バスに乗り遅れた3人
「ねむ」
早野が、つぶやいた。
「鍵しめるよー」
隣原が、すでに鍵を回しながら呼び掛けた。
「む、思ったより遅いな」
志地間が、携帯で時間を確認してから述べた。
工場勤務の3人組である。
金髪かつ短髪なのが
3人は地元の知り合い同士で、一緒に面接を受けに行き、一緒に派遣会社に登録し、一緒にこの地に派遣され、一緒にここ伊名井市にある「タッド・リッケ伊名井工場」で働き、一緒に寮で暮らしている。
ついでに言えば、働いているシフトも一緒である。
寮から工場までは送迎バスが出ている。
派遣会社が運行しているバスである。
寮に入ったときに、派遣会社から送迎バスの運行表が配られた。
3人は、寮の備え付けの冷蔵庫に運行表を貼っていたが、誰も顧みる者はなかった。
いちいち見なくとも、毎日乗っているので覚えてしまうのである。
3人が働くタッドリッケ・伊名井工場では2交替制を取っていて、日勤と夜勤を交互に繰り返す。
日勤と夜勤のふたつ分、行きの時間を覚えてしまえば、それで事足りた。
3人の寮の最寄りの停留所では、日勤では朝7時20分くらいにバスが来る。
そして今は7時19分だった。
今一度、時間を確認した志地間は、前を歩いていたほかのふたりに告げた。
「今、19分だ」
それを聞いて、早野と隣原は焦った。
「やべ」
「朝飯、のんびり食べ過ぎたね」
3人は走った。
寮から送迎バスの停留所までは、目と鼻の先だった。
あまりにも近いために、3人の頭の中では30秒で着くような気がしてしまっていた。
しかし現実には、30秒ではたどり着けなかった。
一番足が速く、しゃかりきに走っていた早野が、真っ先に停留所にたどり着いた。そしてほかのふたりを振り返りながら言った。
「誰もいねえ」
いつもは、3人と同じシフトで働く、同じ工場勤めの派遣社員たちが数人、同じ停留所でバスを待っているのだが、今は誰もいない。
「バス行ったあとかな?」
あとから駆けてきた隣原が、息を切らしながら早野に尋ねる。早野とて、隣原に尋ねられたところで同じ立場ではあったが、それでも息を整えながら答えた。
「だな。時間より早く来たのかもしれんな、バス」
最後に志地間が停留所にたどりついた。
志地間にも早野と隣原の声は聞こえていた。そのため途中で走るのを諦め、悠々と歩きながら停留所にやってきたのだった。
バス停に着いた志地間は、携帯を取り出すと電話をかけた。
「いきなり電話かよ」
早野が、背を向けて電話をしている志地間の背中に向かって言う。
そして、ようやくハッと思いついたように隣原を振り返り、尋ねた。
「あ、電話か。どこに電話すりゃいいんだ?」
「派遣会社の事務室か、派遣会社の社員かな。
「隣原、俺、番号わからん。社員さんに電話したことねえよ。つうか、通話アプリ自体使ったことねえんだけど。バス逃すなんて5年ここにいて、はじめてだし」
「俺もそうだけど番号はわかる……、あ、志地間、電話終わった?」
隣原の問いに、志地間はいつもの無表情で答えた。
「ああ。粟石さんに迎えに来てもらうことになった。ここにいろとのことだ。同じ寮の3人全員がバスを乗り逃がしたとは言っておいた」
「おお。すまん。で、粟石さん……って、誰だっけ?」
すぐ横にいた隣原に尋ねた早野に、通話のために、ふたりから少し離れていた志地間が答えた。
「中年の男性社員だ。いつも工場内の事務室に詰めている」
「ああー……、ダメだ顔が思い出せん」
「工場に送ってもらえるってこと?」
隣原が志地間に向かって尋ねた。
「そうだ」
そう返事をした志地間は、それきり黙った。志地間が寡黙なのはいつものことだった。
とりあえずバスは逃したが工場には送ってもらえるようだ。
少しだけ、慌てた空気がゆるんだ。迎えを待ちながら話を続ける。
「もうすぐ志地間があの部屋を出て行くっていうのに、最後の最後でこれか。なんだかしまらないね」
なんとなく道路の遠くのほうを見ながらそう言った隣原に、志地間が答えた。
「油断大敵というやつだな」
「三条さんのほうはもう寮を移ったらしいよ。一緒に暮らすってのに、志地間はなかなか寮を移らなくて冷たい、とか言われたりしないの?」
「今のところ言われてはいない。思ってはいるのかもしれんが」
「そういうこともできるんだなー。今までの寮を出て、別の部屋でふたりで住むとか」
なぜか口をとがらせた早野が、横から口を挟んだ。
