スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

春のカミナリ

窓の外がビカビカと光るとほぼ同時に、すさまじい雷鳴がとどろいた。
灯りが消える。
数秒ののち、照明がついた。非常灯だ。
停電した。
非常用電源に切り替わったのだ。

 

昼間にもかかわらず、雷のせいなのか、外が暗い。
その影響で屋内も暗かったが、非常灯の明かりが届く範囲は明るく照らされていた。

 

渡瀬は、トイレにいた。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」第2棟1階の、従業員用トイレである。
天井にある、非常灯がひとつ、トイレ内を照らしていた。
隅のほうはやや暗い。が、何も見えないほどの闇ではない。


渡瀬が用を足し、ウォシュレットを使い、温水を止めようと、壁リモコンのスイッチを押そうとしたところで、停電が起きた。

 

イルズクでは、非常用電源は、主に避難目的に使われる。
非常灯や、誘導灯、消火栓の非常電源などである。
それ以外の電化製品は動かない。
動力源を失ったままである。
トイレのウォシュレットも、動かない電化製品のうちのひとつだった。

 

渡瀬は、ふだんはウッカリしていたが、緊急時に強かった。
ウッカリ者にとっては、だいたいいつもが緊急時なので、停電したくらいでは、いつもより慌てる理由がなかったのだ。

 

雷が送電線に直撃でもしたんだろうか。
そんなことを思いながら、渡瀬はトイレットペーパーを操って思う存分拭き、ふたつの種類の「パンツ」を上げ、水を流そうとした。

そこで、リモコンが動かないことを思い出した。
正確には、リモコンは電池式なので、動かないのはリモコンではなく、便座のあれこれのほうだ。

 

一瞬考えてから、渡瀬はしゃがみ込み、便器の斜め右奥をのぞきこんだ。
確か、便器の奥に手動で水を流すためのレバーがあったはずだ。
思った通り、便器の右奥のくぼみにレバーはあった。
ゆっくりと引く。
薄暗い中、手動で水を流す。

 

そこでもうひとつ思い出した。
ウォシュレットのスイッチが入ったままだった。
このまま電力が復旧したときに、いきなり温水が噴き出すのだろうか。
渡瀬は、立ったまま便座を見つめた。
どうしようかな、と考えながら。

 

「今、水を流しました?」

 

ビクリ
隣の個室からだろうか、渡瀬がいる個室に向けて呼びかける声が聞こえた。
一瞬、体を震わせたのち、渡瀬は、隣の個室とのあいだを隔てている壁のほうを見た。
薄暗闇の中、壁が見えるだけだったが、渡瀬はそちらを向いて声をかけた。

 

「はい。流し方ですか?」
「そう、そうです。水流すの、どうやるんですか?」
「便器の後ろについてるレバーを引くんです」
「便器。立ち上がらないと無理?」
「たぶん。えっと、去年、便座を総入れ替えしたときに説明されたと思うけど、ゆっくりと引いて、水が出てきたら、よきところで離すんです」
「あ、はい。あの、俺、去年はここにいませんでした。というか従業員ではありません」
「えっ、あ、そうでしたか、すみませ……ん?」

 

確かここは従業員用トイレではなかったか。
そう思った渡瀬だったが、客が致し方なく従業員用トイレを使う羽目に陥ったのかもしれない、と思い直した。
その途中で停電に見舞われたのかもしれない。

 

隣の個室から、あちこちにぶつかるような音がしたのちにトイレットペーパーをカラカラ巻き取る音が聞こえ、なにやらもそもそした音が聞こえたのちに、またあちこちに体をぶつけているような物音が聞こえた。
それから、水が流れる音がする。

 

無事に流れた水の音を聞き、渡瀬はほっとした。
それと同時に、あちこちに体をぶつけるような音はいったい何だろう、という疑問が湧いた。この個室が狭すぎるのだろうか。

 

個室の寸法は、だいたい横幅80センチ×奥行き140センチほどである。
多目的用の個室は、いちおうあるにはあり、ふたつの個室のさらに奥に設けられていた。
だが隣の個室は、渡瀬が今いる個室と同じ大きさのはずだ。
この個室が狭いということは、なんと言うのか、巨体、なのだろうか。
それとも、単に個室内で暴れているだけなのだろうか。

 

「安心してください」

 

隣の個室から声が聞こえた。

 

「私はパニックにはなっていません」

 

なんとも返事のしようがなく、渡瀬は自分の感想をそのまま素直に伝えた。

 

「そうですか」

 

それ以外に何を言えというのだろう。

 

渡瀬は、個室から出ようとして、スイッチが入りっぱなしになっている可能性があるウォシュレットのことを思い出した。
一瞬の迷いののち、渡瀬はウォシュレットのコンセントを抜いておくことにした。
電力が復旧したあと、もう一度差しに戻って来なければならないが、復旧とともに温水がほとばしる(かもしれない)と遠くから恐れているよりは、精神衛生上良いだろうとの判断をしたのだった。

 

「ここら辺は、春に雷って多いんですかね」

 

個室から出て手を洗っていると、後ろのほうから声が聞こえた。
個室からだ。先ほどの隣人は、まだ個室にいるらしい。

 

「そうかもしれません。そういえば、冬とか春先によく雷が鳴ったりしてますね」

 

渡瀬は、手を洗いながら答えた。
鏡越しに個室の扉を見るが、個室の主が出てくる気配はない。
出てくるのは声のみだった。

 

「春雷ってやつですかね。春を告げる雷。冬のあいだ地面の中にいた虫が、雷にビックリして出てくる」
「ああ、そうなんですかね」

 

渡瀬は、特に雷に詳しいわけではなかったので、曖昧な返事をするほかない。

トイレにある窓から、空が光るのが見えた。

 

「今光りました? わっ、すごい音」

 

辺りに、地の底に響くような雷の音がとどろく。

 

「こわぁ。もう、こわぁ。山があるとこって雷が超怖いですよね。雷パワー強いですよね」

 

個室の主が言う。
そうなのだろうか。
渡瀬は、町を転々と移り住んでいたことがあるが、特に意識して各地の雷の比較をしたことはなかった。
隣の個室の主は恐怖のあまり、落雷のしやすさと、雷の電圧の強さを混同しているのだろうか、と思ったが、確かなことを知らないので渡瀬には何も言えなかった。

 

ひょっとして、個室の主は、雷が恐ろしくて個室から出られないのだろうか。
渡瀬はそうも思ったが、特にできることもない。
雷を追い払うことはできない。
停電を終わらせることもできない。


しかし、黙って立ち去ってしまうと、個室の主は、ここで延々、見えない相手に話しかけ続けることになるのだろうか。
ひとこと言葉をかけてから立ち去ろう、そう思ったとき、個室の主が言った。

 

「停電ですよね、これ。灯りはついてますけど」
「そうですね。この灯りは、自家発電した電気を使ってますね。避難のための電気なので、ほかの電化製品は使えないんですよね。ご不便おかけしてすみません」
「あ、いえ。苦情ではないんです。ないんですが」
「が?」
「いや、雷、怖いなって……。建物の中にいる限りは安全でしょうけど……」

 

語尾が消えかかっていた。
よほど不安なのだろうか。
しかし、先ほどまでと同じく、やはり渡瀬にはどうにもできない。
それ以前に、仕事の途中でトイレに抜けてきていたため、戻らなくてはならない。
客がいる以上、この会話も仕事と言えば仕事なのかもしれなかったが、渡瀬のメイン業務は接客ではなかった。
どうすればいいか迷った渡瀬は、とりあえず個室の主に、ドア越しに尋ねた。

 

「あの、出られない、わけではない……んですか?」
「出られないと言えば出られない」
「どこか体調が悪いとか」
「いえ、体調が悪いと言えば悪いんですけども、雷がいなくなるまでここにいたいという気持ちのほうが強いです」
「えっと、俺にできることは何かありますか?」
「いえ、特に。お気遣いなく」

 

そう言われて、渡瀬は本来の仕事に戻ることにした。

 

「では、俺は失礼します。……あの、本当に大丈夫、ですよね?」
「あ、はい。どうぞ仕事に戻ってください」

 

渡瀬は相手から見えないにもかかわらず一礼すると、トイレを出た。

 

「あっ。渡瀬。おなか大丈夫? ぴーぴー」
「うん、あの。うん。大丈夫」

 

イルズク第2棟2階の廊下である。
廊下の中央付近の壁際にワゴンが置かれている。

渡瀬は、ワゴンに置かれたクリップボード……に固定された紙を見ようとした。

渡瀬と組んでいる甘木が、今、どこの部屋のルームメイクをしているのか確認しようとしたのである。しかし、紙で確認する前に、当の甘木が210号室から廊下に出てきた。

 

「210号室終わったよ、チェック入れといて」

 

甘木は210号室から回収したのであろう、シーツや枕カバーの類いをワゴンの下段に入れながら言う。
渡瀬は、ワゴンの上のクリップボードとペンを手に取り、210号室の欄にチェックマークを入れた。

 

「これで今日のルームメイク終わりだね……、ゴメン、俺、ほとんどトイレにいた」
「まあね。ひとりで終えました。ほかの部屋のルームメイクも全部終わったってさ。といっても、まだチェックイン時間まで間があるから、けっこう時間の余裕あったよ、私ひとりでも」

 

渡瀬はふだん客室整備担当ではなかったが、団体客が立て込んでいる今だけ、ルームメイクのヘルプに入っていた。
しかしヘルプが本当に必要なのかどうかはよくわからなかった。
トイレにこもる羽目に陥った自分を呪いたい気持ちになった渡瀬は、そのトイレで今しがた遭遇した謎の隣人を思い出した。

 

「そういえば、従業員用トイレにお客さんがいた」
「あ、そうなの。そういえば、非常口から近いよね、従業員用トイレ」
「ああ、それでか。確かに、非常口からだったら、ほかのトイレより近いかも」

 

甘木が、ワゴンを押しながらエレベータに向かう。
イルズクは、今ふたりがいる第2棟含め、すべての建物が2階建てだった。エレベータ自体は存在するが、客用ではない。
イルズクにあるエレベータは避難用と従業員用を兼ねたもので、停電している今は、非常用電源で動いている。
甘木はエレベータの横にワゴンを停めた。

 

「停電のときってエレベータ使わないほうがいいのかな。ワゴン運ぶのは、別に緊急の用じゃないし。復電してからのほうがいいかな?」
「ああ、どうだろ……。加藤さんに聞いてみたほうが」
「加藤さんも忙しいからなあ。さっき見かけたけど、今どこにいるのか……。って、渡瀬、そのトイレのお客さんって、放って出てきてよかったの?」
「本人に聞いたら、『大丈夫だ』って言うんで出てきた。しゃべってる声も特に体調悪そうじゃなかったし……」

 

と言いながらも、渡瀬は少し不安になってきた。
あとで様子を見に行ったほうがいいのかもしれない。
どっちみち、停電が終わったらウォシュレットのコンセントを入れ直しに行かねばならないのだ。

 

窓の外では、まだ稲光が見えた。
少し経ってから、雷鳴が低く響く。
甘木が窓の外を見ながら言う。

 

「この停電って雷が原因だよね?」
「たぶん」
「まあ、掃除機は充電で動くし、こっちは電気止まってても何とかなるけど、ほかのとこは大変なのかな。フロントとか。カードの処理とか……、何だろ、電気使ってるよね、たぶん」
「ああ、そうか……。長引かないといいけど」

