スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

あのころの彼らはどこへ

気になる。
塩分が気になる。
あの客たちは、塩分を取り過ぎているのではないか。

 

宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の厨房担当・西間紀夫は、燻製工房の入り口で、立ったまま顔をしかめた。
そこには西間ともうひとりの人物がいた。
加藤兼人である。

 

加藤は、イルズクのフロント、コンシェルジュ、備品管理、営業、その他諸々、いくつもの役割をひとりでこなしている。
イルズクは宿泊施設としては規模が小さいため、スタッフひとりが何役かこなすことが多かったが、加藤はその中でもひときわ役割が多かった。

 

「このところ、土産物の燻製が飛ぶように売れています」

 

その加藤が西間に報告する。
西間が、厨房と土産物(食品)の製造を担当しているからである。
加藤はイルズクの建物の中にある、すべての土産物ショップの商品管理をも担っていた。

 

「ああ……、それが問題だな」

 

西間は自分の懸念が当たっていることを予感し、ため息をついた。

 

「これを見てください、西間さん」

 

西間が加藤の差し出す携帯の画面をのぞき込むと、Twitterの画面が表示されていた。

 

「ツイッタってやつか」
「はい。昨日、うちの公式アカウントがした、燻製についてのツイートに彼らがリツイートしていて、そのリツイートに大量のリプライがついています。すべて彼らがつけたものです」
「全部『燻製食った』っつってるな」
「はい。さらに、第1棟の客室担当の千代田さんにも話を聞きました」
「お。千代田さん、なんて?」
「ふだん、お客様のゴミをのぞいたりはしないのに、ゴミがあふれていたので嫌でも目に入ったらしいです。このお客様たちの部屋のゴミ箱に捨てられていた、大量のパッケージが。すべて、うちで販売している燻製のパッケージです」
「もう確実に食ってるじゃねえか……」
「はい」
「塩分取り過ぎじゃねえか」
「おそらく」

 

話題に上っているのは、新人研修で、ここイルズクに宿泊している団体客である。
彼らが泊まり始めてから、イルズクの中にある土産物屋の売り上げが急上昇した。
土産物として売っている、手作りの燻製がやたらと売れ始めたのである。
それだけならよかった。
土産物として買っているのなら、むしろ喜ばしきことだった。

 

しかし、途中でそれは懸念に変わった。

土産物として買っているにしては、売れすぎている。
商品を補充するたびに売れるのである。
持ち帰るために買っているのではなく、その場で食べるために買っているのではないか。
そんな疑念を、西間や加藤が感じるまでに時間はかからなかった。


そして本日、なんとなく感じていた雲行きの怪しさを、加藤はあえて言葉にした。
西間は、腕組みしながら加藤に尋ねた。

 

「しかしだ。俺らが、お客様にそこまでおせっかいしていいのかい? 塩分取り過ぎですよ、なんて」
「ええ。われわれは彼らのお母さんでも主治医でもないので、確かに干渉しすぎな気がします」
「だよな」
「しかし、それとは別に、このイルズクに泊まりに来たお客様がもしかしたら体調を崩されるかもしれない可能性があるということです」
「誰かがここで倒れるかもしれないってことか」
「倒れるかどうかはわかりませんが、その可能性はあります」
「あるよな。高血圧だの何だの、可能性はあるよな。なにしろ急に塩分取り過ぎだし。いくら若いとは言っても。そもそも我々が知らされていないだけで、持病持ってるお客さんがいないとも限らんし」
「はい」
「作ろうと思えば、減塩メニューを作ることはできるよ。塩分を減らした分、ほかの風味で補えばいい。だがそうすると、風味を足すためにほかの食材を使うことになる」
「待ってください、特にリクエストされたわけでもないのに減塩メニューですか」
「だって仕方ないだろう、このままではほぼ確実に誰かが体調を崩す、だけど助言すらもできない、なぜならお母さんみたいだから」
「……」

 

西間は手をひらひらと振った。

 

「その状況で、俺たちにほかにできることがあるかい? 加藤さん」
「トラーリ株式会社の社員さんに、新人さんたちの健康管理に関して、相談してみることにします」

 

加藤はそう言うと、工房の入り口から離れ、イルズクの客室棟に戻って行った。

 

あとにひとり残された西間は、ため息をつくと、工房の中に戻った。
入り口で、マスクと防塵服、そして手袋を再び身につけ、滅菌処理をしてから工房の中の作業台に近づく。
在庫が少なくなりつつあった燻製を作る作業の途中だった。

 

食材に下味をつけてから塩抜きをし、乾燥させてから燻煙し、熟成させる。
それを真空パックにパッケージングして完成である。
できるまでに4日ほどかかる。
今、研修で宿泊している団体客は、今作っている燻製が土産物屋に並ぶころには研修を終え、イルズクを発っているだろう。

 

だから今から作る燻製は、今まで通りでいい。
問題は燻製が品薄になっているあいだに土産物屋に何を並べるかということと、塩分過多になっている研修中の社員たちの食事メニューを、減塩のそれに変えるかどうかということだった。

 

加藤の言うとおり、特にリクエストされたわけでもないのに減塩メニューに変えるのも問題がある。
本人たちが望んでいるわけでもないメニューを、勝手に出してもいいのだろうかという問題だ。


そのほかには、コスト面の問題がある。風味を補うための食材は、塩よりも高価なことが多い。イルズクではそれほど廉価な塩を使っているわけではないが、それでもほかの食材よりは安い。

西間はそんなことを思いながら、下ごしらえ用のソミュール液を作り、サーモンの下ごしらえを済ませた。
つけ込んでいるサーモンに透明な覆いを掛けると、次の下ごしらえにとりかかる。次はニシンである。

 

「トラーリ株式会社の方とお話をしました。少々お母さんチックですが、新人社員の方々に、塩分を控えるよう言ってもらえることになりました」

 

加藤が工房の前で報告した。
塩分過多への懸念を話し合った翌日のことである。

 

「そうか。じゃあ、食事の問題は解決したってことでいいのか」
「いえ、それはまだ。先輩から注意されて、新人さんたちが言うことを聞いて塩分を自ら控えるかどうか、わからないので」
「子供か……」

 

西間は工房の前で、頭を抱えた。

 

「まあまあ。西間さんが責任を感じすぎないようにしてください」

 

加藤は取りなすようにそう言って、立ち去ろうとした。

 

「加藤さん、待った。土産物屋に並べる物なんだが」

 

西間はそう言って加藤を呼び止めると、いったん工房の中に戻り、バットに入った試作品を持って工房の外に戻ってきた。

バットのラップをまくり上げ、加藤に勧めてから言う。

 

「次の燻製ができるまで、土産物屋の棚に空きができてしまうだろ。そこにこの燻製を置いたらどうかね」
「これは……」
「パウンドケーキの燻製。第2棟の甘木さんが昨日、差し入れ持ってきてくれたろ。マドレーヌを。別に対抗するわけじゃないが、俺も焼き菓子を作ってみた。これだったら塩漬けと塩抜きの工程がない分、すぐにできるし」

 

加藤は、バットに添えられていた、小さなトングのようなものを手に取り、パウンドケーキの燻製を一切れつまみ、ひとくち食べた。

 

「……これは……。なるほど。これを置きましょう。すぐに取りかかってください。この試作品、持って行っても?」
「どうぞ」

 

加藤は自分がつまんだ燻製をすべて口に放り込み、バットにラップを再びかけると、それを持ってイルズクの第1棟に向かって戻って行った。

 

数時間後。
加藤は、イルズク第1棟ロビーにある土産物を販売するコーナーに、ワゴンを押して近づいた。
ワゴンには、新商品のパッケージが積まれている。

 

「川越さん、燻製が売れて、空いている棚にこれを置いてください」
「あ、はい。新しい燻製ですか? わぁ、ケーキですか?」
「ええ、パウンドケーキの燻製です。今、塩味の濃い、いつもの燻製も西間さんに作ってもらっているところですが、できるまでのあいだ、甘いものを燻製にするのもよいだろうということで。正式な商品ではないですが、お店に並べる話は通してあります」
「あ、はい。わかりました」

 

第1棟の土産物販売コーナーの担当者・川越は、すでにパッケージに入れられているパウンドケーキの燻製を加藤から受け取ると、棚に並べた。
加藤は、パッケージングされた商品とは別の、簡易包装のパウンドケーキを川越に渡してから言った。

 

「これは、試食用です。あとで食べてみてください」
「はい」

 

本日のトラーリ株式会社は、イルズクにて講習会を1日中おこなうと聞いている。
夜になるまで研修は続く。
社員たちが燻製を買って食べるのは、夜になるだろう。
加藤は、そう考え、土産物売り場をあとにした。

 

***

 

「ひとつも売れていない……ですって……!?」
「はい……。並べ方が悪かったんですかね。もっとたくさんPOPを立ててみましょうか」
「いえ、様子を見ましょう」

 

夜になって、スタッフルームにて顔を合わせた土産物ショップの担当者・川越から、期間限定販売品の売れ行きについて報告を受けたのだった。

 

ひとつも売れていない。
ひとつも。
川越の言葉が、加藤の胸の内でぐるぐると回りながら沈んでいく。

 

どうしたことなのだろう。
甘いせいなのだろうか。
塩けのあるものでないと売れないのだろうか。
トラーリ株式会社の社員たちは、人間以上に塩分を欲する何かを体内に宿しているとでもいうのか。甘みではダメなのか。塩分のみを糧とする生き物が体の中にいるのか。

 

そんなわけはないと思いつつも、加藤は自分の想像にぞくりとする。
今夜は、眠ったら、塩をなめる妖怪の夢を見そうだ、という予感を感じた。

 

翌日も、甘い燻製の売れ行きは芳しくなかった。
甘い燻製だけではない。
第1棟のすべての土産物の売れ行きが落ちていた。

 

第1棟には新人研修のトラーリ株式会社の社員たちしか泊まっていなかった。
その全員が土産物を買うことをやめたのである。

 

(体内の妖怪が塩分を欲するあまりに、宿主の土産物購買欲をコントロールしているのか……)

 

などと思って現実から目をそらそうとした加藤だったが、そうではないことに気づいてはいた。

おそらく、金がつきたのだ。

 

身もフタもない上に客に対して失礼な物言いなので、決して口には出さなかったが、加藤はそう感じていた。
土産物が高いというそれだけの理由なのだろう。
値下げしたところで効果があるとは思えなかった。
研修の残り日数はあと1日だ。
いや、残り日数が何日であろうと、もうすでに土産用の商品は買い終わっていたのかもしれない。

 

いや違う。
そもそも土産物が毎日バカ売れするということ自体が不自然だったのだ。
全国的に人気のある商品ならそういうこともあるのかもしれないが、イルズクの土産物はそこまでの知名度を誇ってはいなかった。
思ったよりもおいしかった、とは思いこそすれ、毎日毎日食べたいかというと、そうでもなかった。
所詮は付け焼き刃の小ブーム。
そういうことなのだろう。

加藤は、胸の内に風が吹き抜けるのを感じながら、諦観の境地に至った。

 

もはやできることもない。
予定通り西間さんには、塩けの多い燻製を作ってもらう。
自分は、ただ仕事をするのみ。

 

そう己に言い聞かせる加藤の脳裏に、猿のような、猿にしては骨ばっていて背が高いような、妖怪としかいえぬ生き物の姿が浮かんだ。
塩分を欲する妖怪である。
また誰かの体内に入り込み、塩を欲する発作を起こしてほしい。
いや、そんなことはするな。

 

いつもの業務をこなすべく移動しながら、加藤は己の空想をもてあそんだ。
いつか名前をつける日が来るのだろうか。
すぐに忘れるのだろうか。

 

存在しない妖怪は、愛嬌のある顔をこちらに向け、とぼけた顔で尻をかいている。

 

(おわり 25/30)

 

ハズレのマドレーヌ

甘木莉子は迷っていた。

 

そもそもの始まりは、去年のバレンタインだった。
バレンタインにチョコをもらってしまったのである。
もらってしまった、と言っても、迷惑だったわけではない。
むしろ、うれしかった。
男性から女性にチョコを贈る、という発想そのものが甘木にとっては好ましかった。

 

くれたのは渡瀬という人物である。
そこから、お付き合いと言えるのかどうかよくわからない行き来が始まり、今に至る。
今年のバレンタインもチョコをもらった。
ホワイトデーに何か返さなくては。

 

そう思っていた甘木は、渡瀬から、とある告白をされた。
愛の告白ではない。不倫でもない。ウィルスも関係ない。
そうではない告白をされてしまい、甘木は衝撃を受けた。

そして根本的な疑問に行き当たり、迷った。

 

今は、告白の内容については語らない。
語るべきは、甘木が行き当たった根本的な疑問である。


「私は、この人のどこを好きなんだろうか?」

 

好きだと思っていた部分は、どこだったのだろうか。
好きなところは、どこにある?

