スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

トイレの番人

「三条さーん、だいじょぶ?」

 

トイレのドアを叩く音と同時に声がした。
三条(さんじょう)鈴花(すずか)の寮における同居人、代々木の声だった。

 

寮とは言っても、実質は普通のアパートの1室である。
いちおう、ひとりに対し1部屋が割り当てられるため、三条が住む3DKのアパートの部屋には、三条含め3人の女性が住んでいた。

その3人のうちのひとりである代々木は、同じく同居人のうちのひとりであり、今日もトイレにこもっていた三条を心配してトイレのドア越しに声をかけてきたようだった。

 

「だいじょぶ。ごめん、トイレ占領して」

 

三条はカラリとトイレットペーパーを引き出しながら答える。

この部屋に住む者たちの中でトイレットペーパーを一番消費するのは三条だった。
だから三条は、いつも買い物に出るたびにトイレットペーパーを買い込んで帰ってくる。一番長くトイレにいるため、トイレ掃除もマメにする。トイレに関するもろもろの洗浄剤を買ってきて試すことは、半ば三条の趣味だった。

 

いつしか三条は、トイレの責任者のような立場になっていた。

しかし寮とは言ってもアパートの1室である。
トイレはひとつしかない。

 

その点、職場は違う。
三条を始め、代々木も、もうひとりの同居人である雨川(あめかわ)も同じ工場に勤めている。3人が勤める工場「タッドリッケ・伊名井工場」には派遣会社が入っていて、三条たちはその派遣社員だった。

 

工場のトイレはウォシュレットが付いていた。
寮であるアパートのトイレにはウォシュレットは付いていない。

寮のトイレの便座をつけ替えるわけにもいかないが、職場のトイレばかりを使うのも気が引ける。そんなわけで三条は、基本的には寮のトイレを使うが、致し方ない場合は工場のトイレを使う。そういう方針をとっていた。

 

「職場のトイレを『大』目的で使うとか……」
「まあね……。ないよね……」

 

タッドリッケ・伊名井工場で働く人間の中には、三条に対し、陰でそんなふうに言う者たちもいた。三条としては、なぜ職場のトイレで「大」をしていることが周囲に露見しているのか不思議だった。
トイレの使用後のにおいをチェックしているのだろうか。チェックしなくとも迫り来るほどに、においが残っているのだろうか。
そもそも三条はひとけのないフロアのトイレを狙って入るので、周りに人もいないというのに。

 

カメラ等が仕掛けられているのか疑って、トイレの壁やら扉やらトイレットペーパーホルダーやらの隙間などをネチネチ調べてみても、何も見つけられなかった。特に何も仕掛けられてはいない、らしい。
人間というものは、そういうことには敏感に気づくということなのかもしれない。

 

三条は他人の陰口に遠慮する気はなかった。
そんなことをしていたら体調を崩すに決まっている。
勤務中にトイレに行っているわけでもない。
休憩時間にトイレで「大」「小」いずれの排泄をしようが自由である。三条はそう考えていた。


タッドリッケ・伊名井工場では、派遣社員が入って作業している通称「作業フロア」は全部で3つあった。それ以外のフロアは主にタッドリッケ社の社員が使っていて、派遣会社の制服でウロウロしていると目立つ。目立つ上に、注意を受ける。
派遣会社から特に説明を受けたことはなかったが、行ってはいけないフロアが存在しているらしかった。それでも1階、2階、3階、そして食堂がある6階のトイレは自由に使うことができた。

 

三条はトイレの水を流した。
寮のトイレである。
三条は休日に寮のトイレにこもる。
同室の代々木と同じシフトで働いているため、三条と代々木は同じタイミングで休日になる。もうひとりの同居人・雨川は異なるシフトで働いていて、ほとんど顔を合わせることがない。

 

三条がトイレから出ると、代々木とその彼氏である隣原(となりはら)が、代々木の部屋から出て玄関に向かうところだった。
きっと「大」をしていたことがふたりにはバレているのだろう。そういうものだ。
三条は胸を張った。恥じる気はない。

