スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

カトウは5人いる(his aunt said)

「また降ってきました」

 

叔母の部屋で、窓から外を眺めていた渡瀬が言った。

 

「おや。あたしはいいけど、渡瀬、あんた帰れるのかい」

 

ここは宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の第2棟213号室だった。
「今度時間があるときにでもゆっくりとその話をしましょう」と以前ウッカリ言ってしまった渡瀬は、ゆっくりと話をするために、今回叔母の部屋を訪れたのだった。

 

渡瀬はふだん、このイルズクでスタッフとして働いている。
本来、宿泊客でない渡瀬が叔母の部屋を訪れるのは、イルズクの宿泊規約に抵触していた。
が、イルズクはこぢんまりとした規模の宿泊施設だったため融通が利いた。前もって申し出ておけば、そして短時間であれば部屋での面会が許されることもあった。
渡瀬は、スタッフとして働いていることもあり、その許可は簡単に出た。
しかし、あまり長居はできない。規約は規約だ。

 

渡瀬がこの部屋に長居できない理由はもうひとつあった。
ふだんの勤務時は上司である加藤に、帰りだけ車に同乗させてもらっている。
しかし、加藤と渡瀬は同じ日に休日になるシフトで働いているため、今日は自力で帰らなくてはならない。

 

今日は渡瀬(と加藤)の休日に当たる日で、バスを利用した。

最終バスが出るまでに帰れるはずだ、渡瀬はそう思って家を出た。
だが、雪が降ってきた。
渡瀬は、にわかにバスの運休が心配になり始めた。
自分は今日、帰れるのだろうか。

 

イルズクには、夜勤スタッフ用の仮眠室があった。
渡瀬は日勤専門で働いているため使ったことはなかったが、もし帰れなくなった場合、仮眠室を使わせてもらうわけにはいかないだろうか。

 

バスが運休した場合だ。
渡瀬は思い直した。
まだこの雪がバスの行く手を阻むと決まったわけではない。

 

窓辺で外を見ながら渡瀬がそう思っていると、部屋のふっくらした椅子に腰掛けた叔母が、携帯の画面を見ながら言った。

 

杯治(ハイジ)叶太(かなた)は連絡がつかないね。ここに呼んでやろうかと思ったのに」
「やっぱりここにいるんですね、兄さんも杯治も」
「何を今さら。防災訓練のときに気づいてただろう、渡瀬」
「いえ、あのときは見間違いかと思ったんですけど。見間違いであってほしいと」
「おあいにく様。あんたの目は確かだよ、渡瀬。叶太も杯治もここに泊まってる」
「どういう偶然なんですか……」

 

渡瀬が嫌そうに言うと、叔母は声を上げて笑った。

 

「偶然は杯治の学校が泊まってるってところだけさ。ほかは偶然じゃない。叶太の会社の偉いさんの奥さんが、うちのサークルにいるからね。新人研修と、うちのサークルの慰安旅行の日程を合わせたらしいよ」
「ああ、聞きました。石尾さんご夫妻ですね」
「そう」

 

部屋に沈黙が訪れた。
渡瀬は、これから雪がどれくらい降るのか、天気予報を調べたくなった。
しかし、叔母と話をしに来たというのに、携帯をいじっていていいのだろうか。
渡瀬が叔母に携帯を操作することを告げようかどうしようか迷っていると、叔母が不意に言った。

 

「ここは毎年こうかい? あたしらの町ではここまで雪は降らないよ」
「そうですよね。おばさんの町とはちょっと離れてるけど、俺の実家の辺りも似た感じですかね。ここよりは降らない感じですね。寒さはあまり変わらないと思いますけど」
「確かにね。どこも寒いよ、まったく。今は4月だよ、啓蟄(けいちつ)も過ぎたっていうのに」
「何ですか」
「温かくなって虫が表に出てくる季節だってことさ」

 

渡瀬は、わかったようなわからないような顔で、何度かうなずいた。

 

「最近ではあまり毛虫も見ないですね」
「そうかもしれないね。……って、毛虫限定なのかい? 毛が生えてない虫は」
「いえ、あの、毛虫というのは……、昔、兄が絵本を描いたことがあって」
「ああ、小学校の授業で絵本を描かされたってやつか。あたしも見たよ、あんたんちに行ってあんたのアルバムを借りたときにね」
「あれ、実話なんですよ。うちに毛虫が出て、大騒ぎになったときの話なんです」
「なんだい、虫くらいで大騒ぎしたのかい、あんたんちは? へえ、ずいぶんヤワな話だ」
「なにしろ見慣れていないもので」

 

渡瀬は、なんとなく笑いながら言った。

 

「俺、最初、スケッチブック持って行ったんです。毛虫を描こうと思って。初めて見たんですけど、黒っぽい中に黄色い模様が並んでて、なんとも言いようのない毛が生えてて、描いてみたくなった」
「へえ」

 

叔母は、興味を引かれたように椅子から身をやや乗り出し、目を見開いて相づちを打った。

 

「そうしたら、兄がスケッチブックを受け取ってしまって……、その上に毛虫を載せて、家から出してしまって。結局、描けずじまいでした」
「おや。そういうことだったのかい。残念だったね。あたしも見たかった、そのハデそうな毛虫」

 

渡瀬は叔母の言葉に、にこりと笑った。

 

「はい。俺も見たかった。大人になったときに、どういう虫になるのか。蝶の幼虫だったのかな」
「そうかもね。蛾かも知れないけど。似たような感じなのに、蛾だけ印象が地味なのは何だろうね」
「地味ですかね。俺は地味かハデかだけで決めはしないですけど、好きかどうかって」
「ああ、まあ、たぶん蛾も蝶も似たようなもんだろうし、どっちでもいいけどね。蛾にもハデなのがいるだろうしね」
「相変わらずのハデ好きなんですね……。あ、でも、逆によかったのかもしれないとも思って。誰にも見張られずに自由に羽化したほうが、蝶でも蛾でも気楽でしょうから」
「なるほど。確かにね」

 

天から降り注ぐ雪が渦を巻いている。
風が出てきたようだ。
建物と建物のあいだを吹き抜ける風に乗って、雪が渦を巻いているのが窓から見えた。

 

「そういうのを全部、今もあんたは根に持ってるってことなのかい?」

 

叔母が、腰かけた椅子の背に、ゆっくりともたれながら問いかけた。

 

「いえ、根に持つとか、そういうんじゃないんです。途中、思惑が食い違ったけど、結局なんか丸く収まってよかったねとは思ってます」
「なんだい、ケンカもできないのかい、あんたら兄弟は」
「いえ、だからあの、兄とは別にケンカするって感じじゃないんですけど……。仲が悪いとかって意味でもなくて……」

 

なぜかケンカをゴリ押してくる理不尽な叔母の言葉に困惑した渡瀬は、ほかにどうしようもなく、窓の外を再び見下ろした。
イルズクの敷地を囲む生け垣と、その向こうに道路を走る車が見える。
見慣れたバスが通った。
バスはまだ止まっていない。
だが、これから雪が降り続いたらわからない。

 

渡瀬は、天気予報を調べるつもりで手荷物から携帯を取り出した。
叔母に一声かけてからにしようと思ったところで、さっきもまったく同じことを思った記憶がよみがえった。
先ほどは、なぜ中断したのだったか。
渡瀬が先ほどのことを思い出そうとしていると、手の中で携帯がブルブル震えた。

 

「あ、すみません、何か連絡が入りました。携帯見ていいですかね」
「勝手におし。いちいちあたしに聞かれても困るよ」

 

あきれたように突き放す叔母の言葉を受け、渡瀬は携帯の電源を入れた。
通知は職場のLINEグループのものだった。

 

「カトウさんだ」
「おととい花の展示を手伝ってくれた人かい?」
「いえ、その加藤さんとは別の『歌藤』さんです。耳木兎(ミミズク)山にある、イルズクの駐車場の管理をやってる方で」
「あんただって名字は加藤だろう。この宿には何人のカトウがいるんだい」
「俺を含めて3人です」
「イルズクはカトウを集めてどうするつもりなんだ……。いや違うね、今は客としてあんたの兄弟も来てるから、5人だね。この宿には今、5人の加藤がいる」
「お客様を含めるならもっと多い日もありそうですけどね」
「まあそうかもね」
「はい……」

 

渡瀬は、話の途中で、手に持った携帯の画面に気を取られた。

渡瀬のぼんやりとした声に、叔母が怪訝な顔をする。

 

「どうしたんだい」
「いえ、歌藤さんが、『加藤という名の職員はいないか』と言って耳木兎山の駐車場に来たふたり組がいたと」
「ややこしい」
「はあ、すみません。とにかく、山に『加藤』を訪ねてきたふたり組がいるそうです。これって、叶太兄と杯治ですかね?」
「たぶんね。聞き込みに行ったんだろうさ」
「あの……、本当に俺に気づいてないんでしょうか、ふたりとも」
「まあそうだろう、顔は違うし、呼ばれてる名も違うし」
「いえ、名前は同じですけど」
「でも『加藤』とは呼ばれていないだろう、周りの人間に」
「はあ、まあ読みが同じ名字の人間が3人いますので。なので俺は下の名前で呼ばれてるんですけど、それだって生まれたときから使ってる名前ですよ。俺の名前、覚えてもいないってことなんでしょうか」
「『渡瀬』って、名字みたいな名前だからね、名字だと思い込んでるんだろうさ。『おかしな偶然もあるもんなんだな~』とかなんとか言って」

 

叔母は、叶太の口ぶりを真似るようでまったく真似ていない、独自の口調で言った。

 

「そんなことってあるんでしょうか……」

 

渡瀬が心底呆然として言った言葉に、叔母は平然と返事をする。

 

「似たもの兄弟ってことだろう。あんたほどじゃないけど、兄貴は兄貴でドジっ子なのさ、おそらくね」
「はあ……」

 

「兄もドジっ子」宣告をされて、どうにも返事のしようがなくなり、渡瀬は気の抜けたような返事をした。
叔母が窓の外を遠く見やり、思いをはせるように言葉を発する。

 

「しかし、山に行ったのかい、あのふたりは」
「そうらしいです」
「大丈夫なのかい、この雪の中」
「あ」

 

渡瀬はLINEで、駐車場の歌藤を訪ねたふたり組は、その後どこに向かったのかを尋ねた。
しかし返事はない。既読にもならない。

 

「仕事中ですからね、歌藤さん……。LINEをそんなにマメにチェックできないのかも。これ、もはや俺にはどうしようもないですね」

 

淡々と渡瀬が告げると、叔母もまた携帯を服のどこかから取り出し、スリープ中の真っ暗な画面を堂々と渡瀬に見せつけた。

 

「どこから取り出したんですか」
「秘密のポケットさ。詮索無用だよ。このたび、あたしはLINEグループを作ったのさ。渡瀬、あんたを捜索するための独自グループをね。メンバーはあたしとあんた以外の加藤兄弟のみ。電波が届けば連絡は取れるはずだ」
「捜索も何も、俺ここにいますけど……」

 

渡瀬の声もむなしく、叔母は携帯の操作を始めた。
考えたら20代前半の渡瀬、の親と似た年代である叔母の年齢で、LINEをやすやすと使いこなしているのはすごいことなのではなかろうか。渡瀬がひそかに叔母のポテンシャルに底知れぬものを感じていると、当の叔母が素っ頓狂な声を上げた。

 

「バカなのかい!」
「どうしたんです」

 

渡瀬は、自分の携帯を手に持ったまま、叔母が腰かけている椅子のそばに歩み寄った。

 

「どうもこうも、まだ山にいるみたいだ。雪が降ってきたから雨宿り……じゃない、雪宿りをしてたはいいけど、どんどん日が陰ってきてこのままじゃ凍えるかもしれないってんで、山を下りてくる途中……だと思うんだけど」

