アイ・マミエル、リネンルーム
「あのー」
「ほわっ」
背後から突然声をかけられ、甘木莉子は飛び上がるほど驚いた。
リネンルームで、棚からクリーニング済みのリネン、つまりシーツや枕カバーをワゴンに移そうとしていたところだった。
時刻は午前11時。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」では、これからルームメイクをする時間帯だった。甘木は、その準備をしていたのである。
「な、なんでしょう」
驚きがまだ収まらないまま、甘木は突然リネンルームに入ってきた男性に尋ねた。
男性は、イルズクのスタッフではない。
客だ。
イルズクには、客室棟が3棟、そして土産ものなどを作るための工房がひとつ、そして体育館、全部で5つの棟があった。
といっても、建物ひとつひとつは2階建ての、こぢんまりとした宿泊施設だった。
イルズクには制服がなく、動きやすい、ラフな私服で皆働いていた。作業をする際にはエプロンなどを身につける。
だから制服でスタッフかどうか見分けることはできない。
とはいえ、さすがに同じ宿泊施設で働く人間の顔は覚えている。
甘木は、リネンルームの闖入者の顔に見覚えがなかった。
しかし、顔には見覚えがないのにもかかわらず、どこかで見たという印象が拭えなかった。
闖入者はスーツを着ていた。
スーツの男は言う。
「お尋ねしてもいいでしょうか」
「え、あ、はい」
いいのだろうか。
本来、客室の整備をメインに担当している甘木は、接客がメイン業務ではない。
が、こぢんまりとした宿泊施設でスタッフが少ないゆえに、自分の業務外だとも言っていられない。
「人を捜しているのですが」
「……はい」
ごくり。
突然何を言い出すのだ、このスーツマンは。
「こちらに、加藤という名前のスタッフさんはいらっしゃいますか?」
「あ、はい……、あの」
スタッフの名前を教えていいのだろうか。
イルズクには制服がなく、名札着用も義務づけられてはいない。
しかし、加藤という名字の人間はひとりだけではない。
ひとりだけではないなら、言ってしまってもいいような気がした。
「3人おります」
「さ、さんにん?」
「まあ、多いんですけど……」
甘木は、つぶやくように言った。
スタッフのあいだでまことしやかにささやかれている「イルズクは加藤姓の人間を集めているのではないか」「加藤姓だというだけで採用されるのではないか」「同じ姓の人間を集めてイルズクはいったい何をしたいのか」というウワサは、もちろん教える気はなかった。
「何をしたいのか」も何も、単なる偶然なのだろう。
それはウワサしている当人たちにもわかっていることだった。
このまま話を聞いていていいのだろうか。
甘木はどうすべきか、ためらった。
ルームメイクをしなくてはいけない。
客室担当のスタッフは甘木のほかにもいて、甘木がリネンを運んでくるのを各フロアで待っているはずである。
フロアと言っても建物が2階建てのため、待っているのもふたりだったが、待っていることに変わりはない。
そもそも、なぜスタッフ以外立ち入り禁止のリネンルームに客が入り込んでくるのだろうか。
接客がメイン業務ではない甘木が、こんなところで客とふたりきりで話していることが職場の誰かにバレたら、サボっていると思われるのではないか。
さらにいうと、甘木は女性である。
客に対して失礼な感想なのかもしれなかったが、甘木はこの状況が少々怖かった。
フロントで聞いてもらいたい。
甘木は、思っても仕方のないことを思った。
フロントに行ってもらおう。
甘木はそう決断すると、それをそのまま言葉にした。
「フロントにひとりいます、加藤が。その加藤が、お客様のお尋ねの加藤さんどうかはわかりませんが、そちらで聞いていただければ」
「フロント、に」
「はい」
正確には、その加藤はフロント担当ではないので、いつもフロントにいるわけではない。
だが、フロントにいることは多い。そこにいなくとも、フロントで加藤を呼び出すこともできるだろう。
イルズクは規模の大きなホテルではないために、ひとりが何役か兼ねている場合が多い。
フロントによくいる加藤は、フロントとコンシェルジュと備品管理とが混じったような役割をしている加藤だった。
営業もかねていることがあるため、たまにスーツを着ている。今日もスーツを着ていたはずだ。
スーツマンはスーツマンに任せよう。
と、甘木が思ったわけではないが、結果的にそういうことになりそうだった。
しかし、そのスーツの客はフロントに行くどころか、リネンルームから出て行く気配を見せない。
「あいつがフロント」
「え」
「フロントができるような感じじゃないんです、捜してる加藤は。接客業というイメージじゃなくて」
甘木はリネンルームの壁にかかった時計をチラリと見た。
視線をスーツの客に戻すと、男は甘木を見ていなかった。ぼんやりと自分の足元を見つめながら、考え込んでいる。
甘木はもう一度時計を見た。
スーツの客がこちらを見ていると確信するまで時計をガン見した。
たっぷり時間を掛けて時計をねめつけていると、スーツの男がようやく何かに気づいたようだった。
「あ、すみません、お仕事中に。いえ、捜してるのは身内で。今までフロントであいつを見ていないし、それ以前に俺が知ってるあいつは要領が悪くて、とても接客に向いてると思えなくて」
「……」
なぜ身内を、見ず知らずの人間の前でこきおろすのだろうか。
甘木にはその気持ちがよくわからなかったし、接客業に向いていないのはおそらくスーツの男も同じなのだろうという予感がした。
一族みな、多かれ少なかれ似た部分を持っているのだろう。
が、そんな感想をわざわざ口に出すことはなかった。
