スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

クワガタを飼えばいいのよ

「あっ、出てきた」


祭橋(さいはし)一真(かずま)の寮の部屋で、窓にへばりついて道路を見下ろしていた深丸(ふかまる)大地(だいち)が言った。

 

「いちいち報告しなくていいです」


祭橋は深丸に向かって言ったが、深丸は聞いていない様子だった。


「俺、挨拶してくる」


そう言うやいなや、深丸はアパートを飛び出していく。

残された祭橋は深いため息をついた。

 

祭橋が住むのは寮だった。
工場で働く者たちのために派遣会社が用意した寮だった。
寮と言っても、寮として建てられた、寮としか言いようのない建物ではなく、一般的なアパートの一室である。

 

アパートの1室を派遣会社が借り、それを寮として派遣社員たちに提供しているのである。祭橋の部屋は2DKだった。
基本的にひとり1部屋、2DKならふたり部屋になるはずで、実際についこのあいだまではそうだった。その同居人は結婚を機に寮を出て自分たちで部屋を借りるとのことで、部屋を出て行ったばかりだった。

 

次の住人が入るまでの間、祭橋はこの寮の部屋でひとりで暮らせる、はずだった。

 

深丸という男がいる。
万年片思いの男である。
以前、祭橋は、本人に直接そう思っていることを伝えた。
深丸は「俺だって好き好んで片思いなんじゃない」と反論した。
しかしその反論を、祭橋は信じていなかった。

 

絶対に好き好んで片思いしている。
本人が望んで片思いを続けている。
祭橋はそう考えていた。

 

深丸が祭橋のこの部屋に入り浸るのは、片思いの相手である、鍵沢瞳の寮の部屋が見下ろせるからである。さすがに部屋の中は見えないが、部屋から出てくる鍵沢の姿は見える。そのために祭橋の部屋に入り浸っているのである。
大した嗅覚である。
片思いの相手の部屋(付近)を見下ろせる位置にある寮の部屋と、そこに住んでいる男を把握しているのである。

ほかにもそういう位置にある寮の部屋に住んでいる者はいそうではあるが、やはり同居人が出て行ったばかりなのが大きいのだろう、祭橋はそう考えていた。


というわけで、今日も深丸は主のいない道路側の部屋の窓際にへばりついて、鍵沢が部屋から出て来るのを待っていたのである。

 

深丸はどこに行ったのだろう。
祭橋は、先ほどまで深丸がへばりついていた窓のそばに寄り、外を見下ろした。

道路が見えた。
道路で、深丸と自転車のハンドルに手を掛けて立っている鍵沢が、なにやら話し込んでいる。


話したあと、鍵沢は自転車に乗ってどこかに去った。
その彼女の後ろ姿をしばらく眺めていた深丸は、思い出したように祭橋の方を見上げた。
そして祭橋に向かって、ぶんぶん手を振った。

 

「おまえは僕の友達か……」


つい、ツッコミが祭橋の口をついて出た。

そう、祭橋と深丸は友達ではない。少なくとも祭橋はそう思っていた。
祭橋は、深丸が片思いしている女性を監視するための場所を提供しているに過ぎない。
言葉にしてみると、たいそう気持ちの悪い状態だった。


いや、言葉にする前から、祭橋も薄々気持ち悪さに気づいてはいた。

そもそも片思い自体が一歩間違えると大変なことになる、すこぶる危険な症状である。
それを長年、(本人は否定しているが)望んで続けているということ自体が、深丸の危険度を物語っている。

 

祭橋は深丸がなぜそこまで鍵沢に恋しているのか、うまく理解できなかった。
鍵沢と直接話したことがないせいなのかもしれない。祭橋の目から見た鍵沢は、どこにでもいる女性に見えたのである。
深丸本人に聞いてみたことがある。だが、


「おまえにはわからなくていいんだよ」


と返されたのみで、今もわからずじまいである。

その深丸が、祭橋の寮の部屋に戻ってきた。


「ああ、今日もきれいだったなあ、瞳」


呼び捨てである。祭橋の全身に鳥肌が立った。


「それ本人にも言えるんですか? 呼び捨て」
「言える。つうか言ってる」
「言ってるんですか……。で、鍵沢さんご本人はなんと?」
「ムカつくからやめろって」
「心の底から納得しました。鍵沢さんの言うとおりですね」