 

最後のほうで、叔母の言葉が急に勢いをなくした。

 

「あの子たち、今どこにいるんだろう」

 

話がよく飲み込めなかった渡瀬に、叔母は携帯の画面を、これでもかと言わんばかりに見せつけた。おまえがどういうことなのか説明しろ、とでも言いたげに。
見せつけられても、その場に居合わせたわけでもない渡瀬としては、何とも言いようがないのは同じことだった。が、とりあえず疑問に感じたことをポツポツと挙げてみた。

 

「このLINE、いつの話なんだろう。表示されてる時間は1時間くらい前だけど、その時点でちょっと前の話をしている、ような」
「あたしもそう思ったけど……。でも、そんな言葉尻に神経を使ってる余裕がなかっただけなのかもしれないし、意味はないのかもしれない」
「俺がメッセージを打ったらダメですかね、これ?」
「え。あんたがかい? いいけど……。あたしの名前になるけど……というか、これあんたの捜索用のグループなんだけどね」

 

叔母は珍しく困惑して、ブツブツ言いながら携帯を渡瀬に手渡した。

 

「……何を言えばいいんでしょうか」
「考えてなかったのかい」

 

叔母は、椅子の中で軽くズッコケた。

 

「LINE送ったところで携帯見てる余裕があるんでしょうか、兄たちは」
「ブツブツお言いでないよ。渡瀬、ここは腹を決めてズバーンとメッセージっちゃいな。『俺だぁ!』って」
「『俺って誰だ』って、絶対に兄貴は言うと思います」

 

叔母にそう返しながらも、渡瀬は叔母の携帯を操作し始めた。

 

充香「叫太(サケタ)」
  「間違えた」
  「キョウタ」

  「今どこにいる?」

 

叔母は渡瀬が送ったLINEを見て、不審な顔をした。

 

「なんだい、これだけかい?」
「ええ、あの、ほかに思いつかなくて。昔、俺が兄貴の名前間違って書いてしまって、『叶太』を『叫太』って。それで微妙な空気になったことがあって」
「兄貴の名前を間違えるって……。しかも訂正したのにまだ間違えてるじゃないか。『キョウタ』ですらなくて『かなた』だろう、あいつは。どんなドジっ子なんだ、おまえはまったく」

 

叔母があきれたようにブツブツ言っているうちに、新たなメッセージが表示された。

 

ハイジ「叔母さん?」
   「渡瀬兄?」

 

「杯治だね」

 

叔母が渡瀬の持つ携帯の逆側に手を添えた。渡瀬は、携帯を持つ手を少しずらした。
その後もメッセージは続く。

 

ハイジ「僕はよくわからないんだけど叶太兄が」
   「『渡瀬だ』って言った」

   「叔母さんのLINEを見て」
   「今僕たちは駐車場の灯りを目指して進んでる」
   「もうちょっと距離がある」
   「と思いながらけっこう時間経った」
   「と思ったらあまり時間経ってなかった」
   「そんな感じ」

 

最後に画像が表示された。
雪まみれでスクワットをする叶太の写真だった。
ごくり。
叔母と渡瀬は、固唾をのんで写真を見つめた。

 

「……なんで叶太はこんなに薄着なんだい」

 

腑に落ちぬ顔で、気が済むまで携帯の画面を眺め回したあと、ようやく叔母が言った。

 

「薄着と言っても、スーツは着てますけど」

 

叔母の携帯を支えていた手を離して、一歩下がってから渡瀬は言った。
叔母は、携帯を両手で握りしめた。

 

「そうは言ってもコートはどうしたんだい、コートは。もっとモコモコわさわさ着込まないと凍えるだろう。というか、なんで雪の中でスクワットしてるんだい。バカなのかい、やっぱりバカなのかい?」

 

携帯に向かって毒づく叔母をなだめるように、渡瀬が口を開く。

 

「あの……、天気予報を調べてみましょうか。もともと今日は大雪降る予報、出てなかったと思うんですけど。いつぐらいまで降るかだけでも」
「予報がどれだけ当たるのかわからないけどね」

 

なぜか天気予報に流れ弾を当てつつ、叔母は、机の上に置いてあるリモコンを手に取った。そして、部屋に備え付けられたテレビのスイッチを入れる。テレビで気象情報を調べるつもりらしい。
渡瀬は、自分の携帯で調べるつもりでいたが、その手を止めた。そのままテレビの画面を、叔母が地域別の気象情報に切り替えるのを見守った。
しかし、叔母は急にテレビの操作をやめた。

 

渡瀬がテレビから目を離し、叔母のほうに目を向けると、叔母はリモコンとは逆の手に持ったままの携帯の画面に見入っている。
叔母は、やがて息を吐き出した。

 

「たどり着いた。駐車場にたどり着いたようだよ。駐車場の入り口の建物にはまださっきの歌藤さんがいて、歌藤さんにここに送ってもらえることになったとさ」

 

心底安心したように叔母が言う。
渡瀬も、ほっと息を吐き出した。

 

「無事でよかったです」
「まだわからないけどね。おうちに帰るまでが旅行だ」

 

叔母は、どこかで聞いたような、そうでもないような警句を発しながらテレビのスイッチを切った。

渡瀬は安堵の気持ちに浸りながら、切られたテレビの画面を見た。
雪はどうなるのだろう。
これからも降り続くのだろうか。
バスが止まるかどうか、自分は知らなければいけなかった気がする。

 

「ふたりが帰ってきたら、ここに呼ぼうか。あんたがここにいるってことは知ってるんだし、もう面倒だからここで会って和解しておしまいよ」
「いえ、あの、和解するも何も、ケンカをしてないんですけど、そもそも」

 

先ほども似たような会話をしたような気分に襲われながら、渡瀬はそう返した。
兄弟ふたりがイルズクに戻ってきて、この部屋にやってくるのを待っている時間の余裕はあるのだろうか。
宿泊客でない渡瀬は、もともとこの部屋に長居はできない。
早めに言い出さなくてはならない。
まだ帰れるうちに。
バスが動いているうちに。

 

上機嫌でこれからの予定を立てている叔母に、渡瀬はどう話を切り出したものか迷った。

 

外ではまた、建物と建物のあいだをすり抜けた突風が渦を巻いている。
降り続く雪がその風に乗せられ、渦に巻き込まれて飛んだ。

 

(おわり 22/30)

 

空に立ち上り、たゆたう

煙がどこからともなく上がっている。
どこから?

 

雪が降っている。
どこから?

 

どこからかはわからない。
どこに向かっているかはわかる。
空へ。大地へ。


あの日を思い出す。

俺が家を出ることになった日だ。
あのときから今まで、家には戻っていない。

 

祖母が死んだ。
病院で死んだ。
そのときの自分の感情は思い出せない。
呆然としていた。

 

通夜をやった。
やったのは俺じゃない。
通夜も葬式も家でやることになった。
病院から祖母のなきがらが車で運ばれてきた。
運んだのは葬儀会社の人間だ。

 

家の男たちが、車から祖母を下ろして家の中に運んだ。
うちは無駄に男手が多い。
男ばかりの3兄弟で、俺はその次男だった。
男だからといって、誰もが腕力が強いわけじゃない。
主に祖母を支えていたのは兄、そして父だった。

 

家の一室に横たえられた祖母の横には、小さな机が置かれていた。
小机の上には、花、線香、水、火がついたろうそくと(リン)
夜、線香と、ろうそくの火を絶やさぬよう、俺は一晩中祖母のそばに座っていた。

 

途中、兄が交替のために起きてきた。
長男は大学生で、すでに家を出ていた。
葬儀のために戻って来ていたのだ。

 

俺は替わらなかった。
「いいから眠れ」と兄を自室に追い返した。
ゆらゆら揺れる、ろうそくの炎を見つめていた。
眠くなることはなかった。
でも、炎から目を離すことができなかった。
祖母の顔をもっと見ておくべきだったのに。

 

今となっては祖母の顔も、おぼろげにしか思い出せない。
兄弟の顔も、父母の顔も、祖父の顔も。
叔母を除くほかの親族の顔も。

 

ひとつだけ。
祖母の顔に触れた。
そっとだ。


祖母は死化粧を施されていた。
手には化粧が移った。

 

祖母の顔を見た。
根こそぎ化粧を取ってしまったわけではなかった。

指の跡もついていない。
ほっとする。
きれいに化粧を施された祖母を邪魔してはいない。
自分にそう言い聞かせた。

 

その後、手は洗った。
でも、水で洗っただけでは落ちなかった。
ファンデーションの色と匂いが、ずっと自分の手に残った。

それ以外は炎を見ていた記憶しかない。

 

明くる日、葬式をやった。
やったのは俺じゃない。
喪主は父だった。

 

葬式のあと、火葬場に移動して時を待った。
そのときがやって来るのを待ったんだ。

 

俺は手を洗いたかった。
それまでにも何度も洗っていたが、化粧は水だけでは落ちなかった。
何度か洗って、本当は落ちていたのかもしれないが、いつまでも手に残っているという思いが離れなった。


今度も落ちないだろうと思いながら、洗面所で手を洗う。
洗面所の窓から外が見えた。
空だ。青空だ。

 

そのときの気持ちが思い出せない。
目がくらむような、まぶしさ。
自分が一段暗いところにいる気持ち。
そんなことを感じた気がする。

 

待合室に戻るのが嫌になった。
そもそもその日はひとことも、誰とも口をきいていなかった。
俺が口を開くと、家族の誰かが俺に注意をする。いつもそうだった。
注意されるような何かを言っている、もしくはやっているのだろう。
もしかしたら、俺が何かを話す、それ自体が、彼らにとってはおかしなことなのかもしれなかった。
だから自分からは話しかけない、そういう習慣になっていた。
気まずい場所に戻ることはない、そんな気がしてしまった。

 

俺がいなくなったとしても、もう、俺を気にかける祖母はいない。
今、いなくなっている最中だ。
そうじゃない、もうすでにいないんだ。

 

いつ、いなくなったの?
いつ、いなくなるの?
わからない。

 

建物の外に出て、振り返った。
煙が。
煙が上がっていた。
空へ。

 

祖母はどこにいる?
わからない。
煙はとにかく空へ。

 

一度建物から出てしまうと、もう一度入ることができなくなった。
今、自分がいなくなるのが一番いい。
そのときの俺はそう思った。
だからそのまま立ち去った。
俺が17のころのことだ。

 

「渡瀬くん、聞いてますか?」

 

我に返った。
加藤さんが、車の運転席から窓を開けて話しかけてきていた。

 

「すみません、ぼうっとしてました」
「うん、見ればわかる。ぼうっとしてましたね」
「はい」
「いや……ぼうっとするのは車に乗ってからにしてください。寒いから早く乗って」
「いえ、そこまで寒くは」
「俺が寒いんだって。いつまで窓開けてりゃいいんだ。とっとと乗るがいい」

 

途中で会話が面倒になった加藤さんが、少々乱暴な口調で言った。


俺はいつもこうだ。
他人に面倒がられる会話しかできない。
それでも加藤さんはめげない。いい人だ。

 

俺が助手席に乗り込むと、窓を閉めた加藤さんが待ちの体勢に入った。
待たれているのがわかっているので、焦りながらシートベルトを締める。
俺がシートベルトを装着し終えたことを確認すると、加藤さんは車を発進させた。

 

「加藤さん、いつもありがとうございます、送ってくれて」

 

なんとなく、礼を言わなければいけない気持ちになった俺は、礼を言った。
言われた加藤さんは照れたように口をとがらせて、奇妙に傾いた笑い顔をした。

 