「申し遅れました、私は社員研修でイルズクさんを使わせてもらっています、トラーリ株式会社の加藤と申します」
唐突に加藤による自己紹介が始まった。
ポケットをごそごそしているのは、名刺を捜しているのだろうか。
見つからないでほしい。甘木は名刺を持っていない。そもそも接客や営業担当ではないのだ。
「甘木です。主に客室の整備を担当しています」
甘木は、とりあえず挨拶を返した。
「あの、今、あいにく名刺を切らしているんですけど、すみません。今お仕事中なのはわかってるんですけど、仕事が終わったあと、話とかできませんか?」
「あ、すみません、私好きな人がいますので、そういうのはちょっと」
甘木は反射的にそう返した。
時間がないのである。
そういう意味で誘っているのかいないのか、断ることが失礼に当たるのかどうかを考えている余裕がなかった。
これといった定型お断り文句を思いだせなかったために、少しずれた定型お断り文句を言ってしまった気が自分でもしたが、まさかこれを真に受ける者もいないだろうと甘木は思っていた。
「あ、え、いえ、そういう意味ではなくて、加藤さんについてお尋ねしたかったんですが」
真に受けたのかどうかは不明だったが、目の前の加藤は食い下がった。
「あの、フロントで聞いたほうがいいと思います。お捜しの加藤さんがフロントの加藤ではなかったとしても、フロントの加藤がほかの加藤についてお話しできるかもしれません」
「いえ、まあ、そうなんですけど。俺は甘木さんに話を聞きたくて」
なぜ。
なぜ私なのか。
甘木はそう思ったが、特に悪い気はしなかった。
ずっと思っていたことだったが、目の前の加藤というスーツマンの顔が好みだったのである。一般的に言われるようなイケメンではない。
だが、甘木の好きな顔だった。
しかし、それとこれとは話が別で、時間がないことに変わりはなかった。
仕事をしなくてはいけないのである。
甘木がリネンを積み終わったワゴンに手をかけ、どう切り出したものか考えていると、加藤が慌てたように言った。
「あの、じゃ、すみません、最後にひとつだけ」
「なんでしょう」
「甘木さんが好きな人って、3人の加藤のうちのひとり、ですか」
「……」
甘木は息をのみ、目の前のスーツの加藤を見つめた。
なぜわかったのだろう。
スーツの加藤は、甘木が口から出任せを言っていると思えば思えたはずなのに、そうは思わなかったのだろう。甘木は本当のことを言っていると判断した。そしてそれは当たっている。
甘木の表情で答えがわかったのか、加藤はにこりと笑った。
「いえ、わかりました。お邪魔してすみませんでした」
「あの、ちょっと待って。いえ、そうなんですけど、あなたは……」
甘木の思い人、の、身内、なのだろうか。
突然そんなカンが働き、甘木はリネンルームを出て行こうとした加藤を引き留めた。
甘木の言葉に、出ていこうとした加藤は、ドアに開ける前に足を止めた。それから振り返ると、考えながら言葉を紡いだ。
「どんなやつです? そいつ」
「えっ。えーと、確かになんというのか、台風の目のような人で、接客に限らず、生きることに不器用な感じではあります」
スーツの加藤はうなずいた。
「だけど、ハデ好きで」
そこで、スーツの加藤は絵に描いたような「あれっ?」という顔をした。
甘木は、視線をスーツの加藤から外し、宙を見ながら話題に上っている人物のことを考えていたため、加藤のその表情に気づかず、話を続けた。
「いえ、本当にハデ好きなのかどうかは聞いたことがないので、わかりません。ただ、ハデな服が好きなのかなぁって思ったことがあって。あと、ハスキーボイスです。それで、ものすごくきれいな二重まぶたで」
目の前の加藤は、ものすごくきれいな一重まぶただった。
身内で顔が似ていないこともあるだろう、甘木はそう思いはしたものの、顔の印象があまりにかけ離れていることが、少しだけ気になっていた。
「それは……、すみません、俺の早とちりだったかも」
「あ、はあ。お捜しの加藤さんとは違いますか」
「うーん、たぶん。あれ……なんだろう、これ」
加藤はひとりブツブツとつぶやいた。
どうやら違っていたらしい。
甘木こそ「なんだろうこれは」と言いたい心境だったが、今、そんなことを言っている場合ではなかった。
加藤は、最終まとめのような感じでひときわ心を込めて謝ると、ドアを開けてリネンルームから歩き去った。
その加藤のうしろ姿を見ていて、甘木は気づいた。
歩き方だ。
歩き方が甘木の思い人に似ているのである。
それでスーツの加藤が部屋に入ってきたときに、どこかで見たような印象を受けたのだと気づいた。
「……」
しかし、それが何だというのか。
スーツの加藤は、甘木の思い人の特徴と、捜している自分の身内とは違うと言った。
身内ではないということだ。
ならば、なぜ歩き方が似ているのだろう。
甘木の思い人である加藤の下の名前を勝手に出すのはまずいような気がして、ずっと出さないままだった。
もし、目の前のスーツの加藤が、本当は、甘木の思い人・加藤の身内でも何でもなかったら? という疑念があったからだ。
それに、必要ならフロントでフルネームでの人捜しをするだろうと思ったこともあった。
「……」
謎だ。
なんだかよくわからない。
わからないが、仕事をしなければならない。
甘木はしばしぼんやりしたあと、気持ちを切り替えた。
壁の時計を見る。
時間はそれほど経ってはいない。
それでも待たせている。
急がないと。
甘木はワゴンを押して、加藤が少しだけ開けっぱなしにして出て行ったドアを大きく開くと、ワゴンとともに廊下に出た。廊下から身を乗り出し、リネンルームの電気を消す。
そして、それからリネンルームのドアを閉めた。
暗くなったリネンルームは、また静寂を取り戻した。
(おわり 14/30)