スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

遠くの朝礼

朝である。
日勤の朝である。


タッドリッケ・伊名井工場では2交替制をとっていた。
日勤と夜勤を交互に繰り返す勤務形態である。

2交替制で24時間工場を稼働させるためには残業が必須である。
というわけで、タッドリッケ・伊名井工場で働く面々は、週5日か6日、8時間+4時間の残業を当たり前にこなしていた。

 

ほかの工場ではどうだかわからないが、タッドリッケ・伊名井工場にはあまり人が居着かない。入って来る者も多く、出て行く者も多い。
仕事がきついというよりも、勤務形態が体に合わない、もしくは当座のお金を稼ぐためにやってきて、想定した額に達したから出て行く、そういう者が多かった。

 

「おはようございます」
「んあよー」


送迎バスから降りた虫平(むしひら)理央(りお)は、工場の従業員用出入り口の下駄箱付近で、まだ寝ぼけ眼の古糸(ふるいと)深冬(みふゆ)を見つけ、声をかけた。
ふたりは同じバスに乗っていたはずだったが、寮の場所が離れているため利用する停留所が違う。

 

送迎バスは、工場に入っている派遣会社「インダストリアム・ファクトリアス」が運行しているものだった。寮を用意しているのも派遣会社である。派遣会社はバス利用者の人数を把握しているため、バスが混雑していても全員が座ることはできた。

だが、バスに乗り込む一瞬で、乗客全員の顔を確認することは容易ではなかった。人の流動が多いせいなのか、決まった位置に座るという慣習もない。

そういったわけで、バスから降りて初めて虫平は古糸に気づいたのだった。

 

「古糸さん、今日は休出ですよね」
「うぅん、そう。きゅうしゅつ」


ムニャムニャしゃべる古糸と会話しながら、工場の階段を上る。

 

「大丈夫なんですか、なんかムニャムニャしてますけど」


虫平はつい心配になって、そう尋ねてみた。


「だいぶじょうぶ」


答える古糸の声はやはりムニャムニャしていた。

「大分、丈夫」なのか「大丈夫」なのかよくわからない古糸の返事を受け流し、虫平は工場内にある派遣会社のロッカールームに入った。


「古糸さん、こっち。タイムカード押さないと」
「ああぁ、そうでした」

 

古糸もよろよろとロッカールームに入り、タイムカードを押す行列に加わる。
送迎バスで一度に大量の働き手が工場にたどり着くので、タイムカードを押すのも行列沙汰なのである。

 

ロッカールームにはロッカーがあったが、私服を着て出勤して、工場で作業服に着替える者はいなかった。派遣会社インダストリアム・ファクトリアスは、作業服を着込んで出勤するよう、寮暮らしの派遣社員に言い渡しているためである。

 

誰も着替えはしないが、ロッカーを使うことはできた。
というわけで虫平と古糸はタイムカードを押したあと、手荷物をロッカーにしまって工場の作業フロアに向かった。
そのころには古糸のムニャムニャは、だいぶマシにはなってきていた。

 

「虫平さん、おひさしぶりですねぇ」
「ほんとですね。古糸さんの休出でしか会えないですからね」


「休出」、つまり「休日出勤」である。
工場が景気よく稼働しているときには、派遣会社が休日に出勤してもいい希望者を募集するのである。もちろん休むこともできる。

「景気よく」といっても本当に景気がいいわけではない。近ごろ、タッドリッケ社のほかの工場が閉鎖された。虫平はネットでそんなニュースを見かけていた。
景気がいいわけではないが、閉鎖された工場の分も稼働しなくてはいけない……のかどうかは下っ端の虫平や古糸にはよくわからなかったが、タッドリッケ・伊名井工場は今日もフル稼働していた。

 

虫平はだいたいの休出に出ていたが、古糸はそうではなかった。

虫平と古糸は班が違うため、ふだんは顔を合わせることがない。個人的に会おうと思えば会えるだろうが、そこまでして会う仲でもない。
虫平の休出の際には、虫平が所属する1班とも古糸が所属する2班とも違う、3班とともに勤務することになっていた。
だからふたりは、古糸の休出の際にしか顔を合わすことができなかった。