 

甘木と渡瀬は、ワゴンを廊下の端に寄せてそこに置いたまま、階段を下りた。
階段にも非常灯はついていて、暗くはない。
階段の踊り場の窓からは、低く垂れ込めた雲が見えている。

 

「空は相変わらずだけど、もうあまり光らないね。そろそろ終わりなのかな、雷」

 

踊り場で立ち止まり、甘木が窓の外をのぞきこみながらそう言った。

渡瀬はその横に並び、自分も窓の外をのぞきこむ。

そして、ふと思いだして甘木に問いかけた。

 

「山の雷のほうが強いのかな。そのお客さんが言ってたんだけど」
「さあ、どうだろ。雷が嫌でトイレにこもってたの? そのお客さん」
「ああ、うん。そう言ってたかも」
「雷、怖いよねぇ。さっき、加藤さんが、『昨日、防災訓練をやったばかりなのに』ってブツブツ言ってた。自家発電機に問題ないのは昨日の訓練でわかってたけど、『試験運転後、こんなにすぐ使うことになろうとは』って」
「ああ。ここら辺、雷多いわりに、ふだん停電ってあまりしないよね」
「うん。で、配電盤とかで雷サージ対策はしてるから、客室の電化製品が壊れることはないだろう、とも言ってた。それ言われて思ったけどさ、寮はどうなんだろ。寮で暮らす勢としては、寮も心配なんだけど」
「あ、そうか。というか、うわぁ、俺、寮じゃないけど、俺もうちが大丈夫か心配になってきた」
「コンセント差してなければ大丈夫だろうけどね」
「うん……。差しっぱのが何個かある。機械は雷が苦手なんだな……」

 

しばしふたりで話していたが、停電が終わる気配はなかったため、ふたりとも階段を下り切り、1階のスタッフルームに戻った。そこにいた加藤の指示を仰ぐ。

 

1時間ほどして、イルズクは停電から復旧した。
雷のせいなのか客は数えるほどしか来ず、電気がなくともできる仕事も終えてしまい、渡瀬と甘木は、スタッフルームで待機していたところだった。
リネンルームにワゴンを戻しに行く甘木を見送ると、渡瀬は再び従業員用トイレに向かった。

 

機械は雷が苦手。

先ほど自分が言った言葉を、心の中で反芻する。
それから、雷を恐れていた隣の個室の主の声を思い出す。

 

個室の主は、機械ではないはずだが、姿を見ていない渡瀬には確信がなかった。
停電が起きて、非常用電源に切り替わったのだろうか。
あの個室の主も、また。

 

コンセントで動く、充電するタイプの巨大ロボットを思い浮かべ、首を振る。
そんなわけはない。
だが、あの、どこかにぶつかるような音。
巨大ロボットがトイレの中で方向転換しようとして壁にぶつかった音だとしたら。

 

しかし、先ほどからかなり時間が経っている。
普通ならもうトイレから出て行っているだろう。
何かトイレにとどまる理由でもない限り。

 

トイレで人知れずコンセントから充電していたら停電が起き、身動きが取れなくなったのだとしたら。

渡瀬は、従業員用トイレの前で立ち止まった。

 

そんなわけはない。
充電したいのなら部屋ですればいい。
トイレのコンセントで充電したいなら、客室にもトイレはついている。

 

渡瀬は気づいた。
部屋を取っていないのだろうか。
チェックインしている客ではないから、コソコソとトイレで充電する羽目に陥ったのだろうか。
それでは電力泥棒だが、だからこそ堂々と個室から出にくかったのか。
電力が復旧して、充電が完了すれば個室から出てくるのだろうか。

 

まさか。
巨大ロボがトイレで充電しているなんて、そんなまさか。
おまけに途中で停電になり、充電が完了していなくて個室から出られないなんて。

 

ありえないと思いつつ、渡瀬は従業員用トイレに足を踏み入れた。

個室のドアはすべて開いていた。
そこには誰の姿もない。
渡瀬は、ほっと息を吐いた。

 

個室に入り、停電時に抜いたコンセントを再び差し、トイレから出ようとして、入り口付近の洗面台に目が行った。
洗面台の上についている、でっぱりのような棚に何かが置いてある。
小さな紙のメモと、USBメモリだった。

 

「トイレノナガシカタ オシエテクレテ アリガトウ USBメモリ ツカッテクダサイ」

 

メモにはそう書かれていた。

 

「ロボ語……!?」

 

特にロボ語ではないが、カタカナで書かれているというだけでロボ語のような気がした渡瀬だった。

 

「トイレの流し方を教えてくれてありがとう」、メモのメッセージは渡瀬に向かって書かれたもののようだった。
メッセージを読んで、メモと一緒に置かれていたUSBメモリは、遺失物ではないと渡瀬は判断した。
メモに、USBメモリの中身の説明はない。

 

最初に渡せは、イルズクにあるPCで中を見ようとして、何かに感染するのかもしれない、という恐怖に襲われた。

失礼なのかもしれなかったが、その恐怖は去らなかった。かといって自分や周囲の人間のPCで見ると、そのPCが何かに感染するのかもしれない。
そう思うと、どうやっても中身を見られないまま時が過ぎた。

 

きっと、あのUSBメモリには。

 

渡瀬は、その後、USBメモリの中身に思いを馳せる機会があるたびに思った。
きっとあのUSBメモリには、ロボットのためのアプリが入っているに違いない。
いや、USBメモリ自体が、ロボットの体の一部なのかもしれない。
お礼のために、体の一部をくれたのかもしれない。

 

そう思って、渡瀬は今日も、中身が謎のままのUSBメモリを外から眺めて満足するのだった。

 

(おわり 15/30)

 

アイ・マミエル、リネンルーム

「あのー」
「ほわっ」

 

背後から突然声をかけられ、甘木莉子は飛び上がるほど驚いた。
リネンルームで、棚からクリーニング済みのリネン、つまりシーツや枕カバーをワゴンに移そうとしていたところだった。


時刻は午前11時。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」では、これからルームメイクをする時間帯だった。甘木は、その準備をしていたのである。

 

「な、なんでしょう」

 

驚きがまだ収まらないまま、甘木は突然リネンルームに入ってきた男性に尋ねた。
男性は、イルズクのスタッフではない。
客だ。

 

イルズクには、客室棟が3棟、そして土産ものなどを作るための工房がひとつ、そして体育館、全部で5つの棟があった。

といっても、建物ひとつひとつは2階建ての、こぢんまりとした宿泊施設だった。
イルズクには制服がなく、動きやすい、ラフな私服で皆働いていた。作業をする際にはエプロンなどを身につける。

 

だから制服でスタッフかどうか見分けることはできない。
とはいえ、さすがに同じ宿泊施設で働く人間の顔は覚えている。
甘木は、リネンルームの闖入者の顔に見覚えがなかった。
しかし、顔には見覚えがないのにもかかわらず、どこかで見たという印象が拭えなかった。

 

闖入者はスーツを着ていた。
スーツの男は言う。

 

「お尋ねしてもいいでしょうか」
「え、あ、はい」

 

いいのだろうか。
本来、客室の整備をメインに担当している甘木は、接客がメイン業務ではない。
が、こぢんまりとした宿泊施設でスタッフが少ないゆえに、自分の業務外だとも言っていられない。

 

「人を捜しているのですが」
「……はい」

 

ごくり。
突然何を言い出すのだ、このスーツマンは。

 

「こちらに、加藤という名前のスタッフさんはいらっしゃいますか?」
「あ、はい……、あの」

 

スタッフの名前を教えていいのだろうか。
イルズクには制服がなく、名札着用も義務づけられてはいない。
しかし、加藤という名字の人間はひとりだけではない。
ひとりだけではないなら、言ってしまってもいいような気がした。

 

「3人おります」
「さ、さんにん?」
「まあ、多いんですけど……」

 

甘木は、つぶやくように言った。
スタッフのあいだでまことしやかにささやかれている「イルズクは加藤姓の人間を集めているのではないか」「加藤姓だというだけで採用されるのではないか」「同じ姓の人間を集めてイルズクはいったい何をしたいのか」というウワサは、もちろん教える気はなかった。
「何をしたいのか」も何も、単なる偶然なのだろう。
それはウワサしている当人たちにもわかっていることだった。

 

このまま話を聞いていていいのだろうか。

甘木はどうすべきか、ためらった。
ルームメイクをしなくてはいけない。

客室担当のスタッフは甘木のほかにもいて、甘木がリネンを運んでくるのを各フロアで待っているはずである。
フロアと言っても建物が2階建てのため、待っているのもふたりだったが、待っていることに変わりはない。

 

そもそも、なぜスタッフ以外立ち入り禁止のリネンルームに客が入り込んでくるのだろうか。
接客がメイン業務ではない甘木が、こんなところで客とふたりきりで話していることが職場の誰かにバレたら、サボっていると思われるのではないか。

 

さらにいうと、甘木は女性である。
客に対して失礼な感想なのかもしれなかったが、甘木はこの状況が少々怖かった。
フロントで聞いてもらいたい。
甘木は、思っても仕方のないことを思った。

 

フロントに行ってもらおう。
甘木はそう決断すると、それをそのまま言葉にした。

 

「フロントにひとりいます、加藤が。その加藤が、お客様のお尋ねの加藤さんどうかはわかりませんが、そちらで聞いていただければ」
「フロント、に」
「はい」

 

正確には、その加藤はフロント担当ではないので、いつもフロントにいるわけではない。
だが、フロントにいることは多い。そこにいなくとも、フロントで加藤を呼び出すこともできるだろう。
イルズクは規模の大きなホテルではないために、ひとりが何役か兼ねている場合が多い。


フロントによくいる加藤は、フロントとコンシェルジュと備品管理とが混じったような役割をしている加藤だった。
営業もかねていることがあるため、たまにスーツを着ている。今日もスーツを着ていたはずだ。

 

スーツマンはスーツマンに任せよう。
と、甘木が思ったわけではないが、結果的にそういうことになりそうだった。

 

しかし、そのスーツの客はフロントに行くどころか、リネンルームから出て行く気配を見せない。

 

「あいつがフロント」
「え」
「フロントができるような感じじゃないんです、捜してる加藤は。接客業というイメージじゃなくて」

 

甘木はリネンルームの壁にかかった時計をチラリと見た。
視線をスーツの客に戻すと、男は甘木を見ていなかった。ぼんやりと自分の足元を見つめながら、考え込んでいる。
甘木はもう一度時計を見た。
スーツの客がこちらを見ていると確信するまで時計をガン見した。

 

たっぷり時間を掛けて時計をねめつけていると、スーツの男がようやく何かに気づいたようだった。

 

「あ、すみません、お仕事中に。いえ、捜してるのは身内で。今までフロントであいつを見ていないし、それ以前に俺が知ってるあいつは要領が悪くて、とても接客に向いてると思えなくて」
「……」

 

なぜ身内を、見ず知らずの人間の前でこきおろすのだろうか。
甘木にはその気持ちがよくわからなかったし、接客業に向いていないのはおそらくスーツの男も同じなのだろうという予感がした。
一族みな、多かれ少なかれ似た部分を持っているのだろう。
が、そんな感想をわざわざ口に出すことはなかった。

