スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

空に立ち上り、たゆたう

煙がどこからともなく上がっている。
どこから?

 

雪が降っている。
どこから?

 

どこからかはわからない。
どこに向かっているかはわかる。
空へ。大地へ。


あの日を思い出す。

俺が家を出ることになった日だ。
あのときから今まで、家には戻っていない。

 

祖母が死んだ。
病院で死んだ。
そのときの自分の感情は思い出せない。
呆然としていた。

 

通夜をやった。
やったのは俺じゃない。
通夜も葬式も家でやることになった。
病院から祖母のなきがらが車で運ばれてきた。
運んだのは葬儀会社の人間だ。

 

家の男たちが、車から祖母を下ろして家の中に運んだ。
うちは無駄に男手が多い。
男ばかりの3兄弟で、俺はその次男だった。
男だからといって、誰もが腕力が強いわけじゃない。
主に祖母を支えていたのは兄、そして父だった。

 

家の一室に横たえられた祖母の横には、小さな机が置かれていた。
小机の上には、花、線香、水、火がついたろうそくと(リン)
夜、線香と、ろうそくの火を絶やさぬよう、俺は一晩中祖母のそばに座っていた。

 

途中、兄が交替のために起きてきた。
長男は大学生で、すでに家を出ていた。
葬儀のために戻って来ていたのだ。

 

俺は替わらなかった。
「いいから眠れ」と兄を自室に追い返した。
ゆらゆら揺れる、ろうそくの炎を見つめていた。
眠くなることはなかった。
でも、炎から目を離すことができなかった。
祖母の顔をもっと見ておくべきだったのに。

 

今となっては祖母の顔も、おぼろげにしか思い出せない。
兄弟の顔も、父母の顔も、祖父の顔も。
叔母を除くほかの親族の顔も。

 

ひとつだけ。
祖母の顔に触れた。
そっとだ。


祖母は死化粧を施されていた。
手には化粧が移った。

 

祖母の顔を見た。
根こそぎ化粧を取ってしまったわけではなかった。

指の跡もついていない。
ほっとする。
きれいに化粧を施された祖母を邪魔してはいない。
自分にそう言い聞かせた。

 

その後、手は洗った。
でも、水で洗っただけでは落ちなかった。
ファンデーションの色と匂いが、ずっと自分の手に残った。

それ以外は炎を見ていた記憶しかない。

 

明くる日、葬式をやった。
やったのは俺じゃない。
喪主は父だった。

 

葬式のあと、火葬場に移動して時を待った。
そのときがやって来るのを待ったんだ。

 

俺は手を洗いたかった。
それまでにも何度も洗っていたが、化粧は水だけでは落ちなかった。
何度か洗って、本当は落ちていたのかもしれないが、いつまでも手に残っているという思いが離れなった。


今度も落ちないだろうと思いながら、洗面所で手を洗う。
洗面所の窓から外が見えた。
空だ。青空だ。

 

そのときの気持ちが思い出せない。
目がくらむような、まぶしさ。
自分が一段暗いところにいる気持ち。
そんなことを感じた気がする。

 

待合室に戻るのが嫌になった。
そもそもその日はひとことも、誰とも口をきいていなかった。
俺が口を開くと、家族の誰かが俺に注意をする。いつもそうだった。
注意されるような何かを言っている、もしくはやっているのだろう。
もしかしたら、俺が何かを話す、それ自体が、彼らにとってはおかしなことなのかもしれなかった。
だから自分からは話しかけない、そういう習慣になっていた。
気まずい場所に戻ることはない、そんな気がしてしまった。

 

俺がいなくなったとしても、もう、俺を気にかける祖母はいない。
今、いなくなっている最中だ。
そうじゃない、もうすでにいないんだ。

 

いつ、いなくなったの?
いつ、いなくなるの?
わからない。

 

建物の外に出て、振り返った。
煙が。
煙が上がっていた。
空へ。

 

祖母はどこにいる?
わからない。
煙はとにかく空へ。

 

一度建物から出てしまうと、もう一度入ることができなくなった。
今、自分がいなくなるのが一番いい。
そのときの俺はそう思った。
だからそのまま立ち去った。
俺が17のころのことだ。

 

「渡瀬くん、聞いてますか?」

 

我に返った。
加藤さんが、車の運転席から窓を開けて話しかけてきていた。

 

「すみません、ぼうっとしてました」
「うん、見ればわかる。ぼうっとしてましたね」
「はい」
「いや……ぼうっとするのは車に乗ってからにしてください。寒いから早く乗って」
「いえ、そこまで寒くは」
「俺が寒いんだって。いつまで窓開けてりゃいいんだ。とっとと乗るがいい」

 