 

「まだちょっと早いですね」
「そうですねぇ」


虫平と古糸は、作業フロアの前の、暗い廊下で時間が経つのを待った。
交替時間の15分ほど前にならないと作業フロアに入れないのである。
入ってもいいが、ほかの班の仕事の邪魔になってしまう上に、ものすごく目立つ。

 

誰に説明されたわけでなくとも、ふたりとも暗い廊下で時間を待った。ふたりだけでなく、同じバスに乗ってきた作業者も続々と廊下に集まりつつある。集まってから、特に何をするでもなく、立ったままおしゃべりをしたり、携帯を見たり、ぼんやりしたり、近くにある洗面所で手を洗ったりして時を待っている。

 

時間が来た。
虫平と古糸は、作業フロアに入った。

夜勤をしていた3班が作業を中断し、次に作業する者へのバトンタッチをするかのように場所を空けた。ゴミ捨てなどの片付け作業がある者はゴミを集め始める。そのほかの者は、おのおの作業フロア内の邪魔にならないような場所で、班長の仕事終わりの挨拶「おつかれさまでした」のひと声を待つ。

一方、これから仕事を始める虫平たち1班と古糸たち2班の休出メンバーは、作業に入る準備を始めた。


「マスクとりますねぇ」


古糸が言った。虫平の分も取ってあげる、という意味なのであろう。虫平はそう理解した。

古糸は、作業フロアの隅に置かれたワゴンに載っている箱から、使い捨てマスクを2枚取り出し、虫平に1枚を渡した……が、3枚取っていた。古糸は余った1枚を周りにいる、まだマスクを取っていない人間に押し付けていた。

 

虫平は、古糸がマスクを取って押し付けているあいだに、マスクの箱と同じワゴンに載った箱から、ふたり分の使い捨ての手袋を取り出した。そして、そのうち1枚を古糸に渡した。
マスクを身につけ、手袋をはめる。

それで虫平たちの準備は完了である。


工場内には、クリーンルーム用のクリーンウェアを着用するなど、さらなる準備が必要な工程を担当している者たちもいたが、虫平たちが受け持っている作業はさほど念入りな準備を必要とはしていなかった。

古糸は、虫平に手渡された手袋を装着し、指をわきわきしながら言った。


「準備おっけーですけど……、時間まだですね」
「ちょっと早く入りすぎましたかね。休憩室で何か飲んでから来る時間があった感じしますね」
「そうですねぇ……。休憩室が恋しい……」
「お疲れ過ぎじゃないですか、古糸さん……。無理し過ぎでは」


虫平は古糸をいたわった。

だが、古糸は首を振った。


「うぅぅん、無理はしてないよ。だってみんな休出に出るでしょぅ? だからわたしも出なきゃと思ってさぁ」
「いや、そこは自分の体調とか都合で決めてくださいよ」
「なんかさぁ、肩身が狭くてさぁ。お金稼ぎにきてるはずなのに、ねむってばかり、やすんでばかりってのも」
「休んでばかりと言っても、ふだんの勤務は出てるんですよね?」
「出てるよぉ。だけども、みんな休日働くの当たり前、ほとんど寝ないの当たり前みたいにしてるからさぁ」
「当たり前じゃないですよ、古糸さんの周りの人がやたらエネルギッシュっていう、それだけのことですよ」
「えねるぎっしゅ」


聞き慣れなかったのか、古糸は虫平が言った言葉を真顔で繰り返した。

虫平はうなずき、古糸のリピートを軽く受け流して言った。

 

「そうそう。って、あ、朝礼やってますね」

「あぁ、ほんとだ。社員さんたち朝礼だぁ」

 

虫平たちが見ていたのは、作業フロアの片隅に集まって朝礼をする社員たちの集団だった。派遣会社の派遣社員である虫平たちと違って、タッドリッケ社の社員である。

 

「社員さんは夜勤はしないんですよねぇ?」
「ですかね。夜は朝礼やってないですし」

 