 

「申し遅れました、私は社員研修でイルズクさんを使わせてもらっています、トラーリ株式会社の加藤と申します」

 

唐突に加藤による自己紹介が始まった。
ポケットをごそごそしているのは、名刺を捜しているのだろうか。
見つからないでほしい。甘木は名刺を持っていない。そもそも接客や営業担当ではないのだ。

 

「甘木です。主に客室の整備を担当しています」

 

甘木は、とりあえず挨拶を返した。

 

「あの、今、あいにく名刺を切らしているんですけど、すみません。今お仕事中なのはわかってるんですけど、仕事が終わったあと、話とかできませんか?」
「あ、すみません、私好きな人がいますので、そういうのはちょっと」

 

甘木は反射的にそう返した。
時間がないのである。
そういう意味で誘っているのかいないのか、断ることが失礼に当たるのかどうかを考えている余裕がなかった。
これといった定型お断り文句を思いだせなかったために、少しずれた定型お断り文句を言ってしまった気が自分でもしたが、まさかこれを真に受ける者もいないだろうと甘木は思っていた。

 

「あ、え、いえ、そういう意味ではなくて、加藤さんについてお尋ねしたかったんですが」

 

真に受けたのかどうかは不明だったが、目の前の加藤は食い下がった。

 

「あの、フロントで聞いたほうがいいと思います。お捜しの加藤さんがフロントの加藤ではなかったとしても、フロントの加藤がほかの加藤についてお話しできるかもしれません」
「いえ、まあ、そうなんですけど。俺は甘木さんに話を聞きたくて」

 

なぜ。
なぜ私なのか。
甘木はそう思ったが、特に悪い気はしなかった。


ずっと思っていたことだったが、目の前の加藤というスーツマンの顔が好みだったのである。一般的に言われるようなイケメンではない。
だが、甘木の好きな顔だった。

 

しかし、それとこれとは話が別で、時間がないことに変わりはなかった。
仕事をしなくてはいけないのである。
甘木がリネンを積み終わったワゴンに手をかけ、どう切り出したものか考えていると、加藤が慌てたように言った。

 

「あの、じゃ、すみません、最後にひとつだけ」
「なんでしょう」
「甘木さんが好きな人って、3人の加藤のうちのひとり、ですか」
「……」

 

甘木は息をのみ、目の前のスーツの加藤を見つめた。

なぜわかったのだろう。



スーツの加藤は、甘木が口から出任せを言っていると思えば思えたはずなのに、そうは思わなかったのだろう。甘木は本当のことを言っていると判断した。そしてそれは当たっている。
甘木の表情で答えがわかったのか、加藤はにこりと笑った。

 

「いえ、わかりました。お邪魔してすみませんでした」
「あの、ちょっと待って。いえ、そうなんですけど、あなたは……」

 

甘木の思い人、の、身内、なのだろうか。
突然そんなカンが働き、甘木はリネンルームを出て行こうとした加藤を引き留めた。
甘木の言葉に、出ていこうとした加藤は、ドアに開ける前に足を止めた。それから振り返ると、考えながら言葉を紡いだ。

 

「どんなやつです? そいつ」
「えっ。えーと、確かになんというのか、台風の目のような人で、接客に限らず、生きることに不器用な感じではあります」

 

スーツの加藤はうなずいた。

 

「だけど、ハデ好きで」

 

そこで、スーツの加藤は絵に描いたような「あれっ?」という顔をした。
甘木は、視線をスーツの加藤から外し、宙を見ながら話題に上っている人物のことを考えていたため、加藤のその表情に気づかず、話を続けた。

 

「いえ、本当にハデ好きなのかどうかは聞いたことがないので、わかりません。ただ、ハデな服が好きなのかなぁって思ったことがあって。あと、ハスキーボイスです。それで、ものすごくきれいな二重まぶたで」

 

目の前の加藤は、ものすごくきれいな一重まぶただった。
身内で顔が似ていないこともあるだろう、甘木はそう思いはしたものの、顔の印象があまりにかけ離れていることが、少しだけ気になっていた。

 

「それは……、すみません、俺の早とちりだったかも」
「あ、はあ。お捜しの加藤さんとは違いますか」
「うーん、たぶん。あれ……なんだろう、これ」

 

加藤はひとりブツブツとつぶやいた。

どうやら違っていたらしい。
甘木こそ「なんだろうこれは」と言いたい心境だったが、今、そんなことを言っている場合ではなかった。

 

加藤は、最終まとめのような感じでひときわ心を込めて謝ると、ドアを開けてリネンルームから歩き去った。
その加藤のうしろ姿を見ていて、甘木は気づいた。

 

歩き方だ。

歩き方が甘木の思い人に似ているのである。
それでスーツの加藤が部屋に入ってきたときに、どこかで見たような印象を受けたのだと気づいた。

 

「……」

 

しかし、それが何だというのか。

スーツの加藤は、甘木の思い人の特徴と、捜している自分の身内とは違うと言った。
身内ではないということだ。

ならば、なぜ歩き方が似ているのだろう。

 

甘木の思い人である加藤の下の名前を勝手に出すのはまずいような気がして、ずっと出さないままだった。
もし、目の前のスーツの加藤が、本当は、甘木の思い人・加藤の身内でも何でもなかったら? という疑念があったからだ。
それに、必要ならフロントでフルネームでの人捜しをするだろうと思ったこともあった。

 

「……」

 

謎だ。
なんだかよくわからない。

わからないが、仕事をしなければならない。

 

甘木はしばしぼんやりしたあと、気持ちを切り替えた。
壁の時計を見る。
時間はそれほど経ってはいない。
それでも待たせている。
急がないと。

 

甘木はワゴンを押して、加藤が少しだけ開けっぱなしにして出て行ったドアを大きく開くと、ワゴンとともに廊下に出た。廊下から身を乗り出し、リネンルームの電気を消す。

 

そして、それからリネンルームのドアを閉めた。

暗くなったリネンルームは、また静寂を取り戻した。

 

(おわり 14/30)

 

はしごの上から見た世界

「では、防災訓練を始めます。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「加藤さん、消防署の方たちは」
「正面入り口と、出火するつもりの部屋に別れて待機してもらっています」
「加藤さん、火をたくの? 発煙筒とか用意してないけど」
「いえ、そういう設定というだけで、火は使いません」
「加藤さん、もう館内放送していい?」
「いえ、非常用電源の試験も同時に行うので、電源が自家発電に切り替わってからでお願いします」

 

本日は、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の防災訓練の日である。

 

渡瀬は、イルズク第2棟の燃えさかる部屋から脱出する……という想定で、特に火の気のない部屋から避難ばしごをおろして降りる役目をすることになっていた。
イルズクには2階建ての建物しかなかったため、渡瀬が脱出するのも2階の部屋からである。
それでも渡瀬は緊張していた。

 

理由はふたつあった。
渡瀬は高いところが怖かった。

たとえ2階建ての低めの建物であっても、はしごで下りることに不安しかなかった。

 

もうひとつの理由は、自分のうっかりミスの多さを自覚していたからである。
はしごからウッカリ手を滑らせてしまいそうだ。
渡瀬はそんな不安におびえていたが、だからといって仕事を放棄するわけにも行かず、脱出のときを、ドキドキそわそわしながら待つしかなかった。

 

「渡瀬くん、部屋に移動してください」

 

加藤が、スタッフルームで気もそぞろになっていた渡瀬に声をかけた。

 

「は、はい」

 

気づくと周りにいたスタッフがほとんど自分の持ち場に散っている。
渡瀬は、ギクシャクと手足を動かし、脱出予定の部屋に向かった。

 

***

 

「や、やっと着いた……」

 

杯治(ハイジ)は、イルズクの正面入り口にあるロータリーにたどり着いて、ため息をついた。
杯治たち植矢高校の1年生たちは、学校の「オリエンテーション合宿」で、この宿泊施設「ログキャビン・イルズク」に宿泊していた。


今も集団行動中である。
防災訓練を見守るためにロータリーに列をなしてやってきたところだった。

 

昨日は、宿に到着したばかりだというのに、さっそく山歩きがおこなわれた。
この合宿に参加しているほぼ全員が、早くも筋肉痛になり始めていた。
おのおのの筋肉が、ちょっとした階段の上り下りなどで他人には聞こえぬ悲鳴を上げる中、杯治たちはようやっと目的地に着いた。

 

客のすべてが防災訓練に参加するわけではなかったが、杯治の高校は参加することにしたようだ。
参加といっても、ロータリーの隅に集まって、防災訓練をするイルズクのスタッフを見守るだけである。

イルズクの正面入り口前にあるロータリーには、杯治たち高校生だけでなく、自主的に防災訓練を見守ろう、という宿泊客が集まってきていた。

 

「杯治、おはよう」

 

その場でやることもなく、列の前後に並んでいるクラスメイトとたわいない言葉を交わし、そのあとは本格的にやることをなくしていた杯治に、声をかけてきた女性がいた。

 

「おはよう、叔母さん」

 

列のそばまで来ていた叔母に、杯治は挨拶を返した。
杯治の叔母は、イルズクに、地域のサークルの慰安旅行という名目で宿泊しているらしい。

 

「なんというか……、ハデですね」

 

杯治の叔母、不破充香(みちか)は、黒と白のゼブラ柄のスカーフを頭から顔にかけて巻き、黒縁のメガネをかけ、ふさふさした、カラフルなフェイクファーがついた真っ黒なコートを身につけていた。

 

「ああ、花の作業しようと思ってたところだからね。作業中は髪が邪魔にならないようスカーフを巻いているから」

 

叔母はそう言ったが、寒いのか、今もスカーフを外そうとはしない。防寒用も兼ねているのかもしれない。
しかし、スカーフとメガネは作業用だとしても、コートにつけられた、見る者の度肝を抜くような、目を射抜くかのようなファーの色の説明にはならない。
赤、黄、青、グレー、茶、ピンク、オレンジ。
原色だけではない、複数の色に染められたファーがコートのフチを彩っている。


叔母は単にハデ好きなのではないか。
杯治は、うっすらとそのことに気づいていたが、特に何も言わなかった。

 

「おや、叶太(かなた)がいる。おおい、おはよう、叶太」

 

叔母はロータリーに集まった、あまり多くない人混みの中から知っている人間を見つけたらしく、大きな声で呼びかけた。
周囲の視線が集まる。列の前後が少し距離を置く。
しかし杯治は、特に何も感じなかった。
こういう場面で、恥ずかしいと思う人間もいる、ということを知ってはいた。
自分は、羞恥に関する感受性が生まれつき死滅しているのかもしれない。
杯治は、なんとなくそんなことを思った。

 

「おはようございます、叔母さん。早いですね」

 

人混みから、スーツの上にコートを着た叶太が近寄ってきて、叔母に挨拶をした。
叶太は、杯治の兄である。会社の新人研修でイルズクに宿泊しているらしい。
スーツを着ているし、今は仕事中のはずだが、研修の合間の空き時間に防災訓練を見物しに来たのだろうか。
叶太は「見物」という、どことなく不謹慎な単語がしっくりくる不真面目さをまとっている、杯治は兄のことをそう評価していた。


叔母が叶太に返事をする。

 