「何ですか急に。おだてても何も出ませんよ。スピードくらいしか」
「いえ、特におだててないです。スピードはそこまで出さなくても、もう十分なんで」
「はいはい、安全運転、安全運転ね。……で、何見てたんです? 何か、いかめしい顔で宙をにらんでましたけど」
「煙です」
「ああ……、煙ね。燻製作ってるらしいです。らしいというか私が言ったんですけど、『そろそろ燻製の在庫がカツカツですよ』的なことを」
「燻製でしたか」

「ええ。煙に見えたかもしれませんけど、煙じゃないと思います。工房には脱煙機がありますから。寒いので脱煙機から出る水蒸気が煙に見えたとか、そういうことでしょう」

「ああ、まあそうですよね」
「そう」

 

そこで会話は途切れた。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」では、土産物として、さまざまな食材の燻製を売っている。手作りの燻製だ。
イルズクにはそのための工房がある。
俺が見ていたのは、その工房の煙だった。

 

「渡瀬くんは寮に入らないんですね」

 

加藤さんが前を向いて運転しながら言った。

 

「はい。人と一緒に暮らすのがたぶん無理なので。そのせいで加藤さんにはご迷惑おかけしてますけど」
「ああいや、それはいいんです、どうせ私も帰らなきゃいけないし。渡瀬くんち、通り道だし。というか私も寮を飛び出たクチなので、特にそれで迷惑とかはないですよ」

 

いつも似たような会話をしている気がする。

 

「雪、やみませんね。春なのに」

 

言ってから、会話が成り立っていないことに気づいた。が、あとの祭りだ。言葉は戻らない。

 

「ああ、まあここら辺は暦より遅く春が来るから。といっても本気の豪雪地帯よりは降らないほうらしいですよ。私もここら辺出身ではないのであまり知ったふうなこと言えませんが」
「いえ……。それにしてもまだ降るのかという感じで」

 

この辺にいつごろ春が来るかは知っていた。
飛び出たのは寮も実家も同じで、どちらもこの近くにある。
俺の地元は、ここからわりと近い。
が、戻る気もないし、それを今言う気もなかった。

 

だるい。
車内は暖かく、眠けが襲ってきた。

 

「どこにいるんでしょうかね」

 

ぼんやりしながらまた会話にならない言葉を吐く。
加藤さん、ほんとにゴメン。
俺、会話できないマジで。
心の中でそんなことを思っている俺を尻目に、加藤さんは軽やかに俺の言葉をさばいていく。

 

「何がですか?」
「なんか……、煙とか、雪とか」
「どこにとな。空にですかね」
「……」

「何でもいいのでしゃべってください、私も眠くなりそう」

 

そう言われると、俺でもしゃべっていい気がして、また意味不明な言葉を紡ぐ。

 

「祖母が亡くなったときに、火葬場の煙を見たんです」
「ほう。珍しいですね。最近は煙突がなく、したがって煙も出ない火葬場は多いような印象がありますけど」

「そうかもしれません。そこは昔ながらの火葬場だったんでしょうね。で、俺は、祖母はどこに行くんだろう、今どこにいるんだろう、って思ったんです」

「ふむ。……む? それは祖母=煙ということですか?」
「いえ、あの」
「だとすると空ですね。空というより宙ですね。その辺にいるんでしょう」

 

加藤さんは謎の軽やか理論を軽々と言い切った。
加藤さんにとっては、眠気覚まし以上の意味は特にない会話なのだろう。

加藤さんにはそういうところがあって、優しいのか何なのかよくわからない人だと思う。
でも、たぶんいい人だ。そう信じたい。

 

「そうかもしれません」
「おっ? まさかの納得? 今ので?」
「はい。その辺にいる、ですね」

 

俺は目を閉じた。
温かい。眠い。
寝てはいけない。帰らなければ。
加藤さんが寝ないように、話さなければ。

 

煙がどこへともなく上がっている。
どこに向かってる?

 

空へ。
空というより宙へ。
つまり、その辺に。

 

いつもその辺にいる。

 

(おわり 21/30)

 

新人研修の罠

「この燻製、ほんとにうまいんだけど」
「止まらない」
「Twitterで言ったらだめかね、今日の研修のこと」
「ダメだろ」
「バカッターとか言われるだろ」
「そうか~ダメか~。何だったんだろ、あの謎のメッセージ。集合知に問いかけたい」
「まあ、確かにな~」
「聞いてわかるかね」
「どうかね」

 

もぐもぐ、むしゃむしゃ、ごくごく。
そんな音とともに、この会話である。
この部屋には3人の男性がいたが、誰がどれを言ったのか本人たちにもよくわからないほどの、酒気が香るぐだぐだ会話である。

 

3人は、全員、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」での新人研修に参加していた。
今は夜だ。
昼間にあったイベントを、同室の人間が、発泡酒とつまみの燻製とともに、「ああでもない、こうでもない」と部屋で語る時間が訪れていた。
昼間の「オリエンテーリング」についてである。

 

「『オリエンテーリング』? って何? 新人説明会みたいなの?」

 

塔野雪晴が疑問を口にすると、湾田翔介が、バカにしたように答えた。

 

「それは『オリエンテーション』だろ。『オリエンテーリング』は、山ん中歩くやつ」
「そうそう、スポーツ、スポーツ」

 

湾田の口調に塔野が何か言い返そうとした、その合間を縫って相槌を打ったのは取井だった。

これらは、昼間の彼らの会話である。
昼間の彼らは、このときのために持参した、山歩きに適した服装と靴とリュックを身につけていた。

 

トラーリ株式会社社の新人研修にておこなわれるオリエンテーリングでは、山の中にポールが転々と置いてあった。
そのポールには、QRコードが貼られている。
貼られたQRコードを自らの携帯で読み取り、読み取ったものを事前にチームごとに配られたカードに書き入れる。
アナログとデジタルが、ほどよく混在した謎のイベントだった。
各自が持っている、開始とともに配られたカードの裏には、山の地図が書かれていた。

 

「地図にQRがどこにあるのか書いてあるね……」

 

塔野がつぶやくように言った言葉をさえぎるように、湾田が言葉をかぶせる。

 

「大雑把すぎだろ、この地図」

 

地図には、ブナ林、滑車で滑り降りられる斜面のあるアスレチック広場、山小屋、駐車場のそばにある建物などなど、目印とともにQRコードのありかが書かれていた。

塔野は、うっすらと「湾田は性格が悪いのではないか」という疑いを、この新人研修が始まった当初から持っていた。
四六時中、一緒にいる泊まりの研修で、モメごとを起こすのは避けたい。
塔野は、この研修のあいだだけは、湾田が何を言おうが、風になびきまくる柳のように受け流すことにしていた。

湾田には構わず、塔野は取井に相談することにした。

 

「11個もあるんだね」
「んじゃまず、1個目……」

 

そこへ、湾田が携帯を見ながら口を挟んだ。

 

「あ、LINE」
「ほんとだ。英川チームはもう1個目発見か~」

 

取井も携帯のアプリを切り替え、LINEを確認したようだった。

 

今年のトラーリ株式会社社の新入社員は、全部で6人だった。
トラーリ株式会社は、規模の小さい会社なのである。
小さいが、新人研修にだけは、やけに力を入れる。それがトラーリ株式会社である。

 

オリエンテーリングのチームは、女性と男性で別れていた。
女性チームは、暫定的チームリーダー英川夏海の名を取って、英川チーム。
男性チームは湾田チームと呼ばれていた。

ここにいるのは湾田チームの3人である。


3人はスタート地点で英川チームに追い抜かれ、そのまま彼女らの姿を見ていない。
しかし、このイベントが始まる前に、研修に参加している社員全員が参加するLINEのグループを作っていた。緊急事態用である。姿は見えないが、連絡だけは取れる。

 

「QRの内容、教えてもらえないかな。情報共有。うちらは2個めを探して教える」

 

塔野が、思いついたことを言ってみる。

 

「ああ、偶数番めのQRを探すチームと、奇数番めを探すチームに別れるってこと?」

 

取井が相槌を打つと、湾田が問題点を挙げる。

 

「競技なのにいいのかよ」

 

取井が携帯の画面を見ながら、沈痛な面持ちでつぶやく。

 

「いいも何も、今まさに英川チームに断られた」

 

LINEで共闘を持ちかけてみたが、断られたのだった。
塔野はとりあえず、この場にいない英川チームに何か言いたい気分になった。

 

「真面目、冷たい、超優秀」

 

持ち上げているのか、けなしているのかよくわからない悪態もどきが塔野から出たあと、3人は携帯をリュックにしまって再び歩き始めた。

 

「男女混合のチームじゃなくていいのかね、なんかポリコレ的に」
「それはそれでなんか……、山の中歩くのに混合チームで大丈夫か問題があるような」
「いや、山歩きながら下心燃やすほど体力ないよ、俺」
「それは俺も」
「まあね」

 

そんなどうでもいい会話をしているうちに、湾田チームもひとつめのQRコードにたどり着いた。

 

「1個目発見~。ざまぁ!」
「1個目でいいのかな、合ってる?」
「合ってるだろ、『1』って書いてあるもの、QRコードの上に」
「それもそうだね」

 

というわけで、全員携帯をリュックから取り出した。
そしてQRを読み取るべく、アプリを起動してQRコードがちょうどいい感じで読み込める位置を模索した。

 

「お、読み取った。えーと、『H』だな」
「『H』」

 

全員が読み取ったアルファベットをカードに書き込む。
書き込んだあと、リュックに携帯、ポケットにカードとペンをしまいながら湾田が誰にともなくつぶやいた。

 

「アルファベットなんだな、何が書かれてるのかと思ったら」

 

塔野も同意を表すためにうなずきながら言う。

 

「何だろ、つなげると意味がある言葉になるとか?」
「1文字だけではなんとも言えないか。次行こう」
「よっしゃ」

 

徐々に出てきたやる気を糧に、湾田チームも2番めのQRを目指して歩き始めた。

 

はあ、はあ。歩いてるだけなのに息切れとはこれいかに、ぜい、ぜい

 

塔野が息を多量に含んだ言葉を漏らす。湾田が短く答えた。

 

「競技だからな」
「低い山だけど、真面目に歩くと、けっこう来るものがある」
「で、英川チームと出くわさないってどういうことだっていう」

 

湾田がそう言うと、取井が今気づいたかのように、辺りを見回した。

 

「ほんとだ。俺らと同じくらいか、上回るスピードで歩いてるってことか。まったく迷わず」
「迷ってないかどうかはわからんけど、ふう、ふう

 

まだ余裕を見せていた湾田がリュックから携帯を取りだし、LINEをチェックする。
湾田は驚愕の表情を見せると、驚きの声を上げた。

 

「3つめ発見……!?」
「迷ってないみたいだな」
「はええ。足どうなってんの。つうか、何かに乗ってんの? 登山鉄道とか」
「んなわけない」
「そうだけど……尋常じゃなく速え」

 

自分たちは甘かったのかもしれない。
そんな空気が湾田チームを覆った。
しかし今さら本気を出しても負ける。
これほどまでに速いチームと競ったら負ける。
その思いが、3人をさらなるぐだぐだに追い込んだ。
塔野が口を開く。

 

「まあ、俺らはゆっくり」

 

塔野に最後まで言わせずに、湾田が言葉を発する。

 

「ゆっくりしすぎてもまずいんじゃないか。タイム見られるんだろ、あとで」

 

取井が横から、湾田に同意するそぶりで言った。

 

「サボってたみたいになるのはまずい」
「んじゃ、ほどよく急ごう」

 

サボってはいない、一生懸命に頑張りはしたが、純粋に足が遅くて負けたのだと胸を張って言えるくらいのタイムを目指すことになった。
その後、順調にふたつめ、3つめのQRを見つけたものの、英川チームが常に先を行っているため、特に何の感慨もない。

 

「次は何だ、4個目か」
「英川チームは6個め目指してるってさ」
「英川たちと俺らを比べるな」
「そうだ、上を見てばかりじゃ首を痛める」

 

