増やしては、めぐりめぐる
もう来なくていいよ。
もう来なくていい。
君の席は来週にはなくなる。
思い出したくもない事務室での会話。
思い出したくもないのに勝手に脳裏によみがえる会話。
「ただいまー。あ、目木さーん、ガムテいる?」
開けっぱなしになっていた寮の
韮山は夜勤から帰ってきたところだった。韮山も目木も工場に勤めていて、ふたりが今いるのはその工場に入っている派遣会社の寮だった。
いや、目木のほうは、今は勤めているとは言えない。
目木は、本日は退寮のみが仕事だった。
10時には派遣会社の社員立ち会いの下、この部屋を引き払う。
今の時刻は朝の8時過ぎ。時間にはまだ余裕があった。
「おっ、ありがと」
目木は韮山からガムテープを受け取り、段ボールに封をした。
「あー、1か月半暮らした寮ともおさらばだわ」
目木は段ボールを見ながら言った。韮山が目木の作業を見守りながら問い掛けた。
「しかし何でこんな中途半端な時期に」
「ほんとにねえ」
ビイイイイ。
ガムテープを引き出して、手でちぎり切る。
そしてまたひとつ、段ボールに封をする。
まだ目木の部屋の入り口にもたれ、ビールをぐびぐび飲みながら荷造りを見守っていた韮山は言う。
「この荷物どうすんの? 実家に送るとか?」
「ううん、次の社員寮に送っていいって言われたんで、そっちに送る」
「あ、見つかったんだ、次の仕事」
「まあねー。しかも次は派遣じゃなくなる」
「おおっ。さっすが」
「ははは」
ああ、あのきれいな人。
彼女がどうしたの?
じゃあ、私が話しかけてみようか。
多加良さん、彼氏いるの、そう。
どういう人?
同じ工場で働いてる人?
違うんだ?
爪田くん、多加良さん彼氏いるって。
あー、落ち込んじゃった。
え、どういう人か?
さあ、私も教えてもらえなかったよ。
「宅配の送り状いる? 余ってるけど」
「あー、えっと、知り合いに迎えに来てもらうから」
「あ、そうなの。え、彼氏とか?」
韮山の言葉に、ぶはっとふきだしながら目木は答えた。
「全然違うよ。ほんとに知り合い。前の職場からここに来るときもお世話になったんだけど、この近くに住んでる車好きのあんちゃん」
「へえ-、目木さんって顔広いよねえ。謎の交友関係が」
うなずきながらそう目木評を本人に語る韮山に、目木は苦笑いを返した。
「いやあ、そんないいもんじゃないです」
「またまたぁ。あ、そうだ、これ使って。試供品だけど。さっきもらった」
「何?」
「美容マスクだって。これ、たっかいやつでしょ」
「えっ、そんな。韮山さんが使いなよ」
「いいからいいから。
「うわあ、なんかありがとう」
「いいって。まあ、ほんじゃ、お元気で」
「うん、ありがと、韮山さんもね」
「あいー」
韮山はそう言って、ビールとともに自分の部屋に戻った。
「よし」
目木は自分の持ち物をすべて段ボールに詰め終わったことを確認した。
それほど多くはない。
目木にとって、「これでなければいけない物」は何もなかった。
その場で買える物をその都度買って過ごす。
捨てる物も、溜めてしまう前にこまめに捨てる。
余りすぎないよう、足りなくならないよう。
荷物が多くなることが嫌でそうして生きてきたが、自分は物に対してだけでなく、自分に関わるすべてに対して同じことをしているのかもしれない。
目木はそんなことを考えた。
(私には、「この人でなければいけない」という人はいない)
(だから、私に対してそう思ってくれる人もいない)
目木の手の中には、今さっきもらったばかりの美容マスクの試供品のパッケージがあった。
ありがたかったのは本当だ。
ウソは言っていない。
でも、これじゃないといけないとも思わない。
ふだん美容マスク等を使わない目木だったが、韮山が気を遣ってくれたから、その気持ちに対してお礼を言った。
美容マスク。
このメーカーのこの化粧品、美容グッズでないと、というこだわりを持つ人間もいるのだろう。それはわかってはいても、目木は、顔の上に塗る物に対し、そこまでの思い入れを持てないでいた。
顔に塗る物に対してだけではない。
すべてに対して。
(美容マスクを顔につけたまま外に出る人もあまりいないだろうけど)
(私はそういう状態なのか)
(心の中で、いつも、きれいになるためのマスクをつけているような)
目木は、話しやすいとよく言われる。
目木は、顔が広いとよく言われる。
目木は、誰とでも仲良くなれるとよく言われる。
自分のいい面を押し出して生きたほうが生きやすい。
だからそういう面だけを人に見せて生きてきた。
いいところが私そのものなのだと思うようにしていた。
いつしか目木は、自分には悪いところがないように思い始めていた。
あの日までは。
またやってしまった。
軽い気持ちで恋愛相談を受け、爪田の思い人である多加良に話を聞きに行った。