「特に早くもないだろう。今から防災訓練だって言うから見守りに来たのさ。渡瀬がいるからね」
「あいつもこの訓練に参加してるってことですか」
「何をやるのかまでは知らないけど、参加はしているだろ、一応職員なんだから」

 

渡瀬は杯治の兄で、叶太の弟だった。
ただいま家を飛び出て、行方不明の真っただ中である。
その兄が、この訓練で見つけられるかもしれない。
杯治は、少しだけ緊張した。

 

渡瀬が家を出たのは6年前のことだった。
一番上の兄・叶太は当時すでに大学生だったが、杯治は小学生だった。
自分が生まれる前の家族を撮った動画などを見たことはあったが、自分が渡瀬を見つけたとしても、本人だとわかるだろうか。
杯治は渡瀬を見分ける自信がなかった。

 

本人の不安が反映されてか、まったく関係ないのか、本人にも自覚はなかったものの、杯治はいつしか、やや列から離れ、叔母や兄と寄り添うようにして立っていた。
もともと列はそれほどきっちりとまっすぐにはなっておらず、ぐだぐだと蛇行していた。杯治の立ち位置が多少変わったところで、注意する教師は誰もいなかった。

 

消火器がいくつか、ロータリーの中央に置かれた。
それに加え、消火器の的にするのであろう、カラーコーンが、少し離れたところに置かれる。
ロータリーには、消防車が停まっていた。その消防車の近くに、制服を着た消防士が数人、立っている。

 

あとで消火器を使う何かをするのかな、そう思いながら杯治がイルズクの建物に目を移すと、第2棟の2階の窓が開いた。
ほかの棟でも訓練が始まっているのかもしれなかったが、ロータリーの片隅から見えるのは第2棟の裏の窓だけだった。意外と近くに見える。
窓から顔をのぞかせたのは、杯治が以前にも見たことがある顔だった。

 

(あのときのイケメンの人だ)

 

昨日、ロビーで見かけた顔だ。
客が部屋の窓から顔を出した可能性もあるが、その男は直後に、部屋の中から外に向かって、避難ばしごを下ろした。
やはり、イルズクのスタッフなのだろう。

 

(どこかで見た気がするのは何だろう)

 

杯治は一瞬そう思い、叔母や叶太の顔を見たが、ふたりとも、特に何の反応もなく訓練を見守っている。
違うのか。
そもそも、渡瀬(にい)は、あれほどわかりやすいイケメンではなかった。
杯治はそう自分を納得させると視線を戻し、訓練を見守った。

 

***

 

「廊下で出火が起きました。避難してください」

 

館内放送が聞こえた。訓練はもう始まっている。
ドアを開けて廊下を見ると、「訓練です、火事です」と知らせて回る声が聞こえる。
上司の加藤だった。
加藤は打ち合わせ通り、そのまま渡瀬のいる部屋の中に入ってくると、窓を開け放った。

 

「渡瀬くん、はしごを下ろしてください」

 

加藤は、決められたセリフではない言葉を、渡瀬に言った。
実際に火災が起きたときにも、スタッフである加藤がいるのに客にはしごを下ろさせるのだろうか、と思わないでもなかったが、本日は訓練である。
職員が避難用のはしごの下ろし方を知っておくという意味もあるのだろう。

 

渡瀬は、窓の下の壁のそばに置かれている「避難ばしご」と書かれた箱の扉を開け、中からはしごを取り出した。
窓から顔を出し、下を見てから、調整済みのフックを窓枠に引っかけ、窓の外に下ろす。

あとははしごを下りるだけである。
それだけのことである。
窓から外、特に下を見てから、渡瀬は加藤に言った。

 

「寒いです」
「わかってます、私も寒い」
「絶対手を滑らせる、そんな予感がする」
「不吉なこと言わないでください。いいから、早く下りて」
「せめて手袋」
「ほんとに火災が起きたら手袋なんてしてる余裕ないから。コートだって取りに行けないから。いいから下りて」

 

手袋も、コートも身につけている間もなく避難しなければならないほど切羽詰まった火災からの避難だ、という設定を今さら知った渡瀬は、それ以上何も言わず、窓の枠を乗り越え、体を反転させながら、はしごに足を下ろした。

 

大丈夫だ。
これは訓練だ。
実際に火災は起きていない。
これほど緊張しているのは自分だけだ。
なぜなら、緊張する理由がないからだ。

 

そう自分に言い聞かせようとしても、渡瀬のはしごを握る手に、冷や汗がにじんだ。
片足を下ろす。
下を見たいが、見ることができない。
それほど厚着をしているわけではないが、自分の体に隠れて、足元が見えない。
上半身をはしごから離しすぎることを恐れて、下が見られない。

 

それでも渡瀬は、着実に一歩一歩、はしごを下りていった。

途中、はしごの次の段に伸ばした足が、ずるりと滑った。
慌てて、はしごをつかんだ腕で体を支える。
足の位置を、元に戻す。

 

なぜ。
なぜ冷や汗だらけの手ではなく、靴を履いている足が滑るのか。
気持ちを平静に保たなくては。
でなければ、また連鎖的にウッカリミスをしてしまいそうだ。

 

そう思った渡瀬は、いったん、辺りを見渡した。
はしごとその周辺しか見えていなかった渡瀬の目に、見慣れた低い山が映った。

すうう、はああ。

深呼吸をする。
山を見て気分を落ち着かせた渡瀬は、はしごに視線を戻そうとして、地面付近をチラリと見た。

 

「!?」

 

なんだ今のは。
気のせいだろうか。

 

もう一度、地面付近を見た。
具体的には、ロータリーの片隅に集まっている、訓練を見守る宿泊客たちのほうを見た。意外と近くに見える。

 

白と黒の、パキッとしたゼブラ柄のスカーフが最初に目に入った。
目を突きさすような強いコントラストのスカーフの主は、黒いメガネをかけ、世界中にある色を集めたようなファーがついたコートを着ていた。

 

目立つ。
ハデだ。
叔母だ。

 

叔母の隣にいるのは、顔を変える前の渡瀬に似た顔の男だった。
渡瀬の兄だ。

 

叔母の、兄とは反対側の隣にいるのは、弟だろうか。
以前の面影はあるが、あまりほかの兄弟に似ていない上に、しばらく見ないうちに背が伸びている。
叔母と兄のそばに立っていなければ弟には気づかなかったかもしれないが、どういう巡り合わせか、渡瀬は気づいてしまった。

 

「……」

 

渡瀬は、黙って視線をはしごに戻した。
なんだろうこれは。
家族旅行でもないはずなのに、なぜ家族、いや、親族が集合しているのか。

 

向こうは顔を変えている渡瀬には気づかないかもしれなかったが、こちらは気づいた。
なんだろうこれは。

 

渡瀬は、恐怖を忘れ、先ほどよりも正確に、そして素早く、はしごを下りた。
それよりも気がかりなことができた。
高い所を恐れている心の余裕はなくなっていた。

 

なんだろうこれは。

なんでみんないるの?

 

(おわり 13/30)

 

朝のイルズク散歩(陸上コース~テニスコート)

光がまぶしい。
今、すでに雪はやんでいたが、昨夜のうちに、新たに雪が降ったらしい。
朝から庭のあちこちで、雪かきが行われていた。

 

その様子を見ながら、志乃枝は早朝の散歩を続けた。
後ろからついてくる男がいる。
年齢は志乃枝と同じくらい、つまり50代中盤くらい。
服装は、スーツの上にベージュのコートを着ていた。

 

「いつまでついてくるんです、あなた」
「いつまでって……、夫婦なのにそれはないだろう」
「夫婦だからといって、一緒に散歩しなきゃいけないわけじゃないでしょう。私は用があるんです」
「何だ、用って」
「何だっていいでしょう」

「良くない。そんなにめかし込んでどこに行くつもりだ」

 

志乃枝は、赤い、大輪の花模様が描かれた、足首まであろうかというマキシ丈のワンピースの上に黒いロングコートを羽織っていた。


「めかし込むも何も、旅行にお気に入りのワンピースを持って来たってだけのことです。持ってきたどの服も似たようなものよ。私がどういう格好で朝の散歩をしようが別にかまわないでしょう、放っといて」

 

志乃枝はプリプリと怒ったまま、スピードを緩めずに散歩を続けた。

 

ここは宿泊施設イルズクの庭である。
イルズクは背の低い建物が3つと工房と体育館がひとつずつ、そして広大な庭から成り立っていた。
庭には、陸上コースやテニスコートなどがあった。

 

志乃枝は、雪かき中の陸上のコースを、雪かきの邪魔にならないよう横切ると、相変わらずスピードを緩めずに歩き続けた。
志乃枝の後ろを歩く男は、スピードを緩めない志乃枝に置いて行かれそうになりながら、また追いつき、また引き離され、を先ほどから繰り返していた。

 

「なんでそんなに怒ってるんだ、志乃枝」
「あなたがここにいるからです」

 

そう言われた男は、傷ついたような表情を見せ、追いかけるスピードを落とした。
志乃枝は、それを機に、男と距離を広げるために、さらに歩くスピードを上げた。

 

志乃枝が履いている靴は、雪でも歩ける滑り止めのついた、ショート丈のブーツだった。靴底が複雑な形をしている。
一方、男のほうは滑り止めのついていない革靴だった。
つるりと滑りそうになって、慌てて体勢を立て直す。

男のそんな様子をチラリと見た志乃枝は、ややスピードを落とした。

 

「足下に気をつけて。転ばれても困ります」
「ああ、わかってる。……俺が心配なのか」
「あなたが入院でもしたら、旅行を途中で切り上げて私も付き添わなきゃいけないでしょう」

 

志乃枝は、やっと、「常識的」と言えるスピードまで、歩く速度を落とした。

 

「君の旅行の邪魔をするつもりはなかったんだ、ただ夫婦水入らずの旅行気分を味わえたらなと思って」
「それならそれで夫婦水入らずの旅行をすればいいじゃあありませんか、私とふたりで。私が言いたいのは、なぜついでにやろうとするのかということです!」

 

志乃枝はぴしりと言った。
あまりにもぴしりと言われ、少しひるんだ夫に対し、志乃枝は言葉を続けた。

 

「私は地域のサークルの旅行で、あなたは会社の新人研修でここに泊まりに来てるんです。どこに夫婦が水入らずで過ごす余白が残っているんですか。夫婦水入らずは別枠でやったほうがいいじゃありませんか」
「いや、枠とかで区切らなくともいいじゃないか」
「区切る区切らないではなく、ついでにやろうとしないでと言っているんです」
「えええ……。いや、うちの社の新人研修は、数年前、新人社員だったような先輩社員が準備する伝統だから、新人時代なんてもはや『いにしえの時代』と呼ばれてる俺がやることはあまりないし、自由になるというかヒマな時間が結構長くて、だから」
「だから妻の尻を追いかけているのですか、今」
「……」

 

志乃枝の夫は黙った。

 

「まあ、そうなんだけど」

 

そして認めた。

 

「情けない」

 

吐き捨てるように志乃枝が言った。

 

「とにかく、これじゃせっかく旅行に来たというのに家と同じじゃありませんか。なにが悲しくて家の中にいるかのようにあなたにつきまとわれなきゃならないんです」
「つきまとうって……、つきまとうとは何だ、つきまとうとは。夫に向かってその口の利き方は何だ」
「はいはい、失礼いたしました! 夫ですからね! あなたは偉いですからね!!」