 

甘木は考え込んだあげく、よくわからなくなり、やけくそでお菓子を作りたくなった。
揚げ物をひたすら揚げるのもよかったが、今の甘木はお菓子を山ほど作っては食べたいという欲求に駆られていた。
そして作った。

 

途中でだんだん飽きてきた。
ただ甘い物を作って食べることに飽きたのである。
そこで、お菓子の中にクジを入れた。


甘木が作っていたのは主に焼き菓子だった。
今日の運勢を食用インクのペンで書いて、菓子の中に入れて焼く。
どの結果を引くかは運次第。

 

それはそれで楽しくもあったが、甘木は次なる問題に行き当たった。
ひとりでは食べきれない問題である。
食べることも目的のひとつではあったが、そもそもがやけくそで作っていたものだ。
作る量が多すぎて食べる量が追いつかない。
くわえて、これ以上作ったら材料費で破産する。
スイーツ破産である。

 

さらに言えば、太りはじめていた。
スイーツ増量である。
普通といえば普通だし、そうでもないといえばそうでもない。

 

しかし、このまま体重が増え続ければ、持っている服が入らなくなり、総買い替えが必要になるだろう。
スイーツで増量&破産したのちにファッションでも破産しそうな勢いである。
そう何度も立て続けに破産できるものでもないだろうが、甘木は出費を控える決意をした。

 

ここら辺でやけくそも切り上げねばなるまい。
しかし、答えはまだ出ていない。
まず答えを出さなくては。
自分はどうしたいのか。
考え始めるとまたわからなくなり、甘木はさらにお菓子を作った。
大量のお菓子を目の前に途方にくれた甘木は、作ったお菓子を職場におすそ分けすることにした。

 

悩みの元凶の渡瀬は、同じ職場の人間である。

甘木と同じく、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」で働いている。
イルズクには、職場恋愛についての掟は特に存在しなかった。
しかし、職場には、ふたりの関係を特に大っぴらに言ってはいなかった。
最初は特に意味もなく、そして今では、どこが好きなのかもよくわからなくなっている状態で大っぴらにしても、という思いが働き、積極的に隠すようになっていた。

 

甘木は焼き菓子を作り始めてから、プライベートで渡瀬と会うのを避けていた。
だから渡瀬は、甘木が焼き菓子をがむしゃらに焼いては食べる、むやみに甘い日々を送っていたことは知らない(はずだ)。
体からバニラエッセンスとシナモンとキルシュワッサーが混ざったにおいを発しながら甘木は思った。
運を天に任せよう。

 

具体的には、渡瀬がどのマドレーヌ(のクジ)を引くかで、この先の自分の行動を決めようという方針である。
迷うくらいであるから、どういう結果が出てもいいのである。
選択肢の均衡が取れているときにしか迷いは生まれない。
甘木はそう考えた。

 

なぜマドレーヌなのかといえば、最近作ったのがたまたまマドレーヌだったからだ。
甘木はマドレーヌの型を持っていなかった。
代わりに、アルミの型を買ってきて使った。
円形の底に、蛇腹のようなひらひらが横についている、使い捨ての型である。
形だけで言えば、店で売っている弁当に付け合わされているポテトサラダやゴマ和えなどが入っている、小分けカップあるいはフードカップと呼ばれるアレに似ていた。
もしくは、カップケーキのカップ部分である。

 

そのアルミの型が、50枚セットで売られていた。
だから甘木は、何も考えずマドレーヌを50個焼いた。
手袋をした手で、中にクジを入れて。
できたマドレーヌを小さなビニール袋に個別に入れ、密封する。
イルズクの職員は50人以上いたが、甘木が毎日顔を合わせるイルズク第2棟の人間は50人より少ない。
少し多いが、差し入れの数としては妥当なのではなかろうか。甘木はそう考えた。

 

というわけで、甘木はマドレーヌを焼いた翌日の昼、イルズクのスタッフルームで差し入れを声高に宣言した。
一番食べてほしかった渡瀬とはまだ顔を合わせていなかった。それでも、いつかはスタッフルームにやってくるだろう。
渡瀬はいないものの、昼休憩で食事をしていた数人のスタッフたちが甘木の差し入れをよろこんで受け入れてくれた。

 

「クジが入ってるのか」
「フォーチュン・マドレーヌ?」
「はい。あまり小さい紙だと飲み込んでしまうかと思って、けっこう大きい紙が折りたたまれて入ってます。飲みこまないように気をつけてくださいね」
「へえ。何が書かれてるんだろ」
「私の本心が」
「ぶほ」

 

それまで和気藹々としていたスタッフルームの雰囲気が一気に重くなった。
何が書かれているというのか。
バレンタインもすでに終わっていて、特に何のイベントでも行事でもない謎のタイミングで何を伝える気なのか。
そういった戦々恐々とした気持ちに、一同たたき落とされたのである。

 

周囲のそんな思いとは裏腹に、甘木はそわそわしていた。
渡瀬はいつやってくるのだろう。

 

「あ、入ってた」

 

ひとりが、手でマドレーヌを割って中のクジを取り出した。
脂でテカった紙が折りたたまれた状態になっている。

 

(マドレーヌはクジを入れるには向いてなかったかな)

 

甘木が心の中で反省していると、クジの第一発見者が折りたたまれた紙を開き、中に書かれた文章を読み上げた。

 

「いつもお疲れ様です。感謝しております。今日はハッピーな1日」

 

一瞬静まりかえったあと、スタッフルームに「おお~」という謎の歓声が響いた。
クジのメッセージの方向性がつかめたからである。
ほかのスタッフが、マドレーヌを食べながら紙を口の端でキャッチして、取り出す。

 

「どれ、僕のは……。『恋人が迷っています。どうか話を聞いてあげて』? 僕、恋人なんていないけど」
「あはは」
「あたしは……『来年も一緒にいられればいいと思ってたのに』……。『のに』って何」
「ふ、不吉」
「ははは」

 

存在しない恋人が迷っているらしいことがわかったり、誰だかわからない相手と来年一緒にいられないフラグを立てられたりしながら、ランチタイムは過ぎていく。

 

「お疲れ様です」
「お疲れ様です。あ、加藤さん、甘木さんがフォーチュン・マドレーヌ差し入れてくれたんですよ」

 

スタッフルームに入ってきた加藤に誰かが声をかけた。

 

「フォーチュン? 未来のマドレーヌですか?」
「クジが入ってるんですよ」
「どれ……、いただきます、甘木さん」
「あ、はい。どうぞ」

 

加藤はマドレーヌをひとくちかじり、紙を取り出した。もぐもぐと口を動かしながらメッセージを読み上げる。

 

「『いつも働く姿に元気をもらっています。体調に気をつけてすごすといいかも』」

 

加藤は、傾いたような奇妙な笑顔を見せ、残りのマドレーヌを平らげた。
加藤が読み上げたメッセージを聞いていて、甘木はあることに気づいた。

 

そうなのだ。
クジを書いたときは、すでに差し入れをするつもりでいた。

渡瀬が引いても、職場の人間が引いてもいいように書いた。
甘木は自分の運命を試したかっただけで、特に誰かほかの人間を試す意図はなかった。嘘は書いていない。渡瀬を含め読んだ人が、少しだけでも楽しい気持ちになればいいな、と思ってはいた。
何も匂わせてはいないし、本人の意思に関わらず何かが匂ったとしても、正直に話せる範囲のことしか書いていない。

 

しかし、甘木が作ったクジは、どれもひとつの未来しか指し示していなかった。

自分の運命を試すつもりでいたのに、そもそも別れを選ぶ文章を書いていなかった。
クジの文面を読み上げられたことで、ようやく甘木はそのことに自分でも気づいたのだった。

 

「あ、渡瀬くん、お疲れ様です。甘木さんが差し入れしてくれたんですよ」

 

スタッフルームに入ってきた渡瀬に、加藤が声を掛けた。

 

「え、甘木……さんが?」

 

なぜか動揺したかのように、渡瀬が恐る恐る甘木に向かって問いかける。
甘木もまた、なぜか必要以上に堂々と胸を張って答えた。

 

「はい。おひとつどうぞ、渡瀬さん。くじが入ってるので、それは飲みこまないようにしてくださいね」

 

マドレーヌが入った箱を渡瀬の目の前に差し出す。
半分以上がすでになくなっていたが、まだ選ぶ余地はある。
とはいっても、もう甘木は渡瀬がどのマドレーヌを選んでもいいと思っていた。
自分は迷っているつもりで、迷っていなかった。そのことに気づいたからだ。

 

「……」

 

渡瀬がマドレーヌをひとつ選び、手に取った。それをかじる。
もぐもぐと口を動かし、やがて不思議そうな顔になった。
マドレーヌのかじり口を見つめたあと、もうひとくちかじりついた。
そしてやはりもぐもぐと口を動かしながら、不思議そうな顔をする。

 

「……?」

 

どれを選んでもいいとは思っていたが、こうも不思議そうな顔をされる理由がわからなかった。
甘木は少し不安になった。
不安になったので、直接本人に不思議フェイスの理由を聞いてみようとした。

 

「あの、渡瀬さ」
「あ、私のクジ、ふたつクジが入ってますね」

 

甘木の言葉の途中で加藤が言った。

そのままもうひとつのクジの紙を広げ、読み上げる。

 

「『落とし物が見つかるかも。捜してたものは意外と身近にあるのかも』。ほう」
「あ、それでですかね。俺の、クジ入ってないです」
「え」

 

甘木は、渡瀬の言葉に呆然とした。
渡瀬は加藤に向かって言葉を続ける。

 

「いや、クジ飲みこんでしまったのかと思ったんだけど、たぶんこれ、俺のには最初から入ってない感じですね」
「……あ、すみません。私のミスですね」
「え、いや、えっと甘木さんを責めてるわけでは」

 

いいのだが。
もはやどれを選んだところで自分の行動は変わらないであろうことには気づいたから、いいのだが。
しかしそれにしても。
人為的ミスにより、予期せぬ「ハズレ」になったクジをドンピシャで引いていく渡瀬の、ある意味強運ぶりを思い知ることになった甘木だった。

 

チラリと渡瀬が甘木のほうを見た。
甘木はその視線を受け止めた。
たぶん、これだろう。
ハズレのないクジのハズレを発生させているかのような力と。
あとは得体の知れない感情を呼び起こさせる何かと。

 

好きなところはそこなのだろう。
考えてもよくわからない、ということだけしかわからない。

 

甘木は渡瀬に向かって少しだけ微笑むと、視線を外した。
ホワイトデーに何を贈ろうか、考えながら。

 

(おわり 24/30)

 

まだ遠い、あの灯りを目指して

足が沈む。
雪に沈む。
それほど積もっているわけでもない雪に体が沈んでいく感覚があった。

 

雪が降っている。
寒い。
体が重い。
なぜ。
なぜ俺は今こんなことに。

 

叶太(かなた)は、弟を背負いながら、一歩、また一歩、歩みを進めた。

進んでいるつもりなのだが、さきほどからまったく進んでいない気がしていた。
どこから間違えたのだろう。

 

研修の、あと片付けをしに耳木兎(ミミズク)山に入ったところだろうか。
いや、それは仕事なので、間違えていたとしてもほかの行動をとることはできなかった。

 

弟・杯治(ハイジ)に「話がある」と言われ、その研修の片付けに同行してもらったところだろうか。
そうかもしれない。
そこら辺から間違えていたのかもしれない。

 

だいたい今日は、間違えてばかりだ。

 

何が間違いで何が正しいのか、本来ならどちらとも言い切れぬものだろう。
叶太にもそれはわかっていた。わかっていたはずだったが、今日は間違っているとしか言いようのない選択肢を選び続けている気がした。

 

弟・杯治は高校の「オリエンテーション合宿」のため、兄・叶太は会社の新人研修のために宿泊施設「ログキャビン・イルズク」に滞在していた。
家族旅行ではない。はずだ。
そのはずだったが、イルズクに、現在、行方不明になっている3兄弟の真ん中、渡瀬がいるとの情報が入った。
渡瀬がスタッフとしてイルズクに勤めているというのだ。
彼を探すという極秘任務が発生した。

 

極秘任務を言い渡したのは兄弟の叔母である。
繰り返すが、家族旅行ではない。親族旅行でもない。
叔母は叔母で、地域のサークルの慰安旅行でイルズクに宿泊していた。

 

家族(親族)旅行でもないのになぜか親族がそろってしまう、そんな謎の現象自体も間違っている。
何もかも間違っている。


だからといって、正解が何なのかもわからないが、叶太は「とにかく間違っている」と口の中でつぶやくことで気力を保った。

 