湾田の言葉に同意した取井が、ぼやくように言った。
塔野は、気になっていたことを口にしてみた。

 

「『足が遅くて負けた』って堂々と言っていいものなのかね」
「どうだろう。つうか、言い訳が通用するかどうか考えてる余裕ない、けっこう必死よ、俺、今」
「わかる」
「わかられても」

 

余裕がないのか、話をしている時点で余裕があるのかよくわからぬ一行の山歩きは続く。
4個目、5個目、そして6個目のQRコードは難なく見つけた。
しかし、やはり先行チームがいるため、そのあとを追うことは、もはや単なる作業でしかなかった。

 

「7個目のQRはどこかいな……」
「お。英川チーム、10個目発見したみたいだ」
「おお。そうか」

 

もはや差がつきすぎて、焦りや嫉妬すら生まれない、平和な空間がそこにあった。
3人とも携帯を持参してはいるが、湾田以外のふたりは、すでに携帯をリュックにしまっていた。LINEはひとりがチェックしていれば事足りたので、バッテリー残量の温存のためにそうしていた。

 

「英川たち、最後のアルファベットを予想してるな」
「予想? どうやって」
「規則性があるとか? 英文になってるとか」

 

湾田の言葉に、塔野と取井が反応した。

 

「そうみたいだな。たぶん英文は『Hang in there』だろうから、最後の文字は『e』だろうって」
「ハンギン?」
「ゼア。『ふんばれ』とか『逆境に負けるな』とか、つらい状況にいる人に言う『がんばれ』らしい。……と、英川チームが言ってる」
「ほう」
「今の俺たちにちょうどいい言葉なのだろうか」
「もはや、つらいとかって次元じゃないんだけど」
「逆に平和だよな、今」
「もう無事に帰れればそれでいい」
「最後まであきらめないなら、俺から特に言うことはない」

 

湾田チームのメンバーは疲労のあまり足が上がらなくなってきており、つまずかないように足元ばかり見ていた。
それでもサボる気になれなかったのは、湾田がうるさかったからだ。


湾田には、途中であきらめることを特に嫌う性質があるようだった。
湾田が歩きながら言うには、「QRコードは、読み取られたかどうか、何人が読み取ったか、そういう情報がコード作成者に伝わっている」とのことだった。

 

競技というものは、必ず誰かが負けるものなのだから、足が遅いあまりに新人同士の競争で負けてもおそらく大したことではないだろうが、サボっているのはまずい。

ふたりの歩くモチベーションが切れそうになると、湾田は、ふたりにそう言い聞かせるのだった。


1番になることを避け、2番手につけていつでも抜かせる状態をキープしたほうが気が楽だ。2チームしかいないから、2番手=ビリだというだけの話だ。
湾田はささやき続けた。

それが悪魔のささやきなのかどうかは、ふたりにはよくわからなった。山を歩くので精一杯で、それどころではなかったからだ。


そんな欺瞞に満ちた平和な空気を醸しながらも、湾田チームもやっと11個目のQRコードにたどり着いた。

 

「発見~! あれ? あれから英川チームからLINE来てないけど、もうゴールしたのかな」
「だろうな。よし、じゃあ最後のQR~」

 

塔野の気の抜けたかけ声とともに、3人は携帯をQRコードに向けた。

 

『t』……!?」
『t』だな」
『t』だ」

 

3人はそう言ったきり黙った。
しばし携帯の画面を見つめる。
画面に表示されているのは、どこからどう見ても「t」の文字だった。

 

「『e』じゃねえのかよ!」
「騙された!」
「罠だったのか! 英川チームがわれわれを罠に!」

 

そんな陰謀論が湧き起こった。
それが昼間のイベントだった。

 

その後、3人も英川チームからかなり遅れてゴールした。
そして、イベントが終わって山から帰り、解散になったあと、湾田が英川チームに直接問いただした。

われわれを罠にハメる気だったのか、と。

英川チームの言い分はこうだった。

 

「そんなつもりは、いっさいない」
「あなた方を罠にハメたり、騙すつもりはない」
「単にわれわれが予想を誤っただけである」
「あなた方がサボらなければ特に問題のない誤りだ」
「現にあなた方はサボらず、最後の1文字を間違えもしなかった」
「どこに問題が?」

 

どこに問題があるのかは湾田にはわからなかった。ほかのふたりにもわからなかった。
もしかしたら、問題は自分たちの中の劣等感にあるのかもしれない……とは誰も思わなかった。
そんなことを研修中いちいち認めていたら、身が持たない。

 

というわけで、3人はこの小事件を水に流すことにした。
しかし、夜になり、部屋で本日の反省会を自主的におこなっているうちに、別のことが気になり始めた。

「結局、あの英文は何だったのか?」問題である。

 

当初「Hang in there」だと思われた英文は「Hang in thert」だった。どう読めばいいのかすらわからない。

 

「単に間違えたとか? QR用意した側が」

 

塔野がそう言うと、湾田が疑わしそうに返す。

 

「それはねえだろ……」
「ほかの意味があるとかじゃないか? ハンギンゼアじゃない意味が」
「ほかになんかあるのか? これ」
「Hang inth……ハッ!」
「どうした湾田」
「わかった、これ、『the』だ。『the rt』だ」
「RT」
「リツイートだ、『リツイートに吊るせ』!」
「英語としておかしくないか?」
「おかしいけど、引っかけ問題だったんだろ。引っかけようとするあまりに変な英語になったとか」
「それだ!」

 

湾田の仮説に、3人は、にわかに盛り上がりを見せた。
序盤こそ手探りで話していたが、今では仮説は確信に変わっていた。
湾田はLINEでこの推理を披露し、英川チームから「すごい! なるほど!」という絶賛を受けた。

 

「やっぱ、そうだろ」
「これ、今もイベント続行中ってこと?」
「誰かのリツイートに吊さなきゃいけないってことか」
「どのリツイートに?」
「吊すって、リプかな?」

 

3人は相談しながらTwitterをウロウロする。
会社の公式アカウントは、本日は朝以降、沈黙したきりだ。
社内の誰かのアカウントだろうか。
誰かがリツイートしていないだろうか。

 

「あ! 加藤さんがリツイートしてる! しかも数分前」
「ホントだ」
「燻製食ってる」

 

加藤はこの研修に参加している先輩社員である。
本日の企画も加藤が中心となって準備したらしい。それは3人も知っていた。

 

その加藤が、3人が今いる宿・イルズク(の公式アカウント)が本日したツイート「手作り燻製についてのブログを公開しました」をリツイートしているのである。

 

リツイートには加藤の、

「これおいしい。今食べてる」

という言葉が添えられていた。

加藤も今、燻製を食べているらしい。

 

「加藤さんも今、食べてるのか」
「これじゃね? これにリプしていけばいいんじゃね?」
「よし、英川チームにLINEだ」

 

英川チームに連絡をすると、新人チームは全員が一丸となって加藤にリプライを送った。RTに吊るしているように見えるように。

 

いわく、

「僕たちも今食べています!」
「おいしいですよね!」
「そんなにおいしいなんて!」
「私も買ってみます!」
「お土産にぴったりですね!」
「おいしすぎます!」
……
……

 

「吊るせ」と言うからには、ひとつでは足りないのかもしれない。
酔いと山歩きの疲労で眠けに襲われながらも、3人はリプライを送り続けた。

 

ひとしきり送ると、眠りたがる体を無理矢理動かして、歯を磨いたり、ゴミを片付けたり、諸々の寝支度をし始めた。
3人は誰も携帯を見ていなかった。
本日の研修は終わった、そう思っていたからだ。

 

だから、そのときLINEで起きていた、加藤と英川チームによる、以下の会話も知らないままだった。

 

「今日の研修の英語、『Hang in the RT』なんですよね? 吊るしてみました!」
「え、何?」
「何って、英文が『RTに吊るせ』になってるから、リプを送れってことですよね?」
「あ、今、初めて英川さんたちのトーク見た。英語、間違ってた? 終わったあと、カード見て英文チェックする係、俺じゃないから昼間気づかなかった」
「まちがっ」
「うん、あれ、『Hang in there』で合ってる。こっちが間違えてた、すまん」
「間違えてたって……、じゃあリツイートは」
「関係ないよ」

 

その後、英川チームの部屋から聞こえた、「罠だ! 湾田チームの罠だった!」という叫び声も、寝る支度を済ませてすでにベッドに入っていた3人には聞こえていない。

 

3人はすでに、すやすや眠っていた。
安寧な眠りである。
明日の朝、食事どきに英川チームと顔を合わせるまでの安らかな時間であった。

 

(おわり 20/30)

 

停電明けの邂逅

「雷すごいんだけど」
「うむ」
「目的地周辺です」

 

案田真弥(あんだしんや) と、酒巻(さかまき) 美逸(ミゾレ) が乗った車のナビがそう告げ、音声案内を終了した。

 

まだ日が沈む時間ではないというのに、辺りが暗い。
雷を産む雲が、黒く垂れ込めているせいだった。
雷鳴がとどろいている。

 

「案田、あんた大丈夫? 汗かいてるけど」
「うむ」

 

運転席の男・案田は、レトロなロボットのように、ただひたすら同じ返事を繰り返した。ロボットは絶対にかかない汗を額にかきながら。

 

「運転代わろっか? つっても、もう目的地に着いてるようなもんだけど……」
うむ。ミゾレさんはチェックインの手続きをしてください。俺は車を宿の駐車場に泊める。そしてコートを着る。それからトイレに行く。よろしく」

 

案田が、一方的に役割を指定した。
コートを着る、という手順をなぜ言語化したのか、酒巻には不明だったが、確かに案田は運転するにあたってコートを脱いでいた。
案田のコートは昨今の流行に逆らっているのか、はたまた作り手が何も考えていないのか、薄くも軽くもなく、ひたすらモコモコどっしりしたものだったため、運転するのに都合が悪かったからだ。

 

「あい。わかった。間に合うといいね、トイレ」
「うむ」

 

何度か空が光ったあと、雷鳴が響く。
ひときわ大きく雷がとどろいたあと、手荷物を持った酒巻が車を降りた。

 

宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の正面入り口前のロータリーである。
昨日までに降った雪は、雨で溶かされつつあった。
空からは、まだゴロゴロという音が鳴っている。
傘を持っていない酒巻は雨に打たれながら、小走りにイルズク第2棟の正面入り口に向かった。大した距離もなかったせいか、それほどずぶ濡れにはならなかった。
入り口にたどり着き、雪が残るひさしの下で、ハンカチで髪を拭きながら案田が運転する車を見守る。

 

案田が、建物の裏手に向けて車を発進させた。
ロータリーに入る前の看板に駐車場の方向が書かれていたので、それに従ったのだろう。酒巻は車を見送ったあと、ひとり建物を見上げながらつぶやいた。

 

「つうかここ、停電してね?」

 

試しに入り口にある扉の取っ手を回して引いてみる。
開いた。
自動でも何でもない扉だから当たり前なのだろうか。

 

停電はしていたものの、なんとかチェックインはできた。
フロントで、非常用なのであろう薄暗い照明の下、宿泊者名簿に記入する。フロントの人間はそれを受け取るとタブレット端末を操作し、酒巻に部屋番号を告げキーを渡した。

 

イルズクは、2階建ての、こじんまりとした建物が5つ集まった宿泊施設である。
外から見たときに、「ホテルというよりもログハウスっぽい見た目だな」と酒巻は思った。ログハウスは、ひと棟30部屋はあるだろうか。

 

酒巻が予約していたのは、そのうちのひとつ、第2棟の部屋だった。
特にどこに部屋を取ってほしいという希望を出していなかったため、どこの棟でも特に感慨はない。

 

