スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

名前の迷宮

ピタリ。


吉島(きちじま)恵那(えな)は動きを止めた。
何だろう、「opossum」とは。

 

寮から工場に向かう送迎バスの停留所で、吉島は携帯を持ったまま、しばし硬直した。

送迎バスを待つあいだ、英単語クイズアプリで英単語力をチェックするのが吉島の日課になっていた。
そのクイズで、「opossum」という単語が出題されたのである。


はて。
「opossum」とは、いったい。

 

吉島が英語を学びはじめたきっかけは、同じ職場にいる、英語は話せるが日本語は少し苦手な派遣社員・メイの存在だった。彼女と英語で話してみたかったのである。
その目標はすぐにかなった。

吉島にとっては、話し掛けるだけなら簡単だった。

 

しかし、今のところ吉島は「英語っぽい何かを話してはいるが、意味がよくわからないことを言っている人間」だとメイに思われている、ような気がした。
そのことを吉島は気に病んではいなかった。とりあえず最初の目標は達成した、吉島はそう考えていた。

だからこそ吉島の英語能力が向上しないのかもしれなかったが、吉島本人はそのことすらも気に病まなかった。

 

吉島の趣味は旅行だった。
その資金をためるために工場で働いているのである。
これまで吉島は国内しか旅行したことがなかったが、彼女の存在がきっかけで新たな目標ができた。
いつか海外旅行をしてみたい。
それが吉島の次なる目標だった。

 

目標ができたのはいいが、吉島は学生時代から英語が苦手で、基本的な単語すら覚えていなかった。
英語ネイティブの人間並みにペラペラになろうなどとは思っていない。思ったところで実現できない。
それでも、せめて相手が何を言っているのかくらいはわかるようになりたい。
文法も発音も大事だが、まずどの単語がどういう意味を持つのか知らなければ、お話にならない。
そういったわけで、吉島は毎朝の英単語クイズを日課にしているのである。

 

バスがやって来た。
バスに乗り込み、席について、一息つくとまた携帯を取り出し、クイズを再開した。


時間切れ。


悩みすぎて、制限時間を過ぎてしまった。
携帯画面に、答えが表示された。


『オポッサム』

「……」


吉島は画面を凝視した。
「opossum」の答えが「オポッサム」?
どういうことなのか。
「オポッサム」とはいったい何か。
「オポッサム」が何なのか知らなかった吉島は、頭の上から「?」をたくさん出しながら、アプリを切り替えることにした。
英和辞典のアプリかブラウザか一瞬迷ったあと、ブラウザを立ち上げた。

翻訳をしてもらおう。
そう思った吉島は、翻訳サイトの原文ボックスに「opossum」と入力した。
日本語への翻訳結果はやはり「オポッサム」だった。

 

「……」


携帯をぶん投げたくなる衝動をこらえながら、吉島は画面から視線をそらし、窓の外に目をやり、遠くを見つめた。
「オポッサム」とはいったい何なのだろうか。
私は一生「オポッサム」の意味がわからないままなのだろうか。

 

せっかくブラウザを立ち上げたので、ついでに検索することにした。
そこでやっと理解できた。
名前だ。
「オポッサム」とは、動物の名だった。正しくは、

 

有袋目オポッサム科の動物の総称。フクロネズミともいう。

 

オポッサムとは - コトバンク

 

だそうである。

吉島は息を吐き、バスの座席の背もたれに体を預けた。
やっと意味がわかった。
名前だったのか。

 

「名前ってのはさあ~」


休憩時間に、休憩室で、見慣れた顔を見るなり言ってみた。

 

「ハイ?」
「いきなり何なの、吉島」
「名前というのは、それ以上意味がないものなんだね」
「Huh?」

 

メイに不思議そうな表情をされ、吉島は、自分の中から何とか英語をひねり出そうと、もがいた。


「あっ、えーと、えーと。Name means nothing more. Don't you think so?」
「ナンデスカ?」

 

日本語が堪能な同僚にも、英語が堪能な同僚にも、同じように怪訝な顔をされた。
言語に関係なく意味がわからない、もしくは唐突に何を言うのかという内容だったのであろう。

 

(唐突すぎた)

 

心の中で反省しつつ、吉島は考えた。

 

名前自体の意味がないわけではない。
たとえば吉島の名、「恵那」であれば、「恵みが豊かであるように」という意味でつけられた名前だと、親に言われたことはあった。
だが、それを他人に言ったところで吉島本人の説明にはなりにくい。
それよりは、吉島恵那という人間は、年齢がいくつで、どういう見た目で、どこに所属していて、という本人の情報を羅列していったほうが伝わる。
名前というのは言葉自体の意味がないもの、なのだなあ。
……というようなことを言いたかったのだが、これでも伝わらない気がした。

 

ううむ。
吉島は休憩室から作業フロアに戻り、自分の作業机につくと、首をかしげた。
自分の説に、自分でも怪訝な顔をした。

 