叶太が山に入ったのは、仕事のためだった。
具体的にはポールの回収のためだ。午前中の研修の企画で使った数本のポールを回収しなくてはならなかった。

 

出かけるときに、雪は降っていなかった。
宿泊施設から出て空を見上げると、灰色の雲が垂れ込めていた。
携帯で見た天気予報は、「曇り、ところにより雪」。
降らないように祈るしかなかった。

 

耳木兎山は、山といってもそこまでの急斜面と高さを備えているわけではない。
本格的な登山装備がなくとも気軽に登れる、登れるというか歩ける山、というのが耳木兎山の売りだった。

宿の前に掲げられた看板によると、イルズクと山のあいだの距離は、約1200メートル。

歩けない距離ではない。叶太は徒歩で山まで行くつもりだった。

 

「叶太(にい)、話があるんだけど」

 

叶太が宿泊施設のロビーを正面入口に向かって歩いていると、土産物屋の付近で、弟・杯治に声をかけられた。
杯治は連日の山歩きで筋肉痛らしく、声だけは朗々と辺りに響き渡ったが、いかんせん足がプルプルよろよろして本体が追いついていなかった。

 

牛歩よりも遅い杯治の歩みを待ち、事情を聞くと、今は自由時間だと言う。
杯治は4人部屋に泊まっていた。
同じ部屋のメンバーは、雪が降りそうな外の寒さと、学校側がなぜかかたくなにジャージ着用を義務づけていることと、連日の山歩きで筋肉痛である……などの理由から、部屋で芋虫のようにうねうね寝転んでいることを選んだらしい。

 

杯治は確かにジャージを着ていた。
ジャージのみである。コートは着ていない。

 

「なんでおまえんとこの学校、コートは着ちゃダメなの?」

「コート禁止はジャージのときだけね。理由はわからない。体を動かして汚れるからかもしれないし、寒さなんか感じないほど常に動けってことなのかも、ジャージ着てるからには」

 

叶太は、なだらかとは言え、山に登るということで、モコモコ着込んでいたコートを杯治に手渡しながら言った。

 

「これ着とけ。校則違反かもしらんが、今自由時間らしいし、ここは学校じゃないし、着てもいいだろ、もう」
「叶太兄が寒いでしょ、スーツだし。そのスーツが、どんな気象条件も相殺できる機能スーツだとかいうなら話は別だけど」
「そんなスーツねえだろ。そんなんじゃないけど、俺はポール片付けるだけだし、そんなに時間かからんだろ。いいから着とけ」

 

1着のコートを互いに押し付け合いながら、そんな会話をした。
今日の昼過ぎのことだ。まだそれほど時間が経っているわけではないはずだが、もう遙か昔の出来事のように叶太には思えた。

コートを杯治に渡したことが間違いだったとしても、ほかにどうしようもなかった。
考えても仕方がない。

 

雪が降り続いている。吹雪とはいえぬ、ちらほらした降り方で、道を見失ったり、歩きにくくなるとまでは言えなかったが、寒い。

 

イルズクから1200メートルの道のりを歩き、耳木兎山に到着した。
耳木兎山のふもとには駐車場があった。

 

「ここもイルズクの駐車場らしい。で、駐車場の管理事務所には『カトウ』って名字のスタッフがいるという情報をゲットした。……から、ちょっと仕事の前にここで話を聞いていこうかと思って。いいか?」
「いいけど、ここに? 渡瀬兄が?」
「いる、のかもしれない」

 

結果から言うと、いなかった。
駐車場の管理事務所にいる人間は、叶太や杯治、そして目的の渡瀬と同じ「カトウ」という姓ではあったが、「歌藤」と表記するカトウさんだった。
渡瀬ではなかった。

 

「カトウという名字は多いからね、なぜかイルズクは」

 

通称「ウタさん」であるらしい、駐車場の歌藤さんにそう言われながら、ふたりは建物から離れた。

 

「いなかったね。『カトウ』が多いって何なんだろう。まるで僕たちを狙っているかのようなこの謎トラップ」
「別にトラップじゃねえだろ……」

 

そこで叶太は思い出した。

 

「おまえ、なんか話があるって言ってなかった?」
「ああ、うん……、今じゃなくてもいいんだけど。帰ってからでも」
「いや、気になるから今聞きたい。帰ってからだと、住んでるとこ別々だから余計に話しにくいだろ。もちろん、今おまえのほうの時間が大丈夫なら、だけど」
「僕も、しばらく自由時間になっててヒマだったから今でも別にいいんだけど。なぜかうちの担任の先生が寛大で、多少出歩いてもいいって言われてるし。商店街とかでお土産買ったり」
「じゃあ、おまえも山に一緒に来てくれ、すぐ終わるだろうから」

 

この決断も間違っていたのだろうか。
ここで宿に戻ればよかったのか。
それもそうだ。杯治は学校の行事でここにいるのだ。
勝手に連れ出すべきではなかった。
自分は仕事で山に行く用があったが、せめて杯治だけは帰せばよかった。

叶太は、考えても仕方がないことを考え続けた。

 

ふたりが耳木兎山を歩くうちに、空がどんどん暗くなってきた。
杯治は筋肉痛を抱えていたため、あまり積極的に歩こうとしなかった。
のろのろとあとからついてくる杯治に、叶太は「もうちょっと速く歩けないか」と何度か言おうとして、こらえた。
筋肉痛の人間にキビキビ歩けというのも酷な話だと思い直したのだ。

 

山を歩き回り、ポールを2本回収したところで、暗くなった空から雪が降り始めた。
ひらり、はらり。
雪が舞う中、左脇にポールを2本抱えながら歩いていた叶太は、空を仰ぎ見た。

 

「降ってきた……」

 

息を白く吐き出しながら立ち止まり、杯治のほうを見た。杯治も白い息を吐きながら言った。

 

「早くポールを集めよう。あと何本?」
「あと2本」
「全部で4本あるのね、わかった」

 

ポール自体は全部で11本使ったが、3人で片付け作業を分担しているため、ひとりだいたい4本である。どのポールを回収するかの割り当てはすでに決まっている。

叶太はポケットから地図を取り出して見た。
研修で使った、カードに描かれた大雑把な地図である。ポールの場所が記されている。
地図で次のポールの位置を確認してから、ポケットに地図をしまい、また歩き始める。

 

「で、話したいことって何だ、杯治」
「ああ、うん」

 

じゃり、じゃり。
杯治がなかなか話し始めないため、ふたりが歩く音がやけに耳についた。
雪は音も立てずに降り続いている。

 

「渡瀬兄のことなんだけど」

 

杯治はそう言ったきり、また黙った。
叶太が先を促そうと言葉をかけようとしたところで、ようやく杯治が話し始めた。
先ほどの一言が、あとの言葉の栓をしていたかのように、次の言葉の群れはよどみなく流れた。

 

「渡瀬兄を見つけたってこと、叔母さんは『まだ親に知らせるな』って言うけどさ。あ、『親』って僕たちの親ね、父さんとか母さんとかに。ほんとに内緒にしてていいのかな? いちおう親なんだから、知らせといたほうがいいんじゃないのかな?」
「ああー……、というか、渡瀬を、まだ見つけられてないけど」
「でも叔母さんは見つけたって言ってた」
「言ってたけど、どうなんだろう……。こんなこと言ったらいけないのかもしれんけど、叔母さんの頭の中にしか存在しない渡瀬という可能性がある」

 

杯治は、叶太の言葉の意味を考えるように、一瞬、間を置いてからうなずいた。

 

「あるかもね。そうか、僕らが見つけるまではやっぱり黙ってたほうがいいのかな」
「うーん。俺らは一度家に戻るよう渡瀬を説得するつもりなんだから、説得が成功してからでもいいような気はする」
「ああ、説得が失敗して、渡瀬兄が『戻りたくない』って言った場合か……。確かにそれは、『見つけた』って教えてしまうと言い出しにくいよね……。渡瀬兄の選択の自由のためにも叔母さんの指示通りにやったほうがいいってことか」

 

納得したのか、杯治はそう言ってうなずいた。
3本目のポールにはまだたどり着いていない。
叶太は、「もっと速く歩いてくれ」と催促しようとしてこらえる、という何度めかの内なる戦いを経て、杯治に対する提案を思いついた。

 

「よし、おんぶしてやる。来い」
「え。嫌だけど」
「だったらもうちょっと速く歩いてくれ」

 

ついに叶太は言ってしまった。今までこらえていた言葉を。
それは叶太の心からの言葉だったが、杯治は特に心を動かされた様子もなく、さらりと言った。

 

「僕がおんぶしてもらう必要はないんだけど、そういえば叶太兄、寒いよね? 僕がコート取っちゃったから」
「いや、取ったわけじゃないだろ」
「叶太兄のコートを着た僕を背中に背負ってれば、叶太兄もあったかいかもね。ポールも僕が持ってさ」

 

一度は断ったわりに、杯治は意外と乗り気だった。
自分が提案した手前、今さら後に引けなくなった叶太は、杯治をおぶった。

 

3本目のポールにはすぐにたどり着いた。
早く宿に戻りたい一心の叶太が、杯治を背負いつつ速く歩いたからである。

 

間違っていた。
あんな提案するなんて、どうかしていた。
叶太は重い足を動かして4本目のポールに向かう途中で考えていた。

 

確かに暖かい。
しかし、それ以上に重い。
何メートルも積もるほど激しく雪が降っているわけでもないのに、地面に足が沈み込むような錯覚を起こすほど重い。
あんなに小さかった弟がこんなに大きくなっていたのか、という親父っぽい感慨を抱けるほど叶太は大人ではなく、ただひたすら重みに耐えるのみの道のりだった。

 

4本目のポールを目指す途中で、杯治が叶太の背中からポツリと言葉を発した。

 

「うちの親、渡瀬兄の失踪届を、ほんとに出すと思う?」

 

回収した3本のポールを叶太の背中に載せ、その上に覆いかぶさるように叶太に背負われながら、である。

 

「出さんだろ」

 

叶太は簡潔に答えた。呼吸が苦しかったために、長く答えることができなかった。

 

「そうだよねぇ……。行方不明者届けを出して7年経つと、裁判したり、なんやかやすれば失踪届を出すことができて、失踪届を出すと死亡者扱いになるって言ってもさぁ。さすがに7年経ったからって、すぐに『ハイ死亡』とはやらないよね、うちの親も」
「……」

 

叶太は答える気力がなかった。
早く、早く、4本目のポールにたどり着かねば。
足が持たない。

 

やがて、4本目のポールにたどり着いた。

 

「杯治、いったん下りてくれ」

 

叶太は、ポールの場所にたどり着くなりそう言った。
杯治がポールを抱えて背中から下りると、叶太はスーツが汚れるのにもかまわず、その場にしゃがみ込んだ。
雪が降り続いている。
叶太の頭の上には雪が少し積もっていた。


一方、叶太のコートのフードをかぶっていた杯治は、手に持った3本のポールをその場に置くと、ジャージのポケットから携帯を取り出した。

 

「帰れなかったときのためにLINE送っといたほうがいいのかな。Twitterのほうがいいのかな」

 

ブツブツとそんなことを言う。

 

「いや帰れるよ」

 

しゃがみ込んだまま、うつろな目で休憩を取っていた叶太が即座に断言した。
杯治はその叶太の言葉には答えず、携帯を操作しながら淡々と言う。

 

「渡瀬兄のことだけど。さっき叶太兄が言ったことを考えるとさ、渡瀬兄が行方不明になってから7年経っていても別に急ぐこともない気がしてくるけど。別に今のままでもいいような」
「……今はいいけど、家族に何かあったときが問題だろ。いろいろ」
「あ、そうか。あと、僕らが出くわすのって、ここだけなのかもしれないものね」
「……」
「今を逃したらもうずっと会えないのかもしれないよね」
「まあ、な」

 

そろそろ立ち上がって帰らなくてはならない。が、叶太はそのときを引き延ばすかのように言った。

 

「おまえは渡瀬に戻ってきてほしくないのか?」
「僕は……、渡瀬兄が家を出たとき10歳とかだったから、あまり記憶自体がない」
「いや、あるだろ、10歳だったら」
「うーん。突然家を出たいほど何かを思っていたってことにも気づかなかった。ああいう人だと思ってた。あのまま、あんまりしゃべらない、よくわからない人として年を取って人生を終える人だと」
「……」
「でも、そうではなかったのかな、とも今思ってる。別に帰ってきたからといって、今までの印象が変わるほどの何かが起きるとも思ってないけど」
「そうだな」
「それでも、渡瀬兄が特に嫌じゃなければ、一度くらいは戻ってきてもいいんじゃないのかなあ、主に親のために。とは思う」
「うん……」

 

確かにそうだ。
これ以上のことは言えない。
これ以上の思い入れを持ってくれる家族だったら、きっと渡瀬は家を飛び出しはしなかったのではないか。

叶太はそんなことを思い、これ以上ここで考え込んでいても仕方がないと首を振ると、立ち上がろうとした。

 

