スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

春のカミナリ

窓の外がビカビカと光るとほぼ同時に、すさまじい雷鳴がとどろいた。
灯りが消える。
数秒ののち、照明がついた。非常灯だ。
停電した。
非常用電源に切り替わったのだ。

 

昼間にもかかわらず、雷のせいなのか、外が暗い。
その影響で屋内も暗かったが、非常灯の明かりが届く範囲は明るく照らされていた。

 

渡瀬は、トイレにいた。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」第2棟1階の、従業員用トイレである。
天井にある、非常灯がひとつ、トイレ内を照らしていた。
隅のほうはやや暗い。が、何も見えないほどの闇ではない。


渡瀬が用を足し、ウォシュレットを使い、温水を止めようと、壁リモコンのスイッチを押そうとしたところで、停電が起きた。

 

イルズクでは、非常用電源は、主に避難目的に使われる。
非常灯や、誘導灯、消火栓の非常電源などである。
それ以外の電化製品は動かない。
動力源を失ったままである。
トイレのウォシュレットも、動かない電化製品のうちのひとつだった。

 

渡瀬は、ふだんはウッカリしていたが、緊急時に強かった。
ウッカリ者にとっては、だいたいいつもが緊急時なので、停電したくらいでは、いつもより慌てる理由がなかったのだ。

 

雷が送電線に直撃でもしたんだろうか。
そんなことを思いながら、渡瀬はトイレットペーパーを操って思う存分拭き、ふたつの種類の「パンツ」を上げ、水を流そうとした。

そこで、リモコンが動かないことを思い出した。
正確には、リモコンは電池式なので、動かないのはリモコンではなく、便座のあれこれのほうだ。

 

一瞬考えてから、渡瀬はしゃがみ込み、便器の斜め右奥をのぞきこんだ。
確か、便器の奥に手動で水を流すためのレバーがあったはずだ。
思った通り、便器の右奥のくぼみにレバーはあった。
ゆっくりと引く。
薄暗い中、手動で水を流す。

 

そこでもうひとつ思い出した。
ウォシュレットのスイッチが入ったままだった。
このまま電力が復旧したときに、いきなり温水が噴き出すのだろうか。
渡瀬は、立ったまま便座を見つめた。
どうしようかな、と考えながら。

 

「今、水を流しました?」

 

ビクリ
隣の個室からだろうか、渡瀬がいる個室に向けて呼びかける声が聞こえた。
一瞬、体を震わせたのち、渡瀬は、隣の個室とのあいだを隔てている壁のほうを見た。
薄暗闇の中、壁が見えるだけだったが、渡瀬はそちらを向いて声をかけた。

 

「はい。流し方ですか?」
「そう、そうです。水流すの、どうやるんですか?」
「便器の後ろについてるレバーを引くんです」
「便器。立ち上がらないと無理?」
「たぶん。えっと、去年、便座を総入れ替えしたときに説明されたと思うけど、ゆっくりと引いて、水が出てきたら、よきところで離すんです」
「あ、はい。あの、俺、去年はここにいませんでした。というか従業員ではありません」
「えっ、あ、そうでしたか、すみませ……ん?」

 

確かここは従業員用トイレではなかったか。
そう思った渡瀬だったが、客が致し方なく従業員用トイレを使う羽目に陥ったのかもしれない、と思い直した。
その途中で停電に見舞われたのかもしれない。

 

隣の個室から、あちこちにぶつかるような音がしたのちにトイレットペーパーをカラカラ巻き取る音が聞こえ、なにやらもそもそした音が聞こえたのちに、またあちこちに体をぶつけているような物音が聞こえた。
それから、水が流れる音がする。

 

無事に流れた水の音を聞き、渡瀬はほっとした。
それと同時に、あちこちに体をぶつけるような音はいったい何だろう、という疑問が湧いた。この個室が狭すぎるのだろうか。

 

個室の寸法は、だいたい横幅80センチ×奥行き140センチほどである。
多目的用の個室は、いちおうあるにはあり、ふたつの個室のさらに奥に設けられていた。
だが隣の個室は、渡瀬が今いる個室と同じ大きさのはずだ。
この個室が狭いということは、なんと言うのか、巨体、なのだろうか。
それとも、単に個室内で暴れているだけなのだろうか。

 

「安心してください」

 

隣の個室から声が聞こえた。

 

