ボリボリマン
目が覚めた。
派遣会社から支給された布団。
おそらく何人もの派遣社員に使い回されているであろう薄い薄い、春の宵に舞う桜の花びら……のような儚さを感じさせる布団である。
使い回されているというのは家串の想像だ。実際にほかの人間が使っていたかどうかは知らない。布団を含む寝具からは、新品のような匂いがした。
はじめは、よそのうちに泊まっているような気分だった。今でも同じだ。
布団が自分の物でない、というのはよそ者気分を感じさせるものなのだな、と家串は思った。
実際は、布団というよりもシーツや枕カバーの匂いがそう感じさせるのだろう、とも。
そんなふうに、家串が布団を含む寝具一般への思い入れを再確認していると、ガシャガシャ、もしくはシャラシャラ、とでもいうような音が聞こえてきた。
(ビニールの音だ)
寝床の中で、目を閉じたまま家串はそう断じた。
隣の部屋から聞こえてくる音だった。
家串はタッドリッケ・伊名井工場という工場で働いていた。そこには、いくつかの派遣会社が入っていた。
家串が今いる部屋は、派遣会社が用意した寮だった。寮らしい寮ではなく、派遣会社がアパートの1室を借り上げたものである。間取りは場合によって様々で、家串が住むアパートは2DKだった。2部屋なのでふたりの人間が暮らしている。
実際にワンルームのアパートで、「個室」ではなくいわゆる「ひとり暮らし」をする者もいた。それも派遣会社が用意したものではある。大事なのはタイミングだった。
空き部屋がなければそこに入ることはできない。
当初はひとり部屋を希望していた家串ではあったが、部屋が空くタイミングが合わず、ふたり部屋になった。しかし、同室の男がそれほど不快ではなかったため、今では特に不満もない。
家串は、これまで自分が人間嫌いだと思い込んでいた。だが、自分に干渉せずに放っておいてくれる者であれば、特に他人に不満を感じずに暮らせるのだということを、ここに来て初めて発見した。
家串の「同室」、真の意味で「隣の部屋」に住む者は
見た目が派手である。髪の色をなにやら工夫しているらしい。色だけでなく、唐突にチリチリになったり、ゆるふわになったりする。髪に金をかけるということ自体が家串には理解できなかったが、特に不快ではなかったため何も言わなかった。小折には似合っていると思っていた。
服装も、髪の色と合うような派手めの物が多い。派手か真っ黒かの2択である。これも似合っていたために特に何も言う必要は感じなかった。
似合っていなかったらその点を指摘していたのか、それは自分が一番嫌な干渉ではないか……と家串は自分でも思ったが、その通りだった。自分が人一倍、他人に口やかましいためなのか、人から口やかましく言われるのが嫌なのである。
小折は見た目は派手だが中身は自分と違い、素直な青年だと家串は感じていた。
その点も家串が小折を気に入っている理由ではあったが、面と向かって言う気はない。
その小折の部屋からの音である。
ビニールのようなものの音がしたのち、別の音に変わった。
「……」
家串は迷った。これは何の音なのだろう。
ガギンガギン、ゴリンゴリン、グガングガン……
言葉にできない。
日本語の擬音というのは実に多彩だと誰かが言っていた気がするが、その多彩な擬音語でもぴったりくる音がない。
(何だろう、何かを砕いているかのような……)
そこまで考えて、自分の考えに納得した。
そうだ、何かを砕く音だ。
既存の擬音語に当てはめるとボキボキ、であろうか。あるいはゴキゴキ。
家串は目を開け、布団から上半身を起こした。
今日は家串の休日である。シフトが違うため、小折は勤務日のはずだ。
時間帯から言って、仕事から今帰ってきたばかりのはずだった。
休日は、日勤と夜勤が切り替わる調整日でもあるため、家串は睡眠をとれるだけ取っていた。
家串はできるだけ寝るタイプだったが、小折は逆だった。寝ずに睡眠の時間帯を調整するタイプだった。
家串は小折とは逆に睡眠時間が長いため、実際に小折がいつ寝ているのか把握できてはいなかったが、小折はほとんど眠っていないように見えるわりに、いつ見ても機嫌がそこそこ良い(ように見える)。睡眠が短いことによる体調不良に陥りにくいらしい。
どちらがいいとか悪いとかではなく、生まれついての睡眠のタイプによるものだろう。
家串は小折を見ていて、そう感じていた。
家串はまだぼんやりしている頭を揺らしながら立ち上がると、洗面用具の入ったポーチを持って部屋を出た。
洗面所で顔を洗う。
歯磨きを軽くして、口をゆすぐ。
ヒゲを剃ろうとして、部屋にヒゲ剃りを置いてきたことに気づいた。ポーチにヒゲそりが入っていない。
家串は共有スペースに物を置かない派だったが、小折は違っていた。
洗面所には小折の歯磨きセット、ヒゲ剃り、洗顔フォーム、化粧水、髪の調子を整えるためのジェルだかクリームだかたくさんの何か、それらさまざまな物が置いてあった。
このヒゲ剃りを使ったら、小折は怒るだろうか。
寝過ぎてむくんだ顔で洗面所の鏡に映りながら逡巡する。
いや。
家串は、寝癖のついた髪を揺らしながら、誰も見ていないのに首を横に振る。
それ以前に、気持ち悪いだろう、勝手にヒゲ剃りを使われたら。
俺だったら気持ち悪いと思うだろうな、きっと。
家串はそう考え、うなずいた。うなずいた拍子にまた寝癖が揺れる。
家串は小折を不快に思ったことはなかった。
そのせいなのか、小折に不快に思われることをしたいとも思わなかった。
部屋にヒゲ剃りを取りに戻ろう。
そう考えて、寝過ぎてフラフラする体の向きを変える。
何かを砕くような音は、いまだに小折の部屋から聞こえ続けている。
何の音なのだろう。
そう思いながら、小折の部屋の前の廊下を通って自室に戻ろうとした。
その途中で、家串は気づいた。
何かを砕いているわけではないのか?