そのとき、シャッター音がした。
杯治だった。

 

「あ、ゴメンいきなり撮って。てかこれ、叶太兄スクワットしてるみたいに見える」

 

叶太が杯治の携帯の画面をのぞき込むと、確かにそこには、なぜか頭に雪が積もったままスクワットをする自分がいた。

 

「ふざけてる場合か。帰るぞ」
「うん。あ、わかった。コートをふたりで着ればいいんじゃないかな。相合コート」
「アイアイ」

 

叶太が口の中で、その奇妙な響きの言葉を繰り返していると、杯治は自分が着ていたコートを脱ぎ、自分と、隣に立った叶太の上にふわりと広げて載せた。

 

「最初からそうしてくれ……」

 

疲労のため、うつろな目をしながら叶太がブツブツ言っているうちに、杯治は周辺に置いていたポールを拾って叶太に差し出した。
叶太がポールを受け取り、ふたりで歩き始めた。

 

「もっと速く歩いてほしいんだけど」

 

今度は杯治がそう言った。
杯治が文句を言うほど、往路に比べ、明らかに叶太の歩みは遅くなっていた。

叶太は何かを言い返す気力もなく、ただ歩き続けた。のろのろと。

 

遠くに駐車場の管理事務所の灯りが見えた。
まだ日没までは時間があったが、空が暗いため、灯りのついた建物が浮かび上がって見える。
あそこにたどり着ければいい。
黙ったまま、ふたりはそこを目指して歩いた。

 

「なかなかたどり着かないね……」

 

もはや言葉を交わす元気もなく、何かを言っても会話にならない。
ただぽつり、ぽつりと言葉が空気に放たれては消えていく。

 

どれほど歩いただろうか。
自分たちの歩みが異常に遅いことと、空が暗いこともあり、時間の感覚がなくなり始めていた。
そんなとき、杯治が声を上げた。

 

「あ、LINE。叔母さんだ。さっきの見てくれたんだ」
「……」

 

そうか。
というかおまえ、よく携帯チェックする余裕があるな。

 

それくらいしか言うことがなく、今のテンションで思ったことをそのまま言ってしまうと、とんでもなく陰気な、なおかつ不満を表明しているような言い方になってしまいそうで、叶太は言葉を発することなく気持ちの上だけで相づちを打った。

 

「……? 叔母さん、じゃないのかな?」

 

杯治が不思議そうな声を上げる。叶太が杯治の方を向くと、杯治が説明をした。

 

「いきなり謎のLINEが飛んできた。叔母さんなのかなこれ、名前は叔母さんなんだけど『叫太、サケタ』『間違えた、キョウタ』『今どこにいる?』って。兄貴の名前って『キョウタ』じゃなくて『かなた』だよね? 字も『叫ぶ』って字になってる。これ叔母さん? 乗っ取り? 何だろこれ」

 

その言葉を聞いた瞬間、何かを思うよりも早く、言葉が叶太の口をついて出た。

 

「渡瀬だ」

 

自分でも驚くほど、とっさにそう言葉を発していた。

 

「え、これ? 渡瀬兄? 今、叔母さんと一緒にいるってこと?」

 

杯治が戸惑ったように叶太に尋ねる。叶太は黙ってうなずいた。
経緯はよくわからないが、このLINEは渡瀬が送ったものだ。

 

今日は間違ってばかりいたが、これだけは合っている。
これだけは間違っていない。
これだけは正しい。
根拠はないが、そんな確信が叶太にはあった。

 

「昔、あいつ、俺の名前を間違ったんだよ。学校の何かで家族の名前を書くことがあって、それでなぜか『叫ぶ』のほうのキョウタって書いてて。『なんだよサケタって』と思ったけどさ、あんまり漢字書けないことを責めても仕方ないのかと思って我慢したことがある」
「ああ、それで微妙な関係になったんだね……」
「いや、別にそこまでは」
「言いたいこと我慢されたら微妙な感じになるでしょ、普通」

 

杯治の言葉に、叶太は反論できなかった。
そんな叶太には構わず、杯治は携帯を再び見てから言った。

 

「そうかー……。じゃあ、こっちも状況の説明しておこう。えーと……、……、……よし。で、最後に叶太兄の写真置いておこう」
「なんでだよ」
「『僕らはスクワットできるくらい元気ですよ」って意味を込めて」
「おまえ映ってないだろ……」

 

そんなことを言っていると、駐車場の灯りがやや近くに見えてきた。
もう少し。
もう少し歩けば、たどり着く。日没までにはたどり着けるはずだ。
道さえ間違えなければ。

 

間違ってばかりの今日、ひとつだけ正しいものが見えた、その残りの今日。
あとはまた間違ってばかりの時間が待っているのかもしれない。

 

この道で合っているはずだ。
やや近づいた駐車場の光を目指して進む。
そこに道を間違える余地はないような気がしたが、今日の間違えっぷりを考えるとわからない。
まだ俺は間違うのか。
また俺は。

 

間違いを恐れて立ち止まっている時間はない。
ただ進むしかない。

 

叶太はゆっくりとまばたきをした。
白っぽい景色が続いて、目が疲れていた。
鼻から白い息が漏れる。

 

休もうとしても、今となっては叶太よりも速く歩いている隣の杯治にコートが引っ張られ、叶太も足を動かすほかはない。
叶太はだるくなった足をまた一歩進めた。

 

(おわり 23/30)

 

カトウは5人いる(his aunt said)

「また降ってきました」

 

叔母の部屋で、窓から外を眺めていた渡瀬が言った。

 

「おや。あたしはいいけど、渡瀬、あんた帰れるのかい」

 

ここは宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の第2棟213号室だった。
「今度時間があるときにでもゆっくりとその話をしましょう」と以前ウッカリ言ってしまった渡瀬は、ゆっくりと話をするために、今回叔母の部屋を訪れたのだった。

 

渡瀬はふだん、このイルズクでスタッフとして働いている。
本来、宿泊客でない渡瀬が叔母の部屋を訪れるのは、イルズクの宿泊規約に抵触していた。
が、イルズクはこぢんまりとした規模の宿泊施設だったため融通が利いた。前もって申し出ておけば、そして短時間であれば部屋での面会が許されることもあった。
渡瀬は、スタッフとして働いていることもあり、その許可は簡単に出た。
しかし、あまり長居はできない。規約は規約だ。

 

渡瀬がこの部屋に長居できない理由はもうひとつあった。
ふだんの勤務時は上司である加藤に、帰りだけ車に同乗させてもらっている。
しかし、加藤と渡瀬は同じ日に休日になるシフトで働いているため、今日は自力で帰らなくてはならない。

 

今日は渡瀬(と加藤)の休日に当たる日で、バスを利用した。

最終バスが出るまでに帰れるはずだ、渡瀬はそう思って家を出た。
だが、雪が降ってきた。
渡瀬は、にわかにバスの運休が心配になり始めた。
自分は今日、帰れるのだろうか。

 

イルズクには、夜勤スタッフ用の仮眠室があった。
渡瀬は日勤専門で働いているため使ったことはなかったが、もし帰れなくなった場合、仮眠室を使わせてもらうわけにはいかないだろうか。

 

バスが運休した場合だ。
渡瀬は思い直した。
まだこの雪がバスの行く手を阻むと決まったわけではない。

 

窓辺で外を見ながら渡瀬がそう思っていると、部屋のふっくらした椅子に腰掛けた叔母が、携帯の画面を見ながら言った。

 

杯治(ハイジ)叶太(かなた)は連絡がつかないね。ここに呼んでやろうかと思ったのに」
「やっぱりここにいるんですね、兄さんも杯治も」
「何を今さら。防災訓練のときに気づいてただろう、渡瀬」
「いえ、あのときは見間違いかと思ったんですけど。見間違いであってほしいと」
「おあいにく様。あんたの目は確かだよ、渡瀬。叶太も杯治もここに泊まってる」
「どういう偶然なんですか……」

 

渡瀬が嫌そうに言うと、叔母は声を上げて笑った。

 

「偶然は杯治の学校が泊まってるってところだけさ。ほかは偶然じゃない。叶太の会社の偉いさんの奥さんが、うちのサークルにいるからね。新人研修と、うちのサークルの慰安旅行の日程を合わせたらしいよ」
「ああ、聞きました。石尾さんご夫妻ですね」
「そう」

 

部屋に沈黙が訪れた。
渡瀬は、これから雪がどれくらい降るのか、天気予報を調べたくなった。
しかし、叔母と話をしに来たというのに、携帯をいじっていていいのだろうか。
渡瀬が叔母に携帯を操作することを告げようかどうしようか迷っていると、叔母が不意に言った。

 

「ここは毎年こうかい? あたしらの町ではここまで雪は降らないよ」
「そうですよね。おばさんの町とはちょっと離れてるけど、俺の実家の辺りも似た感じですかね。ここよりは降らない感じですね。寒さはあまり変わらないと思いますけど」
「確かにね。どこも寒いよ、まったく。今は4月だよ、啓蟄(けいちつ)も過ぎたっていうのに」
「何ですか」
「温かくなって虫が表に出てくる季節だってことさ」

 

渡瀬は、わかったようなわからないような顔で、何度かうなずいた。

 

「最近ではあまり毛虫も見ないですね」
「そうかもしれないね。……って、毛虫限定なのかい? 毛が生えてない虫は」
「いえ、あの、毛虫というのは……、昔、兄が絵本を描いたことがあって」
「ああ、小学校の授業で絵本を描かされたってやつか。あたしも見たよ、あんたんちに行ってあんたのアルバムを借りたときにね」
「あれ、実話なんですよ。うちに毛虫が出て、大騒ぎになったときの話なんです」
「なんだい、虫くらいで大騒ぎしたのかい、あんたんちは? へえ、ずいぶんヤワな話だ」
「なにしろ見慣れていないもので」

 

渡瀬は、なんとなく笑いながら言った。

 

「俺、最初、スケッチブック持って行ったんです。毛虫を描こうと思って。初めて見たんですけど、黒っぽい中に黄色い模様が並んでて、なんとも言いようのない毛が生えてて、描いてみたくなった」
「へえ」

 

叔母は、興味を引かれたように椅子から身をやや乗り出し、目を見開いて相づちを打った。

 

「そうしたら、兄がスケッチブックを受け取ってしまって……、その上に毛虫を載せて、家から出してしまって。結局、描けずじまいでした」
「おや。そういうことだったのかい。残念だったね。あたしも見たかった、そのハデそうな毛虫」

 

渡瀬は叔母の言葉に、にこりと笑った。

 

「はい。俺も見たかった。大人になったときに、どういう虫になるのか。蝶の幼虫だったのかな」
「そうかもね。蛾かも知れないけど。似たような感じなのに、蛾だけ印象が地味なのは何だろうね」
「地味ですかね。俺は地味かハデかだけで決めはしないですけど、好きかどうかって」
「ああ、まあ、たぶん蛾も蝶も似たようなもんだろうし、どっちでもいいけどね。蛾にもハデなのがいるだろうしね」
「相変わらずのハデ好きなんですね……。あ、でも、逆によかったのかもしれないとも思って。誰にも見張られずに自由に羽化したほうが、蝶でも蛾でも気楽でしょうから」
「なるほど。確かにね」

 

天から降り注ぐ雪が渦を巻いている。
風が出てきたようだ。
建物と建物のあいだを吹き抜ける風に乗って、雪が渦を巻いているのが窓から見えた。

 

「そういうのを全部、今もあんたは根に持ってるってことなのかい?」

 

叔母が、腰かけた椅子の背に、ゆっくりともたれながら問いかけた。

 

「いえ、根に持つとか、そういうんじゃないんです。途中、思惑が食い違ったけど、結局なんか丸く収まってよかったねとは思ってます」
「なんだい、ケンカもできないのかい、あんたら兄弟は」
「いえ、だからあの、兄とは別にケンカするって感じじゃないんですけど……。仲が悪いとかって意味でもなくて……」

 

なぜかケンカをゴリ押してくる理不尽な叔母の言葉に困惑した渡瀬は、ほかにどうしようもなく、窓の外を再び見下ろした。
イルズクの敷地を囲む生け垣と、その向こうに道路を走る車が見える。
見慣れたバスが通った。
バスはまだ止まっていない。
だが、これから雪が降り続いたらわからない。

 

渡瀬は、天気予報を調べるつもりで手荷物から携帯を取り出した。
叔母に一声かけてからにしようと思ったところで、さっきもまったく同じことを思った記憶がよみがえった。
先ほどは、なぜ中断したのだったか。
渡瀬が先ほどのことを思い出そうとしていると、手の中で携帯がブルブル震えた。

 