 

「あ、出てきた。三条さん、彼、帰るって」
「そうですか。何もお構いもしませんで」
「はあ。お邪魔しました」

 

胸を張ったまま三条は自分の部屋に戻った。玄関のドアが閉まる音が三条の耳に聞こえた。代々木とその彼が外に出たようだった。三条は無意識にため息をついていた。
代々木は職場でできた彼氏をしょっちゅう部屋に招く。
同居人としては「困る」のが本音だが、しょっちゅうトイレを独占している自分の行動もまた「困る」ものだろうと思うと、特に何か言う気にもなれなかった。

 

今日は三条にとっては休日だった。代々木とその彼が外出したことで、寮にいる人間は三条ひとりになった。もうひとりの雨川はシフトが違うため、今も勤務中である。誰にも気兼ねせず、いつもはできない細かな部分のトイレ掃除ができる。

 

三条はトイレに戻ると、無心で掃除をし始めた。

 

どれだけ時が経っただろうか。三条がようやくトイレ掃除を終え、洗面所でゴミをまとめていると、玄関のドアの音が聞こえた。その後、トイレのドアをバタンバタンと大きな音を立てて開閉する音が聞こえた。代々木が寮に戻ってきたようだ。

三条はトイレを立ち入り禁止にせずに掃除を終えられたことに、ひそかに満足した。まとめたゴミをゴミ箱に入れ、手を洗う。その後、部屋に戻ろうとした三条は、トイレを使い終わった代々木と洗面所で鉢合わせした。

手を洗い、洗面所の鏡越しに三条を見ながら代々木が言う。

 

「またトイレの掃除してたの? ごめん、あたし全然トイレ掃除してなかったね」

 

そう言われた三条も、やはり洗面所の鏡の中の代々木に向かって返事をした。


「全然。私が一番トイレ使ってるから。そうだ、こないだ芳香剤買ってきたんだけど。それでも私のトイレ後のにおいがヒドかったらゴメンね」
「トイレのにおいで謝らなくていいし。そもそもそんなに臭くないし。それより三条さん、病院行った? 『病院行って検査してもらいなよ』ってあたしがこないだ言ったの、覚えてる?」
「覚えてるよ。病院にも行った。検査では何も問題ないって」

 

休日にトイレを占領し続けているのである。
休日以外も、トイレにやたらいるでおなじみの存在になっている三条である。
代々木はそんな三条に、病院で検査を受けるようビシリと助言したのである。

 

検査の結果は、三条本人が言うとおり、特に問題は見つからなかった。

三条は、工場で日勤と夜勤を交互に繰り返す生活を続けるうちに、睡眠のサイクルが乱れ始めていた。そのため心療内科で睡眠に入りやすくなるよう薬を処方してもらっていた。内科よりもそちらで相談してはどうかと、検査を担当した医師に遠回しに言われたのだった。腸には異常が見られないので、自律神経の調子を整えてみてはいかが、ということらしい。

 

「そう……。ならいいけど」

 

代々木は洗い終わった手をハンカチで拭きながら、なんとなくホッとしたような表情を浮かべた。それから、遠慮がちに三条に問いかけた。

 

「あのさ、あたしの彼の友達が三条さん紹介しろって言ってるんだって。紹介していい? 2班の志地間くん、知ってるよね? 班は違うけど、何回か作業フロアで顔合わせてるよね? あの背が高い子」
「ごめん、よくわからない。というか私、一緒にいる時間の8割方トイレにこもるタイプだけど、紹介して大丈夫?」
「あ……。そっか」


なぜか納得された。

この手は使える、三条は思った。


代々木がどういう心理で、自分の彼氏の友人と三条の仲を取り持とうとしているのか三条にはよくわからなかったが、三条は代々木の彼氏が嫌いだった。
挨拶程度の会話しかしたことはないが、嫌いだった。

タッドリッケ・伊名井工場にいるだいたいの男性は、三条に陰口を言っている工場の女性と同じ考え方をする。
三条はそう思い込んでいた。

 