音がくぐもぐっている。
言うなれば……、
言うなれば、咀嚼音のような。
何かを食べている音なのかもしれない。
家串たちが住む寮を提供しているのは派遣会社で、生活に必要な最低限の物が備え付けられていたが、キッチンとそこにつながっているダイニングには家具が置かれていなかった。
テーブルも何もないため、本来、共有スペースを活用する小折であっても、キッチンやダイニングでは物を食べない。
自室であれば、派遣会社が用意したコタツがある。板の間にテーブルなしで食事するよりも、まだ自室で食べたほうがマシだった。
だから部屋から咀嚼音がするのは不自然ではない。
問題は音の大きさだった。
そして、音の種類。
何を食べているのだろう。
硬い物を砕くような音だけが今も小折の部屋を飛び出し、ダイニングやキッチン、洗面所などアパートの部屋の中のあちこちにまで響いている。
アゴにまばらに生えたひげを指でジョリジョリ触りながら、家串は小折の部屋の前で立ち尽くしていた。
あまりにも小折の部屋から聞こえてくる音が異様で、素通りできなかったのである。
自分のアゴに長く触れていたせいなのだろうか。
なんとなく家串は、骨を連想した。
神経質な性格の家串だったが、アゴはおおらかな曲線を描き、しっかり頑丈にできていた。骨太なアゴ、そのおかげなのか、顔から受ける印象から神経質さが差し引かれるらしい。家串が自分で気に入っている顔のパーツのひとつだった。
骨を食べているのではないか。
そう考えたところで、家串は薄気味悪いような、ぞっとするような気持ちに襲われた。
何にぞっとしているのか自分でもわからない。
小折が骨をかみ砕いているところになのか。
それでも小折を不快に感じない自分になのか。
なぜそれでぞっとするのか。
家串は深く考えるのをやめようと思った。
小折が何を食そうがかまわない。そういうことにしておこう。
そう思った家串が、小折の部屋の前から立ち去ろうとしたとき、部屋の向こうで音が動いた。
ボキボキ、何かを食べている音ならボリボリなのだろうか、その音が移動している。
家串のいる廊下に近寄ってきている。
ボリ。
ボリボリ。
ボリ、ボリボリ……。
だんだん大きくなる音に、逃げ出したいような、正体を見たいような、なんだかわくわくするような、やっぱり逃げ出したいような気持ちに駆られ、家串は音から逃げようとした。
俺は、知りたくない。
小折が何を食べているのか。
それがわかってしまったら。
小折がもし本当に骨を食べているのなら。
そしてそれが動物の骨でなかったら。
この生活が終わりを迎えるのだろうか。
動物と人間を分けて考えるのは動物愛護の観点からは失格なのかもしれない。
だが、それでも、動物の骨を食べているのと、人間の骨を食べているのではまったく意味が違う。家串はそう思った。
だから知りたくない。
この生活を手放したくない。
別の同居人とうまくやれる気がしない。
いや、そうではない、俺は単に小折のことを……、
そこまで考えたとき、ふすまが開いた。
「のわっ。家串、何やってんの」
小折が、口をもぐもぐボリボリさせながら言った。
「お、俺は」
なぜかひとり感極まってしまった家串は、涙目で小折に訴えた。
「俺は小折が同居人でよかったって思ってる!」
「お、おう」
唐突に、出会い頭に涙目でそんなことを言う同居人をひととおりじろじろ見たあと、小折は口の中にあった物をゴクリと飲み込んで言った。
「つうか、俺のほうが年上なんだけど。7コも上なんだけど。なんでいつも呼び捨てなの家串」
「年とか関係ない!」
「それ年下が言うことなのか……。いいけどさ。あー喉渇いた」
キッチンの片隅に置かれた、寮備え付けの冷蔵庫に向かって小折は廊下を歩いて行く。
骨を食べるのに飲み物が必要なのか。
家串はそんなことを考え、落ち着かない気分になり、またもやヒゲをひととおりジョリジョリ言わせたあと、部屋に戻ろうとした。
黙って戻るのも何かと思い、なにげないふりを装って聞いてみた。
「な、何か食べてた?」
「うん、まあ。腹減ったんだけど外で食うのも金かかるしね。つうか、こないだちょっと変わった手紙が来てさ」
「手紙……今どき?」
差出人は誰なのか。
