スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

朝のイルズク散歩(陸上コース~テニスコート)

光がまぶしい。
今、すでに雪はやんでいたが、昨夜のうちに、新たに雪が降ったらしい。
朝から庭のあちこちで、雪かきが行われていた。

 

その様子を見ながら、志乃枝は早朝の散歩を続けた。
後ろからついてくる男がいる。
年齢は志乃枝と同じくらい、つまり50代中盤くらい。
服装は、スーツの上にベージュのコートを着ていた。

 

「いつまでついてくるんです、あなた」
「いつまでって……、夫婦なのにそれはないだろう」
「夫婦だからといって、一緒に散歩しなきゃいけないわけじゃないでしょう。私は用があるんです」
「何だ、用って」
「何だっていいでしょう」

「良くない。そんなにめかし込んでどこに行くつもりだ」

 

志乃枝は、赤い、大輪の花模様が描かれた、足首まであろうかというマキシ丈のワンピースの上に黒いロングコートを羽織っていた。


「めかし込むも何も、旅行にお気に入りのワンピースを持って来たってだけのことです。持ってきたどの服も似たようなものよ。私がどういう格好で朝の散歩をしようが別にかまわないでしょう、放っといて」

 

志乃枝はプリプリと怒ったまま、スピードを緩めずに散歩を続けた。

 

ここは宿泊施設イルズクの庭である。
イルズクは背の低い建物が3つと工房と体育館がひとつずつ、そして広大な庭から成り立っていた。
庭には、陸上コースやテニスコートなどがあった。

 

志乃枝は、雪かき中の陸上のコースを、雪かきの邪魔にならないよう横切ると、相変わらずスピードを緩めずに歩き続けた。
志乃枝の後ろを歩く男は、スピードを緩めない志乃枝に置いて行かれそうになりながら、また追いつき、また引き離され、を先ほどから繰り返していた。

 

「なんでそんなに怒ってるんだ、志乃枝」
「あなたがここにいるからです」

 

そう言われた男は、傷ついたような表情を見せ、追いかけるスピードを落とした。
志乃枝は、それを機に、男と距離を広げるために、さらに歩くスピードを上げた。

 

志乃枝が履いている靴は、雪でも歩ける滑り止めのついた、ショート丈のブーツだった。靴底が複雑な形をしている。
一方、男のほうは滑り止めのついていない革靴だった。
つるりと滑りそうになって、慌てて体勢を立て直す。

男のそんな様子をチラリと見た志乃枝は、ややスピードを落とした。

 

「足下に気をつけて。転ばれても困ります」
「ああ、わかってる。……俺が心配なのか」
「あなたが入院でもしたら、旅行を途中で切り上げて私も付き添わなきゃいけないでしょう」

 

志乃枝は、やっと、「常識的」と言えるスピードまで、歩く速度を落とした。

 

「君の旅行の邪魔をするつもりはなかったんだ、ただ夫婦水入らずの旅行気分を味わえたらなと思って」
「それならそれで夫婦水入らずの旅行をすればいいじゃあありませんか、私とふたりで。私が言いたいのは、なぜついでにやろうとするのかということです!」

 

志乃枝はぴしりと言った。
あまりにもぴしりと言われ、少しひるんだ夫に対し、志乃枝は言葉を続けた。

 

「私は地域のサークルの旅行で、あなたは会社の新人研修でここに泊まりに来てるんです。どこに夫婦が水入らずで過ごす余白が残っているんですか。夫婦水入らずは別枠でやったほうがいいじゃありませんか」
「いや、枠とかで区切らなくともいいじゃないか」
「区切る区切らないではなく、ついでにやろうとしないでと言っているんです」
「えええ……。いや、うちの社の新人研修は、数年前、新人社員だったような先輩社員が準備する伝統だから、新人時代なんてもはや『いにしえの時代』と呼ばれてる俺がやることはあまりないし、自由になるというかヒマな時間が結構長くて、だから」
「だから妻の尻を追いかけているのですか、今」
「……」

 

志乃枝の夫は黙った。

 

「まあ、そうなんだけど」

 

そして認めた。

 

「情けない」

 

吐き捨てるように志乃枝が言った。

 

「とにかく、これじゃせっかく旅行に来たというのに家と同じじゃありませんか。なにが悲しくて家の中にいるかのようにあなたにつきまとわれなきゃならないんです」
「つきまとうって……、つきまとうとは何だ、つきまとうとは。夫に向かってその口の利き方は何だ」
「はいはい、失礼いたしました! 夫ですからね! あなたは偉いですからね!!」

 

