不思議なことが起こる町
不思議なことが起きる。
この町に引っ越してきてから、不思議なことが連続で起こる。
飯賀は工場で働いていた。
タッドリッケ・伊名井工場という工場で働き、派遣会社が用意した寮に入っている。
寮はアパートの1室で、同居人がいた。
特に仲がいいわけでもなく、かといって仲が悪いわけでもない、当たらず障らずの関係だった。お互いに対し興味を持たない同士が同じ部屋に住み、同じシフトで働いている、それだけのことだった。
同じ部屋と言っても、個室ではある。ひとり1部屋が割り当てられてはいたが、アパートにはふたつ部屋があったため、同居人と暮らすこととなった。これもまた、ただそれだけのことであった。
しかしそれは飯賀の不思議な事件とは関係がなかった。
ただ、飯賀は同居人に聞いてみた。
「この町では、こういう不思議なことがよく起きるのかな?」
そんな飯賀の問いかけに対し、同居人・
「いやあ、俺はそう言う目に遭ったことはないな」
とのことだった。
聞く相手がひとりでは足りないかと、工場でよく言葉を交わす
しかし、ことの成り行きを見ていたわけではない人間に、不思議な事件を説明するという(飯賀にとって)高いハードルがまずあった。
飯賀は説明があまりうまくなかった。その自覚もあった。
高いハードルが邪魔をして、まだ在戸には話していなかった。
在戸に説明するために、頭の中で今までの出来事を整理してみようと飯賀は考えた。
朝食を食べながら、もぐもぐ考える。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
ごはんに視線を落とす。
長いまつげが飯賀の頬に影を落とす。
ごはんがちょっとべっちゃりしている感じがする。
釜に書いてあった目印通りに水を入れたはずなのに。
あの目印通りに水を入れると、ちょっと多いのかな。
……。
食器を洗い、拭いて、食器収納用のカゴに入れる。
そこへ、回していた洗濯機がピーピーと洗濯終了の相図を出した。
洗濯物を干し、身支度を済ます。
いつも通りの支度を終えると、これまたいつも通り、家を出る10分前だった。
この時点でだいたい同居人・田振が起き、身支度を始める。
飯賀は、10分で準備できる素早さがうらやましくもあったが、あまり自分の特性を責めても仕方がないと思い直した。
いつもは出勤前、ぼんやりするだけの時間だったが、本日の飯賀はこの10分を使って在戸へどう説明するか考え始めた。
朝食時に考えようとしたが、食事に気を取られすぎて考えるのを忘れていたのを思い出したのである。
最初に不思議なことが起きたのは2か月前、飯賀が伊名井市に越してきて1週間ほど経ったころだった。
ある夜勤の日、飯賀が送迎バスの停留所に向かうために歩道を歩いていると、シャッター音が聞こえた。立ち止まって周りを見渡しても、辺りには誰もいない。
シャッター音は昼間でも聞こえたが、それは自分に向けられたものではない、とやり過ごすことができた。
しかし、伊名井市では夜になると人通りが少なくなる。誰に向けられたものなのか、どこから聞こえるのか、なぜこんなに頻繁に聞こえるのか、飯賀にはわからなかった。店舗など建物の中ではさすがに聞こえなかったが、外に出るとどこからともなくシャッター音が聞こえるのである。
シャッター音のように聞こえるというだけで、実際にシャッターの音なのかどうなのかはわからなかった。なんらかの怪奇現象なのかもしれない。
しかし、一度だけ、遠くから音の主を見た(ような気がした)。
飯賀が工場に向かう送迎バスに乗っていたときだった。
窓越しに、携帯をこちらに構えている女性の姿が見えた。
怪奇現象ではなかったのかと一瞬思った飯賀だったが、それにしては疑問が残る。
走っているバスにカメラを向けて、写真が撮れるものなのだろうか。
もしかしたら、いつものシャッター音の主とは違っているのかもしれない。
自分にスマホを向けているわけではないのかもしれない。
だが、もし想像があっているとしたら……、
……あっているとしても、飯賀はやはり自分が写真を撮られる理由はよくわからなかった。
ネットに上げられていたりするのだろうか。
そんなことを考え、自分の名でエゴサーチしても、それらしきものは見当たらない。
占いでそういう結果でも出たのだろうか。
工場勤務の男性の写真を撮ると吉、のような。
飯賀はそんなよくわからない推測をするしかなかった。
その不思議がひとつめ。
ふたつめは、コンビニでの不思議である。
飯賀が寮の近くにあるコンビニで買い物をしていると、女子高生らしき集団がこちらをじっと見ている。