寮の住所を知らせるほど仲のいい誰かなのか。
それはいったい、小折にとってどういった存在なのか。
家串は、そういうことを問い詰めたくなった自分に驚いた。
「それがまた難しい手紙で……、マジでありえねえ」
冷蔵庫からペットボトルを取り出して振り向いた小折の表情が、思ったよりも真剣なものだったことに驚き、家串は立ち尽くした。
「そ……、そんなに嫌な手紙だったのか?」
なぜか自分が拒絶されたかのように感じ、自分の何かが傷ついたのを感じながら、ギクシャクと家串は尋ねた。
「いやぁ、普通の手紙ならいいんだけど。暗号みたいな手紙でさ」
「暗号」
暗号を使うほど仲のいい存在。
なぜか家串の頭の中でそう変換された。
「で、いろいろあって、おかきを買うことになった」
「えっ」
いろいろ、はしょられた気がする。
ずいぶんと話が飛んだ気がする。
家串は混乱した。
「手紙とおかきがどう関係してんだよ」
「ああ、手紙の差出人はさ、中学のとき、部活で一緒だったやつなんだけど。今は製菓会社に勤めてるらしくて」
そこで冷蔵庫から取り出したペットボトルの蓋を開け、ひとくち飲んで小折は言った。
「営業やってるらしいんだけど、営業って何するんだ? 商品の売り込みとかすんの?」
「さあ……、俺も知らない」
「手紙で自社製品アピールされちゃってさあ。なんか……、保険とかだったら聞くけどさ、知り合いに入ってくれって頼むとか。まあ、なんやかやあって、後輩の会社のおかきを通販で買うことになってさ」
「そ」
それはやはり、手紙の主が小折と個人的につながりを持ちたかったからでは。
そう言いかけて、家串は自粛した。なんだか今日の自分はテンションがおかしい。
そのことに気づいたからである。きっと寝過ぎたせいだ。
「でまあ、せっかくだからキロ買いしちゃってさ」
「おかきをか……」
「そう。通販でおかきを。まあ、うまいからいいけどさ。だけどもさ、うまいんだけど硬いのよ。アゴ痛くなるくらい硬いのよ。ほんとアイツ、バカなんじゃないのかな」
「営業だったら、おかき作ってんのそいつじゃないでしょ……」
「まあそうだけどさあ。売れないの硬過ぎなせいだと思うけど、日本一硬いおかきとして売り出したほうがまだマシじゃねえかな、不意打ちで硬いおかき食わされるより」
ぶつくさと文句を言いながらペットボトルをあおり、そのあと小折は言った。
「あ、家串、アゴ丈夫そうだな。おかき食う? 硬いけど」
「お、え、うん」
家串はガタピシギクシャクと堅苦しく動きながら、答えた。
そして当のおかきを分けてもらいに小折の部屋に入ろうとして、やっと気づいた。
音の原因は硬いおかきだったのか。
硬いおかきが音を立てていた。
小折の部屋に入るのになぜか緊張し始めた自分の気を紛らわすかのように、家串は繰り返しそう唱えた。
骨じゃなかった。
おかきだった。
家串は、小折の部屋の隅で山積みになった大量の袋詰めのおかきを目にして、大爆笑した。涙が出るほど笑った。
「笑いすぎでしょ」
小折が言う。
「お、多すぎ。どんだけ買ってんだよ」
家串は目じりに溜まった涙を拭きながら言った。
家串が、小折の部屋で試しに食べてみたおかきはやはり硬かった。
ゴキンゴキン、ガキンガキン口の中で大音量の音を立ててかみ砕く。
「大丈夫そうか?」
心配そうに聞く小折に、家串は自信たっぷりに言った。
「残りは俺に任せろ」
おかきの料金を払う、いやもう食べてくれるだけでいいからお金はいらない、などと不毛なやりとりをひととおりしたのち、話はついた。
家串はボリボリマン2号となったのである。
家串もまた、部屋で大量の、美味だが硬いおかきを食す。
シフトが違うので、どちらかがいないときはどちらかが寮にいる。
つまり、このアパートでは、どの時間帯でもボリボリ音がしている。
ボリボリマンはふたりいる。
(おわり 021/030)
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↓ボリボリマンが誕生するまでの話はこちら。「難解な手紙」を突然受け取って困惑する小折さん。
↓ボリボリメンは特にモメませんでしたが、モメる同居人たちがモメごと回避する話はこちら。