言った本人すら含め、誰もが首をかしげる珍説はさておき、名前である。

たとえば我らがタッドリッケ・伊名井工場で作っているこの製品は何という名なのか。


吉島は唐突にそんな疑問を感じ、己の手の中にある、作業途中の製品を見た。
前の作業の工程が終わった製品。
吉島が担当する工程を終えたら、また次の作業机に運ばれる製品。

 

ほかに呼びようがないから「製品」と呼んでいる。
最終工程を終えていないのに「製品」と呼んでいいのだろうか。
生産途中専用の名前がありそうなものだが。

 

基盤に四角い金属製の部品を取り付け、そこにさらに細かいパーツを加えたもの。
これが最終的にどういうものになるのか、吉島は知らない。
タッドリッケ・伊名井工場で作業する派遣社員の大部分が、自分たちが何を作っているのか把握していないのではないか。

吉島はそんな予感を覚えていたが、そのことについて特に感想はなかった。
それより名前である。

 

「CB?」
「Right」

 

食堂で、本日の日替わりメニューのうちのひとつ、醤油ラーメンをすすりながら吉島はメイに問い返した。


「It's called "CB"」

 

発音がいいメイの「C」、「B」をうっとりと聞きつつ、吉島はラーメンのスープをレンゲですくって飲んだ。

 

「What does it mean..., えーと。どういう意味なんだろ、『CB』」
「Probably, it means "Candy Box"」

 

英語で話すことを途中であきらめた吉島の日本語に、メイは英語で返した。


こんなことで英語が上達するのだろうか。


今まで無意識の底に沈んでいた疑問が、ようやく意識にのぼってきた吉島であった。
そのときの吉島の感想はそれしかなかった。

英語に気を取られ、話の内容がほとんど頭に入らなかったのである。


もうちょっと英語をがんばらないと。
吉島はラーメンをすすりながら、そのようなことを思った。

 

その後、昼食を終え、午後の作業をしている最中にやっと思い出した。
作業にほどよく慣れている吉島は、何も考えずとも手が動くようになっていた。
単純作業のよい点である。
それでも羽目を外し過ぎ、ほかのことを考えるのに没頭し過ぎると作業がおろそかになる。そこまでは行かないように、手加減しながら考えるコツを、吉島はすでにつかんでいた。

作業中の吉島の脳裏に浮かんだのは、メイの言葉だった。

 

It means "Candy Box."

 

(キャンディ・ボックス?)

 

吉島は、自分が作業している物体を、まじまじと見つめた。

 

(どこが?)

 

「キャンディ・ボックス」という名にふさわしい見た目をしているかといえば、そんなことはない。
「金属箱」と言われたほうがまだ納得できる。そんな見た目だった。
もちろん原材料に飴を使っているわけでもない。
工程に飴が関わるわけでもない。

 

名前というのは、意味がないもの。
わかってはいても、意味がわかってしまうと、意味を考えてしまうもの。

 

吉島は、名前が持つ、得体の知れぬパワーに震えた。
震えつつも、考えた。

 

メイさんは、なぜ「キャンディ・ボックス」という名前を知っていたのだろう。
名前の由来も知っているのだろうか。

メイさんが知っていたとして。

吉島はゴクリとつばを飲んだ。

 

それを私が英語で聞けるのだろうか。
そしてその答えを、自分の英語力で理解できるのだろうか。
知りたければ英語で尋ねるしかないのだろうか。

 

そこまで考えたところで、はじめの疑問に戻った。

 

なんでこれがキャンディ・ボックスなのだろう。
なんでメイさんはそれを知っていたのだろう。

 

単純作業が、名前にまつわる迷宮のような思考を加速させる。


なんでこれがキャンディ・ボックスなのだろうか。

どうしてメイさんは。
なんでこれが。

 

手を動かすたびに、同じ思考が繰り返される。

 

私は英語で。
なんでメイさんは。
どうしてこれが。

 

英語をもっと。
メイさんと話をもっと。
名前の由来をもっと。

 

どうやれば英語が。
メイさんはどうやって。
名前はどのように。

 

慣れた作業が加速する。
同じ動きを繰り返す。

素早く、正確に。

 

いつしか吉島の頭の中では、体の動きと同じように思考が動いていた。

 

吉島は出口の見えない迷宮で、さまよい続ける旅人となった。

 

(おわり 027/030)

 

 

 

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↓内容は直接つながってはいません。「CB」という名前がわからずに、クイズで不正解…かと思いきや、意外と正解するふたり組の話です。

suika-greenred.hatenablog.com

↓吉島さんがチラリと出てくる話です。ここでも「CB」の名前の謎に果敢に挑んでいます。

suika-greenred.hatenablog.com

↓ようやく「CB」の意味がわかる話です。メイさんがなぜ「CB」という名を知っていたのか、という謎にも一応説明をつけている…つもりですが、特に大した理由があるわけでもないのでございました…。

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