女性は職場で「大」するべからず。
女性が「大」していることを周囲に知られてはいけない。

 

だいたいそんなところだろう。

平たく言うと、「女がうんこしてると萎えるわー」。
そんな感じのことを言いそうな人間のことが、三条は嫌いだった。

実際に代々木の彼とその友人がどう思っているのかは知らなかったが、ほかの人間とそう大差ないだろう、そう三条は思っていた。

 

「惜しいなー。三条さん美人さんだし紹介しろって結構言われてるんだけど、三条さんはあまりその気にならない?」
「うん。見た目がどうであれ、中身がこうなのはすぐにバレるだろうし」
「そうか……」
「志地間くんにも言っておいて。無理には誘ってこないんじゃないかな」

「うーん……、まあわかった、伝えてはおく」

 

翌日。

そんな会話をした休日のあとの夜勤である。
三条はまた休憩時間に工場のトイレにいた。
もはや番人である。三条は自分でもそう思った。
トイレの神に仕える番人のようだと。

 

水を流し、扉を開けて個室の外に出た。
外とはいってもトイレの中である。
三条がふと、ほかの個室の中に目をやると、トイレットペーパーが切れていることに気づいた。ふたつ並んだトイレットペーパーホルダーのうちのひとつが紙がなくなり、芯だけの状態になっていたのである。

 

工場のトイレットペーパーの補充は誰がやっているのだろう。

派遣会社だろうか。
工場だろうか。

何にしても、このままでは私がトイレットペーパーを使い切ったままトイレの外に出たかのようではないか。

 

三条はそんな思いにとらわれた。
トイレの番人を心の中で自称している自分が、なくなったトイレットペーパー(の芯)をそのままにしてトイレを出ていいのだろうか。

 

派遣会社の事務室に聞きに行こう。トイレットペーパーのありかを。
そう考えた三条がトイレの外に出ると、大量のトイレットペーパーを両手に持った背の高い男が、トイレの前の暗い廊下に立っていた。

 

「トイレットペーパー補充の手伝いをしている者だ」

 

男はそう言った。
男女で型は違うものの、三条と同じ派遣会社の制服を着ている。
特にトイレの清掃員というわけではなく、三条と同じく、工場で作業する派遣社員なのだろう。男が両手にそれぞれ支え持っている、ピラミッドのようなトイレットペーパーの山の隙間から、胸の名札が見えた。

志地間(しじま)亮介(りょうすけ) 」とあった。

 

志地間。

 

三条は嫌な予感がした。

まさか自分を待ち構えていたのだろうか。
同居人・代々木には断ったつもりだったのだが、伝わっていなかったのだろうか。

 

「あの」

 

三条がどう言ったものか考えながら口を開くと、志地間が間髪入れずに反応した。


「なんだ」
「いえ……。トイレットペーパーを、ひとつ分けていただけませんか。ちょうど紙が切れている個室があるので」

「む。よかろう。この山から取ってくれ」

 

どう切り出せばいいのだろう。

三条は話の切り出し方に迷い、とりあえずトイレットペーパーを所望した。

取ってくれと言われ、改めて志地間の両手が支え持つピラミッド状のトイレットペーパーズに目をやる。

 

志地間はペーパー部分に触れないよう、芯に指を通してトイレットペーパーを支え持っていた。右手と左手にそれぞれ10個ずつのトイレットペーパー・ピラミッドである。ひとりで積んだのだろうか。どうやって。

三条がついトイレットペーパーのピラミッドに圧倒されていると、ふたつのピラミッドのあいだから志地間の低い声が響いた。


「どのペーパーでもいい。好きなペーパーを取るがいい」


そのようなことを言う。
そう言われて三条は、好きな……というか、取りやすい位置のペーパーをひと巻き取った。

 

「ありがとうございます」

「構わん」

 

三条は思いきって切り出した。

 

「あの、私、工場の人と付き合う気はありません」
「工場マン差別か」
「いえ、そうじゃありません、そうではなく……、トイレを見下す人が好きじゃないんです」
「俺は見下していない」
「……」

 