周囲の耳木兎(ミミズク) 山にこだまするほどの、腹からの発声で、志乃枝は夫を持ち上げた。
皮肉であると、伝わるように。

 

「朝っぱらから大きな声を出すな、家とは違うだろう。同じ部屋に寝起きしてる訳じゃないんだから」
「これを機に、家も寝起きも別にしたい」
「こんなところで、ついでに願望を言わないように」

 

ため息をつくと、志乃枝の夫は足を止めた。
地面が凍っている。
改めて見ずともずっと道は凍っていたが、改めて見ることで、「ああ、やっぱり凍っているな」という確認ができた。特に意味のない確認だ。
顔を上げると、普通の歩幅で歩く志乃枝との距離がまた広がっていた。

 

志乃枝は、陸上コースを出て、テニスコートに差しかかっていた。

 

「テニスができるのね、ここ」

 

そう言うと、なぜかフェンスを開けて、テニスコートに入って行こうとした。

 

「おい、どこを歩こうってんだ、雪かきの邪魔になるだろう」
「お邪魔はしません」

 

志乃枝はさらに歩を進め、そこで雪かきをしていた青年に挨拶をした。

 

「おはようございます、渡瀬さん」
「あ、おはようございます」

 

それから、二言三言、言葉を交わした。
夫はそれをフェンスの入り口付近から見て、ふてくされた表情を浮かべていた。

 

青年との話が終わったのか、志乃枝は夫のほうへ戻ってきた。

 

「ロビーで加藤さんに昨日の夜のお話を伺って、そのときに渡瀬さんがお手伝いしてくれたと教えていただいたんです。だから、渡瀬さんにお礼を言わなければと思って。加藤さんに、『渡瀬さんはたぶん陸上コースにいる』と伺ったんですけど、実際にいらしたのはテニスコートでしたね」
「ああそう」

 

経緯がまったく理解できていないため、妻の言葉を半分も理解できていないことを隠そうともせず、志乃枝の夫は返事をした。
これに関しては、志乃枝は特に夫を責めなかった。
わかりにくい説明をしている自覚があったからだ。
これまでの経緯を説明していないのは自分でもあり、夫ばかりの責任でもない。

そのことは志乃枝にもわかってはいた。

 

「では、戻りますか」
「おい、もうちょっと俺と散歩したっていいだろう」
「あなた酔っ払ってるんですか? このクソ寒い中、誰が好き好んで長時間の散歩をしますか。私は用があったからここに来たんです。最初に言ったでしょ」
「酔っ払いとは何だ、酔っ払いとは。俺はこのためにわざわざスーツに着替えたんだぞ」
「はいはい、スーツをひとりで着られて偉いですね」

 

志乃枝はそう言うと、夫のほうを見もせず、フェンスから出て宿に戻ろうとした。
志乃枝の言葉にカチンときた夫は、その志乃枝の腕を捕まえ、自分のほうを向かせようとした。

 

「あっ」

 

思いもしないタイミングで腕を後ろから引かれ、志乃枝は体勢を崩しかけた。
後ろに倒れそうになる。

しかし、そこで闘志に火がついた。

 

がん!

 

地面に激しく打ち付けられた靴が、大きな音を立てた。
志乃枝は何か考えるよりも早く、前に出していた足を後ろに引き、凍った地面の上で踏ん張ったのだった。
複雑な形の靴底で、凍った地面ごと踏み抜く勢いだった。

倒れそうになりながらも倒れなかった志乃枝は、バランスを崩した原因となった夫の腕を振りほどこうとした。

 

「えっ」

 

しかし、振りほどく勢いが、自分で思ったよりも強かった。
すでに火がついていた闘志が、腕の勢いを強めていたのかもしれなかった。
今度は、志乃枝の腕を取っていた夫が体勢を崩した。

 

――転ぶ!
――しかも後ろ向きに!

 

夫がそんなことを考えて自分の後頭部の心配をしているときには、すでに志乃枝は動き始めていた。

体を低くし、夫の体を抱きかかえるように、支えるように、倒れ込む方向をコントロールした。

 

ずばっしゃあん!