 

周囲の耳木兎(ミミズク) 山にこだまするほどの、腹からの発声で、志乃枝は夫を持ち上げた。
皮肉であると、伝わるように。

 

「朝っぱらから大きな声を出すな、家とは違うだろう。同じ部屋に寝起きしてる訳じゃないんだから」
「これを機に、家も寝起きも別にしたい」
「こんなところで、ついでに願望を言わないように」

 

ため息をつくと、志乃枝の夫は足を止めた。
地面が凍っている。
改めて見ずともずっと道は凍っていたが、改めて見ることで、「ああ、やっぱり凍っているな」という確認ができた。特に意味のない確認だ。
顔を上げると、普通の歩幅で歩く志乃枝との距離がまた広がっていた。

 

志乃枝は、陸上コースを出て、テニスコートに差しかかっていた。

 

「テニスができるのね、ここ」

 

そう言うと、なぜかフェンスを開けて、テニスコートに入って行こうとした。

 

「おい、どこを歩こうってんだ、雪かきの邪魔になるだろう」
「お邪魔はしません」

 

志乃枝はさらに歩を進め、そこで雪かきをしていた青年に挨拶をした。

 

「おはようございます、渡瀬さん」
「あ、おはようございます」

 

それから、二言三言、言葉を交わした。
夫はそれをフェンスの入り口付近から見て、ふてくされた表情を浮かべていた。

 

青年との話が終わったのか、志乃枝は夫のほうへ戻ってきた。

 

「ロビーで加藤さんに昨日の夜のお話を伺って、そのときに渡瀬さんがお手伝いしてくれたと教えていただいたんです。だから、渡瀬さんにお礼を言わなければと思って。加藤さんに、『渡瀬さんはたぶん陸上コースにいる』と伺ったんですけど、実際にいらしたのはテニスコートでしたね」
「ああそう」

 

経緯がまったく理解できていないため、妻の言葉を半分も理解できていないことを隠そうともせず、志乃枝の夫は返事をした。
これに関しては、志乃枝は特に夫を責めなかった。
わかりにくい説明をしている自覚があったからだ。
これまでの経緯を説明していないのは自分でもあり、夫ばかりの責任でもない。

そのことは志乃枝にもわかってはいた。

 

「では、戻りますか」
「おい、もうちょっと俺と散歩したっていいだろう」
「あなた酔っ払ってるんですか? このクソ寒い中、誰が好き好んで長時間の散歩をしますか。私は用があったからここに来たんです。最初に言ったでしょ」
「酔っ払いとは何だ、酔っ払いとは。俺はこのためにわざわざスーツに着替えたんだぞ」
「はいはい、スーツをひとりで着られて偉いですね」

 

志乃枝はそう言うと、夫のほうを見もせず、フェンスから出て宿に戻ろうとした。
志乃枝の言葉にカチンときた夫は、その志乃枝の腕を捕まえ、自分のほうを向かせようとした。

 

「あっ」

 

思いもしないタイミングで腕を後ろから引かれ、志乃枝は体勢を崩しかけた。
後ろに倒れそうになる。

しかし、そこで闘志に火がついた。

 

がん!

 

地面に激しく打ち付けられた靴が、大きな音を立てた。
志乃枝は何か考えるよりも早く、前に出していた足を後ろに引き、凍った地面の上で踏ん張ったのだった。
複雑な形の靴底で、凍った地面ごと踏み抜く勢いだった。

倒れそうになりながらも倒れなかった志乃枝は、バランスを崩した原因となった夫の腕を振りほどこうとした。

 

「えっ」

 

しかし、振りほどく勢いが、自分で思ったよりも強かった。
すでに火がついていた闘志が、腕の勢いを強めていたのかもしれなかった。
今度は、志乃枝の腕を取っていた夫が体勢を崩した。

 

――転ぶ!
――しかも後ろ向きに!

 

夫がそんなことを考えて自分の後頭部の心配をしているときには、すでに志乃枝は動き始めていた。

体を低くし、夫の体を抱きかかえるように、支えるように、倒れ込む方向をコントロールした。

 

ずばっしゃあん!

 

空が見える。
青空だ。
昨夜は雪が降っていたのに。

 

夫が雪に包まれながらそんなことを思っていると、志乃枝の怒声が聞こえた。
自分の背後、下からだ。

 

「ちょっと、重い! あなた、ほんとにいい加減にしなさいよ!」

 

夫が我に返って体を起こすと、志乃枝が雪山に埋もれていた。
とっさに夫の背後に回り込み、まだできたばかりで柔らかい雪山……、雪山というよりも、ただ雪をふわりと重ねたもの、そこに突っ込むように、倒れる方向を操ったのだった。

 

「おまえの身のこなしはいったい何なんだ……。どこかのエージェントなのか」

 

慌てて立ち上がり、志乃枝が起き上がろうとするのに手を貸しながら、夫は言った。

 

「あなたね、何を言ってるの。私が殺し屋に見えるって言うんですか」

 

夫に助け起こされながら、志乃枝はプリプリと怒った。
夫の言う「エージェント」という言葉が、「スパイ映画に出てくるような、華麗なアクションを繰り広げるような人間」を指していることは、言わずともわかった。
だからといって殺し屋とは限らなかったが、志乃枝は殺し屋を真っ先に連想したのだった。
夫は特にそれを訂正せず、むしろ志乃枝のその発言に乗っかった。

面白がっているらしい。

 

「いや、見える、なんかハデだし。ベテランの殺し屋に見える」

 

そんな夫の心ない言葉を黙って聞き流し、志乃枝はコートについた雪を払った。
そこで何かに気づくと、突然、今まで自分が倒れていた雪山の前にしゃがみ込んだ。
志乃枝は何かを拾った。

 

志乃枝の様子に気づき、何を拾ったのか見ようと近づいた夫に、志乃枝は自分が今拾ったものをこれ見よがしに見せつけた。

 

「ミカン?」

 

雪山の中にミカンが入っていたらしい。
志乃枝はミカンを手に、なぜか勝ち誇ったような笑みを見せた。
黙って皮を剥くと、その場でミカンを食べ始めたのだった。

 

シャクシャク、シャクシャク。

 

ミカンは凍っていたのか、志乃枝の咀嚼とともに軽やかな音を立てた。

 

「お、おい。大丈夫なのかそれ、洗ったりしなくて。というか、それ誰かが隠しておいたものじゃないのか……」

 

そんな夫の声もむなしく、志乃枝はミカンを食べ終わった。
ひとつ食べ終わると、その皮を持ったまま、次のミカンに手を伸ばす。
雪山にはひとつだけでなく、複数のミカンが隠されていた。
志乃枝が雪山から発見して食べたミカン、その数、4つ

 

志乃枝は、食べ終わった4枚のミカンの皮を、自らのコートのポケットから取り出したティッシュに包むと、それをまたポケットに入れ直した。

 

「もういいでしょ、ケンカの続きは家に帰ってからやりましょう」

 

謎のミカンを食べ終えた志乃枝は、満足したのかそう言うと、くるりときびすを返して、宿に戻ろうとする。
どんどん距離が離れていく志乃枝のうしろ姿に、夫は呼びかけた。

 

「おーい」

 

志乃枝は、その声が聞こえないかのように歩き続ける。

 

「……ありがとう」

 

ぴたり。

かなり距離が離れていたにもかかわらず、声が聞こえたのか、志乃枝は立ち止まって夫を振り返った。
そして夫のほうを見つめたまま待った。

 

待たれていることに気づいた夫は、慌てて志乃枝に駆け寄ろうとして、地面が凍っていることを思い出し、慎重に歩みを進めた。

 

志乃枝のそばまで近寄ると、夫は腕を差し出した。
腕ぐらい組みたくなったのではないか、志乃枝の気持ちをそう想像してのことである。
しかし志乃枝は夫の腕をバシリと叩いた。

 

「腕なんか組んで、また転んだらどうするのよ。バカね」
「そうか」

 

また外したのか。
夫は少し悔しくなり、余計なことを言ってみたい気持ちに駆られた。

 

「雪の季節が終わったら、また来よう。今度はテニスをしに」
「え」
「テニス、したいんだろ?」
「いえ、別に」

 

志乃枝は真顔でそう答えた。
どうやら本格的に外したらしい。
夫は、もっと志乃枝の戸惑った顔が見たくなった。
さらに余計なことを言おうとして、何を言えば相手が戸惑うのか考えているうちに、当の志乃枝が夫の方を向いて言った。

 

「テニスはやったことがないし、やりたいとも思っていなかったんだけど……、そうね、また来るというのはいいアイデアね。今度は本当に夫婦水入らずでね」

 

戸惑う志乃枝の顔が見たくて策を練っていた夫は、自分が戸惑う顔をすることになった。

 

「どうしたんだ、急に改心したのか」
「ちょっと……、どういう意味ですか。人を悪役のように。私は悪役じゃありません。悪の親玉は、あなたよ」

 

それからも立て板に水とばかりに、あのときあなたはああだった、このときもあなたはこうだった、というふたりの思い出話をする志乃枝の声を心地よく聞きながら、夫は少し先の地面を見つめて歩いた。

 

それから宿に戻るまで、ふたりは肩を並べて歩き続けた。

 

(おわり 12/30)

 

羽男に惑わされる夜

ファイル名を間違えた。
7番めのファイルに「9」という名をつけていたようだ。
加藤叶太(かなた)は、9番めのファイルを作るときにようやくそのことに気づいた。

 

なぜこんなミスをしたのか、自分でもよくわからない。
自分では気づいていないが、疲れているのかもしれない。
叶太はため息をつき、そんなことを思った。

 

叶太が今いるのは、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の会議室、の控え室だった。
叶太の所属するトラーリ株式会社は、4泊5日の新人研修でイルズク第1棟に宿泊していた。
その間、第1棟・1階にある会議室を借り切っている。控え室も同様である。控え室には共用のプリンタがある。


明日の研修の企画のために、QRコードのファイルを11個作り、それを印刷する必要があった。

 

「Hang in there」

 

……という英文のアルファベットを、1文字ずつQRコードにする。
QRコードは、新人研修の明日の企画で使うものだった。
この研修に入る前から準備はしていたが、本来の仕事をしながらの準備だったために十分ではなかった。
結果、一番手軽に終えられそうな作業が最後まで残ってしまったのである。

 

QRコードをWeb上で作成し、ファイルに保存、そしてシールに印刷して貼る。
ラベルプリンタがあれば簡単に印刷できるのかもしれなかったが、トラーリ株式会社は、そんな便利なマシンを所有してはいなかった。


というわけで、叶太は宿泊施設から借りた古いプリンタで、ハミ出さないようチマチマと手動で設定をしながらシールに印刷する作業を、ひとり進めていた。

 

叶太は、部屋の隅にまとめて置いてある、11本のポールに目をやった。
車止めなどに使われる、背の低いポールである。自立している。
地面に埋めずとも使えるタイプで、色は黒だ。


そう、トラーリ株式会社の新人研修チームは、わざわざ会社から宿泊施設に、11本のポールを持ってやって来たのだった。

このポールに、QRコードを印刷したシールをひとつひとつ貼り終えれば今日の叶太の作業は終了である。

 