「私はパニックにはなっていません」

 

なんとも返事のしようがなく、渡瀬は自分の感想をそのまま素直に伝えた。

 

「そうですか」

 

それ以外に何を言えというのだろう。

 

渡瀬は、個室から出ようとして、スイッチが入りっぱなしになっている可能性があるウォシュレットのことを思い出した。
一瞬の迷いののち、渡瀬はウォシュレットのコンセントを抜いておくことにした。
電力が復旧したあと、もう一度差しに戻って来なければならないが、復旧とともに温水がほとばしる(かもしれない)と遠くから恐れているよりは、精神衛生上良いだろうとの判断をしたのだった。

 

「ここら辺は、春に雷って多いんですかね」

 

個室から出て手を洗っていると、後ろのほうから声が聞こえた。
個室からだ。先ほどの隣人は、まだ個室にいるらしい。

 

「そうかもしれません。そういえば、冬とか春先によく雷が鳴ったりしてますね」

 

渡瀬は、手を洗いながら答えた。
鏡越しに個室の扉を見るが、個室の主が出てくる気配はない。
出てくるのは声のみだった。

 

「春雷ってやつですかね。春を告げる雷。冬のあいだ地面の中にいた虫が、雷にビックリして出てくる」
「ああ、そうなんですかね」

 

渡瀬は、特に雷に詳しいわけではなかったので、曖昧な返事をするほかない。

トイレにある窓から、空が光るのが見えた。

 

「今光りました? わっ、すごい音」

 

辺りに、地の底に響くような雷の音がとどろく。

 

「こわぁ。もう、こわぁ。山があるとこって雷が超怖いですよね。雷パワー強いですよね」

 

個室の主が言う。
そうなのだろうか。
渡瀬は、町を転々と移り住んでいたことがあるが、特に意識して各地の雷の比較をしたことはなかった。
隣の個室の主は恐怖のあまり、落雷のしやすさと、雷の電圧の強さを混同しているのだろうか、と思ったが、確かなことを知らないので渡瀬には何も言えなかった。

 

ひょっとして、個室の主は、雷が恐ろしくて個室から出られないのだろうか。
渡瀬はそうも思ったが、特にできることもない。
雷を追い払うことはできない。
停電を終わらせることもできない。


しかし、黙って立ち去ってしまうと、個室の主は、ここで延々、見えない相手に話しかけ続けることになるのだろうか。
ひとこと言葉をかけてから立ち去ろう、そう思ったとき、個室の主が言った。

 

「停電ですよね、これ。灯りはついてますけど」
「そうですね。この灯りは、自家発電した電気を使ってますね。避難のための電気なので、ほかの電化製品は使えないんですよね。ご不便おかけしてすみません」
「あ、いえ。苦情ではないんです。ないんですが」
「が?」
「いや、雷、怖いなって……。建物の中にいる限りは安全でしょうけど……」

 

語尾が消えかかっていた。
よほど不安なのだろうか。
しかし、先ほどまでと同じく、やはり渡瀬にはどうにもできない。
それ以前に、仕事の途中でトイレに抜けてきていたため、戻らなくてはならない。
客がいる以上、この会話も仕事と言えば仕事なのかもしれなかったが、渡瀬のメイン業務は接客ではなかった。
どうすればいいか迷った渡瀬は、とりあえず個室の主に、ドア越しに尋ねた。

 

「あの、出られない、わけではない……んですか?」
「出られないと言えば出られない」
「どこか体調が悪いとか」
「いえ、体調が悪いと言えば悪いんですけども、雷がいなくなるまでここにいたいという気持ちのほうが強いです」
「えっと、俺にできることは何かありますか?」
「いえ、特に。お気遣いなく」

 

そう言われて、渡瀬は本来の仕事に戻ることにした。

 

「では、俺は失礼します。……あの、本当に大丈夫、ですよね?」
「あ、はい。どうぞ仕事に戻ってください」

 

渡瀬は相手から見えないにもかかわらず一礼すると、トイレを出た。

 

「あっ。渡瀬。おなか大丈夫? ぴーぴー」
「うん、あの。うん。大丈夫」

 

イルズク第2棟2階の廊下である。
廊下の中央付近の壁際にワゴンが置かれている。

渡瀬は、ワゴンに置かれたクリップボード……に固定された紙を見ようとした。

渡瀬と組んでいる甘木が、今、どこの部屋のルームメイクをしているのか確認しようとしたのである。しかし、紙で確認する前に、当の甘木が210号室から廊下に出てきた。

 