「ああ。まあ、移る先も寮だから、そこまで自分の自由にできるわけでもなかろうが」
「三条さんが早く移った理由って、トイレなんでしょ?」
「そうだ。彼女のほうに便座を替えたいという希望があって、それをかなえるために早く移る必要があった。本来そんなことを派遣社員に許可しないようなんだが」
「本来はできないのに、三条さんの熱意がその現実を変えたってことか」
早野がなぜかうんうんうなずきながら、横から褒めたたえた。
「トイレにかける熱意は誰にも負けないよね……、三条さん」
「……」
やはり遠くを見たままぽつりと言った隣原の横顔に、志地間は視線をやった。
「おい、何だ。オトコ同士の戦いか? 三条さんって、隣原の女と同室だったんだろ? 実はあのふたり、仲悪いとか?」
またもや早野が横から口を出す。
隣原は、そんな早野に対して、煙たそうに顔を背けながら否定した。
「特に仲は悪くないよ。ただなんでそんなにトイレなんだっていう思いがあるだけだよ、俺にも彼女にも」
「それを言うなら、女子寮に平気で上がり込むおまえにも言いたいことがあるがな、俺も彼女も」
ふだんから低い声をさらに低くして言葉を発した志地間と、やはり遠くを見たままの隣原を見比べ、早野はそわそわとした。
「おいー。やめろよ朝っぱらから。あっちはあっち、うちはうち」
「それもそうだ」
ふっと息をつき、志地間はふたりから少し離れた距離を保ったまま、隣原と同じく道路の先を見つめた。
まだ迎えは来ない。
早野は、沈黙が場を支配しないよう特に気を遣ったわけでもなかっただろうが、なんとなく興味があるといった様子で、隣原に向かって尋ねた。
「隣原も、今の部屋を出て、女とふたりで暮らそうと思えば暮らせるんだよな。相手いるんだし」
「俺はいい、男同士で住んでるほうが気楽だし」
「へぇ、そんなもんかね。まあ、俺はどっちでもいいけどな。おまえらがふたりとも出て行って、ほかの同居人が入ってきて一緒に住むのもいいし、今のままでもいいし」
隣原はこわばっていた表情を少しゆるめ、早野のほうに顔を向けて聞いた。
「鍵沢さんはどうなったの? ずっと早野、鍵沢さん鍵沢さんって言ってたけど」
「ああー……、それは」
早野は言葉を濁した。その様子を見た隣原は、気まずそうに謝った。
「え、ゴメン。聞かないほうがよかった?」
「と、言われてしまうのもアレなんだけど。どうだろな、俺にはよくわからんけど、なんか新しく入ってきた深丸っつう男が、昔のオトコだかなんだからしくて」
「元彼?」
「じゃないのかな、わからんけど。そんな偶然あるんかな?」
「運命的な」
「そう、そういうのを感じてるのかなあとか思うと、まあ俺の出る幕じゃねえなあと」
「うーん、どうなんだろう。ヨリ戻すなんて、あるのかな……」
「俺もわからんけど、まあ、確かにな。男同士で住んでるのも気楽だよな。別れたらどっちかが部屋出てかなきゃならん、みたいなのもねえし」
「いや、あるみたいだよ。男子寮でもケンカ別れ自体は」
「あ、そうなん? まあでも俺らは」
早野はそこまで言ってから、隣原の顔を見た。
「ないけどね」
隣原は、ふうっと息を吐きながら言葉を発した。
そしてそのまま続けた。
「俺のほうもさ、一緒に住むなら住むで俺はいいんだけど、彼女が工場勤め、半年って決めてるらしくて」
「あ、そうなん。こんな仕事やってられっか~って?」
「さあ、わからない、どういう気持ちなのかは。でもそう言うからさ、今は働き始めて4か月ちょっとくらいだから、あと1か月とちょっとで出て行くんじゃないかな、あの寮を。寮というか、伊名井市を」
「伊名井市というか、この県を飛び出すんか……。飛び出していく彼女っつうのも大変だな……」
早野は、同情なのか哀れんでいるのかよくわからない表情で言った。
「別にいいんだけどね、飛び出していくのは。いっそワールド・ワイドに、日本すら出て活躍してくれるなら俺はそれで別に」
「そうか……」
「迎えだ」
なぜかしんみりしていた空気を打ち消すかのように、志地間が低い声で告げた。
隣原がその声に反応して道路を見ると、「インダストリアムF」と車体にペイントされたワゴン車がこちらに向かってくる。
「すみません、粟石さん。こんなこと初めてで」
「そうそう、俺ら5年くらいいるけど、バス乗り遅れるとか、ほんとに初めてで。なんかすんません、わざわざ送ってもらっちゃって」