間違っていることが今しがた判明したファイル名を直すべきかどうか、叶太はぼんやり考えた。
ファイル名は、ファイルを作成したときの、最初の名から変更している。

ファイル名も一緒に印刷する設定になっているからである。
すべては、QRコードの順番を間違えないためだ。

 

しかし、ファイル名を直す必要はない。叶太はそう判断した。
ファイル名を誰が確認するというのか。
シールさえきちんと印刷できていればいいのである。

 

さらに言えば、明日だけしか使わないシールである。
間違いがあっても、後々までそのミスが尾を引く、ということもない。
というわけで、叶太はQRコードの9番めのファイルに「7」という名をつけた。
7番めのファイル「9」とまったく同じ名だと、9番目のファイル名がつけられないからだ。

7と9で、ファイル名が入れ替わってしまったが、印刷するときに間違えなければいい。


叶太はそう思うことにした。
夜も更けてきて、くたびれていた。細かいミスを直すよりも早く終わらせたい。
小さいとはいえ、ミスの判明と、それをどうするか迷ったせいで、ふと休憩したい気分になった。

 

叶太はノートパソコンから目を上げた。
腕時計を確認する。
23時10分。
窓の外を見た。
特に意味はない。ずっと近くを見て作業をしていたため、なんとなく遠くを見たくなったのである。
しかし窓の外はとっぷりと暮れており、暗闇しか見えない。

 

遠くで、車がゆっくりと走行する音がした。
叶太たちトラーリ株式会社の人間は、今、新人研修のためにイルズクに宿泊している。
といっても、叶太は新入社員ではない。
研修を滞りなく遂行するために同行した、勤続5年のトラーリ株式会社の社員である。

 

新人研修にやけに力を入れる会社だった。
叶太が新入社員のころからそうだった。
外部に研修業務を委託しているのかと思ったが、違った。
先輩社員が、上司の監督のもと、せっせと準備して実施しているのである。

 

今回、研修をおこなう側の立場になって、ようやく叶太はそのことを知った。
特に力を入れているのは座学よりも、体を動かすイベントであった。
力を入れる場所が違うのではないか、と思わないでもなかったが、これも仕事である。

 

そんなことを思いながら叶太が窓の外の暗闇をぼんやり眺めていると、窓の外の走行音が近づいてきた。
駐車場から宿の正面入り口に車を回すときに、ここ第1棟・会議控え室のそばを通る。
今日は夜になってからずっとここで作業していたため、もはや何度目かわからない車の音だった。

 

窓にヘッドライトが当たる。

カーテンを閉め忘れていた。
照らされた部屋の一角が強い光で浮かび上がる。
光は平行四辺形の形になり、部屋の中で天井にまで伸びた。
そこに、影が映った。
影は、窓と、室内の平行四辺形の光の中で、ゆがみながら伸びた。

 

「……!?」

 

今のは何だろう。
叶太がそう思って椅子から立ち上がりかけたときには、もうすでにヘッドライトも謎の影も見えなくなっていて、辺りには暗闇が戻っていた。

 

何か、人ではない影が見えた気がした。

 

手がふさふさとした何か。
巨大なふさふさとした手。
リスの尻尾のような形の、巨大な手。
違うのだろうか。手ではないのか。

 

「あいた」

 

窓の外で声がした。
立ち上がりかけの中途半端な姿勢でいた叶太は、思い切って立ち上がった。
窓に近寄り、鍵を開ける。
そして勢いよく開けた。

 

「わっ」

 

窓の外、下の方で声がした。
叶太の腰くらいの高さにある窓の外側、1.5メートルほど離れたところに誰かがうずくまっていた。


両腕で何かを抱えている。
その何かは羽に見えた。巨大な鳥の羽の飾りだ。カーニバルで見るような羽である。
手に見えた何かは、手ではなく、手で持った巨大な羽だった。

 

「どちら様?」

 

叶太がどう聞いたものか考えながら問うと、巨大な羽を抱えたその男は、ゆっくりと立ち上がった。
だが、黙っている。叶太が戸惑うほど、顔をじろじろと見つめてくる。

 

(イケメンだ)

 

叶太は、羽男の顔を見てそう思い、次に何を聞くべきか、わからなくなった。
警戒なのか、緊張なのか、嫉妬なのか判然としない感情がわき起こりそうになり、無理矢理に、目の前の男に注意を戻す。

 

イルズクの客だろうか。それともスタッフだろうか。
それともそれ以外の何者かだろうか。

 

男の服装はラフなものだった。
怪しいと言えば怪しいが、イルズクのスタッフには制服がなく、動きやすいであろうラフな服装をしていることが多かった。
服装からは判断できない。

 

叶太がそんなことを思っていると、思う存分叶太の顔を眺めて満足したのか、羽男はようやく口を開いた。

 

「あ、俺。宿の者です、すみません、お騒がせして。つまずいてしまって……転んだだけです」

 

叶太は目の前の羽男がしゃべり始めてすぐに、どこかで見たような印象を覚えた。
しかし、カン違いだろうとすぐに思い直した。
なにしろ顔に見覚えがない。
返事をしないのも変かと思い、最初に目に飛び込んできたものについて尋ねてみることにした。

 

「宿の人がなんで羽を?」
「なんでかは俺にもわかりませんが、これがちょうどぴったり来る花があって……。あ、今、第2棟のロビーで花を展示している最中なんですよ。造花を作るサークルの方々の作品なんです。明日には見られると思いますので、ぜひ見にいらしてください」

 

羽男は唐突にロビーの花展示を売り込むと、ぺこりとお辞儀をして立ち去ろうとした。

 

「あ、ちょっと待って」

 

叶太が思わず呼びかけると、羽男はピタリと立ち止まり、振り返った。

 

本当に宿の人間なのだろうか。
宿の人間が、夜中に巨大な羽を持ってウロウロするだろうか。
叶太はそんな疑問を感じていた。
かといって、どういう立場の人間だったら、夜中に巨大な羽を持ってウロウロしていても自然なのかはわからない。
叶太は羽男に尋ねた。

 

「お名前、教えていただけますか」
「は……、えっと」

 

口ごもった。怪しい。
叶太は反射的にそう思ったが、次の瞬間、男はあっさり名乗った。

 

「渡瀬です」
「……」

 

男を怪しむことも忘れ、叶太は黙った。
数年前、突然家を飛びだした弟の名と一緒だった。


だが違う、顔が違う。

 

声も記憶の中の弟よりも、しゃがれている。
そもそも弟は下の名前が渡瀬なのだ。
この人物は、おそらく名字が渡瀬なのであろう。

 

下の名前を聞こうとして、叶太は途中でやめた。
職務質問のようだったからだ。
そんなことができる立場ではない。
そこまで考えてから、自分が名乗っていないことを思い出した。

 

「あ、申し遅れました、私は加藤と申します。えーと、名刺、名刺」
「あ、えっと、おかまいなく」
「あれっ、うんっ? あ、ない……。新人研修の準備するだけだから、使わないと思って部屋に置き忘れてきたのかも」

 

叶太はがっくりと肩を落とした。

そして、とても正直に忘れた旨を伝えた。
精神論を語る上司がここにいたら叱り飛ばされていただろう。いついかなる時も名刺を持ち歩けと。忘れたときには、「あいにく切らしている」などの、ふんわりした言い訳をしろと。

 

「俺も持ち歩いてないです、名刺」

 

なんだか少し悲しいような表情をしながら、自称・渡瀬は言った。

 

「こんなこと言ったらいけないのかもしれないけども、早く紙の名刺を持ち歩く必要がないくらいに、電子的な名刺交換システムが発達すればいいのにと思ったりします」

 

自称・叶太も、やや遠くを見ながらさみしく言った。

その言葉を聞き、渡瀬は目を細めて、笑っているような、そうでもないような表情になった。
叶太は、その表情に見覚えがあった。

 

「あの。渡瀬さん。ちょっと手伝ってもらえません?」

気づくと、叶太はそう言っていた。

 

***

 

「俺が手伝っていいんでしょうか。俺、トラーリさんに何も関係ない人間ですけど」

 

イルズク第1棟・会議控え室の中に招き入れられると、渡瀬は戸惑ったような口調でそう言った。
叶太は、声をかけた手前、「思わず言ってしまっただけで特に手伝うことはない」と本当のことも言えず、とりあえずニコニコした。
渡瀬に準備室の椅子を勧めてから、言い訳を試みる。

 

「いえ、話し相手になってくれるだけでいいんです。眠くなってきてしまって、ひとりで作業していると」
「はあ。では、すみません、ちょっと失礼して」

 

渡瀬は椅子に座って、そう前置きすると、腕に抱えていた巨大な羽を背負った。
背負うためのベルトがついていたらしい。

 

「なんで背負うんです」

 

光の下で見ると、ラメもしくは金糸が使われているのか、やたらとギラギラしてみえる、目に突き刺さるようなターコイズ・ブルーの羽である。

 

「ここに置いて、置いたまま忘れてしまってはいけないと思いまして」

 

渡瀬は、クソ真面目な顔でそう言った。
ドジっ子なのか。
叶太は自分のことを棚に上げて、そう思った。
叶太の弟の「渡瀬」も、相当なドジっ子だった。

 

そう思って目の前の羽男を見てみるが、顔の後ろに、背景のように巨大な羽がギラギラわさわさしているため、どうにも弟とイメージが重ならなかった。ハデすぎる。

 

「えーと。そうだ、ファイルをあと2個作るんだった」

 

叶太はそう言って、ノートパソコンでQRコードのファイルを作る作業に戻った。

 

「すみません、渡瀬さん、ポールを持ってきてくれませんか」
「あ、はい。どのポールですか」
「全部です」

 

渡瀬は、言われたとおりに、部屋の隅に置いてあった11本のポールを持ち上げ、叶太のいる作業机のそばにそろえて置いた。
ポール自体はそれほど重くなく、渡瀬は、脇に数本挟んだりして2往復でその作業を終えた。

 

「えーと、最後はなんだっけ、『e』か。『e』は……、『H,a,n,g,i,n,t,h,e』9番目のファイルと同じのをもう1回、で、ファイル名は11」

 

先ほどファイル名を間違えたことを渡瀬の出現によって忘れてしまったのか、叶太はそうつぶやいた。

 

「で、プリンタに白紙のシールをセットして、印刷、と……」

 

叶太は、作業机に載っていた台紙付きの白紙のシールを持ち上げると、机の上、ノートパソコンの横に置いてあったプリンタにセットした。
機械が作動する音がして、印刷が始まる。

 

出てきた印刷済みシールを見て、叶太はうなずいた。
シールには、ひとつひとつ違う番号がふってあり、その下にQRの模様のようなコードが印刷されていた。
渡瀬が見ていることに気づくと、叶太は、できたてのシールを見せながら言う。

 

「できました」
「おお。……と、言われても、俺にはQRコードだとしかわかりませんけど、はい」

 

渡瀬は、とても正直に感想を言った。
QRコードを読み取れる人間のほうが少ないであろう。

 

「はは、まあそうですよね。これをポールに貼れば終わりです」
「手伝いましょうか」
「あ、じゃあ、お願いします」

 

ぺたり、ぺたりと貼っていく。
来年の新人研修も、前の年のシールを剥がすところから始めるのだろう。今年と同じように。
叶太はそんなことを思った。

 

シールはあっという間に貼り終わった。
これで叶太の本日の作業も終わりである。

 