「210号室終わったよ、チェック入れといて」

 

甘木は210号室から回収したのであろう、シーツや枕カバーの類いをワゴンの下段に入れながら言う。
渡瀬は、ワゴンの上のクリップボードとペンを手に取り、210号室の欄にチェックマークを入れた。

 

「これで今日のルームメイク終わりだね……、ゴメン、俺、ほとんどトイレにいた」
「まあね。ひとりで終えました。ほかの部屋のルームメイクも全部終わったってさ。といっても、まだチェックイン時間まで間があるから、けっこう時間の余裕あったよ、私ひとりでも」

 

渡瀬はふだん客室整備担当ではなかったが、団体客が立て込んでいる今だけ、ルームメイクのヘルプに入っていた。
しかしヘルプが本当に必要なのかどうかはよくわからなかった。
トイレにこもる羽目に陥った自分を呪いたい気持ちになった渡瀬は、そのトイレで今しがた遭遇した謎の隣人を思い出した。

 

「そういえば、従業員用トイレにお客さんがいた」
「あ、そうなの。そういえば、非常口から近いよね、従業員用トイレ」
「ああ、それでか。確かに、非常口からだったら、ほかのトイレより近いかも」

 

甘木が、ワゴンを押しながらエレベータに向かう。
イルズクは、今ふたりがいる第2棟含め、すべての建物が2階建てだった。エレベータ自体は存在するが、客用ではない。
イルズクにあるエレベータは避難用と従業員用を兼ねたもので、停電している今は、非常用電源で動いている。
甘木はエレベータの横にワゴンを停めた。

 

「停電のときってエレベータ使わないほうがいいのかな。ワゴン運ぶのは、別に緊急の用じゃないし。復電してからのほうがいいかな?」
「ああ、どうだろ……。加藤さんに聞いてみたほうが」
「加藤さんも忙しいからなあ。さっき見かけたけど、今どこにいるのか……。って、渡瀬、そのトイレのお客さんって、放って出てきてよかったの?」
「本人に聞いたら、『大丈夫だ』って言うんで出てきた。しゃべってる声も特に体調悪そうじゃなかったし……」

 

と言いながらも、渡瀬は少し不安になってきた。
あとで様子を見に行ったほうがいいのかもしれない。
どっちみち、停電が終わったらウォシュレットのコンセントを入れ直しに行かねばならないのだ。

 

窓の外では、まだ稲光が見えた。
少し経ってから、雷鳴が低く響く。
甘木が窓の外を見ながら言う。

 

「この停電って雷が原因だよね?」
「たぶん」
「まあ、掃除機は充電で動くし、こっちは電気止まってても何とかなるけど、ほかのとこは大変なのかな。フロントとか。カードの処理とか……、何だろ、電気使ってるよね、たぶん」
「ああ、そうか……。長引かないといいけど」

 

甘木と渡瀬は、ワゴンを廊下の端に寄せてそこに置いたまま、階段を下りた。
階段にも非常灯はついていて、暗くはない。
階段の踊り場の窓からは、低く垂れ込めた雲が見えている。

 

「空は相変わらずだけど、もうあまり光らないね。そろそろ終わりなのかな、雷」

 

踊り場で立ち止まり、甘木が窓の外をのぞきこみながらそう言った。

渡瀬はその横に並び、自分も窓の外をのぞきこむ。

そして、ふと思いだして甘木に問いかけた。

 

「山の雷のほうが強いのかな。そのお客さんが言ってたんだけど」
「さあ、どうだろ。雷が嫌でトイレにこもってたの? そのお客さん」
「ああ、うん。そう言ってたかも」
「雷、怖いよねぇ。さっき、加藤さんが、『昨日、防災訓練をやったばかりなのに』ってブツブツ言ってた。自家発電機に問題ないのは昨日の訓練でわかってたけど、『試験運転後、こんなにすぐ使うことになろうとは』って」
「ああ。ここら辺、雷多いわりに、ふだん停電ってあまりしないよね」
「うん。で、配電盤とかで雷サージ対策はしてるから、客室の電化製品が壊れることはないだろう、とも言ってた。それ言われて思ったけどさ、寮はどうなんだろ。寮で暮らす勢としては、寮も心配なんだけど」
「あ、そうか。というか、うわぁ、俺、寮じゃないけど、俺もうちが大丈夫か心配になってきた」
「コンセント差してなければ大丈夫だろうけどね」
「うん……。差しっぱのが何個かある。機械は雷が苦手なんだな……」

