
あ、この人たちも知らなかったのか。
「『キャンディ・ボックス』……『キャンディ・ボックス』とは、いったい」
事務室を出て、工場の建物を出ても、吉島はまだうなっていた。
送迎バスが停まっている駐車場に向かう、その途中である。
工場を出るときに靴を自分のものに履き替えたため、踊谷の足の痛みは引き始めていた。うなる吉島に踊谷は言った。
「『キャンディ・ボックス』って、なんかかわいい名前ですね。『飴が入った箱』ですかね。いえ、『飴でできた箱』ですかね」
吉島ほど名前にこだわりを持たない踊谷は、なんだかふわふわとした感想を述べた。
合わない靴から解放され、気持ちが上向きになっていた。
見知らぬ金属製のボックスではなく、キャンディ・ボックス。
なんだかかわいらしい名前を持つもの。
そう考えると、明日からの作業が少しだけ楽になるような気がした。
そうか、私は、何の思い入れもない金属製の箱を作って数値を競うのが嫌だったのか。
踊谷は自分の気持ちに気づいた。
そんなことで作業の効率が上がるのだろうか。
踊谷は自分でも疑問だったが、気持ちがすっと晴れていくのを感じた。
かわいい名前。
キャンディ・ボックス。
靴も替えた。
これでもサイズが合わなかった場合の対処も一緒に考えてもらった。
仕事に慣れるまで、どれくらいかかるのだろう。
踊谷は考えた。
わからないけれど。
「なんだかすっきりした顔してるなあ、踊谷さん」
眉をしかめてブツブツこぼしていた吉島が、踊谷の顔を見て言った。
「はい。自分でもよくわからないですけど、『明日もがんばろう』って気になってきました」
「ええー……、いいなあ」
吉島は、冗談めかして、「悲しくなるほどうらやましがる顔」を作ってみせた。
踊谷は、それを見てニコニコと笑った。
「吉島さんのおかげです」
「えええ。私がいったい何を。というか、私は私でモヤモヤしてるんだけど、名前のことで」
まだブツブツ言う吉島の横に並んで歩きながら、踊谷は空を見上げた。
日勤の終わり時刻は夜になる。
すでに暮れてから数時間経っている空には、数え切れないほどの星が光っていた。
明日はきっと、もっとたくさん作れる。
たくさんのキャンディ・ボックスたちを。
そう思いながら、踊谷は少しだけ痛みが残る足を、また一歩踏み出した。
(おわり 028/030)
☆☆☆☆☆☆☆
↓踊谷さんの初日前日の話。靴が合わないかもしれない予感を覚え、かなり時間をかけて靴の試し履きをしていた踊谷さんが出てきます。
↓吉島さんがとらわれていた「CB」の謎が、あっさり解ける話。
↓内容に直接のつながりはありません。「CB」の名前に特に関心はないものの、「CB」がどこに運ばれて行くんだろうという話をしながら、ふたりでカレーを食べる話です。マスクのせいでメガネが曇ります。んふー…。