迷う自転車
信号が青に変わった。
周りの空気が風となって後ろに過ぎ去っていく。
阿野田が乗っているのはママチャリだった。
寮暮らしをする者たちのために派遣会社が用意しているものである。
今まであまり使っていなかったのだが、今日はなぜだか無性に自転車に乗ってみたい気分だった。
阿野田の周りの寮暮らしの人間は、派遣会社のレンタル自転車を使う者があまりいなかった。自家用車、バイクなど、それぞれ自分なりの交通手段を寮に持ち込んでいたからである。
阿野田はエンジンがついた乗り物にあまり興味がなく、また持っていなくとも生活できる場所に住むことを好んでいたため、それらを所有していなかった。
ぶらりと電車に乗って伊名井市にやってきたのである。
阿野田は働くためにこの地にやってきた。寮を用意してくれる仕事を探していて、この町で工場の仕事をすることになったのだった。
阿野田に特に不満はなかった。
住む場所を用意してくれる上に仕事もできる。
残業すれば残業手当がプラスされるし、夜勤であればほぼすべての時間に深夜手当も付く。勤務する時間帯はその工場によって違うであろうが、阿野田のいるタッドリッケ・伊名井工場では、日勤でも最後の1時間のみ深夜手当が付いた。
日勤と夜勤が交互に入れ替わるため体がきついことをのぞけば、阿野田は今の生活にそこそこ満足していた。
昨日までは。
いつも優しく声をかけてくれた同僚が突然やめさせられたのだ。
理由は、仕事上の問題ではない。
派遣会社の人間関係に巻き込まれ、その結果、厄介払いをされるようにやめさせられたのだった。表向きの理由も、本当の理由も、どちらも阿野田には知らされていなかったし、よくわからなかった。
ただ、なんとなく聞こえてきた噂では、恋愛関係のもつれが原因のようだった。
阿野田はその同僚女性に対し、異性として好意を寄せていたわけではない。
……はずなのだが、阿野田の感情はこんがらがった。
自転車の鍵は冷蔵庫の上に置いてあった。
単身者用の背の低い冷蔵庫である。阿野田のいる寮の部屋は3人部屋なのに単身者用冷蔵庫である。そして、3人部屋なのに自転車の鍵はふたつしかなかった。
しかし特にモメ事も起きなかった、その鍵である。
同僚女性の件でなんとなくモヤモヤしていた阿野田は、表面にうっすらホコリが積もっている鍵を手に取った。
寮であるアパートの駐輪場に2台ある、派遣会社「インダストリアム・ファクトリアス」の名前が書かれたおそろいの自転車のうちどちらの鍵なのか、阿野田は自分でもわかっていなかった。
ガチャン。
鍵に合う自転車を探し当て、音を立て開錠する。
阿野田が暮らす寮は、アパートの1室を派遣会社が借り上げたものだった。
同じアパートには、寮としてではなく、普通のアパートとしてここに暮らす住人もいた。
阿野田が自転車を出そうとアパートの駐輪場でガタガタやっていると、その近くにあるアパートの共有スペースで子供を遊ばせていた女性がこちらを見ていた。
「……ちは」
挨拶をしてみたが、今日1発目の発声だったためか、最初のほうの声がかすれた。
女性は黙って会釈しただけで、何も言わなかった。
工場で働いているから警戒されているのだろうか。
それとも子供とともにいる大人は、だいたいの他人を警戒するのだろうか。
考えてもわからない。
阿野田も会釈を返し、自転車にまたがり、こぎ出した。
大きな通りを目指そう。
もっとスピードを出してみたかった。狭い路地で暴走しても事故を起こすだけだ。
伊名井通りに出た。
車の量が一気に増える。
排気ガスにまみれながら阿野田は思った。
歩道を走っていいのかどうかわからない。
車道を走ることが迷惑行為になるのかどうかわからない。
いったいどこを走ればいいのか。
わからない。
周りには自転車はいない。
標識にも道路そのものにも、自転車の居場所を示唆するような物は何もない。
阿野田はうろたえつつ、何食わぬ顔で横道にそれた。
先ほどの大通りよりも、道幅が狭くなった。
歩道と車道を分ける白線がなくなった。
車の姿は見えなくなり、歩行者の姿もちらほらとしか見えない。
道交法に加え、その地域によっても条例で定められた交通ルールがあるのだろうか。
阿野田は、まだよくわかっていない土地で交通ルールを守ることの難しさを感じた。
伊名井市の条例はまだよく知らなかったが、道交法自体は免許を取るときに覚えた記憶があった。その中の自転車の交通ルールを思い出しながら、阿野田はペダルをこぎ続けた。