「これで終わりです。ありがとうございました。すんませんね、引き留めて。花の準備してください」
「あ、はい。それでは」

 

言葉通り立ち去りかけた渡瀬だったが、ドアを開いてから振り返った。
後ろに背負った羽が、わさわさと動く。

 

「QR、読み取れるかどうか、チェックしなくて大丈夫ですかね」
「あ、そうですね。んじゃ、最後にそれやります。ありがとう」
「じゃあ、俺はこれで」

 

渡瀬が羽をわさわさ言わせながら部屋を出て行くと、叶太は椅子の中で息を吐いた。
途中で心配になったのだった。
社外の人間の前でこの作業をしていていいのかどうか。
特に見られて困るものでもないが、わざわざ見せるものでもない。

 

花の展示をしていると言っていた。
向こうも仕事がまだ残っていた。
それなのに、なんだか強引に引っ張り込んでしまった。

 

それもこれも、渡瀬という男に感じた、どこかで見たような妙な印象のせいだったのだが、結局どこで見たのかわからずじまいだった。
たとえば、テレビの中で見た誰かとか、ほかの人間と混同しているのかもしれない。

 

そうなのかどうなのか、叶太にはよくわからなかった。
常に渡瀬の後ろでギラギラわさわさしていた巨大な羽に目が行ってしまい、それどころではなかったのである。
アレがぴったりくる花とは、いったい何なのだろう。

明日には見られると言っていた。
手伝わせてしまったこともあるし、見に行ってみようか。

 

作業を終えたポールを、ドアの脇にまとめて置く。
この部屋は今、トラーリ株式会社社が借りているので、ポールは明日の朝、設置するまで、置きっぱなしでもいいはずだ。
会議控え室に広げていた物をまとめながら、叶太はそんなことを考えた。

 

むろん、QRコードが読み取れるかどうか、確認をすることは忘れたままである。

 

(おわり 11/30)

 

ひとことで言うとハデですね

「これはまた……ハデですね、ひとことで言うと」
「だろ?」
「いえ、あの、褒めてるわけではなく」
「なんだって?」

 

夜更けである。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」はすでに消灯時間を迎えていた。
これから充香は、サークルで作った造花を、イルズクの玄関ロビーに飾りつける予定だった。

 

その手伝いとしてイルズクが寄越したのが渡瀬だった。渡瀬は、充香の甥である。


花を運ぶ前に、まず充香の部屋でふたり、ロビーにどう配置するかを話し合った。
花には運搬用に覆いをかけていたため、充香が携帯で撮った花の写真を見ながらの相談である。

 

花の種類は、胡蝶蘭や薔薇など、華やかかつ気品を感じさせるものばかりだった。
だが。
大きさに問題があった。

 

ひとつだけ、やたらと巨大な薔薇があった。
写真には、偶然なのか比較用にわざわざ入ったのかはわからないが、人が隣に映っていた。
その薔薇は、人間の頭よりもはるかに大きかった。

「これから、ひとりでに動き出す」と言われても驚かないくらいの大きさだった。

 

「ああ、その薔薇かい? あたしが作ったんだけどさ。材料がやたら手に入ってしまって、消費しないといけなかったんだよ。小さな薔薇をたくさん作るのも時間が足りなくて」
「で、こんなに巨大になったんですか……」
「まあね。作ってるうちにノリノリになってしまったのもある。ハデでいいだろ」
「ハデ好きなんですね……」
「まあね」

 

渡瀬は、携帯の画面の中の巨大薔薇をしげしげと眺めた。

そして、思いついたように言う。

 

「あ、そうだ。アレが合うかもしれない」

「なんだい、アレって」
「えーと、飾りです。羽の飾り。俺が昔舞台で使ったもので、去年の忘年会のときに持ってきたものです。使ったまま持ち帰るの忘れてたんで、まだイルズクの倉庫にあると思うんですけど」
「舞台?」
「あ、はい。昔ですけど、はい。じゃあまあ、持ってきます、その飾り。ハデにハデをぶつければ何かが相殺されるかもしれない」
「ちょっとお待ち、舞台って何だ」
「昔の話です。まあ、その話は今度また、時間があるときにでもゆっくり」

 

そう言って、渡瀬はそそくさと部屋を出て行った。
あとには充香と花だけが残された。

 

「舞台って何だ……」

 

返事はない。

 

ノックの音がした。
充香がドアを開けると、加藤という名のイルズクのスタッフがそこにいた。
充香が予約を取るときに話した、およびロビーに花を飾るための交渉をした相手が、この加藤だった。面識がなくもない。

 

「お待たせしました」

 

加藤は言う。
かつて充香が聞いたこともないほどかすかな話し声だった。
その声を不自然に感じた一瞬ののち、「夜中の廊下だからか」と気づいた充香は、加藤を部屋に入れるべく、開いたドアに寄って場所を開けた。

 

「すみません、消灯時間が過ぎているもので。廊下でできるだけ物音を立てたくないんです」

 

部屋の中に入ってから、加藤はやはり小さな声で、しかし先ほどよりは若干音量を上げて言った。
部屋のドアを閉めてから充香も返事をする。

 

「ああ、それはそうだね。うちのサークルの面々ももう寝てるに違いないさ。中高年が多いからね、途中で起こして寝不足になられて、それで何か事故が起きても困るから、ここは宵っ張りのあたしひとりで飾りつけを終えようと思ってね。こっちの人手が少なくてすまないね」
「いえ、それはかまいません。うちからはもうひとり来る予定です」
「ああ、すでに来たよ。もうひとりって渡瀬だろ? なんだか羽飾りを取ってくるって言って出てったよ」
「そう……でしたか」

 

戸惑ったような表情を見せた加藤に、充香は言った。

 

「渡瀬とは顔なじみでね。顔なじみと言っていいのかどうかよくわからないけど」
「ああ、彼をご存じでしたか」
「まあね。だけどね、そうは言っても過去のことはあたしもよく知らないんだ。『舞台』って言ってたけど、あの子は舞台に立つような仕事をしていたのかい?」
「さあ……、どうでしょう、私もあまり渡瀬の昔のことは、よくは存じ上げません」

 

加藤は言葉を濁すと、部屋を見回した。

 

「では、運びましょうか」
「ちょっとお待ち、台車があるからね」

 

充香はまるで秘密道具を取り出すかのような厳かな口調で言うと、花に埋もれていた台車を発掘した。

 

「さあ、運ぶよ」

 

そう宣言すると、メガネをかけ、スカーフを頭に巻いた。何か作業するときの、充香のいつものスタイルだった。
どことなく「お忍び」な雰囲気を漂わせながら、充香は台車に花を載せていく。

 

「私が台車を運びましょう」
「いや、悪いが台車はあたしにやらせとくれ。両手に花を持って運ぶよりは転ぶ危険が少なそうだからね」
「失礼しました。そういたしましょう」

 

そこから1回目の運搬を終えるまで、いっさい会話がなくなった。

 

ロビーは暗かった。
消灯時間が過ぎているため、点灯している照明の数を減らしているのである。
ロビーに着いてから初めて加藤が口を開いた。

 

「照明をつけてきます。それと、うちにも台車があるはずなので、それも持ってきます。すみません、段取りが悪くて」
「かまわないよ」

 

なんとなくだが、加藤は自分の責任であるかのように言っているが、台車を持ってくるのを忘れたのは渡瀬なのではないか、という思いが充香の脳裏をかすめた。

 

確かに、充香の記憶にある渡瀬もそんな感じだった。
そんなドジっ子で大丈夫かと言いたくなるが、たぶん大丈夫なのだろう。
意外となんとかなる。
充香はそう考えていた。

 

フロントの裏に行った加藤を待っていると、充香の脳裏に、さきほどの渡瀬の言葉がよみがえってきた。

 

「昔の話です」


舞台とは何だろう。
舞台に立つような仕事をしていたのだろうか。
充香は、家を飛び出してからの渡瀬のことを何も知らないことを、今さら実感した。

 

ロビーの、充香がいる周辺にだけ照明がついた。加藤がつけたのだろう。
スポットライトで照らし出されたかのように、充香がいるそこだけが、薄闇の中で浮き上がった。

 

加藤を待っているのもバカバカしくなり、充香は台車を押して、もう一度部屋に戻ることにした。第2回運搬である。

イルズクには、こじんまりとした建物が何棟かあり、そのひとつひとつの建物は2階建てである。客用のエレベーターはない。


しかし、リネンルームの隣に作業用エレベーターがついていた。エレベーターと言うよりもリフトである。
基本的に緊急の出来事があったときに乗るものなのだろう、と充香は推測した。そうでないなら客用のエレベーターがない理由がよくわからない。

 

充香はロビーに行くときにも乗ったそのリフトに乗り、再び台車とともに自分に割り振られた部屋に戻った。
そうして、第2回運搬を滞りなく済ませた。


途中で台車を押す加藤とすれ違った。
廊下ですれ違ったため、お互い言葉を交わさず、目で挨拶を交わしたのみだった。

 

第5回運搬、加藤と合わせると第何回なのかわからなくなっていたが、何往復かして、ようやくすべての花を運び終えた。
充香が最後の運搬の果てにロビーにたどり着くと、加藤は、すでに運んだ花の覆いを取っているところだった。
その加藤が、口を開く。

 

「……これはまた、なんというのか」
「ハデかい?」
「いえ、生き生きとして……まるで生きているかのようですね、躍動感が素晴らしい」

 

巨大薔薇を目にした加藤がひねりだした言葉である。
巨大な薔薇が生きていたら恐怖でしかないような気がしたが、その恐怖の巨大薔薇を作った張本人である充香は、意地でもそんなことを言う気はなかった。

 

「渡瀬は? まだ戻ってこないのかい」
「そうですね……、ちょっと遅いですかね」

 

辺りを見回しながら加藤は、充香の言葉にうなずいた。
充香は、少しずれていた花の配置を整えた。これでよし。

 

渡瀬はまだ戻らない。
やることもなくなり、ロビーには静寂が訪れた。

 

「……で、渡瀬の昔の話なんだけどね」

 

充香が加藤のほうに向き直って言った。

 

「舞台って何だね。あの子は舞台に立っていたのかい?」
「いえ、私もよく知りませんので」
「そうかい。まあ、本人が帰ってきたら本人に聞きたいんだけど、あの子はいつ戻ってくるんだね」
「ははは……、すみません、どうでしょう、われわれのほうでで飾りつけを終えることもできますが。もう夜も遅いですし」
「あたしの目はギンギンに冴えてるよ。もともと夜行性だからね」
「そうですか……、渡瀬に連絡を取ってみましょうか」
「ああそうだね。やってみとくれ」

 

加藤が携帯を取り出して操作する。
その作業をぼんやり眺めていた充香は、ひとりごとのようにつぶやいた。

 

「地味な子だとずっと思っていたんだよ」

 

加藤は、充香のほうをチラリと向いたが、指は携帯を操作し続けていた。
充香の独白は続く。

 

「親族で会う機会があっても、まあ挨拶くらいはするけども、それ以外はダンマリさ。どういう子なのかなんて、考えるきっかけもなかった」
「……」

 

「親族」という言葉に反応したのか、加藤は携帯を操作する指を止めて充香を見た。

 