車に乗り込むときに、隣原と早野は交互に「すみません」「すんません」を繰り返した。志地間は、その「すみ(/ん)ません」の嵐を避けるように、黙ったまま粟石に軽く会釈をして乗り込んだ。
車内には座席が3列並んでおり、早野と隣原は真ん中のシートに、志地間のみが3列めのシートに座った。
「いいえー。けっこうありますよ。自分の車がある人たちは、それで行こうとされてしまうんですけど、工場の駐車場が大混雑してしまいますのでね。送迎のお手伝いはよくやっています」
粟石は、運転しながら穏やかに答える。
それきり車内は静かになったが、信号待ちのときに粟石が口を開いた。
「5年かあ、長いですね……」
「俺らですか?」
後部座席で窓の外を眺めていた早野が、運転席の粟石のほうに向き直り、問い掛けた。
「ほかの工場だともっと長い人もいそうですけどね」
早野の隣で、隣原がフロントガラスの先を見ながら言う。
「そうなんですけどね。タッドリッケの伊名井工場は、短い期間の勤務を希望される方が多くて、5年でも長く感じますね」
粟石は赤信号を見ながら、そう説明した。
「ああ、確かに。粟石さんはどれくらいでしたっけ」
「2年です。私の場合は、転職して伊名井工場に来ましたのでね。場藤さんのほうが長いんですよね」
「へぇ、場藤さんのほうが」
早野が、隣原の横から口を挟んだ。
「ええ、そうです、どれくらいだかは聞いていませんけど。それはともかく、お3人とも、私よりも伊名井工場にいるのが長いんだなあと思いましてね。あ、そうだ、知ってますかね、いや知らないかな、いややっぱり知ってるのかな、いやいや、そうは言っても知らないかな、いくら長くいるからと言っても」
「え、何です」
ひとり「知ってるかな」「知らないかな」の迷宮に迷い込みそうになった粟石に、隣原が尋ねた。
「工場で作っている製品、ありますよね」
「ありますね」
「あの名前って何なのか知ってますか?」
「『CB』ですよね」
早野が反射的に答えた。知っているから答えた、単にそれだけの行動である。
「はい、『CB』ですよね。その意味ってご存じですか?」
「『キャンディ・ボックス』の略で、まあ『金太郎飴』ですよね」
「えっ!」
粟石は、勢いよく運転席から後ろを振り返った。
慌てたのは後部座席のふたりだった。
「粟石さん、前、前! 信号変わりましたよ」
「あ、すいません。いやー驚いた。まさか知っている人がいるなんて」
「それが何か」
慌てたふたりのさらに後ろに座っていたが特に慌てる様子もなかった、ただひとりの男、志地間が粟石に尋ねた。粟石が、車を出しながら答える。
「いえね、新しく入った方々に、製品について、どう説明すればいいのかっていう話でして。みなさん『CB』って呼んでいますけど、まず『CB』って何だって話になったんですよ。あ、そういえば場藤さんが『金太郎飴』だって聞いて、でも略しても『CB』にならないからハズレだって言っていたけど、あれも当たりだったんだ……。メイさんはなんで知っていたんだろう……」
「メイさん? あ、俺が言ったかも。聞かれたんで。派遣会社は別だけど、同じ作業場なんで、わりとよく話すんですよね」
早野があっさりと言い放った。
粟石は前を見ながら納得したようにうなずき、それから後ろに向かって、おずおずと声を発した。
「そうでしたか……。あ、で、『金太郎飴』って何ですかね?」
「言っていいのかな」
隣原は、横に座っていた早野に尋ねた。
「まあ、いいんじゃね。つうか俺、すでに普通に話してたわ」
早野の返事を聞いて、隣原は、粟石に向かって説明を始めた。
「これ、駅前にある定食屋『どしり屋』のご主人に聞いたんですよ。あの人、昔、工場に勤めていたとかで。店を出す資金を貯めるために」
「あ、そうなんですか。定食屋……、工場の外に答えがあったんですか」
「ご主人、
粟石は運転しながら、ゴクリと音を立てて、つばを飲み込んだ。
「それはまた……。たとえば定食屋だって、毎日毎日、同じ定食を作っているとは言えそうですけど」
「まあ、そうですよね。でも、単純作業に慣れてきたせいで逆にフラストレーションがたまってしまったらしく、そう言ってぶち切れたんだそうです。『毎日毎日同じだ、金太郎飴みたいに、作っても作っても作っても作っても同じ顔だ、同じ物が出てきやがる』って」
「あ。『金太郎飴』」