 

空が見える。
青空だ。
昨夜は雪が降っていたのに。

 

夫が雪に包まれながらそんなことを思っていると、志乃枝の怒声が聞こえた。
自分の背後、下からだ。

 

「ちょっと、重い! あなた、ほんとにいい加減にしなさいよ!」

 

夫が我に返って体を起こすと、志乃枝が雪山に埋もれていた。
とっさに夫の背後に回り込み、まだできたばかりで柔らかい雪山……、雪山というよりも、ただ雪をふわりと重ねたもの、そこに突っ込むように、倒れる方向を操ったのだった。

 

「おまえの身のこなしはいったい何なんだ……。どこかのエージェントなのか」

 

慌てて立ち上がり、志乃枝が起き上がろうとするのに手を貸しながら、夫は言った。

 

「あなたね、何を言ってるの。私が殺し屋に見えるって言うんですか」

 

夫に助け起こされながら、志乃枝はプリプリと怒った。
夫の言う「エージェント」という言葉が、「スパイ映画に出てくるような、華麗なアクションを繰り広げるような人間」を指していることは、言わずともわかった。
だからといって殺し屋とは限らなかったが、志乃枝は殺し屋を真っ先に連想したのだった。
夫は特にそれを訂正せず、むしろ志乃枝のその発言に乗っかった。

面白がっているらしい。

 

「いや、見える、なんかハデだし。ベテランの殺し屋に見える」

 

そんな夫の心ない言葉を黙って聞き流し、志乃枝はコートについた雪を払った。
そこで何かに気づくと、突然、今まで自分が倒れていた雪山の前にしゃがみ込んだ。
志乃枝は何かを拾った。

 

志乃枝の様子に気づき、何を拾ったのか見ようと近づいた夫に、志乃枝は自分が今拾ったものをこれ見よがしに見せつけた。

 

「ミカン?」

 

雪山の中にミカンが入っていたらしい。
志乃枝はミカンを手に、なぜか勝ち誇ったような笑みを見せた。
黙って皮を剥くと、その場でミカンを食べ始めたのだった。

 

シャクシャク、シャクシャク。

 

ミカンは凍っていたのか、志乃枝の咀嚼とともに軽やかな音を立てた。

 

「お、おい。大丈夫なのかそれ、洗ったりしなくて。というか、それ誰かが隠しておいたものじゃないのか……」

 

そんな夫の声もむなしく、志乃枝はミカンを食べ終わった。
ひとつ食べ終わると、その皮を持ったまま、次のミカンに手を伸ばす。
雪山にはひとつだけでなく、複数のミカンが隠されていた。
志乃枝が雪山から発見して食べたミカン、その数、4つ

 

志乃枝は、食べ終わった4枚のミカンの皮を、自らのコートのポケットから取り出したティッシュに包むと、それをまたポケットに入れ直した。

 

「もういいでしょ、ケンカの続きは家に帰ってからやりましょう」

 

謎のミカンを食べ終えた志乃枝は、満足したのかそう言うと、くるりときびすを返して、宿に戻ろうとする。
どんどん距離が離れていく志乃枝のうしろ姿に、夫は呼びかけた。

 

「おーい」

 

志乃枝は、その声が聞こえないかのように歩き続ける。

 

「……ありがとう」

 

ぴたり。

かなり距離が離れていたにもかかわらず、声が聞こえたのか、志乃枝は立ち止まって夫を振り返った。
そして夫のほうを見つめたまま待った。

 

待たれていることに気づいた夫は、慌てて志乃枝に駆け寄ろうとして、地面が凍っていることを思い出し、慎重に歩みを進めた。

 

志乃枝のそばまで近寄ると、夫は腕を差し出した。
腕ぐらい組みたくなったのではないか、志乃枝の気持ちをそう想像してのことである。
しかし志乃枝は夫の腕をバシリと叩いた。

 

「腕なんか組んで、また転んだらどうするのよ。バカね」
「そうか」

 

また外したのか。
夫は少し悔しくなり、余計なことを言ってみたい気持ちに駆られた。

 

「雪の季節が終わったら、また来よう。今度はテニスをしに」
「え」
「テニス、したいんだろ?」
「いえ、別に」

 

志乃枝は真顔でそう答えた。
どうやら本格的に外したらしい。
夫は、もっと志乃枝の戸惑った顔が見たくなった。
さらに余計なことを言おうとして、何を言えば相手が戸惑うのか考えているうちに、当の志乃枝が夫の方を向いて言った。

 

「テニスはやったことがないし、やりたいとも思っていなかったんだけど……、そうね、また来るというのはいいアイデアね。今度は本当に夫婦水入らずでね」

 

戸惑う志乃枝の顔が見たくて策を練っていた夫は、自分が戸惑う顔をすることになった。

 

「どうしたんだ、急に改心したのか」
「ちょっと……、どういう意味ですか。人を悪役のように。私は悪役じゃありません。悪の親玉は、あなたよ」

 

それからも立て板に水とばかりに、あのときあなたはああだった、このときもあなたはこうだった、というふたりの思い出話をする志乃枝の声を心地よく聞きながら、夫は少し先の地面を見つめて歩いた。

 

それから宿に戻るまで、ふたりは肩を並べて歩き続けた。

 

(おわり 12/30)