 

しばしふたりで話していたが、停電が終わる気配はなかったため、ふたりとも階段を下り切り、1階のスタッフルームに戻った。そこにいた加藤の指示を仰ぐ。

 

1時間ほどして、イルズクは停電から復旧した。
雷のせいなのか客は数えるほどしか来ず、電気がなくともできる仕事も終えてしまい、渡瀬と甘木は、スタッフルームで待機していたところだった。
リネンルームにワゴンを戻しに行く甘木を見送ると、渡瀬は再び従業員用トイレに向かった。

 

機械は雷が苦手。

先ほど自分が言った言葉を、心の中で反芻する。
それから、雷を恐れていた隣の個室の主の声を思い出す。

 

個室の主は、機械ではないはずだが、姿を見ていない渡瀬には確信がなかった。
停電が起きて、非常用電源に切り替わったのだろうか。
あの個室の主も、また。

 

コンセントで動く、充電するタイプの巨大ロボットを思い浮かべ、首を振る。
そんなわけはない。
だが、あの、どこかにぶつかるような音。
巨大ロボットがトイレの中で方向転換しようとして壁にぶつかった音だとしたら。

 

しかし、先ほどからかなり時間が経っている。
普通ならもうトイレから出て行っているだろう。
何かトイレにとどまる理由でもない限り。

 

トイレで人知れずコンセントから充電していたら停電が起き、身動きが取れなくなったのだとしたら。

渡瀬は、従業員用トイレの前で立ち止まった。

 

そんなわけはない。
充電したいのなら部屋ですればいい。
トイレのコンセントで充電したいなら、客室にもトイレはついている。

 

渡瀬は気づいた。
部屋を取っていないのだろうか。
チェックインしている客ではないから、コソコソとトイレで充電する羽目に陥ったのだろうか。
それでは電力泥棒だが、だからこそ堂々と個室から出にくかったのか。
電力が復旧して、充電が完了すれば個室から出てくるのだろうか。

 

まさか。
巨大ロボがトイレで充電しているなんて、そんなまさか。
おまけに途中で停電になり、充電が完了していなくて個室から出られないなんて。

 

ありえないと思いつつ、渡瀬は従業員用トイレに足を踏み入れた。

個室のドアはすべて開いていた。
そこには誰の姿もない。
渡瀬は、ほっと息を吐いた。

 

個室に入り、停電時に抜いたコンセントを再び差し、トイレから出ようとして、入り口付近の洗面台に目が行った。
洗面台の上についている、でっぱりのような棚に何かが置いてある。
小さな紙のメモと、USBメモリだった。

 

「トイレノナガシカタ オシエテクレテ アリガトウ USBメモリ ツカッテクダサイ」

 

メモにはそう書かれていた。

 

「ロボ語……!?」

 

特にロボ語ではないが、カタカナで書かれているというだけでロボ語のような気がした渡瀬だった。

 

「トイレの流し方を教えてくれてありがとう」、メモのメッセージは渡瀬に向かって書かれたもののようだった。
メッセージを読んで、メモと一緒に置かれていたUSBメモリは、遺失物ではないと渡瀬は判断した。
メモに、USBメモリの中身の説明はない。

 

最初に渡せは、イルズクにあるPCで中を見ようとして、何かに感染するのかもしれない、という恐怖に襲われた。

失礼なのかもしれなかったが、その恐怖は去らなかった。かといって自分や周囲の人間のPCで見ると、そのPCが何かに感染するのかもしれない。
そう思うと、どうやっても中身を見られないまま時が過ぎた。

 

きっと、あのUSBメモリには。

 

渡瀬は、その後、USBメモリの中身に思いを馳せる機会があるたびに思った。
きっとあのUSBメモリには、ロボットのためのアプリが入っているに違いない。
いや、USBメモリ自体が、ロボットの体の一部なのかもしれない。
お礼のために、体の一部をくれたのかもしれない。

 

そう思って、渡瀬は今日も、中身が謎のままのUSBメモリを外から眺めて満足するのだった。

 

(おわり 15/30)