「あ、すみません、何か連絡が入りました。携帯見ていいですかね」
「勝手におし。いちいちあたしに聞かれても困るよ」

 

あきれたように突き放す叔母の言葉を受け、渡瀬は携帯の電源を入れた。
通知は職場のLINEグループのものだった。

 

「カトウさんだ」
「おととい花の展示を手伝ってくれた人かい?」
「いえ、その加藤さんとは別の『歌藤』さんです。耳木兎(ミミズク)山にある、イルズクの駐車場の管理をやってる方で」
「あんただって名字は加藤だろう。この宿には何人のカトウがいるんだい」
「俺を含めて3人です」
「イルズクはカトウを集めてどうするつもりなんだ……。いや違うね、今は客としてあんたの兄弟も来てるから、5人だね。この宿には今、5人の加藤がいる」
「お客様を含めるならもっと多い日もありそうですけどね」
「まあそうかもね」
「はい……」

 

渡瀬は、話の途中で、手に持った携帯の画面に気を取られた。

渡瀬のぼんやりとした声に、叔母が怪訝な顔をする。

 

「どうしたんだい」
「いえ、歌藤さんが、『加藤という名の職員はいないか』と言って耳木兎山の駐車場に来たふたり組がいたと」
「ややこしい」
「はあ、すみません。とにかく、山に『加藤』を訪ねてきたふたり組がいるそうです。これって、叶太兄と杯治ですかね?」
「たぶんね。聞き込みに行ったんだろうさ」
「あの……、本当に俺に気づいてないんでしょうか、ふたりとも」
「まあそうだろう、顔は違うし、呼ばれてる名も違うし」
「いえ、名前は同じですけど」
「でも『加藤』とは呼ばれていないだろう、周りの人間に」
「はあ、まあ読みが同じ名字の人間が3人いますので。なので俺は下の名前で呼ばれてるんですけど、それだって生まれたときから使ってる名前ですよ。俺の名前、覚えてもいないってことなんでしょうか」
「『渡瀬』って、名字みたいな名前だからね、名字だと思い込んでるんだろうさ。『おかしな偶然もあるもんなんだな~』とかなんとか言って」

 

叔母は、叶太の口ぶりを真似るようでまったく真似ていない、独自の口調で言った。

 

「そんなことってあるんでしょうか……」

 

渡瀬が心底呆然として言った言葉に、叔母は平然と返事をする。

 

「似たもの兄弟ってことだろう。あんたほどじゃないけど、兄貴は兄貴でドジっ子なのさ、おそらくね」
「はあ……」

 

「兄もドジっ子」宣告をされて、どうにも返事のしようがなくなり、渡瀬は気の抜けたような返事をした。
叔母が窓の外を遠く見やり、思いをはせるように言葉を発する。

 

「しかし、山に行ったのかい、あのふたりは」
「そうらしいです」
「大丈夫なのかい、この雪の中」
「あ」

 

渡瀬はLINEで、駐車場の歌藤を訪ねたふたり組は、その後どこに向かったのかを尋ねた。
しかし返事はない。既読にもならない。

 

「仕事中ですからね、歌藤さん……。LINEをそんなにマメにチェックできないのかも。これ、もはや俺にはどうしようもないですね」

 

淡々と渡瀬が告げると、叔母もまた携帯を服のどこかから取り出し、スリープ中の真っ暗な画面を堂々と渡瀬に見せつけた。

 

「どこから取り出したんですか」
「秘密のポケットさ。詮索無用だよ。このたび、あたしはLINEグループを作ったのさ。渡瀬、あんたを捜索するための独自グループをね。メンバーはあたしとあんた以外の加藤兄弟のみ。電波が届けば連絡は取れるはずだ」
「捜索も何も、俺ここにいますけど……」

 

渡瀬の声もむなしく、叔母は携帯の操作を始めた。
考えたら20代前半の渡瀬、の親と似た年代である叔母の年齢で、LINEをやすやすと使いこなしているのはすごいことなのではなかろうか。渡瀬がひそかに叔母のポテンシャルに底知れぬものを感じていると、当の叔母が素っ頓狂な声を上げた。

 

「バカなのかい!」
「どうしたんです」

 

渡瀬は、自分の携帯を手に持ったまま、叔母が腰かけている椅子のそばに歩み寄った。

 

「どうもこうも、まだ山にいるみたいだ。雪が降ってきたから雨宿り……じゃない、雪宿りをしてたはいいけど、どんどん日が陰ってきてこのままじゃ凍えるかもしれないってんで、山を下りてくる途中……だと思うんだけど」

 

最後のほうで、叔母の言葉が急に勢いをなくした。

 

「あの子たち、今どこにいるんだろう」

 

話がよく飲み込めなかった渡瀬に、叔母は携帯の画面を、これでもかと言わんばかりに見せつけた。おまえがどういうことなのか説明しろ、とでも言いたげに。
見せつけられても、その場に居合わせたわけでもない渡瀬としては、何とも言いようがないのは同じことだった。が、とりあえず疑問に感じたことをポツポツと挙げてみた。

 

「このLINE、いつの話なんだろう。表示されてる時間は1時間くらい前だけど、その時点でちょっと前の話をしている、ような」
「あたしもそう思ったけど……。でも、そんな言葉尻に神経を使ってる余裕がなかっただけなのかもしれないし、意味はないのかもしれない」
「俺がメッセージを打ったらダメですかね、これ?」
「え。あんたがかい? いいけど……。あたしの名前になるけど……というか、これあんたの捜索用のグループなんだけどね」

 

叔母は珍しく困惑して、ブツブツ言いながら携帯を渡瀬に手渡した。

 

「……何を言えばいいんでしょうか」
「考えてなかったのかい」

 

叔母は、椅子の中で軽くズッコケた。

 

「LINE送ったところで携帯見てる余裕があるんでしょうか、兄たちは」
「ブツブツお言いでないよ。渡瀬、ここは腹を決めてズバーンとメッセージっちゃいな。『俺だぁ!』って」
「『俺って誰だ』って、絶対に兄貴は言うと思います」

 

叔母にそう返しながらも、渡瀬は叔母の携帯を操作し始めた。

 

充香「叫太(サケタ)」
  「間違えた」
  「キョウタ」

  「今どこにいる?」

 

叔母は渡瀬が送ったLINEを見て、不審な顔をした。

 

「なんだい、これだけかい?」
「ええ、あの、ほかに思いつかなくて。昔、俺が兄貴の名前間違って書いてしまって、『叶太』を『叫太』って。それで微妙な空気になったことがあって」
「兄貴の名前を間違えるって……。しかも訂正したのにまだ間違えてるじゃないか。『キョウタ』ですらなくて『かなた』だろう、あいつは。どんなドジっ子なんだ、おまえはまったく」

 

叔母があきれたようにブツブツ言っているうちに、新たなメッセージが表示された。

 

ハイジ「叔母さん?」
   「渡瀬兄?」

 

「杯治だね」

 

叔母が渡瀬の持つ携帯の逆側に手を添えた。渡瀬は、携帯を持つ手を少しずらした。
その後もメッセージは続く。

 

ハイジ「僕はよくわからないんだけど叶太兄が」
   「『渡瀬だ』って言った」

   「叔母さんのLINEを見て」
   「今僕たちは駐車場の灯りを目指して進んでる」
   「もうちょっと距離がある」
   「と思いながらけっこう時間経った」
   「と思ったらあまり時間経ってなかった」
   「そんな感じ」

 

最後に画像が表示された。
雪まみれでスクワットをする叶太の写真だった。
ごくり。
叔母と渡瀬は、固唾をのんで写真を見つめた。

 

「……なんで叶太はこんなに薄着なんだい」

 

腑に落ちぬ顔で、気が済むまで携帯の画面を眺め回したあと、ようやく叔母が言った。

 

「薄着と言っても、スーツは着てますけど」

 

叔母の携帯を支えていた手を離して、一歩下がってから渡瀬は言った。
叔母は、携帯を両手で握りしめた。

 

「そうは言ってもコートはどうしたんだい、コートは。もっとモコモコわさわさ着込まないと凍えるだろう。というか、なんで雪の中でスクワットしてるんだい。バカなのかい、やっぱりバカなのかい?」

 

携帯に向かって毒づく叔母をなだめるように、渡瀬が口を開く。

 

「あの……、天気予報を調べてみましょうか。もともと今日は大雪降る予報、出てなかったと思うんですけど。いつぐらいまで降るかだけでも」
「予報がどれだけ当たるのかわからないけどね」

 

なぜか天気予報に流れ弾を当てつつ、叔母は、机の上に置いてあるリモコンを手に取った。そして、部屋に備え付けられたテレビのスイッチを入れる。テレビで気象情報を調べるつもりらしい。
渡瀬は、自分の携帯で調べるつもりでいたが、その手を止めた。そのままテレビの画面を、叔母が地域別の気象情報に切り替えるのを見守った。
しかし、叔母は急にテレビの操作をやめた。

 

渡瀬がテレビから目を離し、叔母のほうに目を向けると、叔母はリモコンとは逆の手に持ったままの携帯の画面に見入っている。
叔母は、やがて息を吐き出した。

 

「たどり着いた。駐車場にたどり着いたようだよ。駐車場の入り口の建物にはまださっきの歌藤さんがいて、歌藤さんにここに送ってもらえることになったとさ」

 

心底安心したように叔母が言う。
渡瀬も、ほっと息を吐き出した。

 

「無事でよかったです」
「まだわからないけどね。おうちに帰るまでが旅行だ」

 

叔母は、どこかで聞いたような、そうでもないような警句を発しながらテレビのスイッチを切った。

渡瀬は安堵の気持ちに浸りながら、切られたテレビの画面を見た。
雪はどうなるのだろう。
これからも降り続くのだろうか。
バスが止まるかどうか、自分は知らなければいけなかった気がする。

 

「ふたりが帰ってきたら、ここに呼ぼうか。あんたがここにいるってことは知ってるんだし、もう面倒だからここで会って和解しておしまいよ」
「いえ、あの、和解するも何も、ケンカをしてないんですけど、そもそも」

 

先ほども似たような会話をしたような気分に襲われながら、渡瀬はそう返した。
兄弟ふたりがイルズクに戻ってきて、この部屋にやってくるのを待っている時間の余裕はあるのだろうか。
宿泊客でない渡瀬は、もともとこの部屋に長居はできない。
早めに言い出さなくてはならない。
まだ帰れるうちに。
バスが動いているうちに。

 

上機嫌でこれからの予定を立てている叔母に、渡瀬はどう話を切り出したものか迷った。

 

外ではまた、建物と建物のあいだをすり抜けた突風が渦を巻いている。
降り続く雪がその風に乗せられ、渦に巻き込まれて飛んだ。

 

(おわり 22/30)

 

空に立ち上り、たゆたう

煙がどこからともなく上がっている。
どこから?

 

雪が降っている。
どこから?

 

どこからかはわからない。
どこに向かっているかはわかる。
空へ。大地へ。


あの日を思い出す。

俺が家を出ることになった日だ。
あのときから今まで、家には戻っていない。

 

祖母が死んだ。
病院で死んだ。
そのときの自分の感情は思い出せない。
呆然としていた。

 

通夜をやった。
やったのは俺じゃない。
通夜も葬式も家でやることになった。
病院から祖母のなきがらが車で運ばれてきた。
運んだのは葬儀会社の人間だ。

 

家の男たちが、車から祖母を下ろして家の中に運んだ。
うちは無駄に男手が多い。
男ばかりの3兄弟で、俺はその次男だった。
男だからといって、誰もが腕力が強いわけじゃない。
主に祖母を支えていたのは兄、そして父だった。

 

家の一室に横たえられた祖母の横には、小さな机が置かれていた。
小机の上には、花、線香、水、火がついたろうそくと(リン)
夜、線香と、ろうそくの火を絶やさぬよう、俺は一晩中祖母のそばに座っていた。

 

途中、兄が交替のために起きてきた。
長男は大学生で、すでに家を出ていた。
葬儀のために戻って来ていたのだ。

 

俺は替わらなかった。
「いいから眠れ」と兄を自室に追い返した。
ゆらゆら揺れる、ろうそくの炎を見つめていた。
眠くなることはなかった。
でも、炎から目を離すことができなかった。
祖母の顔をもっと見ておくべきだったのに。

 

今となっては祖母の顔も、おぼろげにしか思い出せない。
兄弟の顔も、父母の顔も、祖父の顔も。
叔母を除くほかの親族の顔も。

 

ひとつだけ。
祖母の顔に触れた。
そっとだ。


祖母は死化粧を施されていた。
手には化粧が移った。

 

祖母の顔を見た。
根こそぎ化粧を取ってしまったわけではなかった。

指の跡もついていない。
ほっとする。
きれいに化粧を施された祖母を邪魔してはいない。
自分にそう言い聞かせた。

 

