食堂にて~昼と夜~
食堂(正午)
食堂の職員、
髪が落ちないようかぶっている帽子の中がむれる。暑い。
それもあと少しの辛抱だ。曽々木は自分に言い聞かせた。
このビッグウェーブが通り過ぎてしまえば、今日の仕事はほぼ終わりである。
工場の中の社員食堂はごった返していた。
工場で働く社員、派遣社員たちがどっと押し寄せるためである。
各自の昼休憩が重ならないよう各フロアごとに少しずつずれて休憩にはなるが、それでも昼は地獄の釜を開けたような、曽々木こそが地獄の釜を煮込んでいるような、そういった心持ちになる。
メニューは日替わりで数種類のものを作る。今日は麻婆豆腐定食と、塩ラーメン、メンチカツ定食、肉団子ピラミッドの4種類である。
今日のメインテーマは挽き肉か。
曽々木は思った。
しかし本日の曽々木の担当は、挽き肉と全く関係がない塩ラーメンだった。スープは事前に作る。麺を茹で、あまり豪華とはいえぬ具材(野菜)をその場で炒める。その後の曽々木の仕事は、麵の茹で上がりを待つことだけだった。盛り付けはほかの職員の担当である。
注文が入った。塩ラーメン1人前、1人前、1人前。3人分。
もうもうと湯気を吹き上げる鍋に3つの麵の玉を入れる。
「
「うわー、よかった。あれじゃあんまりだもんね」
「ほんとだよね」
曽々木が麵を茹で終え、塩ラーメンが完成するのを待つ間、注文主たちはカウンターでおしゃべりをしていた。
曽々木としては、特に言うこともない。それよりもこちらの挙動を逐一チェックされるほうがきつい。自分たちの話題に夢中ならそれに越したことはない。
曽々木としては、注文主たちのおしゃべりがつづいているあいだに調理が終わっているのが理想だったが、麵が茹で上がるのを待つ時間を劇的に短くすることもできない。
麵がゆであがるのをじりじりと待つ。
気をつけなければいけない。茹で過ぎてはいけない。
プロの調理人ではあるが、ふだんラーメンを作り慣れていない曽々木は、麵の様子を注意深く見守った。
オープンキッチンで調理する調理人たちに目もくれず、注文主のおしゃべりは続く。
「目木さん、完全にとばっちりだったよね」
「そうそう。でもさあ、なんかあたしたちが言おうにもさ」
「そう、言いようがないんだよね、勘違いですとかさあ」
「相手は社員だしね。派遣会社のだけど」
「そうそう、派遣会社とはいえ社員だからね。立場がねえ」
「で、結局その社員、爪田くんの恋路はどうなったの?」
「さあー。最初から無理筋だったからね」
「ていうか、恋路って」
「古い? まああたしゃ古い人間だからさあ」
「古いよもう。言い方がさあ」
3人が古い、ふるふるだ、といい合って笑っているうちに塩ラーメンが3つ、カウンターにコトリ、コトリ、コトリと置かれた。
「お待ちどうさまです、塩ラーメンの方」
「はーい! できたあー! おいしそうー!」
「どんぶり持てる? お盆あるよ、お盆」
「お盆ちょうだいー」
食券制のため、注文時にすでに料金は徴収済みである。
塩ラーメンの一団は、トレイの上にラーメンのどんぶりをのせ、おしゃべりを続けながら食堂内のテーブルに向かった。
曽々木は息をひとつ吐いた。
あと何人分、麵を茹でれば今日が終わるのだろう。
いつもより時間が長く感じる。
麵を茹でるのに自分は向いていないのだろうか。
自分はラーメン屋の調理人には絶対になれないなと自嘲しながら、次の注文を待った。
食堂(深夜0時)
デリバリー弁当である。
多くの者が注文するため、弁当は大きなコンテナのようなものに入れて、食堂の片隅に届けられていた。
夜間、食堂には職員がいなくなる。
職員がいるのは、昼間のみである。彼らが調理した料理を食せるのは、日勤のときのみだった。
工場に勤める大方のものは、夜勤の時には弁当を注文する。
もちろん料金は給料から引かれる。
夜はいい。
浮沢は夜勤が好きだった。深夜手当が出ることも理由のひとつだが、真っ暗な食堂もその理由のひとつであり、それが浮沢の中で大きな比重を占めていた。
真っ暗と言っても食堂内に照明はついている。窓の外が真っ暗なのである。
タッドリッケ・伊名井工場の社員食堂には窓があり、昼間は明るさを食堂に提供する。
夜になると、一転、真っ暗な闇のみを提供する。
窓の外にネオンはない。
灯りは全く見えなかった。
この工場は山の中にあるからだ。
もっと規模の大きな、工場がいくつも連なるプラントであれば、周りも工場だらけでその灯りが見えるだろう。
だが、ここに工場はひとつしかない。
周りには闇しかない。
外は雨が降っていた。
窓には水滴がついている。
食堂の窓際のテーブルに着くと、浮沢は弁当の蓋を開けた。
最初に目についたきんぴらゴボウに箸をつける。
派遣会社の社員、爪田が思いを寄せた女性。
顔を上げると、窓に自分の顔が写っていた。
ひとことで言えば不気味だった。
どういう理由でこれほど不気味になるのだろうか。
闇夜に浮かび上がる顔。
たとえ自分の顔でも、突然目にしたら叫び声を上げる自信があった。
水滴が張りついたような、溶けかけたようにぼやけた自分の顔をじっと眺めながら思う。
多加良さんもこういう夜を過ごしたことがあるのだろうか。
雨が降る静かな夜。
弁当のフライを箸でつまんで、口に運ぶ。
咀嚼しながらまた考える。