たまに飯賀がチキンや肉まんを買うと、集団がざわめく。
このようなことが頻繁に起きるのだが、集団に注目され、ざわめかれるという「圧」を感じて、飯賀は彼女らに声を掛けることができないでいた。
タッドリッケ・伊名井工場では、2交替制の勤務形態をとっていた。
日勤と夜勤が交互に入れ替わるのである。
飯賀が仕事明けにコンビニに行く時間も、数日ごとに昼夜が入れ替わる。
飯賀がコンビニに行く時間は、夜勤明けはだいたい朝の8時過ぎ、日勤明けの時には夜の8時過ぎだった。
どちらの時間帯でも、制服を着た女子高生の集団がコンビニにいるのである。
飯賀を待ち構えているかのごとく、である。
朝はともかく、女子高生が夜ウロウロしていていいものなのかどうなのか、飯賀にはわからなかった。
不良少女集団なのだろうか。
不良少女の集団がなぜ自分に目をつけるのか。
オヤジ狩りなのだろうか、とも思ったが、特に狩られることなく今日まで来た。
だから、これもまた、飯賀には不思議な出来事に思えた。
その不思議がふたつめ。
そこまで考えたところで、時間が来た。
出勤時間だ。
工場までは送迎バスが出ているが、寮から送迎バスの停留所までは歩かねばならない。
同じシフトで働く同居人・田振と同時にアパートの部屋を出る。今日は自分がドアに鍵を掛ける番だった。特に話し合って決めたわけではないが、なんとなく交互に施錠する習慣になっていた。
バスの停留所まで歩き、そこで待っているとすぐにバスが来た。
運転手に朝の挨拶をし、バスに乗り込む。バスの始点近いこの停留所では、まだ車内は空いていた。
田振は、なぜか一番後ろに座るのが好きなようだった。
一番後ろの席に特に思い入れのない飯賀は、いつもいつも田振に合わせて後ろに座るのに飽きていた。田振とは離れ、車内の真ん中付近の席に座った。
次の停留所で在戸がバスに乗ってくる。
飯賀はひとり、考えをまとめようとした。
バスの窓から朝日が差し込み、飯賀の髪を照らす。
まぶしさに眉をしかめ、飯賀は目を伏せた。
今のところ、3つ不思議なことがある。
最後の不思議な事件は、どうやって説明したらいいのだろう。
寮であるアパートの部屋のドアノブに、お土産が掛かっていた。
これでは伝わりにくいのだろうか。
飯賀は考え直した。
あれを目にしたときに感じた衝撃を在戸に伝えるには、どう言えばいいのだろう。
アパートのドアノブに袋が引っ掛けられていた。
スーパーやコンビニなどでよく見かける、白いビニール袋である。
その袋には、また袋が入っていた。
今度は透明のビニール袋だ。
透明のビニール袋は、口を厳重に封印されていた。
どうやら2重になっているらしい。
その中には、汁が入っていた……。
この言い方で伝わるだろうか。
中身は普通の汁だった。
特に面白い話ではない。
きっとよくある話なのだろう。
飯賀はそう判断していた。
この一部始終を見ていた同居人・田振も、中身について驚いていたわけではなさそうだった。
しかし、あの袋を発見したとき、飯賀は衝撃を受けた。
なぜ衝撃を受けたのか今となってはよくわからないのだが、とにかく衝撃を受けた。
その衝撃を在戸に伝えるにはどう言えばいいのだろう。
普通の話を面白おかしく伝えるためには。
はじめはこの不思議な事件をどう思うか在戸に聞くつもりだった飯賀は、自分でも気づかぬうちに目的がずれはじめていた。
飯賀はふと思い出した。
在戸は「謎」が好きだった。
以前、在戸は、コンビニで「謎の〇〇」というタイトルの、怪奇現象ものなのか都市伝説ものなのか判然としない本を買ってきては休憩室で黙々と読んでいた。
「謎」だ。
「謎めいた汁物」ということにすれば、在戸は興味を引かれるのではないか。
事実、ビニール袋を発見した瞬間は中身が謎だった。
あまり「謎」を強調しすぎると、あの汁を作った人に失礼なのかもしれない。でも、説明のために、少しだけ「謎」という言葉を使わせてもらいたい。
飯賀の心の中で方針が定まった。
バスが徐々にスピードを落とし、停車した。
挨拶をしながら、作業服を着た面々がバスに乗り込んでくる。
その中でもとりわけ体格のいい男が飯賀の姿を目にとめ、近寄ってきた。
「おはようっす」
「おはよう、在戸」
在戸は飯賀の隣の席に腰を下ろした。
飯賀は話を始めるために、まず息を吸った。
(おわり 018/030)
☆☆☆☆☆☆☆
↓在戸の目線から見た謎汁事件です。
↓謎汁事件の犯人たちの目線から見た謎汁事件…なんですが、おそらく本人たちは謎汁事件なんて知らないのですよね…。事件になるとも思っていない、フェイク女子高生の集団の話。