団体客が何組かいるように感じた。
ジャージ姿の集団がいる。高校生だろうか。

酒巻は、フロントのあるロビーの隅で、案田にLINEを送った。
既読マークはつかない。

 

ロビーから離れ、廊下を少し歩き、ラウンジにたどり着く。
そこにある椅子に座り、携帯の画面を見る。
やはりまだ既読がつかない。

 

電波が悪いのか?
ラウンジを囲む壁がいけないのか?
そう思った酒巻が、座りながら携帯をあちらこちらに向けていると、ロビーにいた団体客がぞろぞろ歩いてこちらに歩いてくるのが見えた。
客室に向かうのだろう。

 

酒巻は携帯をラウンジのテーブルの上に置いた。集団を撮っていると思われても困る。
ジャージ姿の集団はぞろぞろと緩やかな列をなし、酒巻のそばを通り過ぎていく。
奇妙に動きがスローな高校生集団だった。学校行事だろうか。
雷の中どこかに出かけていたのだろうか。


酒巻がそんなことをぼんやり考えながら案田を待っているうちに、雷の音は遠くなっていた。外には、今まで雷にかき消されていた雨の音が戻ってきている。

 

雷の音がほとんど聞こえなくなったころ、案田がラウンジにやってきた。

 

「お待たせしました」
「お。やっとか。部屋で落ち合ってもよかったんだけど」
「ただ『チェックインした』とだけ言われて俺は部屋番号もわからないのに、どうやって落ち合うんですか」
「LINE見たんか。トイレで? そういやコート着てるね。つうか……、そのコート着たまま個室に入れたん?」

 

酒巻が、案田のコートのモコモコ具合を揶揄すると、案田はまだ青白い顔を改めて酒巻の方に向け、無表情で言った。

 

「トイレ行く前に着てる余裕なくて個室で着たら、ゴンゴン壁にぶつかりまくりました。めっちゃうるさかったと思う、隣の人。悪いことしちゃった」
「隣の人?」
「隣の個室を使ってた人、です。停電で水が流れなかったんで水の流し方を教えてもらいました。いい人だった……。顔も見てないけど」
「お礼言った?」
「言いそびれたんで、メッセージを残してきました」
「トイレに?」
「トイレに」

 

うなずきながら言う案田に、酒巻は何か言いたくなった。
何を言おうか迷ったが、やがて「男性用トイレのことは自分には関係ない」と心の中で切り捨て、うなずいた。

 

「そう。ほんじゃ、部屋行こうか」
「うむ」

 

案田は、青ざめた顔でうなずいた。

 

***

 

「で、仕事と関係ないんだけどさあ」

 

先に部屋に入った酒巻が、キーをカードスイッチに入れながら切り出した。
照明がついたが、薄暗い。停電はまだ続いていて、ついたのは非常灯のみだった。


あとから部屋に入ってきた案田の動作は、全体的に奇妙に素早かった。
その案田が、素早く部屋の扉を閉めてから、早口に言った。

 

「少々お待ちください、ミゾレさん」
「どうした」
「俺はこれからトイレにこもります」
「お、おう。宣言された」

 

酒巻が突然のトイレこもり宣言に面食らっていると、案田はテキパキとコートを脱ぎ、自分の手荷物とひとまとめにして、ベッドの脇に置いた。
テキパキ過ぎて早回しの映像を見ているかのようだった。
それから案田は、やはり早回しのような素早さで、部屋のシャワールームに入って行った。シャワールームの片隅にあるトイレに大事な用があるのだろう。

 

「しばらくシャワーは無理ってことか……、いや大浴場あるんかな、ここ」

 

酒巻は、静かになった部屋でひとりつぶやく。
持っていた荷物を、もうひとつのベッドの脇に置く。

 

酒巻たちがイルズクに泊まることにしたのは、仕事のためだった。
酒巻たちが所属しているのは、小さな事務所だった。
小さすぎて、いや、規模は関係なく、予算が足りないために出張費がまともに出せない。経費節減のためにツインルームを1部屋しか取らなかった。

 

男女同室など、昨今の常識で考えたらあり得ぬことなのだろうか。
酒巻も案田も独身の上に、妙なウワサが立ったところで悲しむ者もなく、特に問題なかろうとの判断だったが、問題はあるのだろうか。

 

本日の案田がトイレにこもりたくなる体調であることを抜きに考えても、酒巻は案田と同室でも特にかまわなかった。
むしろ「どんとこい」と言いたかったが、ふだんの案田の様子から考えれば「お断り」のようだった。
残念だ。
酒巻はため息をついた。

 

こんな残念な思いをしないためにも、ひとり1部屋取れるほどの予算が欲しい。
そう願わずにいられない酒巻だった。

 

さて。
本日は移動日だったため、空いた時間は案田と、仕事の話と、仕事ではない話などダラダラとしたくなった酒巻だったが、今の案田にその体調的猶予はあるのだろうか。


酒巻は、自分の鞄を探った。
下痢止めの錠剤のシートを取り出し、部屋に備え付けのテーブルの上に置く。
人の体調のことはよくわからないが、案田は下し気味なのではないか、そう判断したのだった。
案田がトイレでのこもり行を終えたら渡してみようか。
本当に下痢止めなので、妙な錠剤と勘違いされ、怪しまれないといいが。

 

テーブルの上にはやはり備え付けの、メモホルダーが置かれていた。ホルダーにはペンと、宿のロゴが入ったメモパッドが収納されている。
案田宛てに錠剤を勧める文章を書こうとして、いや、直接言ったほうがまだ怪しさが軽減されるだろうと思い直した。

 

酒巻は、ふだんの己の行いを少しだけ悔いながら、部屋に備え付けられた電気ケトルを手に取った。部屋の洗面台の蛇口には、「飲料水」と印字された小さなステッカーが貼ってある。
蛇口を開けて水を出す。ケトルを洗ってから水を入れ、台座に戻す。


スイッチを入れるが、反応がない。
部屋の照明も薄暗いままだ。停電はまだ続いている。
酒巻は、ケトルを置いた机の前にある椅子に腰掛け、電力が復旧するのを待った。

 

……
…………
………………

 

ハッと目を覚ました。
眠っていたらしい。

 

辺りを見回すと、すでに案田はベッドに入っていた。
遠目ではあったが、すやすやと安眠しているように見えた。
酒巻は迷ったあと、起こすのをやめた。
部屋の中は薄暗い。

 

椅子に座ったまま、窓の外を見る。
カーテンは開いたままになっていて、ガラス越しに外が見えた。
外はすでに暗い。
屋外灯の灯りが見える。停電が終わり、すでに電力が復旧しているということか。
部屋が薄暗いのは、案田がそうしたということらしい。
雨はすでにやんでいるようだ。

 

何時間眠っていたのだろう。
ケトルの横に小さなデジタル時計が置かれている。夜の7時過ぎ。
3、4時間は眠っていたようだった。

 

(寒いと案田の体調が治らんかもしれんし、できれば明日は晴れてほしいんだがなぁ)

 

そんなことを思いながら、酒巻はカーテンを閉めるために、もっそりと立ち上がった。
座りながら寝たせいで、体が痛い。
ゆっくり窓にたどり着き、カーテンに手をかけたところで、酒巻は動きを止めた。

 

「あん?」

 

見間違いだろうか。
今、何か。
外に、何か妖怪のようなものが見えた。

 

案田が寝ているベッドを振り返って見るが、相変わらず案田は、気が抜けるほど素直な寝息を立てている。

 

もう一度、窓の外を見る。
すると、先ほど見た妖怪のような何かが、窓のすぐ外にいた。どアップである。

 

「!!」

 

酒巻が思わず息をのむと、その生き物は窓を軽く叩いた。開けてほしいらしい。
よくよく見ると、その生き物は妖怪ではなく人間のようだった。
ジャージを着ている。女子生徒に見える。

恐れよりも、凍死を心配する気持ちが勝り、酒巻は窓を開けた。

 

「あんた何やってんの? 死ぬよマジで! そんな格好じゃ」
「こうそくで、あの、さむい」

 

ジャージの女生徒が、ガチガチと歯の根が合わぬまま発した言葉のうち、酒巻が聞き取れたのはそれだけだった。

 

***

 

「かくれんぼしてたらつい本気になって外に抜け出したはいいけど、ジャージいっちょじゃ寒かったと……いうこと?」
「そう」

 

酒巻は電気ケトルで沸かした湯を、粉末のお茶が入ったカップに注いだ。そのカップをジャージの女生徒に手渡す。
ジャージ女生徒は裸足で外に出てしまったらしく、酒巻に手渡された、部屋に備え付けのタオルで足を丹念に拭いていた。その作業を中断してカップを受け取ると、両手で包み、ふうふうと湯気に息を吹きかける。
椅子をジャージ女生徒に譲ったため、酒巻はベッドに腰掛けて言った。

 

「なんでまた本気でかくれんぼなんてしてんの、こんなとこで」
「校則やぶってたから。見つかると説教くらうし」
「ほぅ」
「チクりますか」
「言わないけどさ、つうかあたしがさらったと思われても困るから、できれば自分ひとりで部屋に戻ってほしい」
「今戻ったら叱られるんだけど」
「もういいじゃん、叱られたって。叱られるだけで済むなら全然いいじゃん」
「お姉さん、除光液持ってない?」
「持ってないよ。あたしは旅行にそんなもん持ってこない派。あきらめろ」
「うう」
「あきらメロン」
「なんでわざわざダジャレで言い直したの」
「なんとなく」
「うーん……、むす、とうございます

 

案田が何かをつぶやいた。
酒巻は案田のほうを振り返り、立ち上がると、ベッドのそばに近寄った。


眠っているようだ。
寝言だろうか。
寝息は相変わらず規則的だ。
そこまで体調が悪そうにも見えない。


話し声が大きかったのかもしれない。
酒巻は、案田の布団をそっとかけ直すと、静かに元いた自分のベッドの端に戻り、ジャージ女生徒のほうを向き直ってささやくように言った。

 

「さあ、あったまったら戻った戻った。この部屋のドアから廊下に出て、中から部屋に戻れば凍えなくても済むでしょ」
「そうだけど……。あ、これ、ありがとう」
「ん」

 

ジャージ女生徒は、タオルを酒巻に手渡した。

 

「そういえば、さっき洗濯室の前を通ったんだけど。外に出たときに」

 

女生徒は立ち上がってから、つぶやくように言った。
酒巻は、女生徒が何を言うのか予想がつかず、ただうなずいて先を促した。

 

「『コンタクトォー!』って叫んでる人がいた。外まで聞こえる大声で。あれって、コンタクトなくした嘆きなのかな?」
「なんだそいつ。まあ、そうかもね」
「実は昨日さぁ、同じ洗濯室で似たような場面見たんだけど……。昨日は『コンタクトぉー!』の人と、もうひとり先生がいて、なんか先生が落としたものを捜してるっぽかったんだけどさ。で、今日は先生メガネなのかと思ったらそうでもなくて、やっぱコンタクトしてるみたいだった」
「使い捨てレンズだったんじゃね? 手入れも楽だろうし、旅行なら使い捨てレンズは便利よね」
「あ、そっか。いや、ええ? そうかなあ。じゃあ、なんで今日はあの人、『コンタクトぉー!』って叫んでたんだろ。てか、あのふたりつきあってるのかな? 昨日はなんで洗濯室に一緒にいたんだろ」
「つきあって……るかな? そうとも限らんだろ……」
「『コンタクトォー!』って叫んでたの、合宿についてきてるカメラマンなんだけど。先生とつきあってるのかな?」
「……お説教回避するために教師の弱み握ろうって思ってる?」
「そんなことないない。純粋な好奇心です」
「つきあってないない。恋愛だけじゃないだろ、一緒にいる理由なんて」
「えー、そうなの? 残念」
「何が残念なんだか」