多加良さんを遠くから見たことがある。
きれいな人だった。
その多加良さんには、付き合っている男がいた。
爪田ではない。
工場の人間ではないらしい。
その男が、浮気をした。
浮気相手は目木さん、工場に勤める派遣社員だった……、
それで爪田は自分の権限をフルに使い、目木さんをなんだかんだ理由をつけて首にした。
それが今、タッドリッケ・伊名井工場内の、一部の作業フロアで流れている噂だった。
が、それは勘違いだった。
そもそも多加良の彼氏は工場とは関係ない仕事をしている。
浮気相手に目木さんが出てくる理由がよくわからない。
だが、爪田はそういう勘違いをした。
日勤専門の派遣社員たちのあいだで噂になっていた事件である。
休憩室で彼女らが話しているのを聞きかじっただけで、浮沢はこの事件とは何の関わりもない。爪田当人も、工場内の派遣会社の事務室で見かけたことがある程度でよく知りはしない。
だが、いつも話題になるのは目木だった。
勘違いが原因で仕事を失った、目木である。
勘違いではなくとも。
たとえ爪田の思い込みが真実であったとしても、仕事上の正当な理由ではなくて、私情が元で身に覚えのない罪を負わされ、仕事をなくす。
そういったことが人の琴線に触れるのだろうか。
多加良について思いを巡らせる人間はいなかった。少なくとも、浮沢が見聞きした範囲では。
多加良はどういう気持ちなのだろう。
彼氏でもなく、知り合いですらない男がそんな行動に出た、勝手に加害者に仕立て上げられてしまった多加良さんはどういう気持ちでいるのだろう。
そんなことを、浮沢は不気味に浮かび上がる自分の顔を見ながら考えた。
ゴシップ好きの顔にふさわしい。
人の苦しみや、悲しみを食べて生きる者の顔だ。
浮沢は、さらに弁当をたいらげるべく、箸を動かした。
食堂(正午)
曽々木はため息をついた。
また麵である。
またもや麵担当となってしまったのである。
本日の日替わりメニューは、鶏肉のホイル焼き定食と、焼き鳥定食、チキンカレー、そして鶏肉まったく関係ない味噌ラーメンである。
曽々木はラーメンを食べるのは好きだが、作るとなると別だった。
タイマーを仕掛けてもいいかと上司に尋ねたところ、「オープンキッチンだと、音が気になるという苦情が来るからやめてくれ」という返事だった。
上司の方針に文句をつけるわけにもいかなかった。
そばに張りついて見ていなくてはいけない。
怒濤の第一波が訪れた。
どこかの作業フロアが昼休憩に入ったのである。
大量の人間が食堂に押し寄せる。
麵を茹でる。ひたすら茹でる。
とは言っても、曽々木にできることはあまりない。
麺がのびないよう、見守ることしかできない。
こんなことをしていていいのだろうか。
そんな焦りに見舞われても、麵から目を離すことはできない。
暑さでぼんやりし始めていた曽々木の耳に、注文を取る担当者が言う。
「味噌ラーメン1人前、1人前、1人前……3人前です」
最初に計算してから言ってくれと思うが、特に何も言わず、麵の玉を3つ、湯の中に入れた。カウンターでできあがりを待つ3人がおしゃべりをしている。
「爪田くんに三条さんのこと聞かれたんだけど」
「えっ、聞かれるって何」
「彼氏いるのかなあとか」
「あらー、意外と気が変わるの早いね」
「乙女心と秋の空なのかしらね」
「爪田くんは乙女か」
「乙女でしょう」
「かもね」
ゲラゲラ笑う。
麵はまだ茹で上がらない。
「三条さんって美人な感じの子でしょ、あたしは話したこともないけど」
「多加良さんといい、爪田くんって面食いだよね」
「面食いって言い方も古い」
「だからさ-、あたしゃ古い人間だからさー」
古い、ふるふる、と、おなじみのギャグになっているのであろうフレーズを3人が繰り返しているうちに麵がゆであがった。盛り付け担当が手早く具材を乗せる。
コトリ、コトリ、コトリ。
「お待ちどうさまです、味噌ラーメン」
「できたー! おいしそう!」
以前とまったく同じような感想を言い合いながら、3人はトレイにどんぶりを載せて、食堂内のテーブルに向かった。その道すがらもおしゃべりを続けている。
「多加良さん、休んでるよね」
「ああ、ほかの仕事行ってるんだって。そのうち正式にやめるんじゃない?」
「えー。気楽なもんねえ」
「夜のさー、なんていうのああいうの、水商売系のお店だって」
「へえ」
意地悪いような不思議な「間」ができた。
が、曽々木にはその「間」などどうでもよかった。話の内容をなんとなく聞いてしまってはいたが、曽々木の気を引くような内容ではない。
仕事の種類で何を判定したというのか、曽々木にもなんとなく想像はついたが、だからといって何の感想も持ちようがなかった。本人たちが言う通り、「古い人間の感想」なのだろう。
そんなものにかまけている時間はない。
今は自分の仕事だ。
麺を茹でるのだ。
麺が優先だ。
注文がまた入った。味噌ラーメン2人前。
曽々木は麵の玉を2つ、湯の中に落とし入れた。
(おわり 005/030)
☆☆☆☆☆☆☆
微妙につながっているような、そうでもないような。
↓なんだか食堂がざわざわしていた、目木さん本人の目線の話はこちら。
↓爪田くんが微妙に出てくる話はこちら。
↓人物は関係ありませんが、夜をひた走って日勤に備えようとしている話がこちら。