虫平は、夜だから「朝」礼はしないだろう、というようなことを言おうとしたが、思いとどまった。古糸が、まぶしそうに社員の集団を見つめているのに気付いたからである。

派遣会社「インダストリアム・ファクトリアス」では朝礼が行われなかった。そこに所属する虫平たちは今、ただ自分たちと同じ派遣社員である班長の作業開始の声を待っているのみである。

古糸から見ると、朝礼があるというだけで、同じ工場で働くタッドリッケ社の社員が別世界の存在に見えるのかもしれない。虫平はそんな想像をした。

古糸は、はふぅ、とため息をつきながら言った。

 

「わたしもここをでたら、次は社員を目指さないといけませんねぇ。なにしろ日勤と夜勤がいれかわるのがきついもの……。年寄りにはきついもの」
「そんなに年寄りじゃないでしょ、古糸さん。私と年、1コしか違わないでしょ。まだまだ行けますよ」
「どこにですかぁ……。いえもう無理ですよ、どこにも行けませんよ、わたしそろそろ正社員めざさないと。転職しないと」
「あら残念。仲間が減って悲しい」
「仲間じゃないですよぅ。いえ仲間でもいいですけどぉ。虫平さんもここ早く出たほうがいいですよぉ。派遣じゃなきゃもう何でもいいってくらいのいきおいがあれば、いまどきは転職できるっていってました」
「誰がですか」
「転職サイトが」
「そら転職サイトはそう言いますよ」

 

最後の虫平の言葉に対する返事はなかった。古糸は、作業フロアの片隅に視線を奪われていた。虫平が古糸の視線の先を見ると、朝礼社員たちが体操を始めていた。

古糸が感心したように言う。


「体操してますねぇ。やっぱり体が資本ですからね。ウォーミングアップをきちんとするんですよ、正社員は」
「いや、やる気なさそうにしか見えないですけど」
「わたしもやってみます」

 

そう言うと、古糸は体操をし始めた。虫平は顔色を変えず、古糸がぶんぶん振り回す腕に当たらないように少しだけ距離を取った。

顔には出さなかったが、虫平は素直に古糸を尊敬した。

人前で、堂々たる態度で、ひとりだけで体操を始めるという、その瞬発力、行動力、度胸においてである。

 

古糸をひとりだけにしているのは自分だと虫平も気付いてはいたが、だからといって古糸の隣で体操を始める度胸は虫平にはなかった。虫平は、何も考えていなさそうに見える古糸の横顔を、敬意をもって見守った。

そんなことをやっているうちに、作業フロアに人がざわざわと増えてきた。

虫平は周囲を見回しながら懸念を口にした。


「体操、最後までできますかね」
「あぁっ、班長きちゃいました?」
「とっくに来てますよ。この体操、いつまで続くんですかね」
「わかりません。わたしはこの体操を最後まで踊ることができるのでしょうかぁ」
「踊りだったんですか」
「体操ですぅ」

 

社員たちの体操が、深呼吸の動きになった。

もうそろそろ体操が終わるのかもしれない。
古糸は、その動きを真似た。
社員たちの動きを見ながら真似ているため、動きにタイムラグができる。
今にもこちらの作業開始の声がかかりそうな気がして焦っていた古糸は、やたら早く深呼吸の動きをした。

 

「深呼吸できてるんですか、それ」
「はっふぅー、はっふぅー」


ぴたり。


古糸は、腕を体の脇につけて、体操の終わりのポーズを取った。


「えー、おはようございまーす」

 

社員、そして古糸の体操が終わると同時に、班長の声が辺りに響いた。


「お、タイミングぴったり」
「ふう、ふう……、ギリギリでしたぁ」


深呼吸で終わったはずなのに、なぜか肩で息をする古糸の背後で班長の声は続く。

 

「では作業を始めてくださーい。本日もよろしくお願いしまーす」

 

本日の勤務の始まりだった。
虫平と古糸はそれ以上口を開かず、互いに会釈をしてからその場を離れ、それぞれの作業場所へと向かった。

 

(おわり 010/030)

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

ほかには、こんな話もございます。

↓勤務初日の前日の虫平さんが出てくる話。

suika-greenred.hatenablog.com

↓話の内容は直接つながってはいませんが、なんとなく朝つながりな話はこちら。

suika-greenred.hatenablog.com