少しずつ記憶がよみがえる。
走るべき場所は車道、だった気がする。
よほどの事情がない限りは歩道を走ってはいけない、しかたなく歩道を行くときは歩道の中の道路側、右側を走る。左側通行だけど、歩道の中だけは右側。
確かそうだった。
だが、今、阿野田が走っている道路では、どこが歩道でどこが車道なのか、正確なことは不明だった。
阿野田は、自分が今走っている場所は正しいのだろうかと自問自答しながら走り続けた。
道は曲がりくねり、何度か分岐した。
なんとなく長く走れそうな道を選び続けた。
最初から道に人の姿はあまり見えなかったが、今では完全に無人だった。
車の姿もない。
そのせいなのか、阿野田は考え事に沈み込んでいった。
同僚女性は、さっさと派遣会社に見切りをつけ、社員として別の職場に勤めることが決まったようだった。あのまま派遣社員として工場にいるよりは、結果的によかったのかもしれない。
今も派遣社員としてあの工場で働いている阿野田としては、素直におめでとうと言いたい気持ちの裏側で、自分が同じ目に遭ったら同じようにできるだろうかという気持ちが揺れ動いていた。
恋愛のもつれと言っても、同僚女性が実際に恋愛に関わっていたわけではない。
巻き添えである。
そんなふうに休憩室で大いに盛り上がりながら噂話をしているのを横から聞いた。
自分が恋愛関係をもたなくとも、巻き添えになることがある。
そのことは、阿野田に混乱をもたらした。
そんな理由で仕事を辞めなければいけないというのは、理不尽すぎる。
さらに阿野田の場合、派遣会社をやめるというのは住む場所を失うことでもあった。
そんな理不尽に自分が巻き込まれたとしたら。
自分はどうするのだろう。
何ができるのだろう。
阿野田はそこまで考えて、己の思考から抜け落ちていた事柄に気づいた。
実際にそういう目に遭っている人が現にいるのに、自分のことばかり、それもまだ起きてもいない空想上の事件に対処する方法を考えている場合なのか……。
同僚女性に何かしてあげられることはなかったのか……。
ないだろう。
自力で次の仕事を見つけた人物である。
それも今よりいい条件で。
自分が何かしてあげられると思うほうが思い上がりだろう。
……そんな自責とツッコミを繰り返していると、空が夕焼けに染まり始めた。
阿野田は道の端に自転車を止めた。
ひとつ、息をつく。
阿野田が考えていた内容はあまり爽やかとは言えない、自虐と自嘲が混じったものであったが、それでいて阿野田の気分は悪くはなかった。
久しぶりに風を感じながら自転車をこぎ、心地よい疲労感を感じていた。
たいへん爽やかな気持ちである。
そして阿野田は思う。
ここはどこだろう。
まだよく知らない土地で、自分の気が赴くに任せて自転車を漕いでいたら現在地を見失った。
もういい年の大人だというのに無防備に迷子になった。
そのことが、阿野田から深刻に悩む気合いを奪った。バカバカしくなったのである。
阿野田は地図を見ようと、腰につけたバッグから携帯を取り出そうとして、途中でその動作を止めた。
道路の前方に、自分と似た存在を見つけたのだ。
具体的には、阿野田が乗っているのと同じ色、同じ型で、車体に「インダストリアム・ファクトリアス」と油性マーカーで書いてあるであろう派遣会社のレンタル自転車に乗った男性を見つけたのである。対向車線を、こちらに向かって走ってくる。
まだ距離が離れていたため油性マーカーの会社名までは視認できなかったが、自転車に乗った男の顔は見えた。辺りは夕焼けとともに薄暗くはなっていたが、完全に見えないほどの闇ではない。
阿野田は自転車男の顔に見覚えがある、ような気がした。
自転車はこちらに近づいてくる。このままでは、自転車を止めている自分とすれ違うことになる。
かの自転車男に声を掛けるべきなのだろうか。
阿野田は、自分もまた自転車男であることを棚に上げ、迷った。
なんと声を掛ければいいのか。
お疲れ様です、では変だ。
黙って見送るほうがいいのか。
しかし。
声はかけたい。
なぜなら、こちらに向かってくる自転車男の顔が、とても不安そうな顔をしていたからである。
絵に描いたような不安顔である。
思わず吹き出してしまいそうになるのをこらえながら、阿野田は手を上げた。
