スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

はしごの上から見た世界

「では、防災訓練を始めます。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「加藤さん、消防署の方たちは」
「正面入り口と、出火するつもりの部屋に別れて待機してもらっています」
「加藤さん、火をたくの? 発煙筒とか用意してないけど」
「いえ、そういう設定というだけで、火は使いません」
「加藤さん、もう館内放送していい?」
「いえ、非常用電源の試験も同時に行うので、電源が自家発電に切り替わってからでお願いします」

 

本日は、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の防災訓練の日である。

 

渡瀬は、イルズク第2棟の燃えさかる部屋から脱出する……という想定で、特に火の気のない部屋から避難ばしごをおろして降りる役目をすることになっていた。
イルズクには2階建ての建物しかなかったため、渡瀬が脱出するのも2階の部屋からである。
それでも渡瀬は緊張していた。

 

理由はふたつあった。
渡瀬は高いところが怖かった。

たとえ2階建ての低めの建物であっても、はしごで下りることに不安しかなかった。

 

もうひとつの理由は、自分のうっかりミスの多さを自覚していたからである。
はしごからウッカリ手を滑らせてしまいそうだ。
渡瀬はそんな不安におびえていたが、だからといって仕事を放棄するわけにも行かず、脱出のときを、ドキドキそわそわしながら待つしかなかった。

 

「渡瀬くん、部屋に移動してください」

 

加藤が、スタッフルームで気もそぞろになっていた渡瀬に声をかけた。

 

「は、はい」

 

気づくと周りにいたスタッフがほとんど自分の持ち場に散っている。
渡瀬は、ギクシャクと手足を動かし、脱出予定の部屋に向かった。

 

***

 

「や、やっと着いた……」

 

杯治(ハイジ)は、イルズクの正面入り口にあるロータリーにたどり着いて、ため息をついた。
杯治たち植矢高校の1年生たちは、学校の「オリエンテーション合宿」で、この宿泊施設「ログキャビン・イルズク」に宿泊していた。


今も集団行動中である。
防災訓練を見守るためにロータリーに列をなしてやってきたところだった。

 

昨日は、宿に到着したばかりだというのに、さっそく山歩きがおこなわれた。
この合宿に参加しているほぼ全員が、早くも筋肉痛になり始めていた。
おのおのの筋肉が、ちょっとした階段の上り下りなどで他人には聞こえぬ悲鳴を上げる中、杯治たちはようやっと目的地に着いた。

 

客のすべてが防災訓練に参加するわけではなかったが、杯治の高校は参加することにしたようだ。
参加といっても、ロータリーの隅に集まって、防災訓練をするイルズクのスタッフを見守るだけである。

イルズクの正面入り口前にあるロータリーには、杯治たち高校生だけでなく、自主的に防災訓練を見守ろう、という宿泊客が集まってきていた。

 

「杯治、おはよう」

 

その場でやることもなく、列の前後に並んでいるクラスメイトとたわいない言葉を交わし、そのあとは本格的にやることをなくしていた杯治に、声をかけてきた女性がいた。

 

「おはよう、叔母さん」

 

列のそばまで来ていた叔母に、杯治は挨拶を返した。
杯治の叔母は、イルズクに、地域のサークルの慰安旅行という名目で宿泊しているらしい。

 

「なんというか……、ハデですね」

 

杯治の叔母、不破充香(みちか)は、黒と白のゼブラ柄のスカーフを頭から顔にかけて巻き、黒縁のメガネをかけ、ふさふさした、カラフルなフェイクファーがついた真っ黒なコートを身につけていた。

 

「ああ、花の作業しようと思ってたところだからね。作業中は髪が邪魔にならないようスカーフを巻いているから」

 

叔母はそう言ったが、寒いのか、今もスカーフを外そうとはしない。防寒用も兼ねているのかもしれない。
しかし、スカーフとメガネは作業用だとしても、コートにつけられた、見る者の度肝を抜くような、目を射抜くかのようなファーの色の説明にはならない。
赤、黄、青、グレー、茶、ピンク、オレンジ。
原色だけではない、複数の色に染められたファーがコートのフチを彩っている。