その後、手は洗った。
でも、水で洗っただけでは落ちなかった。
ファンデーションの色と匂いが、ずっと自分の手に残った。

それ以外は炎を見ていた記憶しかない。

 

明くる日、葬式をやった。
やったのは俺じゃない。
喪主は父だった。

 

葬式のあと、火葬場に移動して時を待った。
そのときがやって来るのを待ったんだ。

 

俺は手を洗いたかった。
それまでにも何度も洗っていたが、化粧は水だけでは落ちなかった。
何度か洗って、本当は落ちていたのかもしれないが、いつまでも手に残っているという思いが離れなった。


今度も落ちないだろうと思いながら、洗面所で手を洗う。
洗面所の窓から外が見えた。
空だ。青空だ。

 

そのときの気持ちが思い出せない。
目がくらむような、まぶしさ。
自分が一段暗いところにいる気持ち。
そんなことを感じた気がする。

 

待合室に戻るのが嫌になった。
そもそもその日はひとことも、誰とも口をきいていなかった。
俺が口を開くと、家族の誰かが俺に注意をする。いつもそうだった。
注意されるような何かを言っている、もしくはやっているのだろう。
もしかしたら、俺が何かを話す、それ自体が、彼らにとってはおかしなことなのかもしれなかった。
だから自分からは話しかけない、そういう習慣になっていた。
気まずい場所に戻ることはない、そんな気がしてしまった。

 

俺がいなくなったとしても、もう、俺を気にかける祖母はいない。
今、いなくなっている最中だ。
そうじゃない、もうすでにいないんだ。

 

いつ、いなくなったの?
いつ、いなくなるの?
わからない。

 

建物の外に出て、振り返った。
煙が。
煙が上がっていた。
空へ。

 

祖母はどこにいる?
わからない。
煙はとにかく空へ。

 

一度建物から出てしまうと、もう一度入ることができなくなった。
今、自分がいなくなるのが一番いい。
そのときの俺はそう思った。
だからそのまま立ち去った。
俺が17のころのことだ。

 

「渡瀬くん、聞いてますか?」

 

我に返った。
加藤さんが、車の運転席から窓を開けて話しかけてきていた。

 

「すみません、ぼうっとしてました」
「うん、見ればわかる。ぼうっとしてましたね」
「はい」
「いや……ぼうっとするのは車に乗ってからにしてください。寒いから早く乗って」
「いえ、そこまで寒くは」
「俺が寒いんだって。いつまで窓開けてりゃいいんだ。とっとと乗るがいい」

 

途中で会話が面倒になった加藤さんが、少々乱暴な口調で言った。


俺はいつもこうだ。
他人に面倒がられる会話しかできない。
それでも加藤さんはめげない。いい人だ。

 

俺が助手席に乗り込むと、窓を閉めた加藤さんが待ちの体勢に入った。
待たれているのがわかっているので、焦りながらシートベルトを締める。
俺がシートベルトを装着し終えたことを確認すると、加藤さんは車を発進させた。

 

「加藤さん、いつもありがとうございます、送ってくれて」

 

なんとなく、礼を言わなければいけない気持ちになった俺は、礼を言った。
言われた加藤さんは照れたように口をとがらせて、奇妙に傾いた笑い顔をした。

 

「何ですか急に。おだてても何も出ませんよ。スピードくらいしか」
「いえ、特におだててないです。スピードはそこまで出さなくても、もう十分なんで」
「はいはい、安全運転、安全運転ね。……で、何見てたんです? 何か、いかめしい顔で宙をにらんでましたけど」
「煙です」
「ああ……、煙ね。燻製作ってるらしいです。らしいというか私が言ったんですけど、『そろそろ燻製の在庫がカツカツですよ』的なことを」
「燻製でしたか」

「ええ。煙に見えたかもしれませんけど、煙じゃないと思います。工房には脱煙機がありますから。寒いので脱煙機から出る水蒸気が煙に見えたとか、そういうことでしょう」

「ああ、まあそうですよね」
「そう」

 

そこで会話は途切れた。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」では、土産物として、さまざまな食材の燻製を売っている。手作りの燻製だ。
イルズクにはそのための工房がある。
俺が見ていたのは、その工房の煙だった。

 

「渡瀬くんは寮に入らないんですね」

 

加藤さんが前を向いて運転しながら言った。

 

「はい。人と一緒に暮らすのがたぶん無理なので。そのせいで加藤さんにはご迷惑おかけしてますけど」
「ああいや、それはいいんです、どうせ私も帰らなきゃいけないし。渡瀬くんち、通り道だし。というか私も寮を飛び出たクチなので、特にそれで迷惑とかはないですよ」

 

いつも似たような会話をしている気がする。

 

「雪、やみませんね。春なのに」

 

言ってから、会話が成り立っていないことに気づいた。が、あとの祭りだ。言葉は戻らない。

 

「ああ、まあここら辺は暦より遅く春が来るから。といっても本気の豪雪地帯よりは降らないほうらしいですよ。私もここら辺出身ではないのであまり知ったふうなこと言えませんが」
「いえ……。それにしてもまだ降るのかという感じで」

 

この辺にいつごろ春が来るかは知っていた。
飛び出たのは寮も実家も同じで、どちらもこの近くにある。
俺の地元は、ここからわりと近い。
が、戻る気もないし、それを今言う気もなかった。

 

だるい。
車内は暖かく、眠けが襲ってきた。

 

「どこにいるんでしょうかね」

 

ぼんやりしながらまた会話にならない言葉を吐く。
加藤さん、ほんとにゴメン。
俺、会話できないマジで。
心の中でそんなことを思っている俺を尻目に、加藤さんは軽やかに俺の言葉をさばいていく。

 

「何がですか?」
「なんか……、煙とか、雪とか」
「どこにとな。空にですかね」
「……」

「何でもいいのでしゃべってください、私も眠くなりそう」

 

そう言われると、俺でもしゃべっていい気がして、また意味不明な言葉を紡ぐ。

 

「祖母が亡くなったときに、火葬場の煙を見たんです」
「ほう。珍しいですね。最近は煙突がなく、したがって煙も出ない火葬場は多いような印象がありますけど」

「そうかもしれません。そこは昔ながらの火葬場だったんでしょうね。で、俺は、祖母はどこに行くんだろう、今どこにいるんだろう、って思ったんです」

「ふむ。……む? それは祖母=煙ということですか?」
「いえ、あの」
「だとすると空ですね。空というより宙ですね。その辺にいるんでしょう」

 

加藤さんは謎の軽やか理論を軽々と言い切った。
加藤さんにとっては、眠気覚まし以上の意味は特にない会話なのだろう。

加藤さんにはそういうところがあって、優しいのか何なのかよくわからない人だと思う。
でも、たぶんいい人だ。そう信じたい。

 

「そうかもしれません」
「おっ? まさかの納得? 今ので?」
「はい。その辺にいる、ですね」

 

俺は目を閉じた。
温かい。眠い。
寝てはいけない。帰らなければ。
加藤さんが寝ないように、話さなければ。

 

煙がどこへともなく上がっている。
どこに向かってる?

 

空へ。
空というより宙へ。
つまり、その辺に。

 

いつもその辺にいる。

 

(おわり 21/30)

 

新人研修の罠

「この燻製、ほんとにうまいんだけど」
「止まらない」
「Twitterで言ったらだめかね、今日の研修のこと」
「ダメだろ」
「バカッターとか言われるだろ」
「そうか~ダメか~。何だったんだろ、あの謎のメッセージ。集合知に問いかけたい」
「まあ、確かにな~」
「聞いてわかるかね」
「どうかね」

 

もぐもぐ、むしゃむしゃ、ごくごく。
そんな音とともに、この会話である。
この部屋には3人の男性がいたが、誰がどれを言ったのか本人たちにもよくわからないほどの、酒気が香るぐだぐだ会話である。

 

3人は、全員、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」での新人研修に参加していた。
今は夜だ。
昼間にあったイベントを、同室の人間が、発泡酒とつまみの燻製とともに、「ああでもない、こうでもない」と部屋で語る時間が訪れていた。
昼間の「オリエンテーリング」についてである。

 

「『オリエンテーリング』? って何? 新人説明会みたいなの?」

 

塔野雪晴が疑問を口にすると、湾田翔介が、バカにしたように答えた。

 

「それは『オリエンテーション』だろ。『オリエンテーリング』は、山ん中歩くやつ」
「そうそう、スポーツ、スポーツ」

 

湾田の口調に塔野が何か言い返そうとした、その合間を縫って相槌を打ったのは取井だった。

これらは、昼間の彼らの会話である。
昼間の彼らは、このときのために持参した、山歩きに適した服装と靴とリュックを身につけていた。

 

トラーリ株式会社社の新人研修にておこなわれるオリエンテーリングでは、山の中にポールが転々と置いてあった。
そのポールには、QRコードが貼られている。
貼られたQRコードを自らの携帯で読み取り、読み取ったものを事前にチームごとに配られたカードに書き入れる。
アナログとデジタルが、ほどよく混在した謎のイベントだった。
各自が持っている、開始とともに配られたカードの裏には、山の地図が書かれていた。

 

「地図にQRがどこにあるのか書いてあるね……」

 

塔野がつぶやくように言った言葉をさえぎるように、湾田が言葉をかぶせる。

 

「大雑把すぎだろ、この地図」

 

地図には、ブナ林、滑車で滑り降りられる斜面のあるアスレチック広場、山小屋、駐車場のそばにある建物などなど、目印とともにQRコードのありかが書かれていた。

塔野は、うっすらと「湾田は性格が悪いのではないか」という疑いを、この新人研修が始まった当初から持っていた。
四六時中、一緒にいる泊まりの研修で、モメごとを起こすのは避けたい。
塔野は、この研修のあいだだけは、湾田が何を言おうが、風になびきまくる柳のように受け流すことにしていた。

湾田には構わず、塔野は取井に相談することにした。

 

「11個もあるんだね」
「んじゃまず、1個目……」

 

そこへ、湾田が携帯を見ながら口を挟んだ。

 

「あ、LINE」
「ほんとだ。英川チームはもう1個目発見か~」

 

取井も携帯のアプリを切り替え、LINEを確認したようだった。

 

今年のトラーリ株式会社社の新入社員は、全部で6人だった。
トラーリ株式会社は、規模の小さい会社なのである。
小さいが、新人研修にだけは、やけに力を入れる。それがトラーリ株式会社である。

 

オリエンテーリングのチームは、女性と男性で別れていた。
女性チームは、暫定的チームリーダー英川夏海の名を取って、英川チーム。
男性チームは湾田チームと呼ばれていた。

ここにいるのは湾田チームの3人である。


3人はスタート地点で英川チームに追い抜かれ、そのまま彼女らの姿を見ていない。
しかし、このイベントが始まる前に、研修に参加している社員全員が参加するLINEのグループを作っていた。緊急事態用である。姿は見えないが、連絡だけは取れる。

 

「QRの内容、教えてもらえないかな。情報共有。うちらは2個めを探して教える」

 

塔野が、思いついたことを言ってみる。

 

「ああ、偶数番めのQRを探すチームと、奇数番めを探すチームに別れるってこと?」

 

取井が相槌を打つと、湾田が問題点を挙げる。

 

「競技なのにいいのかよ」

 

取井が携帯の画面を見ながら、沈痛な面持ちでつぶやく。

 

「いいも何も、今まさに英川チームに断られた」

 

LINEで共闘を持ちかけてみたが、断られたのだった。
塔野はとりあえず、この場にいない英川チームに何か言いたい気分になった。

 

「真面目、冷たい、超優秀」

 

持ち上げているのか、けなしているのかよくわからない悪態もどきが塔野から出たあと、3人は携帯をリュックにしまって再び歩き始めた。

 

「男女混合のチームじゃなくていいのかね、なんかポリコレ的に」
「それはそれでなんか……、山の中歩くのに混合チームで大丈夫か問題があるような」
「いや、山歩きながら下心燃やすほど体力ないよ、俺」
「それは俺も」
「まあね」

 

そんなどうでもいい会話をしているうちに、湾田チームもひとつめのQRコードにたどり着いた。

 

「1個目発見~。ざまぁ!」
「1個目でいいのかな、合ってる?」
「合ってるだろ、『1』って書いてあるもの、QRコードの上に」
「それもそうだね」

 

というわけで、全員携帯をリュックから取り出した。
そしてQRを読み取るべく、アプリを起動してQRコードがちょうどいい感じで読み込める位置を模索した。

 

「お、読み取った。えーと、『H』だな」
「『H』」

 

全員が読み取ったアルファベットをカードに書き込む。
書き込んだあと、リュックに携帯、ポケットにカードとペンをしまいながら湾田が誰にともなくつぶやいた。

 

「アルファベットなんだな、何が書かれてるのかと思ったら」

 