不安そうな自転車男は、阿野田が手を上げたのに気づき、遠目にもそれがわかるくらいビクッと体を震わせ、自転車ごと大きく揺れた。
阿野田は少し慌てた。驚かせるつもりではなかったのだが、自転車男(不安)は阿野田が思っていた以上に驚いた。やはり顔の通り、不安なのだろうか。
自転車男(不安)は阿野田のそばに自転車を止め、足を片側だけ地面に付けた。それから息を整えると、唇を震わせて言葉を発した。
「な、なんでしょうか」
「あ、ごめん。同じ派遣会社の自転車だと思って。ただそれだけなんだけど。別に止めるつもりはなかった」
阿野田はできるだけ軽く聞こえるように、そう言ってみた。
近くで自転車男(不安)の顔を見て気づいたことがあった。
「
「あ、はい」
どういう偶然なのだろう。
阿野田は思った。
タッドリッケ・伊名井工場はやや大きめの工場だったため、働く人間も多い。
そして人間の入れ替わりも速い。
その上、直接話したことがなかったため自信がなかったが、やはり自転車男(不安)は阿野田と同じ職場で、同じ作業フロア、同じ班の人間だった。
皆見が不安そうに言う。
「あの、ここってどこなんでしょうか」
「俺にもわからない。地図見ようと思って自転車止めたとこ」
「あ、一緒でしたか」
皆見は少しだけ安心したように息をついた。
おかしなやつだ。
一緒だからといって、迷子になったという事実がなくなるわけではない。
ふたり一緒に迷えば安心なのだろうか。
阿野田はそう思い、また笑ってしまいそうになり、ここで笑ったらバカにしているように受け取られるのだろうかと考え、顔を引き締めた。阿野田には皆見を見下す意図はなかった。
阿野田は表情を見られるのを避けるために下を向き、思い出して携帯を取り出した。地図アプリを起動する。
「あ、隣の市に来てた。この道まっすぐ行って左に曲がると大通りに出る。たぶんそれで帰れるよ。大きな通りなら標識もあるだろうし」
「そ、そうですか」
自転車男(不安)こと皆見は、阿野田を見て思い出したかのように、自分も自転車の前かごに入れていたカバンから携帯を取り出した。そして戻るべき道を確認すると、その後、阿野田に挨拶をして走り去った。
最初に見たときよりは顔から不安が消えていた。
皆見の後ろ姿を見送ったあと、すぐに走り出すと尾行しているかのようになってしまうと思い、阿野田は時間が経つのを少しだけ待った。
待ちながら考える。
自分が声を掛けたことで、皆見は少しでも安心したのだろうか。
皆見の正確な年は知らなかったが、おそらく阿野田よりかなり年下である。
皆見から見たら自分などオッサンである。
阿野田はいくらか自嘲気味に、そう考えた。
同じ職場のオッサンからプライベートで気軽に声を掛けられて、うれしいなどということがあるのだろうか。
ねえだろ。
と阿野田は自分でも言いたくなったが、別れ際のなんとなく安心したような皆見の表情を思い出すと、そうとも言い切れない気もした。
皆見が走り去ってから数分が経過していた。
阿野田は、そろそろいいだろう、と走り出そうとして、今さら気づいた。
辺りが暗くなり始めている。夕焼けはいつの間にか薄い闇に変わり始めていた。
サドルにまたがったまま、自転車のライトのスイッチを靴底で蹴り下ろす。
がしゃん。
これで走り出せば、ライトがつくだろう。
自分にできることなど、ほとんどない。
理不尽なことは起きる。
それでも。
(送別会、やってなかったよな)
阿野田は自転車をこぎながら、そのことを考えた。
職場をやめた同僚女性の送別会をやっていなかった。
タッドリッケ・伊名井工場では派遣社員がやめても、普通は送別会をしない。誰かがやめることなど、日常茶飯事だからだ。それでも声をかければ参加したい人間もいるかもしれない。ただの飲み会でもいい。
ペダルに足を乗せ、こぎ始める。
風が生まれて、阿野田を通り過ぎていく。
来たときよりもペダルが重い。
光を自力で生み出す負荷がかかる。
ライトの分、余分に力を込めてペダルを回す。
暗闇の中、甲高くうなるような音を立てながら、自転車は走る。
(おわり 007/030)
☆☆☆☆☆☆☆
↓チラリと出てきた、不安そうな顔をした皆見くんの話はこちら。
↓阿野田さんがモヤモヤするキッカケになった同僚女性、目木さんの話。
↓どしゃぶりの中、自転車をこいでいる阿野田さんが出てくる話。皆見くんも、派遣会社の社用ワゴンの中で詰められ(ているかのような雰囲気になり)ながら登場します。