 

ベッドに腰かけて話していた酒巻の視界の隅に、何か動くものが見えた。
窓の外だ。
窓のそばに近づいて見ると、若い男性が庭をうろついている。

何かを捜しているように見えた。

 

「誰だあれ。なんか捜してんのかな」
「あ、あの人、宿のスタッフの人だよ。イケメンのお兄さんで、みんなウワサしてた」

 

いつのまにか酒巻の隣に来て、酒巻と同じく窓の外を見ていたジャージ女生徒が、ひそひそ声で言った。
酒巻は、ふと疑問を感じ、横にいるジャージ女生徒のほうを向いて問いかけた。

 

「……あの人が捜してんの、あんたじゃなくて?」
「えっ。なんで?」
「先生が頼んだとか」
「マジ? やっべ。私、今、イケメンに捜されてる」
「喜んでる場合じゃないだろ。ほれ、行った行った」
「えっ。……外に?」
「いや、どっちでもいいけど。イケメンと話すチャンスではある。けど」
「別に私、そこまでイケメン好きじゃない」
「どっちでもいいけど。でも」
「教師に見つかったら最初から叱られるよね……」
「え、ちょっと。イケメン好きじゃないと言いつつイケメン好きなのかよ。いや、ちげえ。おとなしく中から戻れ。教師に叱られても寒いよりマシだろ」
「よし、お姉さん、ありがと! じゃっ!」

 

ジャージ女生徒は、酒巻の言うことなどまったく意に介さず、窓を開けると、そこから外に出た。

 

(あ。……)

 

酒巻は、宿のスタッフが本当に何かを捜しているのかどうか、捜しているとしてもそれがジャージ女生徒なのかどうかわからない、とも今さら言えなくなった。
ジャージの女生徒は、ぴょんぴょんと溶けかけた雪の上を跳ねて移動する。
スタッフは、まだ女生徒に気づいていない。

 

(裸足なんだよな、あの子……。やっぱ裸足のまま外に出すんじゃなかった。すまん)

 

酒巻は、ここから大声でスタッフに呼びかけることも考えたが、部屋の中の案田を起こしてしまうことを恐れ、ただ見守った。

 

スタッフが、ジャージの女生徒に気づいた。
やはり女生徒を捜していたらしかった。
ジャージ女生徒とスタッフのあいだにはまだ距離があったが、ふたりが、やや大きな声で会話する声が酒巻にも聞こえてきた。

 

酒巻は窓を閉めた。
閉めたガラス窓から外をそのまま見ていると、ジャージの女生徒が、飛び跳ねながらスタッフに近寄って行った。

 

建物から、ほかの大人が数人出てきて、ジャージ女生徒にタオルやスリッパを手渡すのが見えた。教師だろうか。あるいは、宿のほかのスタッフか。

女生徒は跳ねるのをやめ、スリッパで歩き、宿の正面入り口に入っていった。

 

酒巻はため息をつくと、カーテンを閉めた。

室内には、案田の寝息が聞こえていた。
シャワーを浴びて、自分も寝よう。
酒巻はそう思い、自分の手荷物をあさり、支度をする。

 

シャワールームに行く前に女生徒が腰掛けていた椅子を元の位置に戻す。
その際、テーブルの上にメモがあるのに気づいた。
自分の筆跡ではない。
女性の文字だと酒巻は感じた。
ジャージ女生徒だろうか。いつの間に書いたのだろう。

 

「お兄さん、薬飲んで元気出してね。お姉さんが超心配してるから」

 

なんと。
なんと世渡りのうまい。
いや、そうではない。

 

案田とは話すらもしていなかったはずなのに、下痢に気づいたのか。ここに置かれた薬は、案田のために用意したものだと理解したのか。
その洞察力があるのに、なぜ本気でかくれんぼをしてガチガチ震える羽目に陥るのか。

 

酒巻は、感心するような、あきれるような妙な気持ちになりながら、そのメモと、テーブルの上に出してあった錠剤を並べて置いた。
案田が目を覚ましたら読むかもしれない。

 

ひとまず酒巻は、シャワーを浴びることにした。
酒巻はシャワールームに入り、その扉を静かに閉めた。

 

(おわり 19/30)

 

イルズクの洗濯室でコンタクトと叫ぶ

「あなたの叫び声を聞いた人がいるのです」
「どこで! どこで聞いたって言うんです、その人は。ここには誰もいませんでしたよ」
「それは……」

 

渡瀬は、そこで窓の外を指さした。

 

「外です!!」
「そ、そんな……!」

 

餅居(もちい)一馬は、ヒザから崩れ落ちた。

 

洗濯室である。
昨日ここで、ふとしたことから持ち主不明のコンタクトレンズを見つけてしまった渡瀬は、「ヒマな時間に持ち主を探してみよう」キャンペーンを個人的に実施していた。
上司にコンタクトレンズの落とし物のことを報告したとき、やんわりと、落とし主を探すよう指示されたからだった。

 

渡瀬はここ、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」のスタッフとして働いていた。
客室以外の設備の整備や管理を担当していて、忙しいときには、ほかの場所にもヘルプに入る。


今は夕食と、その片付けのヘルプも終わり、残る渡瀬の仕事は大浴場の清掃だけだったが、大浴場の利用時間が終了する23時までは少し間があった。
そんなわけで渡瀬は、昨夜見つけたコンタクトレンズの持ち主捜しをしていたのである。

 

「そんな……。外にまで聞こえる大声で叫んでいたなんて……。われを失いすぎました。お恥ずかしい」

 

先ほどヒザから崩れ、今は床にしゃがみこんでいる餅居が、眉をハの字にした表情でつぶやいた。
うつむいているため、メガネに隠れて眉毛より下の表情はよく見えない。

 

餅居は、ここイルズクに客として宿泊している。
植矢高校の「オリエンテーション合宿」という行事に、カメラマンとして同行しているのだった。

 

渡瀬の上司が、コンタクトの落とし主を捜すよう渡瀬にやんわりと指示したのは、学校の合宿で宿泊している団体客のためでもあった。
学生が落とした場合、おそらくフロントに問い合わせる前に教師にコンタクトを落としたことを申し出ねばならず、言い出しにくい雰囲気があったりはしないのだろうか、という想像を上司がしてしまったためである。
実際に、植矢高校の校風が、そこまでかたくななものなのかどうなのか渡瀬にはわからなかったが、上司の指示に逆らう理由はなかった。

 

渡瀬がなぜ餅居にたどり着いたかと言えば、証言を得たからである。
先ほど、「外で、カメラマン餅居の叫び声を聞いた」という証言を。

 

「あれは餅居さん、合宿についてきてるカメラマンの人だと思います」

 

その証言の主はそう言っていた。
窓の外から、叫び声の主を見ていたのである。
証言の主がそんな時間に外で何をしていたのかは、すでに判明していた。
証言をした生徒は、さきほど、だいぶ教師に絞られていた。片はついている。

 

「餅居さん、あなたはこう叫んでいたそうですね……、『コンタクトォー!』と」
「はい……。うかつに叫ぶものじゃないですね……。どこで誰に聞かれているやら、わからない」
「餅居さん、あなたは、ここでコンタクトをなくされたのではありませんか?」
「その通りです……。もう勘弁して下さい」
「そのコンタクトは、これではありませんか?」

 

渡瀬は、しゃがみこみ、餅居と視線の高さを合わせると、先ほどから手に持っていた小さなビニール袋を餅居の目の前に差し出した。
中には、昨日拾ったコンタクトが入っている。
だが、餅居はあっさりと否認した。

 

「いえ、違います」
「えっ」

 

渡瀬は、ビニール袋を持ち上げたその姿勢のまま硬直した。

 

「ち、違うんですか?」
「違います。私のコンタクトはもう見つかっています」
「しかし、えっ、すみません、どういうことでしょうか」
「叫び声を上げてしまったのは、コンタクトを見つけたからなんです」

 

渡瀬は、ようやく手を下ろすと、しゃがんだまま考え込んだ。
考え込んでもわからない。

 

「あの……、何があったんでしょうか」
「はあ、まあ、要するに、コンタクトは洗濯物に紛れていたんです。……ということに、洗濯が終わってから気づきまして。今日の昼間、山で転んで、服が泥まみれになってしまったので、夜になって洗濯していたわけです。ここの洗濯室はみんな乾燥機能がついてるんですよね」
「はい。あ」
「そう、乾燥が終わった服を取り出してみたら、干からびたコンタクトが床にポロリと落ちまして。ああ、やっちまったと……それで叫んでしまったんです」
「ああ……」
「はい。だから、もうレンズは見つかっているんです」
「そうでしたか……」
「そうなんです。レンズを買った店によると、まだ保証期間中だから、干からびたレンズを持って行けば交換はしてもらえるみたいなんですけど。でも、そんなこと関係なく、叫び声がつい口からほとばしってしまいました。お騒がせしました」
「いえ、あの。すみません、なんだか失礼な感じになってしまって、俺」
「いや、いいんです。『コンタクトォー!』なんて叫び声上げてる時点で、人から何か言われるに決まってるのに、つい叫んでしまった私もアレなので」
「いや、そんな」

 

しゃがんだまま、お互いに頭を下げ合った。
そののち、ゆるゆると立ち上がった渡瀬が「ではこのコンタクトは誰のものなのだろう」という、元の疑問に戻ってコンタクトの入った袋を見つめていると、やはりのろのろと立ち上がった餅居がさらに言った。

 

「そのコンタクトはソフトですよね。私がなくしたのはハードレンズですから、何にしても違いますね」
「はい。すみません」
「いえ、かまいません」

 

確かにおかしい気はしていた。

渡瀬がレンズを拾ったのは昨日だというのに、今日になって叫んでいるのはおかしい。おかしいといえば、「コンタクトぉー!」と叫ぶこと自体がおかしいのだが、それを言いだすとキリがない。

 

証言した女生徒は、

 

「昨日、カメラマンの人と一緒にいたときに、先生がコンタクトをなくしたんだよ、きっと。そのあと先生メガネかけてたし。でも今日はメガネかけてなかったんだよね……。がんばって裸眼で見てたのかも。だから、カメラマンの人は今日も先生のレンズを捜してたんじゃないかな。で、見つからなくて、涙とともに『コンタクトぉー!』って叫んだんだよ、きっと」

 

という推理を披露していたが、今となっては珍推理以外の何物でもない。

渡瀬はため息をついた。

聞いたときは、すごく説得力があるような気がしてしまった。

ため息をついた渡瀬に、餅居は気遣うように言った。

 

「たぶんソフトレンズの人ですよね、落とし主は」
「そうですね……。あの、俺はコンタクトしないのでわからないんですが、ソフトレンズ……を、落としますかね」
「私もソフトレンズは使いませんが、どうなんでしょう、ハードよりは落としにくいとは聞きます」
「ですよね」

 

とはいっても、実際にソフトレンズが落ちていたのである。
一般的な落としやすさ指数は関係ないのかもしれない。

 

「洗濯室ですよね、ここ」

 

餅居が、周囲を見渡しながら言う。

 

「ええ」
「洗濯しに来た人が落としたんですかね。というと、学校関係者だと先生のうちの誰かでしょうね。生徒はここ使わないですよね、そのためにいつもジャージ着用を義務づけられてるみたいだし。先生でなければほかのお客さん、ですかね」
「ああ、そう言われればそうですね……。どなただとしても、落とした人がフロントに問い合わせてくれるといいんですが」
「まさか、コンタクトが遺失物として届けられてるとも思わないかもしれませんね」
「それはありそうですね……」

 

確かにフロントに「コンタクトを落としました」とは言い出しにくいかもしれない。
なぜ自分はコンタクトを見つけてしまったのだろうか。
しかし、見つけてしまったからには遺失物として扱わなければならない。
今いる客が帰ったら、ほぼ確実に落とし主は見つからないだろう。
……なぜ自分はコンタクトを見つけてしまったのだろうか。