叔母は単にハデ好きなのではないか。
杯治は、うっすらとそのことに気づいていたが、特に何も言わなかった。

 

「おや、叶太(かなた)がいる。おおい、おはよう、叶太」

 

叔母はロータリーに集まった、あまり多くない人混みの中から知っている人間を見つけたらしく、大きな声で呼びかけた。
周囲の視線が集まる。列の前後が少し距離を置く。
しかし杯治は、特に何も感じなかった。
こういう場面で、恥ずかしいと思う人間もいる、ということを知ってはいた。
自分は、羞恥に関する感受性が生まれつき死滅しているのかもしれない。
杯治は、なんとなくそんなことを思った。

 

「おはようございます、叔母さん。早いですね」

 

人混みから、スーツの上にコートを着た叶太が近寄ってきて、叔母に挨拶をした。
叶太は、杯治の兄である。会社の新人研修でイルズクに宿泊しているらしい。
スーツを着ているし、今は仕事中のはずだが、研修の合間の空き時間に防災訓練を見物しに来たのだろうか。
叶太は「見物」という、どことなく不謹慎な単語がしっくりくる不真面目さをまとっている、杯治は兄のことをそう評価していた。


叔母が叶太に返事をする。

 

「特に早くもないだろう。今から防災訓練だって言うから見守りに来たのさ。渡瀬がいるからね」
「あいつもこの訓練に参加してるってことですか」
「何をやるのかまでは知らないけど、参加はしているだろ、一応職員なんだから」

 

渡瀬は杯治の兄で、叶太の弟だった。
ただいま家を飛び出て、行方不明の真っただ中である。
その兄が、この訓練で見つけられるかもしれない。
杯治は、少しだけ緊張した。

 

渡瀬が家を出たのは6年前のことだった。
一番上の兄・叶太は当時すでに大学生だったが、杯治は小学生だった。
自分が生まれる前の家族を撮った動画などを見たことはあったが、自分が渡瀬を見つけたとしても、本人だとわかるだろうか。
杯治は渡瀬を見分ける自信がなかった。

 

本人の不安が反映されてか、まったく関係ないのか、本人にも自覚はなかったものの、杯治はいつしか、やや列から離れ、叔母や兄と寄り添うようにして立っていた。
もともと列はそれほどきっちりとまっすぐにはなっておらず、ぐだぐだと蛇行していた。杯治の立ち位置が多少変わったところで、注意する教師は誰もいなかった。

 

消火器がいくつか、ロータリーの中央に置かれた。
それに加え、消火器の的にするのであろう、カラーコーンが、少し離れたところに置かれる。
ロータリーには、消防車が停まっていた。その消防車の近くに、制服を着た消防士が数人、立っている。

 

あとで消火器を使う何かをするのかな、そう思いながら杯治がイルズクの建物に目を移すと、第2棟の2階の窓が開いた。
ほかの棟でも訓練が始まっているのかもしれなかったが、ロータリーの片隅から見えるのは第2棟の裏の窓だけだった。意外と近くに見える。
窓から顔をのぞかせたのは、杯治が以前にも見たことがある顔だった。

 

(あのときのイケメンの人だ)

 

昨日、ロビーで見かけた顔だ。
客が部屋の窓から顔を出した可能性もあるが、その男は直後に、部屋の中から外に向かって、避難ばしごを下ろした。
やはり、イルズクのスタッフなのだろう。

 

(どこかで見た気がするのは何だろう)

 

杯治は一瞬そう思い、叔母や叶太の顔を見たが、ふたりとも、特に何の反応もなく訓練を見守っている。
違うのか。
そもそも、渡瀬(にい)は、あれほどわかりやすいイケメンではなかった。
杯治はそう自分を納得させると視線を戻し、訓練を見守った。

 

***

 

「廊下で出火が起きました。避難してください」

 

館内放送が聞こえた。訓練はもう始まっている。
ドアを開けて廊下を見ると、「訓練です、火事です」と知らせて回る声が聞こえる。
上司の加藤だった。
加藤は打ち合わせ通り、そのまま渡瀬のいる部屋の中に入ってくると、窓を開け放った。

 

「渡瀬くん、はしごを下ろしてください」

 