途中で会話が面倒になった加藤さんが、少々乱暴な口調で言った。


俺はいつもこうだ。
他人に面倒がられる会話しかできない。
それでも加藤さんはめげない。いい人だ。

 

俺が助手席に乗り込むと、窓を閉めた加藤さんが待ちの体勢に入った。
待たれているのがわかっているので、焦りながらシートベルトを締める。
俺がシートベルトを装着し終えたことを確認すると、加藤さんは車を発進させた。

 

「加藤さん、いつもありがとうございます、送ってくれて」

 

なんとなく、礼を言わなければいけない気持ちになった俺は、礼を言った。
言われた加藤さんは照れたように口をとがらせて、奇妙に傾いた笑い顔をした。

 

「何ですか急に。おだてても何も出ませんよ。スピードくらいしか」
「いえ、特におだててないです。スピードはそこまで出さなくても、もう十分なんで」
「はいはい、安全運転、安全運転ね。……で、何見てたんです? 何か、いかめしい顔で宙をにらんでましたけど」
「煙です」
「ああ……、煙ね。燻製作ってるらしいです。らしいというか私が言ったんですけど、『そろそろ燻製の在庫がカツカツですよ』的なことを」
「燻製でしたか」

「ええ。煙に見えたかもしれませんけど、煙じゃないと思います。工房には脱煙機がありますから。寒いので脱煙機から出る水蒸気が煙に見えたとか、そういうことでしょう」

「ああ、まあそうですよね」
「そう」

 

そこで会話は途切れた。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」では、土産物として、さまざまな食材の燻製を売っている。手作りの燻製だ。
イルズクにはそのための工房がある。
俺が見ていたのは、その工房の煙だった。

 

「渡瀬くんは寮に入らないんですね」

 

加藤さんが前を向いて運転しながら言った。

 

「はい。人と一緒に暮らすのがたぶん無理なので。そのせいで加藤さんにはご迷惑おかけしてますけど」
「ああいや、それはいいんです、どうせ私も帰らなきゃいけないし。渡瀬くんち、通り道だし。というか私も寮を飛び出たクチなので、特にそれで迷惑とかはないですよ」

 

いつも似たような会話をしている気がする。

 

「雪、やみませんね。春なのに」

 

言ってから、会話が成り立っていないことに気づいた。が、あとの祭りだ。言葉は戻らない。

 

「ああ、まあここら辺は暦より遅く春が来るから。といっても本気の豪雪地帯よりは降らないほうらしいですよ。私もここら辺出身ではないのであまり知ったふうなこと言えませんが」
「いえ……。それにしてもまだ降るのかという感じで」

 

この辺にいつごろ春が来るかは知っていた。
飛び出たのは寮も実家も同じで、どちらもこの近くにある。
俺の地元は、ここからわりと近い。
が、戻る気もないし、それを今言う気もなかった。

 

だるい。
車内は暖かく、眠けが襲ってきた。

 

「どこにいるんでしょうかね」

 

ぼんやりしながらまた会話にならない言葉を吐く。
加藤さん、ほんとにゴメン。
俺、会話できないマジで。
心の中でそんなことを思っている俺を尻目に、加藤さんは軽やかに俺の言葉をさばいていく。

 

「何がですか?」
「なんか……、煙とか、雪とか」
「どこにとな。空にですかね」
「……」

「何でもいいのでしゃべってください、私も眠くなりそう」

 

そう言われると、俺でもしゃべっていい気がして、また意味不明な言葉を紡ぐ。

 

「祖母が亡くなったときに、火葬場の煙を見たんです」
「ほう。珍しいですね。最近は煙突がなく、したがって煙も出ない火葬場は多いような印象がありますけど」

「そうかもしれません。そこは昔ながらの火葬場だったんでしょうね。で、俺は、祖母はどこに行くんだろう、今どこにいるんだろう、って思ったんです」

「ふむ。……む? それは祖母=煙ということですか?」
「いえ、あの」
「だとすると空ですね。空というより宙ですね。その辺にいるんでしょう」

 

加藤さんは謎の軽やか理論を軽々と言い切った。
加藤さんにとっては、眠気覚まし以上の意味は特にない会話なのだろう。

加藤さんにはそういうところがあって、優しいのか何なのかよくわからない人だと思う。
でも、たぶんいい人だ。そう信じたい。

 

「そうかもしれません」
「おっ? まさかの納得? 今ので?」
「はい。その辺にいる、ですね」

 

俺は目を閉じた。
温かい。眠い。
寝てはいけない。帰らなければ。
加藤さんが寝ないように、話さなければ。

 

煙がどこへともなく上がっている。
どこに向かってる?

 

空へ。
空というより宙へ。
つまり、その辺に。

 

いつもその辺にいる。

 

(おわり 21/30)