そうかもしれない。
トイレットペーパーのピラミッドを堂々と捧げ持つ志地間を見ていると、そんな気もしてくる。三条の沈黙をどう受け取ったのか、志地間は低くよく通る声で言った。

 

「女性が大便目的でトイレを使うことを馬鹿にする連中が言っていることは、男は大便目的でトイレを堂々と使っていいが、女性はダメだという、そんなことだ」
「……はあ」

 

志地間が何が言いたいのかよくわからず、三条は曖昧な返事をした。

 

「だったら男は大便をする性だとおおっぴらに言えばいい。女は大便をするな、男は大便をしろ。男=大便だと言えばいい」
「あの。大便っていう言い方はちょっと」

 

大便大便と言われすぎて、大便とはいったい何のことなのか意味がつかめなくなりながら三条はなんとか言葉を返した。

 

「俺が言いたいのは、『おかしなことを言っている連中がいる』と俺は認識している、ということだ」
「ああ……、はい」

 

やっと、なんとなく、おぼろげに、志地間の言いたいことの方向性が見えてきた三条は、しかしその方向性で大丈夫なのかどうかわからず、やはり曖昧な返事を返した。

 

「三条さん」


改めて名を呼ばれ、三条はまじまじと志地間を見返した。

 

「なんでしょう」
「あまりこちらをじっと見るな」
「すみません」

 

三条は視線を志地間から外した。

 

「三条さん、とにかくそのトイレットペーパーを補充してきてくれ。もう時間がない」
「あ」

 

気づけば、休憩時間は終わりかかっていた。
三条は急いで女子トイレに戻り、トイレットペーパーを補充した。
三条がトイレから出てくると、廊下にはやはり志地間がいた。
しかし、手に持っていたはずの大量のトイレットペーパーが消えている。

 

「トイレットペーパーは」
「とりあえず男子トイレの窓辺に積んでおいた。単なる休憩時間に終わらせるのは無理があった」
「2階男子トイレだけ大量のトイレットペーパーが積まれてるんですね……」
「次の休憩は食事休憩だ。そこですべてのトイレの補充を終えるつもりだ」
「続けるつもりだったんですか」
「補充の手伝いだと言っただろう、ここだけ補充して終わりというわけにもいくまい」

 

確かにそうだ。三条は納得してうなずいた。

 

「三条さん、手伝ってくれないか。俺だけだと男子トイレの補充しかできないのでな」
「あ、はい。トイレにまつわることなら、よろこんでやります」

 

三条の口からそんな言葉がするりと流れ出た。
志地間のペースに乗せられている気がするが、三条にはトイレの紙を補充する手伝いを断ることはできなかった。

 

トイレにかこつけて断るつもりが、トイレにかこつけた頼みを断れなくなっている。

 

わざとだとしたら、志地間、侮れぬ男である。
三条は、志地間とともに作業フロアに戻った。

 

志地間と離れて作業の持ち場に戻ってから、どういった理由で志地間はトイレの清掃の手伝いをすることになったのだろう、という疑問に行き当たった。本来の業務ではない。あとで聞いてみようか。

 

三条は、淡々と作業を進める。先ほどの休憩で、志地間の謎のトイレットペーパー・ピラミッドに出会う前は、少しの飲み物とたっぷりのトイレタイムを取ることができた。

調子は上々だ。

三条は、椅子の中で背筋を伸ばす。


食事休憩の時間にトイレットペーパーの補充作業するのだとしたら、食事を一緒に取ったほうが時間効率がいいのだろうか、と考えながら。

 

(おわり 008/030)

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

↓その後、トイレの番人と志地間がどうなったか的なことが、うっすら出てくる話。

suika-greenred.hatenablog.com

↓トイレの番人こと三条さんが、チラリと出てくる話はこちら。タイトル長ぁ。

suika-greenred.hatenablog.com

↓冒頭だけ、ほんの一瞬トイレの番人(三条さん)が登場する話はこちら。

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↓三条さんの同居人の話で、三条さん本人はおぼろげにしか出てこない話がこちら。

suika-greenred.hatenablog.com