多加良には彼氏がいた。
それを爪田に報告した。
……そこまでしか目木にははわからなかった。
目木にはよくわからないところで、よくわからない動きがあり、そして仕事を辞める羽目に陥った。
何がどうなったのか、よくわからない。
爪田に聞いても、話が通じず、全体像が見えてこない。
多加良に聞いても経緯はよくわからないと言う。
あるいは多加良は本当によくわかっていないのかもしれない。目木と同じように。
目木は部屋の中で、首を振った。
考えても仕方がない。
もうこれから行く場所も決めてある。
荷造りも終わった。
前途洋々ではないか。
「洋々でもないか」
ひとり、部屋の中でつぶやき、思いついてキッチンに立った。
そして冷蔵庫の中に入れたままの忘れ物がないかチェックした。
特に何もない。
前日までに、寮に置いてあった自分の食べ物や食材はすべて食べ終えていた。
代わりになのか何なのか、洗面所で忘れ物を見つけた。
隙間に挟まったガムテープだった。
「……」
目木が暮らしてきた寮では、洗面台の横は壁になっていた。そして、洗面台と壁のあいだには、わずかな隙間があった。その隙間に、そこそこ大きなガムテープが挟まっていたのである。
自分だ。
何がどうしてそうなったのか今となっては思いだせなかったが、この寮に入ってすぐに隙間にガムテープを挟みこんで、素手ではつるりつるりと指先がすべってしまい、取り出せなくなった。隙間の奥に入り込んでしまったガムテープを取り出すために棒状の何かが要る、と判断してそのまま忘れていたことを思いだした。
棒状も何も、荷物はすべて段ボールに入れて封をしてしまっていた。どうしたものか、このまま放置していこうか……と迷ったあと、目木は同居人・韮山に借りたガムテープのことをふと思いだした。
韮山にガムテープを返すのを忘れていた。
その韮山ガムテープの、洗面台の奥行き分くらいの長さを引き出し、ちぎる。
これをどうしたらいいのだろう。
自分でも迷いつつ、洋服の腕をまくった。洗面台と壁の間のすき間に腕を突っ込み、挟まったままのガムテープに手を伸ばす。洗面所の床にはいつくばった姿勢で腕を伸ばし、プルプル指先を震わせた。なんとか指先がガムテープに届き、ガムテープにガムテープをくっつけた状態にできた。ガムテープ・オン・ガムテープである。
手元のガムテープを一気に引っ張ってみる。
ごそっ。
挟まったガムテープが少しだけ動いた。貼り付けたほうのガムテープは目木が引っ張ったときの勢いで外れてしまったが、挟まっていたほうのガムテープは先ほどより手前に移動した。
完全に隙間から取り出すことはできなかったが、そこから先は手が届いた。手をガムテープの奥に差し込み、手前に移動させる。
取れた。
なぜ忘れていたのか、なぜ今になって思い出してしまったのか、よくわからないガムテープである。
ガムテープは縦になった状態で隙間に挟まっていた。粘着部分が床に接していなかったせいなのか、それほど汚れてはいない。目木はそう感じた。
しかし、人によっては気持ち悪いと感じるだろうか。
見た目は普通のガムテープなのに。
どうしようか迷いながら洗面所を出ると、キッチンの冷蔵庫が目木の目に留まった。寮にある冷蔵庫は背の低い単身者用のものだった。高さは1.2メートルくらいだろうか。
目木は冷蔵庫の上に、韮山ガムテープと洗面所ガムテープを並べて置いておこうと思い付いた。
ガムテープの礼は、借りたときに韮山本人にすでに言ってある。
それよりも黙って置いていったほうが、最初のガムテープが2倍になって帰ってきたかのようで面白いかな、と思ったのである。
洗面所ガムテープをパッと見て汚いと思ったなら、韮山の判断で捨てるなりなんなりするだろう。
自分のいいところ、一般的に考えて長所だと思われそうな面だけを見せる。
目木はいつもそうしてきた。
次の職場や寮でもそうするつもりだった。
ただ、立つ鳥跡を濁さずではあるが、少しだけ、いいとも悪いとも言い切れない、自分の爪痕のような物を残していってもいいのかな、そう思ったのである。
目木はふたつのガムテープを冷蔵庫の上に置いた。
そして自分の部屋から段ボール群を玄関口に運び出す。
時刻は9時46分。
もうそろそろ、退寮の立ち会いをするため、派遣会社の社員が来る頃だ。
この部屋を出て、次の部屋に行くまでの合間は、あとわずか。
(おわり 003/030)
☆☆☆☆☆☆☆
1話完結と言いながら、この話だけでは、たいへんわかりにくい目木さんの話でございました。
↓周りから見た目木さんの話の真相はこちら。
↓目木さんが工場の中でかかわった人間のうちのひとり、鳥手くんの話はこちら。
↓目木さんの名前を出してはいませんが、実は気にかけていた同僚、阿野田さんの話はこちら。
↓チラッとだけ爪田くんが出てくる話はこちら。