塔野も同意を表すためにうなずきながら言う。

 

「何だろ、つなげると意味がある言葉になるとか?」
「1文字だけではなんとも言えないか。次行こう」
「よっしゃ」

 

徐々に出てきたやる気を糧に、湾田チームも2番めのQRを目指して歩き始めた。

 

はあ、はあ。歩いてるだけなのに息切れとはこれいかに、ぜい、ぜい

 

塔野が息を多量に含んだ言葉を漏らす。湾田が短く答えた。

 

「競技だからな」
「低い山だけど、真面目に歩くと、けっこう来るものがある」
「で、英川チームと出くわさないってどういうことだっていう」

 

湾田がそう言うと、取井が今気づいたかのように、辺りを見回した。

 

「ほんとだ。俺らと同じくらいか、上回るスピードで歩いてるってことか。まったく迷わず」
「迷ってないかどうかはわからんけど、ふう、ふう

 

まだ余裕を見せていた湾田がリュックから携帯を取りだし、LINEをチェックする。
湾田は驚愕の表情を見せると、驚きの声を上げた。

 

「3つめ発見……!?」
「迷ってないみたいだな」
「はええ。足どうなってんの。つうか、何かに乗ってんの? 登山鉄道とか」
「んなわけない」
「そうだけど……尋常じゃなく速え」

 

自分たちは甘かったのかもしれない。
そんな空気が湾田チームを覆った。
しかし今さら本気を出しても負ける。
これほどまでに速いチームと競ったら負ける。
その思いが、3人をさらなるぐだぐだに追い込んだ。
塔野が口を開く。

 

「まあ、俺らはゆっくり」

 

塔野に最後まで言わせずに、湾田が言葉を発する。

 

「ゆっくりしすぎてもまずいんじゃないか。タイム見られるんだろ、あとで」

 

取井が横から、湾田に同意するそぶりで言った。

 

「サボってたみたいになるのはまずい」
「んじゃ、ほどよく急ごう」

 

サボってはいない、一生懸命に頑張りはしたが、純粋に足が遅くて負けたのだと胸を張って言えるくらいのタイムを目指すことになった。
その後、順調にふたつめ、3つめのQRを見つけたものの、英川チームが常に先を行っているため、特に何の感慨もない。

 

「次は何だ、4個目か」
「英川チームは6個め目指してるってさ」
「英川たちと俺らを比べるな」
「そうだ、上を見てばかりじゃ首を痛める」

 

湾田の言葉に同意した取井が、ぼやくように言った。
塔野は、気になっていたことを口にしてみた。

 

「『足が遅くて負けた』って堂々と言っていいものなのかね」
「どうだろう。つうか、言い訳が通用するかどうか考えてる余裕ない、けっこう必死よ、俺、今」
「わかる」
「わかられても」

 

余裕がないのか、話をしている時点で余裕があるのかよくわからぬ一行の山歩きは続く。
4個目、5個目、そして6個目のQRコードは難なく見つけた。
しかし、やはり先行チームがいるため、そのあとを追うことは、もはや単なる作業でしかなかった。

 

「7個目のQRはどこかいな……」
「お。英川チーム、10個目発見したみたいだ」
「おお。そうか」

 

もはや差がつきすぎて、焦りや嫉妬すら生まれない、平和な空間がそこにあった。
3人とも携帯を持参してはいるが、湾田以外のふたりは、すでに携帯をリュックにしまっていた。LINEはひとりがチェックしていれば事足りたので、バッテリー残量の温存のためにそうしていた。

 

「英川たち、最後のアルファベットを予想してるな」
「予想? どうやって」
「規則性があるとか? 英文になってるとか」

 

湾田の言葉に、塔野と取井が反応した。

 

「そうみたいだな。たぶん英文は『Hang in there』だろうから、最後の文字は『e』だろうって」
「ハンギン?」
「ゼア。『ふんばれ』とか『逆境に負けるな』とか、つらい状況にいる人に言う『がんばれ』らしい。……と、英川チームが言ってる」
「ほう」
「今の俺たちにちょうどいい言葉なのだろうか」
「もはや、つらいとかって次元じゃないんだけど」
「逆に平和だよな、今」
「もう無事に帰れればそれでいい」
「最後まであきらめないなら、俺から特に言うことはない」

 

湾田チームのメンバーは疲労のあまり足が上がらなくなってきており、つまずかないように足元ばかり見ていた。
それでもサボる気になれなかったのは、湾田がうるさかったからだ。


湾田には、途中であきらめることを特に嫌う性質があるようだった。
湾田が歩きながら言うには、「QRコードは、読み取られたかどうか、何人が読み取ったか、そういう情報がコード作成者に伝わっている」とのことだった。

 

競技というものは、必ず誰かが負けるものなのだから、足が遅いあまりに新人同士の競争で負けてもおそらく大したことではないだろうが、サボっているのはまずい。

ふたりの歩くモチベーションが切れそうになると、湾田は、ふたりにそう言い聞かせるのだった。


1番になることを避け、2番手につけていつでも抜かせる状態をキープしたほうが気が楽だ。2チームしかいないから、2番手=ビリだというだけの話だ。
湾田はささやき続けた。

それが悪魔のささやきなのかどうかは、ふたりにはよくわからなった。山を歩くので精一杯で、それどころではなかったからだ。


そんな欺瞞に満ちた平和な空気を醸しながらも、湾田チームもやっと11個目のQRコードにたどり着いた。

 

「発見~! あれ? あれから英川チームからLINE来てないけど、もうゴールしたのかな」
「だろうな。よし、じゃあ最後のQR~」

 

塔野の気の抜けたかけ声とともに、3人は携帯をQRコードに向けた。

 

『t』……!?」
『t』だな」
『t』だ」

 

3人はそう言ったきり黙った。
しばし携帯の画面を見つめる。
画面に表示されているのは、どこからどう見ても「t」の文字だった。

 

「『e』じゃねえのかよ!」
「騙された!」
「罠だったのか! 英川チームがわれわれを罠に!」

 

そんな陰謀論が湧き起こった。
それが昼間のイベントだった。

 

その後、3人も英川チームからかなり遅れてゴールした。
そして、イベントが終わって山から帰り、解散になったあと、湾田が英川チームに直接問いただした。

われわれを罠にハメる気だったのか、と。

英川チームの言い分はこうだった。

 

「そんなつもりは、いっさいない」
「あなた方を罠にハメたり、騙すつもりはない」
「単にわれわれが予想を誤っただけである」
「あなた方がサボらなければ特に問題のない誤りだ」
「現にあなた方はサボらず、最後の1文字を間違えもしなかった」
「どこに問題が?」

 

どこに問題があるのかは湾田にはわからなかった。ほかのふたりにもわからなかった。
もしかしたら、問題は自分たちの中の劣等感にあるのかもしれない……とは誰も思わなかった。
そんなことを研修中いちいち認めていたら、身が持たない。

 

というわけで、3人はこの小事件を水に流すことにした。
しかし、夜になり、部屋で本日の反省会を自主的におこなっているうちに、別のことが気になり始めた。

「結局、あの英文は何だったのか?」問題である。

 

当初「Hang in there」だと思われた英文は「Hang in thert」だった。どう読めばいいのかすらわからない。

 

「単に間違えたとか? QR用意した側が」

 

塔野がそう言うと、湾田が疑わしそうに返す。

 

「それはねえだろ……」
「ほかの意味があるとかじゃないか? ハンギンゼアじゃない意味が」
「ほかになんかあるのか? これ」
「Hang inth……ハッ!」
「どうした湾田」
「わかった、これ、『the』だ。『the rt』だ」
「RT」
「リツイートだ、『リツイートに吊るせ』!」
「英語としておかしくないか?」
「おかしいけど、引っかけ問題だったんだろ。引っかけようとするあまりに変な英語になったとか」
「それだ!」

 

湾田の仮説に、3人は、にわかに盛り上がりを見せた。
序盤こそ手探りで話していたが、今では仮説は確信に変わっていた。
湾田はLINEでこの推理を披露し、英川チームから「すごい! なるほど!」という絶賛を受けた。

 

「やっぱ、そうだろ」
「これ、今もイベント続行中ってこと?」
「誰かのリツイートに吊さなきゃいけないってことか」
「どのリツイートに?」
「吊すって、リプかな?」

 

3人は相談しながらTwitterをウロウロする。
会社の公式アカウントは、本日は朝以降、沈黙したきりだ。
社内の誰かのアカウントだろうか。
誰かがリツイートしていないだろうか。

 

「あ! 加藤さんがリツイートしてる! しかも数分前」
「ホントだ」
「燻製食ってる」

 

加藤はこの研修に参加している先輩社員である。
本日の企画も加藤が中心となって準備したらしい。それは3人も知っていた。

 

その加藤が、3人が今いる宿・イルズク(の公式アカウント)が本日したツイート「手作り燻製についてのブログを公開しました」をリツイートしているのである。

 

リツイートには加藤の、

「これおいしい。今食べてる」

という言葉が添えられていた。

加藤も今、燻製を食べているらしい。

 

「加藤さんも今、食べてるのか」
「これじゃね? これにリプしていけばいいんじゃね?」
「よし、英川チームにLINEだ」

 

英川チームに連絡をすると、新人チームは全員が一丸となって加藤にリプライを送った。RTに吊るしているように見えるように。

 

いわく、

「僕たちも今食べています!」
「おいしいですよね!」
「そんなにおいしいなんて!」
「私も買ってみます!」
「お土産にぴったりですね!」
「おいしすぎます!」
……
……

 

「吊るせ」と言うからには、ひとつでは足りないのかもしれない。
酔いと山歩きの疲労で眠けに襲われながらも、3人はリプライを送り続けた。

 

ひとしきり送ると、眠りたがる体を無理矢理動かして、歯を磨いたり、ゴミを片付けたり、諸々の寝支度をし始めた。
3人は誰も携帯を見ていなかった。
本日の研修は終わった、そう思っていたからだ。

 

だから、そのときLINEで起きていた、加藤と英川チームによる、以下の会話も知らないままだった。

 

「今日の研修の英語、『Hang in the RT』なんですよね? 吊るしてみました!」
「え、何?」
「何って、英文が『RTに吊るせ』になってるから、リプを送れってことですよね?」
「あ、今、初めて英川さんたちのトーク見た。英語、間違ってた? 終わったあと、カード見て英文チェックする係、俺じゃないから昼間気づかなかった」
「まちがっ」
「うん、あれ、『Hang in there』で合ってる。こっちが間違えてた、すまん」
「間違えてたって……、じゃあリツイートは」
「関係ないよ」

 

その後、英川チームの部屋から聞こえた、「罠だ! 湾田チームの罠だった!」という叫び声も、寝る支度を済ませてすでにベッドに入っていた3人には聞こえていない。

 

3人はすでに、すやすや眠っていた。
安寧な眠りである。
明日の朝、食事どきに英川チームと顔を合わせるまでの安らかな時間であった。

 

(おわり 20/30)

 

停電明けの邂逅

「雷すごいんだけど」
「うむ」
「目的地周辺です」

 

案田真弥(あんだしんや) と、酒巻(さかまき) 美逸(ミゾレ) が乗った車のナビがそう告げ、音声案内を終了した。

 

まだ日が沈む時間ではないというのに、辺りが暗い。
雷を産む雲が、黒く垂れ込めているせいだった。
雷鳴がとどろいている。

 

「案田、あんた大丈夫? 汗かいてるけど」
「うむ」

 

運転席の男・案田は、レトロなロボットのように、ただひたすら同じ返事を繰り返した。ロボットは絶対にかかない汗を額にかきながら。

 

「運転代わろっか? つっても、もう目的地に着いてるようなもんだけど……」
うむ。ミゾレさんはチェックインの手続きをしてください。俺は車を宿の駐車場に泊める。そしてコートを着る。それからトイレに行く。よろしく」

 

案田が、一方的に役割を指定した。
コートを着る、という手順をなぜ言語化したのか、酒巻には不明だったが、確かに案田は運転するにあたってコートを脱いでいた。
案田のコートは昨今の流行に逆らっているのか、はたまた作り手が何も考えていないのか、薄くも軽くもなく、ひたすらモコモコどっしりしたものだったため、運転するのに都合が悪かったからだ。

 

「あい。わかった。間に合うといいね、トイレ」
「うむ」

 

何度か空が光ったあと、雷鳴が響く。
ひときわ大きく雷がとどろいたあと、手荷物を持った酒巻が車を降りた。

 

宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の正面入り口前のロータリーである。
昨日までに降った雪は、雨で溶かされつつあった。
空からは、まだゴロゴロという音が鳴っている。
傘を持っていない酒巻は雨に打たれながら、小走りにイルズク第2棟の正面入り口に向かった。大した距離もなかったせいか、それほどずぶ濡れにはならなかった。
入り口にたどり着き、雪が残るひさしの下で、ハンカチで髪を拭きながら案田が運転する車を見守る。