 

渡瀬が、考えても仕方のないことをぐるぐる考えていると、床に光るものが見えた。
それ自体が発する光ではなく、洗濯室の照明を反射している光に見える。

 

何だろう。


渡瀬はその、光る小さな何かに近づいた。
しゃがんで、よく見てみる。

 

「……」

 

コンタクトだった。

またしてもコンタクトを見つけてしまった。
なぜ。
なぜ自分は、見つけても厄介なだけのコンタクトレンズを見つけてしまうのか。

 

「どうしました」

 

渡瀬が床の上のレンズを見なかったことにしようかどうしようか迷っていると、背後から餅居の声が聞こえた。

 

「いえ、あの、何でもないです」
「何か落ちてますね」
「はい、あの、えっと」

 

餅居は渡瀬の横に並ぶと、ヒザに両手を当てながら上体をかがませ、床を見た。
その姿勢で、渡瀬の視線を追って、床を見る。

 

「あ、コンタクト」

 

見つかった。
もはや、見なかったことにはできない。

 

「はい……。2枚目、ですね」
「増えましたね……」

 

渡瀬は、床に向かって、人差し指を伸ばした。
床に落ちたコンタクトを指に載せると、ため息をついた。


1枚でも落とし主が見つからないというのに、2枚。
いや、枚数が多いほど落とし主が見つかりやすくなるのだろうか。


どうなのだろう。
よくわからないが、放っておく訳にもいかない。

 

渡瀬はコンタクトを前に、もう一度ため息をついたのだった。

 

(おわり 18/30)

 

ハイド&シーク

「あ、剥がれてる」
「あ、ほんとだ。剥がれてる」

 

ジャージのふたりは、靴下を脱いで、お互いの足の爪(につけた塗料)についての感想を述べ合った。

 

植矢高校の「オリエンテーション合宿」(4泊5日)2日目の夜だった。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」第2棟の一室である。


イルズク第3棟には3人部屋と4人部屋があったが、第2棟にはふたり部屋しかない。
この部屋にいるのは、佐凪(さなぎ) 花穂と水希乃絵のふたりだけだった。

 

「せっかくうまく塗れたのに……」

 

佐凪は落胆した。

おそらく昼間の山歩きの際にであろう、ペディキュアの一部が剥がれてしまったのだ。
ジェルネイルやネイルアートなどを施さない、手軽に塗れて気軽に落とせる素朴なペディキュアだったが、ふたりにとっては冒険だった。
手でも足でも、爪に色を塗ることは、校則で禁じられているからである。

 

足ならば誰もチェックしないだろう、バレないだろう、との思いから、佐凪は足の爪にネイルカラーを塗ってきた。
色は違えど、同室の水希の足の爪にも色が塗られているのを発見したときに、ふたりのあいだに絆が生まれた。
ペディキュア同盟である。

 

校則で爪に色を塗ることは禁じられていたが、スマホは禁じられていない。写真が撮れなくなるからである。
いまどき、合宿で写真を撮ることを禁じるのは、人権的な問題があるのではないか。
そんなことを学校側が思っているのかどうか生徒側には不明だったが、とにかく合宿では、スマホだけは自由に使えた。

 

「でもインスタとかに上げたらダメだよね~」

 

佐凪が携帯を片手に、水希に向かって問う。

 

「ダメだろうねぇ。全世界に校則破りを公開してたら、絶対誰かに見つかるし。見つかってチクられるよね~」
「だよね~。そういうエンタメだよね~。調子に乗った校則破り犯をボコボコにするっていう」
「社会的にボコボコにね」
「そうそう」

 

山歩きで疲労していたため、ふたりともぼんやりしていた。
ノックの音が響く。

 

「……」

 

ぼんやりしながら会話していたため、ノックの意味を理解するのに時間がかかった。

 

「点呼です。ドアを開けて」

 

ドアの向こうから声が聞こえる。
ふたりは顔を見合わせた。
靴下を履いている時間はあるだろうか。

 

「佐凪さん、水希さん。ドアを開けて」

 

時間はない。
そう判断した佐凪と水希は、手に携帯を持ったまま、素早く動いた。
隠れたのである。

 

水希「隠れなくてもよくね?」

 

隠れた場所から、交換したばかりのLINEでトークする。

 

佐凪「ほんとだな! てか、これじゃ先生部屋に入れなくね?」
水希「まさかドアこじ開けたり」
佐凪「えぇ……」

 

LINEで、お互いがどこに隠れたのかもわからぬまま会話していると、部屋の鍵を開ける音がした。

 

水希「マスター!」
佐凪「キー!!」

 

佐凪と水希は、LINEで悲鳴を上げた。

 

水希「マスターキーで入って来ちゃったっぽいんだけど」
佐凪「あー怒られる。怒られるやつだこれ。めっちゃ怒られるやつ」
水希「えっちょっと、マジこわ、今、目の前通った」
佐凪「私のとこは大丈夫……」
水希「え? てか佐凪、どこ隠れてんの? 教師、部屋中探してるけど」
佐凪「ふっふっふ……、さあどこでしょう!!」

 

「……」

 

水希は携帯の画面を見つめた。
しばし考えたが、イラッとした気持ちは変わらなかったので、アプリを終了させた。
どうせ佐凪はすぐに見つかるだろう。
そう思ったのである。

 

結果から言うと、すぐに見つかったのは水希だけだった。
部屋の入り口にあるクローゼットに隠れていたのである。
水希はその後、ひとしきり教師から小言を食らった。
そのあと、教師に、佐凪の居場所を問いただされた。

 

「さあ。わかりません」

 

知らなくてよかった。
知っていても隠しただろうが、知らなければチクりようがない。
水希は内心ほっとしながら、その後も、佐凪の居場所は知らぬ存ぜぬと、本当のことを言い続けた。

 

その場には、点呼に回っている教師ふたりとは別に、もうひとり人間がいた。
その人間は、教師が部屋の中を捜し回り、その後、水希に詰めよっているあいだ、部屋のドアの外に所在なさげに立っていた。
マスターキーを使う関係上、ここに立ち会った宿泊施設のスタッフだろうか。

 

(グッドルッキングあんちゃんだな)

 

水希が密かにそう思っていると、そのグッドルッキングあんちゃんが口を開いた。

 

「えっと、これだけ探してもいないってことは、外ですかね。俺、外見てきます」

 

そう言うと、その場から立ち去った。
その言葉を聞き、教師が部屋の窓を開け、窓の外をチェックしたが、やはり佐凪は見つからない。

 

(どこ行ったんだ、佐凪)

 

水希はにわかに不安になり、携帯で連絡を取ろうと思ったが、教師の目が気になった。
なかなか佐凪と連絡が取れない。

 

「水希さん、ほんとに佐凪さんの居場所、知らないの?」

 

ふたりの教師のうちのひとり、音田教諭が水希に向かって尋ねた。
水希は、今夜何度目かわからない言葉をまた繰り返した。

 

「わからない」
「LINEは?」
「知らない」

 

そこだけ嘘をついた。
まずい。
嘘をつくと、だいたいバレる。
時間が経てば経つほど、しゃべればしゃべるほど、バレる確率は上がる。

 

(もう、このあとの予定は風呂入って寝るだけだし、早く出てきてくれねえかな佐凪)

 

水希はこの場の緊張感が面倒くさくなり、そんなことを思い始めていた。

その後も佐凪捜索は続いたが、部屋の中にも、部屋の周囲にも佐凪はいなかった。

 

「まさかとは思いますが、何か犯罪に巻き込まれたとか……」
「まさか」
「いえ、まさかとは思いますが」

 

不穏な空気が部屋に流れ始めた。
水希は不思議な気持ちになった。
ペディキュアを隠すつもりで、思い思いの場所に隠れたはずだった。
その佐凪が、なぜ犯罪に巻き込まれるのだろう。
どこからやってきた犯罪なのだろう。

 

教師たちは、いったん廊下に出てひそひそと相談し始めた。部屋の中に取り残された水希は、こっそり携帯をチェックしたが、佐凪からの連絡はない。
水希はLINEを送った。

 

水希「佐凪、今どこ? 教師、すんごい探してる」

 

返事はないだろう……と、水希は予想していたが、予想に反してすぐに返事が来た。

 

佐凪「見つかった。今戻ってるとこ。足が超寒い」

 

見つかった。
水希は、自分で思っていたよりも安堵した。
隠れている佐凪のために、「見つからなければいい」という願望も心のどこかにはあったが、それよりも佐凪が無事に戻って来れるほうに安心したのである。

 

だが、このことを教師に知らせてしまうと、「LINEを交換していない」という、水希のささやかな嘘がバレる。佐凪が見つかったことは言えない。
しかし、佐凪が戻ってくるまで、事態が大事にならないように教師たちを引き留めたほうがいいのだろうか。
水希は、廊下で話し込んでいる教師ふたりに近寄った。

 

「警察に知らせるべきでしょうか」
「時間が遅いですが。その前にほかの先生たちにご意見伺ったほうが。でも急いだほうがいいですよね」

 

「警察」という単語に驚き、水希は口を挟んだ。

 

「ちょっ、先生」
「なに。水希さんは部屋に戻って」
「いや、ちょ、警察はちょっと」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう。いいから部屋に戻って」
「えー、あーの、音田せんせー!」
「何ですか」

 

点呼に回っていたふたりのうち、名指しされたほうの教師・音田が、深刻な顔のまま水希のほうを向いた。

 

「そのメガネ、かわいい。昼間メガネじゃなかったのに、なんでメガネ? 目の調子悪いとか? 温泉入ったら?」

 

水希が口から出任せを言うと、音田は顔をしかめて言った。

 

「温泉じゃないのよ、この旅館の風呂。大浴場はあるけど温泉じゃないのよね。いや、そういうことじゃなく」
「わかってるよ。たぶん大丈夫だよ、佐凪は」
「そうだといいよね、いいからもう部屋に戻って」
「でも音田先生、メガネかわいいのはほんと」
「ありがとう。コンタクトなくしただけなんだけど」
「え。あら」
「ワンデーだから特に困ってもいないけどね。ビックリするくらい吹き飛んだ、コンタクトが。実は昨日も飛ばしちゃったのよね。たぶん私、最初に目に入れるほうのレンズを裏返しのまま入れしまうクセがあるんじゃないかと……。ってそれはどうでもいいんだけど」
「どこでなくしたの?」
「それ今関係あるの……、洗濯室で。さあもう、あなたは部屋に入ってて」
「え、ずるーい。先生だけ洗濯してたの? うちら、ずっと同じジャージ着てるのに」
「だから合宿のあいだだけ、中の体操着はTシャツでもいいことになってるでしょう」
「そうだけど……。あ、佐凪」
「え」

 

廊下を、こちらに向かって歩いてくる佐凪が見えた。
その後ろから、先ほどの宿泊所のスタッフらしき男、グッドルッキングあんちゃんが付き添っていた。


あの人に見つかったのか。
ということは、佐凪は外にいたのか。
水希は、口には出さず、そんな感想を抱いた。

 

「佐凪さん! どこに行っていたんですか!」
「まあまあ、音田先生。見つかってよかった」
「……」

 

佐凪は、震えていた。
歯の根が合わずにガチガチと音を立てる。

 

「ざ、ざぶい……」

 

ガチガチいう歯の隙間から、それだけをポツリと言った。

 

「……」

 

謎に凍える佐凪を見て言葉を失ったあと、教師ふたりは佐凪の後ろにいる宿泊施設のスタッフを見た。

 

「コートも着ずにジャージだけで、しかも裸足で外にいたので、まあ凍えますよね……。まだ外、雪が残ってるとこもあるし」

 