加藤は、決められたセリフではない言葉を、渡瀬に言った。
実際に火災が起きたときにも、スタッフである加藤がいるのに客にはしごを下ろさせるのだろうか、と思わないでもなかったが、本日は訓練である。
職員が避難用のはしごの下ろし方を知っておくという意味もあるのだろう。

 

渡瀬は、窓の下の壁のそばに置かれている「避難ばしご」と書かれた箱の扉を開け、中からはしごを取り出した。
窓から顔を出し、下を見てから、調整済みのフックを窓枠に引っかけ、窓の外に下ろす。

あとははしごを下りるだけである。
それだけのことである。
窓から外、特に下を見てから、渡瀬は加藤に言った。

 

「寒いです」
「わかってます、私も寒い」
「絶対手を滑らせる、そんな予感がする」
「不吉なこと言わないでください。いいから、早く下りて」
「せめて手袋」
「ほんとに火災が起きたら手袋なんてしてる余裕ないから。コートだって取りに行けないから。いいから下りて」

 

手袋も、コートも身につけている間もなく避難しなければならないほど切羽詰まった火災からの避難だ、という設定を今さら知った渡瀬は、それ以上何も言わず、窓の枠を乗り越え、体を反転させながら、はしごに足を下ろした。

 

大丈夫だ。
これは訓練だ。
実際に火災は起きていない。
これほど緊張しているのは自分だけだ。
なぜなら、緊張する理由がないからだ。

 

そう自分に言い聞かせようとしても、渡瀬のはしごを握る手に、冷や汗がにじんだ。
片足を下ろす。
下を見たいが、見ることができない。
それほど厚着をしているわけではないが、自分の体に隠れて、足元が見えない。
上半身をはしごから離しすぎることを恐れて、下が見られない。

 

それでも渡瀬は、着実に一歩一歩、はしごを下りていった。

途中、はしごの次の段に伸ばした足が、ずるりと滑った。
慌てて、はしごをつかんだ腕で体を支える。
足の位置を、元に戻す。

 

なぜ。
なぜ冷や汗だらけの手ではなく、靴を履いている足が滑るのか。
気持ちを平静に保たなくては。
でなければ、また連鎖的にウッカリミスをしてしまいそうだ。

 

そう思った渡瀬は、いったん、辺りを見渡した。
はしごとその周辺しか見えていなかった渡瀬の目に、見慣れた低い山が映った。

すうう、はああ。

深呼吸をする。
山を見て気分を落ち着かせた渡瀬は、はしごに視線を戻そうとして、地面付近をチラリと見た。

 

「!?」

 

なんだ今のは。
気のせいだろうか。

 

もう一度、地面付近を見た。
具体的には、ロータリーの片隅に集まっている、訓練を見守る宿泊客たちのほうを見た。意外と近くに見える。

 

白と黒の、パキッとしたゼブラ柄のスカーフが最初に目に入った。
目を突きさすような強いコントラストのスカーフの主は、黒いメガネをかけ、世界中にある色を集めたようなファーがついたコートを着ていた。

 

目立つ。
ハデだ。
叔母だ。

 

叔母の隣にいるのは、顔を変える前の渡瀬に似た顔の男だった。
渡瀬の兄だ。

 

叔母の、兄とは反対側の隣にいるのは、弟だろうか。
以前の面影はあるが、あまりほかの兄弟に似ていない上に、しばらく見ないうちに背が伸びている。
叔母と兄のそばに立っていなければ弟には気づかなかったかもしれないが、どういう巡り合わせか、渡瀬は気づいてしまった。

 

「……」

 

渡瀬は、黙って視線をはしごに戻した。
なんだろうこれは。
家族旅行でもないはずなのに、なぜ家族、いや、親族が集合しているのか。

 

向こうは顔を変えている渡瀬には気づかないかもしれなかったが、こちらは気づいた。
なんだろうこれは。

 

渡瀬は、恐怖を忘れ、先ほどよりも正確に、そして素早く、はしごを下りた。
それよりも気がかりなことができた。
高い所を恐れている心の余裕はなくなっていた。

 

なんだろうこれは。

なんでみんないるの?

 

(おわり 13/30)