「はい。で、まあ、そのぶち切れを聞いた当時の周囲の人間は、半笑いです。んなこと言っても仕方ないですからね。ほかの仕事見つけろという話で。そんな文句、言っても仕方ないだろうってことで、からかい半分に、その同僚がぶち切れたときに手にしていた製品を『金太郎飴が詰まったキャンディ・ボックス』と呼んだらしいんです。それがはじまりで、まあ隠語です。おおっぴらに言う言葉じゃないんですよね」
「あー……、そうでしたか……。じゃあ、新人さんに、説明のために『金太郎飴』と言うと、まずいような……」
「まあ、どうでしょうか。これから働く人たちのやる気をそぎかねませんよね」
「あーいや、粟石さん、まあ、説ですよ。そういう説もあるってことですよ。定食屋の主人の説」
あまりにも隣原の説明を鵜呑みにする粟石に、早野が横から言い添えた。
「そうでしたか……。今度私も行ってみます、その定食屋さんに」
「どうでしょうか、あまり工場の関係者にいい顔しないご主人ですけど……。まあ、味はおいしいです」
ひととおり説明を終えた隣原は、シートに体を預けた。
「そうでしたか……」
粟石は呆然と言った。運転はかろうじて続けていたが、何と言葉を返せばいいのか考えあぐねているといった様子だった。
「『金太郎飴』って突然出てきたんですかね」
やがて粟石は、前を向いたまま、ぽつりと言葉を発した。
「『金太郎飴みたいに同じ顔』って」
隣原と早野は黙って顔を見合わせた。
ふたりの後ろから、志地間の声が響く。
「定食屋のご主人の名が『土尻金太郎』というらしい。俺が『どしり屋』に行ったときに、主人の母君が店の手伝いをしていた。そのときに母君は、定食屋の主人のことをそう呼んでいた」
「え、そうなん? 俺は、そのおふくろさんは見かけたことあったけど、そこまでは知らんかった」
早野が後ろを振り向いて言った。
「あ、じゃあ、同僚ってのは、土尻さん本人のこと?」
隣原も後ろを振り返って言うと、粟石だけは後ろを見ずに言った。
「うわぁ、あぶない。私、『どしり屋』のご主人に、直接『金太郎飴』のこと聞くつもりでいたんですけど、これ尋ね方が難しいですね、私までぶち切れられそうです」
「あ、それであの主人、工場の人間が嫌いなのか」
自分の発言に、周りがわさわさと反応したため、志地間は一同をたしなめた。
「待て、定食屋の主人の名は金太郎でおそらく合っているが、それ以外は推測に過ぎん」
「おまえが言い出したんだろ」
「さもつながりがあるかのように」
「そうですよ、私どうしたらいいんですか」
志地間のたしなめは、一同の反発を食らっただけで終わった。
工場の裏門が見えてきた。
3人が乗り遅れたバスはとっくに到着し、駐車場に停められているのが裏門の外からも見えた。
到着してから時間が経っているのか、バスから降りて工場の従業員出入り口に向かう人間はチラホラとしか見えなかった。
「ああ、着きました」
「ありがとうございました、粟石さん」
「すんません」
「せっかく送ってもらったのに、惑わせてすまん」
「いいえ。まあ、由来がわかってよかったです……」
駐車場に車が停まると、3人は三者三様の挨拶とともにワゴン車を降り、粟石が「とほほ」といった感じの笑いで車から送り出した。
3人は工場の従業員出入り口に向かった。
「で、俺たちは」
早野が、工場の出入り口の下駄箱に、靴を入れながら言った。
「そうだな」
志地間が、靴を脱ぎながら時間を確認する。
「その、来る日も来る日も来る日も来る日も同じ物ばかり作って、いい加減嫌になるような作業を、これからやるんだよな」
隣原が、下駄箱から作業靴を取り出しながら言った。
「そうだ」
最後に、志地間が、下駄箱に靴を入れながら言った。
3人とも、明るい表情をしていたが憂鬱さは隠しきれなかった。
まるで定食屋の主人の言葉を裏付けるかのように。
振り落としきれない憂鬱さを背負いながら、3人は、工場の建物の中に吸い込まれるように入って行った。
(おわり 029/030)
☆☆☆☆☆☆☆
↓志地間と暮らすことにしたらしい三条さん、つまりトイレの番人の話。
↓早野が以前、ほのかに思いを寄せていたらしい鍵沢瞳の話。どちらの片思いなのかよくわからない、こじらせ片思いに悩まされてはいるものの、基本的に元気です。
↓「どしり屋」の店主、土尻さんのふだんの仕事っぷりなどがチラリと出てくる話。
↓「どしり屋」は歓送迎会の会場によく選ばれるようだ…。しかし、「どしり屋」主人は工場マンにいまだに良い感情を持っておらず、とんでもない金額の上乗せ料金を取るらしい…。という「どしり屋」イズムが、ほんのりと出てくる話です。