祭橋は真顔でうなずいた。

 

「そうか? でも呼び方変えようとしても心の中で呼び捨ててるからね。いつかぼろが出る」
「心の中で呼ぶのをやめればいいでしょう」
「できるわけないよ、そんなこと」
「いえ、簡単でしょう」
「俺の生活は瞳を中心に回ってるから、心の中で呼びかけないなんて無理。心の中で瞳に、おはようの挨拶からおやすみの挨拶までをひととおりしないと俺の1日が回らない」
「すみません、あまり言いたくないんですが……、き、気持ち悪いです」

「本人にもそう言われた」

 

深丸は、しれっとそう答えた。
何をどうこじらせればこうなってしまうのか。
心の中で呼びかけることを「(鍵沢を)中心に回っている」と表現するのもおかしい。

本人が嫌がっているのに呼び捨てもおかしい。ついでに言えば、人と話をした感想として、外見に言及するのも何かが気持ち悪い。
何をおかしいのか指摘しようとして、何もかもがおかしすぎてかえって指摘できないという壁にぶつかった祭橋は、それ以上深丸に何か言うという苦行を投げ出した。

 

「あー、ヒマだな。瞳しばらく帰ってこないみたいだし」


深丸がつぶやいた。
今日は休日である。
年がら年中稼働している工場では、休日が土日とは限らなかった。
祭橋と深丸、そして鍵沢は同じシフトで働いている。だから休日が重なるのである。

 

祭橋は違うが、深丸は鍵沢の後を追いかけて工場の仕事についた。
そして同じシフトで働けるよう、同じ班に無理矢理入った、らしい。
どうやったらそんなことができるのか祭橋にはよくわからなかったが、深丸本人がそう言っていたので、シフト管理をしている派遣会社との交渉次第ではできることなのであろう。

 

「ちょっと寝る。瞳が帰ってきたら起こして」
「起こしません。鍵沢さんを見張ることもしません」


祭橋は明言した。
祭橋の明言を聞いていたのかいないのか、派遣会社が用意したコタツとベッドとテレビしかない部屋の窓際で、深丸はすやすやと眠り始めた。


「風邪引きますよ……」

 

祭橋は忠告したが、深丸に対して特に何もしてやらなかった。
前同居人が出て行ったあと、派遣会社がこの部屋の備え付けの寝具をクリーニングに出していたことを知っていたからである。次の住人のためにきれいにした布団を深丸に掛けるのも気が引ける。そういう理由からの放置であった。
祭橋は深丸が寝ている部屋の扉を閉めた。

 

扉を閉め、自室に戻ると、元の静けさが戻ってきた。
深丸という異分子が迷い込む前の、元の静けさである。
祭橋は、ほっと息を吐き、それでいて少し寂しいような気持ちになった。

 

「なんということでしょうか……」


祭橋は自分の気持ちに気づき、ひとりつぶやいた。

休日に自分の部屋を訪れる人間がいることのうれしさを、自分は感じているというのか。

否定したいような、だが否定しきれぬ感情が自分の中にあることを、祭橋は自覚した。

 

もし、鍵沢と深丸がうまくいったら。
自分はどうなってしまうのだろう。
うまくいかずとも、この片思いは何かがおかしいことに深丸自ら気づき、改心したとしたら。
どちらにしろ、喜ぶべきことだ。喜ぶべきことのはずなのに、喜べない。
突如として自覚した、得体の知れぬ感情は祭橋の心を根底から揺さぶった。

 

「不安になったときにどうします?」


翌日、祭橋は同じ職場、同じ班で働いている、小折という人間になにげなく聞いてみた。祭橋本人はなにげないつもりであったが、特になにげなくはなかった。

作業開始まで間があり、手持ち無沙汰だったために、たまたま近くにいた小折にふと尋ねてみたのである。唐突もいいところである。しかし問われた小折はその唐突さを気にするでもなく、祭橋のほうすら向かず、自分の作業帽子の角度を気にしていた。

小折は帽子の角度を調整しながら短く答えた。


「寝る」

 

寝ても直らないのである。祭橋はさらに質問を重ねた。


「寝ても不安なときは」
「酔う」
「酒が飲めないときは」
「女」
「女に縁がない人間の場合は」
「麺を食う」
「麺類だけでなくパンも好きな人間の場合は」

 