「今の環境に特に不満もない子なんだろう、そう思ってた。興味もなかった。あの日までは」
「……」
「あの子が家を出てね。突然に。それで、ああ、あの子は居心地が悪かったのか、と知ったのさ。俄然興味がわいてね。あたしも居心地悪いんだ、あの家は」
「は、そうですか、ええ」

 

むしろ加藤は、自分のほうが居心地の悪そうな相づちを打った。

 

「まあ、いいんだよ、舞台に立ってようが立ってなかろうが。でもさ、あたしが知ってるあの子だったらやらないようなハデなことを、誰も自分を知るものがない場所で、思い切ってやっていたのかなって思ったらさ、痛快じゃないか」

 

充香は含み笑いをしながらそう言った。
充香の独白は終わり、そこでまたロビーに静寂が訪れた。

 

加藤はいつの間にか携帯の操作を終えていた。そして携帯を見たまま、傾いたような奇妙なほほえみを見せ、その表情のまま充香に向き直った。

 

「渡瀬はすぐに戻るそうです。今まで第1棟で、ほかのお客様のご要望にお応えしていたらしく」
「なんだい、こっちだってお客様だろ。あの子はまったく……」

 

ため息をつきかけた充香に、加藤がさらに説明した。

 

「第1棟には、今、会社の研修のために宿泊されているお客様がいらっしゃるんです」
「それって、叶太の会社のことかい?」

 

叶太は渡瀬の兄である。

 

「お客様のお名前は私からは申し上げることができませんが、ええ、はい。新人さんではない社員の方に」
「兄貴につかまってたのかい、渡瀬は」

 

充香は、吹き出した。大笑いである。

 

「どこまで運が悪いんだ、あの子は! ああ楽しみだ、何を話したんだろう、ふたりで。ああ、わかってるよ、本人に直接聞くよ、仕事じゃない時間を狙ってね」

 

充香は、そう言ったあとも、涙が出るほど笑い続けた。
笑いがようやく収まり、涙を拭き終わったころ、ロビーに渡瀬本人が戻ってきた。

 

なぜか背中に巨大な羽飾りを背負っている。
これが渡瀬が言っていた羽飾りなのか。
これはさぞかし舞台映えしただろう、充香はそう思った。

そして、「この格好で兄と再会したのか」と思うと、また笑いがこみ上げてきた。だが、かろうじてこらえた。

羽を背負ったまま、渡瀬が口を開く。

 

「すみません、遅くなりまして……ってもう終わりですか?」
「終わりだよ。で? 羽飾りってそれかい?」

 

充香は、渡瀬が背中に背負っている巨大な羽飾りを見ながら言った。

 

「そうです。ハデでいいでしょう」
「ああいいね。ハデだね!」

 

充香は親指を突き出して言った。
渡瀬は背中から羽飾りを下ろすと、ロビーに展開している花の群れに近づいた。
そしてひときわ巨大に、異彩を放っている巨大薔薇の左右から羽が見えるように、羽飾りを置いた。

 

「この大きな薔薇を固定してるとこに羽も固定すればいいんじゃないでしょうか」

 

渡瀬はそう言いながら固定する作業をし始め、すぐに終えた。

 

「ああ、いいじゃないか。孤独だった薔薇がひとりきりじゃなくなったね」
「ハデをハデで相殺してみました」

 

夜も更けてきて、残業が長引きすぎたせいなのか、加藤が吹き出した。
奇妙に傾いたような顔で笑いながら、加藤は言った。

 

「相殺されてはいませんよ、でもいいですね、ひとことで言うと」

 

そこで息を整えた。
そして、まだ笑いの残る顔で言った。

 

「ひとことで言うと、ハデですね」

 

(おわり 10/30)

 

満月

花に囲まれている。
だが、香りはない。

 

それもそのはず、不破充香(みちか) の周りにあるのは造花だった。
地域のサークルのメンバーで作った花である。
充香は造花を作る地域サークル「Fake flowers」を主宰していた。
今までに作った分と、この旅行中に作った分の花たちが今、飾りつけられるのを待っている。

 

泊まっている宿泊施設は、ふだんサークルが使っている地域センターから特急電車で30分ほどの場所にある。
「ちょっとした遠出」という言い方のほうがしっくりくるのかもしれない。

 

その宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の入り口・ロビーに花を飾るのである。
サークルの代表者である充香が、イルズク側と交渉した。
ロビーに花を飾るという点は問題なく決まったが、実際に飾りつけをおこなう時間帯を決めようとすると、交渉は紛糾した。

 

「できれば、客の出入りが落ち着いている午前中がいい」というイルズク側の要望を、充香は却下した。
夜型の充香は午前中からテキパキ動ける気がしなかったからだ。個人的な理由である。
「それならば、消灯時間後に飾りつけをおこなってほしい」というイルズク側の第2希望を受け入れることにした。

 

イルズクには消灯時間がある。
23時以降は、正面入り口が施錠され、照明も半分以下に落とされる。
都会でも有名観光地でもないこの土地では、24時間営業ではない宿泊施設は珍しくもなかった。

 

そういった交渉成立の結果が、今である。
消灯時間を待たねばならない。
充香は作った花に囲まれながら、椅子に座り、目を閉じ、時間が経つのを待っていた。

 

充香がいるのはイルズクの一室だった。
周りには誰もいない。
飾りつけに、サークルのメンバーは何人参加できるだろうか。
事前に、無理はするなと言ってある。
自分が交渉した結果ではあるが、もう時間も遅い。
自分以外にだれも参加しなくても驚きはしない。
充香はそんなことを思いながら、鼻からゆっくり息を吐きだした。

 

ほぼすべてのメンバーが中高年のサークルなので、何をおいても健康を優先させたい。
旅行中に、病人や、けが人が出るのは避けたかった。
消灯時間後という話が出た時点で、宿側の人間を手伝いに寄越すように言っておいた。
自分と、あとひとりかふたり手伝いがいれば、早くは終えることはできずとも、今夜中には作業を終えられるだろう。

 

充香は目を開けた。
カーテンを閉め忘れていた。
充香は、立ち上がり、窓のそばに歩み寄った。

 

先ほどまで降っていた雪は、やんでいる。
雲は重く低く垂れ込めている。
一時的にやんでいるだけなのかもしれない。
雲間から、満月が見えていた。

 

ほら、竹取物語だよ。
かぐや姫みたいだね。

 

ふいに、過去に自分が発した言葉を思い出した。
昔々、充香がまだ小学生だったころだ。

 

充香には姉がいた。
今もいる。
姉は自転車に乗るのが好きだった。
今も好きなのかどうか、充香は知らない。自転車には乗っていないだろう。

充香はそう思った。

 

当時小学生だった充香の姉が乗っていた自転車は、白に近い黄、クリーム色に塗られていた。

補助輪つきではなかったが、かといって大人向けの自転車よりは小さな自転車だった。
姉はクリーム色の自転車をいつも乗り回して、颯爽と遊びに、習い事にと通っていた。
その自転車がある日、盗まれた。

 

姉は親と一緒に、交番に盗難届を出しに行ったようだった。
盗難に充香は関わっていない。

 

姉は自転車が好きだった。
親がなんと言ったのかは今となっては思い出せない。
新しい自転車を買う約束はしたはずだ。

 

だが、姉は探した。
クリーム色の自転車を探した。
自転車を探すために歩いて出かけた。

 

駐輪場の付近で聞き込みをし、クリーム色の自転車がどこかに置き去りにされていないか、探し回った。
しかし、見つからなかった。

 

姉は小学校のクラスでも、聞いて回ったらしかった。
家には、「これではないか?」という善意から、子供向けの自転車を持ち込んでくる人が来はじめた。「捜している自転車は、これではありませんか?」と。

 

その中にも、姉のクリーム色の自転車はなかった。
車体がクリーム色ではない自転車も多かったし、クリーム色であっても姉の自転車ではないものも多かった。
「かわりの自転車にいかが?」という持ち込みもあったが、それも姉は丁重に断っていた。
すべての持ち込まれた自転車は、丁重にお礼を言って、持ち帰ってもらったのである。

 

姉は探し続けた。
歩いて探した。
季節がいくつか通り過ぎた。
そのころには、わが家の前に、自転車が放置されるようになっていた。

 

家の周りの塀に立てかけるように置かれた1台の自転車が発端だった。
自転車を持ってきたが、我が家が留守にしていたのか何だったのか、経緯はよくわからないが、とにかく1台の自転車が放置されていた。
誰が持ってきたものなのか判明するまでの数日で、もう1台放置された。
最初の自転車を持ち主に持って帰ってもらうまでに、もう1台。

 

充香は姉に言った。他意はなく。

 

「お姉ちゃんがずっとお断りしてたからじゃない?」
「ほら、竹取物語だよ」
「みんなが持ってきた自転車をお断りしてたから」
「お姉ちゃん、かぐや姫みたいだね」

 

充香は、そのころ家にあった絵本で読んだ、かぐや姫を連想したのだった。
絵本に描かれていた、難しいリクエストを求婚者に出し、持ち寄られた品をすべて断るかぐや姫に姉が似ているような気がしたのである。
姉は充香の顔を見て、苛立ったような表情をした。

 

そのころには、家の前の放置自転車は数台になっていた。
姉は、自転車探しを断念した。
やめたのだ。
あれほどまでにこだわった自転車を、あきらめた。

 

「みんなに迷惑がかかるから」

 

姉はそう言った。

迷惑を考えるなら、それまでの自転車探しは何だったのか。
私のせいか。
私が言ったことが気にくわなかったのか。
充香はそんな思いを胸に抱いたが、姉が充香の言葉をどう受け取るかわからず、何も言うことができなかった。

 

「私が自転車を探すせいで、みんなに迷惑がかかるから」

 

それは嫌味なのか。
それから姉は、自転車に乗ること自体やめてしまった。

 

充香は、カーテンを閉めた。
昔のことを思い出していた。
部屋に備え付けられた椅子に座り、花を飾りつける時を待つ。

 

目を閉じ、渡瀬のことを思う。
家出した姉の息子だ。
姉の息子はほかにもいる。

 

渡瀬がいなくなったとわかったときに、行方不明届を出していた。
それから6年が経過している。
7年経つと、裁判を経て、失踪が認められれば失踪届が出せる。
死亡者として失踪人を扱うことができる。

 

いなくなった当初、姉は息子を探し回っていた。
それでも渡瀬は見つからず、そのまま時が過ぎた。

 

「捜している息子は、これではありませんか?」


と、言う者は、今度はいなかった。
人と物を同じに扱っても仕方がないのはわかっている。

だが。

 

盗まれた自転車と、いなくなった渡瀬。
「大事なもの」という意味で、姉の中で同じものとして扱われていたら?
まだ時は来ていない。
だが、時が来たら?
姉がみずから大事なものをあきらめてしまったとしたら?

 

心配しすぎなのかもしれない。

渡瀬の行方不明届を引っ込めさせなければならない。
渡瀬を戸籍から消させたくない。

 

渡瀬は生きている。

私は見つけたのだ。
渡瀬を見つけたのだ。

昔も今も、大事なものを探しても見つけられない姉に変わって私が。

 

充香はまぶたを開け、部屋の時計で時刻を確認した。
22時40分。
まだだ。
だがもうすぐだ。

 

今はただ消灯時間を待つのみ。

 

旅館が眠るのを待つのみ。

 

(おわり 09/30)