彼はそう言った。

確かにそうかもしれない。その場が、納得したような空気になった。

そのあと教師ふたりは、合宿に引率として参加している養護教諭の元へ、佐凪を連れて行くことになった。

 

水希は、宿泊所のスタッフが言った「裸足」と言う言葉に反応して、佐凪の足を見た。
素足に、どこで借りたのか、スリッパを履いている。
今は爪が隠れているが、いずれ養護教諭にはペディキュアが見つかってしまうだろう。

 

(こりゃ、お説教は確実だね)

 

校則を破っている時点で説教は最初から確実だったが、さらに隠れた分、さらに外に出て行方知れずになっていた分、さらにその行動で凍えた分、いろいろなものが上乗せされた説教を食らうだろう。
水希は天井を仰いだ。

 

水希は、佐凪が本気でかくれんぼをやっていたことを理解していた。
かくれんぼは、本気で隠れるものじゃない。
水希はそう思っていたが、本気で隠れる佐凪のことを嫌いだとも思えない。

 

生徒の立場で、教師相手に本気のかくれんぼをしても、怒られるだけだ。
本気でかくれんぼをするなら、大人になってからのほうがよさそうだ。
いつか。
いつか誰にも怒られない大人になったら。
大人なのに、佐凪が本気でかくれんぼをしたがるときがやってきたら。

 

(付き合ってやってもいいかな)

 

佐凪はブルブル目に見えて震えながら、教師ふたりに付き添われて階段を下りて行く。

 

(ま、いい年こいて、本気でかくれんぼなんてしたくなるわけ、ないけど)

 

階段から見えなくなる佐凪の後ろ姿を見送りながら、水希は少しだけ笑みを浮かべた。

 

(おわり 17/30)

 

元の顔に戻れるのか

甘木は目を疑った。
卒業アルバムをもう一度見て、それから目の前にいる渡瀬の顔と見比べた。

 

違う。
顔が違う!

 

ことの起こりは、甘木と渡瀬、ふたりが働く宿泊施設「ログキャビン・イルズク」に、渡瀬の叔母・充香が泊まりに来たことだった。

叔母自身が主宰する「Fake flowers」という地域のサークルの慰安旅行で、イルズクに宿泊しているのである。

 

実家を飛びだした渡瀬が、地元であるこの町に戻り、イルズクで働き始めたのは2年前のことだ。
そして、すぐに叔母に見つかった。
叔母は強運の持ち主で、渡瀬はハズレを引くことにかけては、他の追随を許さぬハズレ運を持ちあわせていた。
つまり、見つかったのは偶然である。

 

しかし叔母は、渡瀬の希望を聞き入れた。

実家に居場所を教えないでくれ、という希望を。
そのかわりに、叔母は、なにかというとイルズクに泊まりに来るようになった。
叔母の目的が何なのかは渡瀬にはよくわからなかったが、とにかく渡瀬の希望は聞いてくれている。
渡瀬は実家に戻る気はなかった。
戻ることは許されないと思っていた。

 

そんな渡瀬の事情とは関係なく、昼ごろ、イルズクでは雷が原因の停電が起きた。

停電とはいっても、非常灯がついていて、廊下も室内も真っ暗ではない。
その中で、渡瀬は上司の加藤とともに、客室を回り、現在の状況を説明して回った。
その中には叔母の泊まる部屋も含まれていた。


叔母は、説明を聞き納得すると、渡瀬を呼び止めた。
そうして、封筒に入った重い何かを渡瀬に手渡して言ったのだった。

 

「テレビ見てるとさ、犯罪を犯した人は、みんな小学校とか中学校の卒業アルバムと文集を勝手にさらされるそうだよ。あんたも気をつけるんだよ。『今、何かやらかすと、これが日本中に報道されまくる』って常日頃から自分に言い聞かせな」

 

封筒の中身は、小学校と中学校の卒業アルバムと文集だった。
ろくに荷物も持たず実家を飛びだした渡瀬は、それらを実家の自室に置きっぱなしにしていた。ホコリをかぶったアルバムと文集を、なぜか叔母は発掘して、宿泊施設に持ちこんでいたらしい。

 

渡瀬に犯罪を犯す気はまったくなかったが、周りから見ると、いつか何かをしでかしそうに見えるということなのだろうか。


しかし、なぜ停電時に渡すのだろう。
そう疑問に思った渡瀬が叔母本人に尋ねると、

 

「おまえの顔を見て『そういえば』って思いだしたんだよ」

 

とのことだった。

いつものごとく、渡瀬には叔母が何を思っているのかよくわからなかった。
わからないまま、渡瀬は重い封筒を受け取った。

 

幸い、数時間で電気は復旧した。
泊り客への説明が終わったため、渡瀬は加藤と別れてスタッフルームに向かっていた。

卒業アルバムと文集の入った封筒を持ち、1階の廊下を歩いていたときだった。

廊下の照明が数秒間消えた。

思わず渡瀬は天井を見上げ、立ち止まった。照明がまた点灯した。

非常用ではない、通常の照明で、廊下がいつもの光に照らされた。

 

停電が終わった。

渡瀬はそう思いながらまた歩き始め、階段を下りた。

1階の廊下で、甘木と出くわした。
出くわしたのが従業員用のトイレの脇だったせいなのか、辺りにほかの人影はない。

 

「あ、莉子ちゃ……じゃなかった、甘木さん、お疲れ様」
「お疲れ様~。やっと停電終わって、エレベータ使えるようになった~」
「ワゴン、戻せたんだ。早いね」
「うん。あれ、何持ってるの?」
「あ、これ……、卒アル」

「誰の」

「俺の。叔母が発掘してきたみたいで」

 

甘木は目をキラキラと輝かせた。

 

「見たい!」

 

そして見た。
停電復旧後の廊下にて、アルバムを見たのだった。

そして気づいた。
渡瀬の顔が、中学時代と違うということに。

 

「なんで? 成長したから?」
「いや、成長してもケツアゴは変わらないと思う」
「ちょっと待って、え? 名前を変えたとか?」
「いや、整形。変えたのは顔のほう」
「……」

 

驚きの表情のまま、甘木は動きを止めた。
しばらくすると、息を吐き出し、脱力した。

 

渡瀬は少しだけ不安になった。
自分にとって顔を変えることなど大したことではないのだが、ほかの人間にとっては違うのだろうか。
顔を変えたことが理由で、今まで上手く行っていた、ふたりの関係が悪くなったりするのだろうか。


いや、まさか。
そんなことで気が変わるなんて、自分たちはそんな薄っぺらい関係ではないはず。

 

渡瀬は、自分を信じることはあまりない、つまり自信があまりない人間であったが、自分が好意を持った人間に対しては、根拠のない信頼をやたら篤く持ってしまう癖があった。
だから今回も、そんなことで嫌われるはずがないという、根拠のない自信があった。
甘木は、そんなに簡単に自分を嫌うような人間ではない、そう信じていたのだ。

 

が、甘木の反応は渡瀬の思いに反して、好意的とは言いがたいものであった。
甘木は眉と眉のあいだにしわを寄せた、しかめっ面で渡瀬の顔を眺め回した。
そして視線をそらせると、ため息をついた。
その動作を何度も繰り返した。

 

何度も繰り返されるうちに、渡瀬は悲しくなってきた。
このままでは泣いてしまうのではないかと思ったので、本人に尋ねてみることにした。

 

「あの……、この顔、気に入らない?」
「え、うん」

 

はっきりと断言され、なんとも言いようがなくなった渡瀬は黙った。
黙った渡瀬に向かって、甘木はゆっくりと説明を始めた。

 

「いやぁ、違くてさ。最初から顔が好きではないなと思ってた。けど、渡瀬が好きだったから、顔は別にいいかって」
「……じゃあ、なんで」

 

顔が好きで付き合っているわけではないのなら、顔を変えていようが何だろうがかまわないはずである。
それなのになぜ、「気にくわない」を絵に描いたような顔に、態度になるのか。
甘木はアルバムを見ながらひときわ大きくため息をついたあと、渡瀬に視線を戻して言った。

 

「こっちのほうが好き」
「え」
「昔の……、元の渡瀬の顔のほうが、私の好み」
「……ケツアゴだけど」
「それの何がいけないの。パーツじゃなくて、全体のバランスが超好きなんだけど、渡瀬の顔」
「そ、それはどうも」
「いや、昔の渡瀬の顔のほうね」
「今は」
「今ぁ? 今ねぇ……。まあ、好みじゃないなって……」
「……この顔、実はお金かかってるんだけど」
「そうかぁ、無駄だったよねぇ……」
「……」

 

甘木の言葉に、渡瀬はうなだれた。


なんという。
何という思いやりのない言葉。
でも嫌われたくない。

 

そもそも当時の知り合いに影響されて整形をしたため、渡瀬は昔の自分の顔が憎いわけではなかった。
憎いわけでもない昔の自分(の顔)を褒めちぎられてよろこべばいいのか、それとも金と手間のかかった今の顔をけなされて怒ればいいのか。
どちらかに感情を振り切ることもできず、渡瀬はぼんやりと床を眺めた。

 

「だからさぁ……」

 

うなだれて床を見つめていると、甘木が続けた。

 

「なんで顔変えちゃったのよって、渡瀬の顔見るたびに思ってしまう」
「……」
「まだわからないけど、これから先もそう思ってしまうのなら私どうしたらいいのか」

 

どうしたらいいのかわからないのは自分のほうだ。
渡瀬は「嫌われるくらいなら、先に嫌ってやろうか」とチラリと考えた。
先に別れを切り出せば、心が引き裂かれるような思いからさっさと離れられる。

 

……ダメだ、言えない。
別れなど切り出せない。
甘木と会わない休日をどう過ごせばいいのかわからない。
それだけではないが、それがすべてを象徴しているかのようだと渡瀬は思った。

 

ずっとうつむいて涙をこらえていたせいで、鼻水が出てきた。
鼻水くらいで甘木が自分を嫌うとも思えなかったが、整形のこともある。
何が甘木に嫌われるのか、もはや渡瀬にはよくわからない、罠だらけの床を歩いている心持ちだった。

 

とにかく鼻をかもう。
かんだらかんだで、鼻をかんだ紙が汚いだの、手が汚いだの言われるのかもしれなかったが、人からどう見えるか以前に、自分の鼻がむずむずして耐えられそうもなかった。
ポケットからティッシュを取り出そうとした瞬間、鼻水が垂れた。

 

(あっ)

 

恥ずかしいような、情けないような、消え入りたい気持ちになった。

 

「ふはっ」

 

笑い声が聞こえた。
鼻水を垂らしたまま見ると、甘木が笑っていた。

 

「ああ、もう、鼻たれてるって……はい、チーン」

 

渡瀬よりも早く、ポケットからティッシュを取りだしていたらしい甘木が、渡瀬の鼻水をぬぐった。
なんだろう。
なんだろうこれは。

 

子供扱いなのか。
怒るべきなのかもしれなかったが、そう考えてみるとずっと子供扱いされてきたような気もする。どこから怒ればいいのかわからない。

 

いや、それはいい。そんなことより甘木の笑顔だった。
莉子ちゃんが笑っている。
ニコニコしている。
かわいい。
いや、そうではない。

 

「莉子ちゃん、機嫌直った?」

 

職場では名字で呼ぶことにしていたことも忘れ、渡瀬は尋ねた。
辺りにだれもいないせいなのか、甘木もそれをとがめなかった。
かわりに、甘木は、器用にも顔を瞬時に真顔に戻して言った。

 

「いや、それとこれとは別」

 

わからない。
甘木の考えていることがよくわからない。

 

渡瀬は、甘木にその後も鼻をティッシュで優しく拭かれながら、よりいっそう困惑を深めたのだった。

 

(おわり 16/30)