そこまで尋ねたところで、小折がついに祭橋のほうを向いた。


「誰のこと?」
「僕です」
「なに祭橋、不安なの? 何それ、おまえでも不安になるの?」
「どういう意味でしょうか」
「特に意味はない。まあ、とりあえず生き物でも飼っとけば?」
「とりあえずで生き物を飼う人間を信用するなと祖母に言われて育ちました」
「うん、はい、えーと。そこまでわかってんなら飼っても大丈夫じゃね? おまえは」
「生き物を、ですか……」
「祭橋も寮暮らしだよな? 犬とか猫は無理か。昆虫は? クワガタ飼えクワガタ」
「なぜクワガタなんでしょうか」
「強そうだから」


それ以上の説明はしてもらえなかった。

しかし、祭橋は次第にその気になっていった。


クワガタ。確かに堅いし角があるし黒っぽいし、強そうだ。
しかしクワガタをどこでゲットすればいいのかわからない。
ペットショップに行って聞いてみようか。

もしペットショップ行っても手に入らないようなら、野生のクワガタを捕まえる計画を考えねばならない。
ねばならない、と考えながらも、その考えに祭橋は少しドキドキした。

 

クワガタを迎えるための準備があるとしたら、何をすればいいだろう。何が必要なのだろう。

まずは調べものをしなくては。祭橋の心は、次第にクワガタに奪われ始めていった。

 

「何ニヤニヤしてるの? いいことあった?」


勤務が終わったあと、祭橋の寮の部屋に来ていた深丸が尋ねた。

クワガタを迎える準備をしようと決意したはいいものの、調べものをするばかりでまだ実際のクワガタの姿を見ていない、そんなどっちつかずの状態が数日続いていた。

それでも祭橋はふわふわ、ウキウキした気持ちに包まれていた。

深丸は、玄関先で祭橋の表情の変化に気づいたようだった。いつもの窓にスタンバイする前に、祭橋の顔をじろじろと見ながら不審げに問いかけてきたのである。


「クワガタを飼おうと思うんです」
「クワガタ? 虫でしょ? 虫なんてなんで飼うの?」


その言い草に、祭橋は苛立った。
祭橋の心の中で、クワガタはすでにペット以上の存在に育ち始めていた。
まだ飼ってもいないクワガタが、心の中で大きな存在に育ちつつあったのである。
それを単なる虫呼ばわりされ、大切なものを傷つけられたような気持ちになったのだった。

 

「君にとってはただの虫でも、僕にとっては特別な存在なんですよ」

 

そう言ってから気付いた。
深丸にとっての鍵沢もまた、そういう存在なのであろう。
祭橋から見ると、鍵沢は、どこにでもいそうな女性にしか見えなかった。
しかし、深丸にとってはそうではなく、特別な存在なのだと。

 

しかし、気づいたところで祭橋に特に感想はなかった。
自分は女性に対してそんな気持ちを抱くことはないのかもしれない、という予感を感じたのみである。
何かがおかしい(と祭橋は思っている)深丸と、自分を比較すること自体が無意味なことであったが、その無意味さに祭橋が気づくことはなかった。

 

クワガタだ。
とにかく今自分を一番ワクワクさせるのはクワガタだ。
それだけは確かなように祭橋は感じた。
だからその感覚を信じることにした。

 

「ふうん」


祭橋の思いを知ってか知らずか、深丸は気のない相づちを打った。

そして深丸は窓にへばりつくために主のいない部屋に入ると、窓の外の道路に熱心な視線をやり始めるのだった。

 

(おわり 011/030)

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

↓ウワサ話と、上から見た姿しか出てこなかった女性、鍵沢瞳さんの話はこちら。

suika-greenred.hatenablog.com

 

↓クワガタマンの同居人…ではないが同居人っぽい、気持ち悪いと言っていいのかどうなのか、きっと言われた本人はまったく気にしないのだろうけど言っていいのかどうかよくわからない、そして何かがおかしいとしか言いようのない深丸の話はこちら。

suika-greenred.hatenablog.com

↓チラッとだけ出てきた、髪型にこだわりを持つ小折が出てくる話はこちら。

suika-greenred.hatenablog.com