 

案田が、建物の裏手に向けて車を発進させた。
ロータリーに入る前の看板に駐車場の方向が書かれていたので、それに従ったのだろう。酒巻は車を見送ったあと、ひとり建物を見上げながらつぶやいた。

 

「つうかここ、停電してね?」

 

試しに入り口にある扉の取っ手を回して引いてみる。
開いた。
自動でも何でもない扉だから当たり前なのだろうか。

 

停電はしていたものの、なんとかチェックインはできた。
フロントで、非常用なのであろう薄暗い照明の下、宿泊者名簿に記入する。フロントの人間はそれを受け取るとタブレット端末を操作し、酒巻に部屋番号を告げキーを渡した。

 

イルズクは、2階建ての、こじんまりとした建物が5つ集まった宿泊施設である。
外から見たときに、「ホテルというよりもログハウスっぽい見た目だな」と酒巻は思った。ログハウスは、ひと棟30部屋はあるだろうか。

 

酒巻が予約していたのは、そのうちのひとつ、第2棟の部屋だった。
特にどこに部屋を取ってほしいという希望を出していなかったため、どこの棟でも特に感慨はない。

 

団体客が何組かいるように感じた。
ジャージ姿の集団がいる。高校生だろうか。

酒巻は、フロントのあるロビーの隅で、案田にLINEを送った。
既読マークはつかない。

 

ロビーから離れ、廊下を少し歩き、ラウンジにたどり着く。
そこにある椅子に座り、携帯の画面を見る。
やはりまだ既読がつかない。

 

電波が悪いのか?
ラウンジを囲む壁がいけないのか?
そう思った酒巻が、座りながら携帯をあちらこちらに向けていると、ロビーにいた団体客がぞろぞろ歩いてこちらに歩いてくるのが見えた。
客室に向かうのだろう。

 

酒巻は携帯をラウンジのテーブルの上に置いた。集団を撮っていると思われても困る。
ジャージ姿の集団はぞろぞろと緩やかな列をなし、酒巻のそばを通り過ぎていく。
奇妙に動きがスローな高校生集団だった。学校行事だろうか。
雷の中どこかに出かけていたのだろうか。


酒巻がそんなことをぼんやり考えながら案田を待っているうちに、雷の音は遠くなっていた。外には、今まで雷にかき消されていた雨の音が戻ってきている。

 

雷の音がほとんど聞こえなくなったころ、案田がラウンジにやってきた。

 

「お待たせしました」
「お。やっとか。部屋で落ち合ってもよかったんだけど」
「ただ『チェックインした』とだけ言われて俺は部屋番号もわからないのに、どうやって落ち合うんですか」
「LINE見たんか。トイレで? そういやコート着てるね。つうか……、そのコート着たまま個室に入れたん?」

 

酒巻が、案田のコートのモコモコ具合を揶揄すると、案田はまだ青白い顔を改めて酒巻の方に向け、無表情で言った。

 

「トイレ行く前に着てる余裕なくて個室で着たら、ゴンゴン壁にぶつかりまくりました。めっちゃうるさかったと思う、隣の人。悪いことしちゃった」
「隣の人?」
「隣の個室を使ってた人、です。停電で水が流れなかったんで水の流し方を教えてもらいました。いい人だった……。顔も見てないけど」
「お礼言った?」
「言いそびれたんで、メッセージを残してきました」
「トイレに?」
「トイレに」

 

うなずきながら言う案田に、酒巻は何か言いたくなった。
何を言おうか迷ったが、やがて「男性用トイレのことは自分には関係ない」と心の中で切り捨て、うなずいた。

 

「そう。ほんじゃ、部屋行こうか」
「うむ」

 

案田は、青ざめた顔でうなずいた。

 

***

 

「で、仕事と関係ないんだけどさあ」

 

先に部屋に入った酒巻が、キーをカードスイッチに入れながら切り出した。
照明がついたが、薄暗い。停電はまだ続いていて、ついたのは非常灯のみだった。


あとから部屋に入ってきた案田の動作は、全体的に奇妙に素早かった。
その案田が、素早く部屋の扉を閉めてから、早口に言った。

 

「少々お待ちください、ミゾレさん」
「どうした」
「俺はこれからトイレにこもります」
「お、おう。宣言された」

 

酒巻が突然のトイレこもり宣言に面食らっていると、案田はテキパキとコートを脱ぎ、自分の手荷物とひとまとめにして、ベッドの脇に置いた。
テキパキ過ぎて早回しの映像を見ているかのようだった。
それから案田は、やはり早回しのような素早さで、部屋のシャワールームに入って行った。シャワールームの片隅にあるトイレに大事な用があるのだろう。

 

「しばらくシャワーは無理ってことか……、いや大浴場あるんかな、ここ」

 

酒巻は、静かになった部屋でひとりつぶやく。
持っていた荷物を、もうひとつのベッドの脇に置く。

 

酒巻たちがイルズクに泊まることにしたのは、仕事のためだった。
酒巻たちが所属しているのは、小さな事務所だった。
小さすぎて、いや、規模は関係なく、予算が足りないために出張費がまともに出せない。経費節減のためにツインルームを1部屋しか取らなかった。

 

男女同室など、昨今の常識で考えたらあり得ぬことなのだろうか。
酒巻も案田も独身の上に、妙なウワサが立ったところで悲しむ者もなく、特に問題なかろうとの判断だったが、問題はあるのだろうか。

 

本日の案田がトイレにこもりたくなる体調であることを抜きに考えても、酒巻は案田と同室でも特にかまわなかった。
むしろ「どんとこい」と言いたかったが、ふだんの案田の様子から考えれば「お断り」のようだった。
残念だ。
酒巻はため息をついた。

 

こんな残念な思いをしないためにも、ひとり1部屋取れるほどの予算が欲しい。
そう願わずにいられない酒巻だった。

 

さて。
本日は移動日だったため、空いた時間は案田と、仕事の話と、仕事ではない話などダラダラとしたくなった酒巻だったが、今の案田にその体調的猶予はあるのだろうか。


酒巻は、自分の鞄を探った。
下痢止めの錠剤のシートを取り出し、部屋に備え付けのテーブルの上に置く。
人の体調のことはよくわからないが、案田は下し気味なのではないか、そう判断したのだった。
案田がトイレでのこもり行を終えたら渡してみようか。
本当に下痢止めなので、妙な錠剤と勘違いされ、怪しまれないといいが。

 

テーブルの上にはやはり備え付けの、メモホルダーが置かれていた。ホルダーにはペンと、宿のロゴが入ったメモパッドが収納されている。
案田宛てに錠剤を勧める文章を書こうとして、いや、直接言ったほうがまだ怪しさが軽減されるだろうと思い直した。

 

酒巻は、ふだんの己の行いを少しだけ悔いながら、部屋に備え付けられた電気ケトルを手に取った。部屋の洗面台の蛇口には、「飲料水」と印字された小さなステッカーが貼ってある。
蛇口を開けて水を出す。ケトルを洗ってから水を入れ、台座に戻す。


スイッチを入れるが、反応がない。
部屋の照明も薄暗いままだ。停電はまだ続いている。
酒巻は、ケトルを置いた机の前にある椅子に腰掛け、電力が復旧するのを待った。

 

……
…………
………………

 

ハッと目を覚ました。
眠っていたらしい。

 

辺りを見回すと、すでに案田はベッドに入っていた。
遠目ではあったが、すやすやと安眠しているように見えた。
酒巻は迷ったあと、起こすのをやめた。
部屋の中は薄暗い。

 

椅子に座ったまま、窓の外を見る。
カーテンは開いたままになっていて、ガラス越しに外が見えた。
外はすでに暗い。
屋外灯の灯りが見える。停電が終わり、すでに電力が復旧しているということか。
部屋が薄暗いのは、案田がそうしたということらしい。
雨はすでにやんでいるようだ。

 

何時間眠っていたのだろう。
ケトルの横に小さなデジタル時計が置かれている。夜の7時過ぎ。
3、4時間は眠っていたようだった。

 

(寒いと案田の体調が治らんかもしれんし、できれば明日は晴れてほしいんだがなぁ)

 

そんなことを思いながら、酒巻はカーテンを閉めるために、もっそりと立ち上がった。
座りながら寝たせいで、体が痛い。
ゆっくり窓にたどり着き、カーテンに手をかけたところで、酒巻は動きを止めた。

 

「あん?」

 

見間違いだろうか。
今、何か。
外に、何か妖怪のようなものが見えた。

 

案田が寝ているベッドを振り返って見るが、相変わらず案田は、気が抜けるほど素直な寝息を立てている。

 

もう一度、窓の外を見る。
すると、先ほど見た妖怪のような何かが、窓のすぐ外にいた。どアップである。

 

「!!」

 

酒巻が思わず息をのむと、その生き物は窓を軽く叩いた。開けてほしいらしい。
よくよく見ると、その生き物は妖怪ではなく人間のようだった。
ジャージを着ている。女子生徒に見える。

恐れよりも、凍死を心配する気持ちが勝り、酒巻は窓を開けた。

 

「あんた何やってんの? 死ぬよマジで! そんな格好じゃ」
「こうそくで、あの、さむい」

 

ジャージの女生徒が、ガチガチと歯の根が合わぬまま発した言葉のうち、酒巻が聞き取れたのはそれだけだった。

 

***

 

「かくれんぼしてたらつい本気になって外に抜け出したはいいけど、ジャージいっちょじゃ寒かったと……いうこと?」
「そう」

 

酒巻は電気ケトルで沸かした湯を、粉末のお茶が入ったカップに注いだ。そのカップをジャージの女生徒に手渡す。
ジャージ女生徒は裸足で外に出てしまったらしく、酒巻に手渡された、部屋に備え付けのタオルで足を丹念に拭いていた。その作業を中断してカップを受け取ると、両手で包み、ふうふうと湯気に息を吹きかける。
椅子をジャージ女生徒に譲ったため、酒巻はベッドに腰掛けて言った。

 

「なんでまた本気でかくれんぼなんてしてんの、こんなとこで」
「校則やぶってたから。見つかると説教くらうし」
「ほぅ」
「チクりますか」
「言わないけどさ、つうかあたしがさらったと思われても困るから、できれば自分ひとりで部屋に戻ってほしい」
「今戻ったら叱られるんだけど」
「もういいじゃん、叱られたって。叱られるだけで済むなら全然いいじゃん」
「お姉さん、除光液持ってない?」
「持ってないよ。あたしは旅行にそんなもん持ってこない派。あきらめろ」
「うう」
「あきらメロン」
「なんでわざわざダジャレで言い直したの」
「なんとなく」
「うーん……、むす、とうございます

 

案田が何かをつぶやいた。
酒巻は案田のほうを振り返り、立ち上がると、ベッドのそばに近寄った。


眠っているようだ。
寝言だろうか。
寝息は相変わらず規則的だ。
そこまで体調が悪そうにも見えない。


話し声が大きかったのかもしれない。
酒巻は、案田の布団をそっとかけ直すと、静かに元いた自分のベッドの端に戻り、ジャージ女生徒のほうを向き直ってささやくように言った。

 

「さあ、あったまったら戻った戻った。この部屋のドアから廊下に出て、中から部屋に戻れば凍えなくても済むでしょ」
「そうだけど……。あ、これ、ありがとう」
「ん」

 

ジャージ女生徒は、タオルを酒巻に手渡した。

 

「そういえば、さっき洗濯室の前を通ったんだけど。外に出たときに」

 

女生徒は立ち上がってから、つぶやくように言った。
酒巻は、女生徒が何を言うのか予想がつかず、ただうなずいて先を促した。

 

「『コンタクトォー!』って叫んでる人がいた。外まで聞こえる大声で。あれって、コンタクトなくした嘆きなのかな?」
「なんだそいつ。まあ、そうかもね」
「実は昨日さぁ、同じ洗濯室で似たような場面見たんだけど……。昨日は『コンタクトぉー!』の人と、もうひとり先生がいて、なんか先生が落としたものを捜してるっぽかったんだけどさ。で、今日は先生メガネなのかと思ったらそうでもなくて、やっぱコンタクトしてるみたいだった」
「使い捨てレンズだったんじゃね? 手入れも楽だろうし、旅行なら使い捨てレンズは便利よね」
「あ、そっか。いや、ええ? そうかなあ。じゃあ、なんで今日はあの人、『コンタクトぉー!』って叫んでたんだろ。てか、あのふたりつきあってるのかな? 昨日はなんで洗濯室に一緒にいたんだろ」
「つきあって……るかな? そうとも限らんだろ……」
「『コンタクトォー!』って叫んでたの、合宿についてきてるカメラマンなんだけど。先生とつきあってるのかな?」
「……お説教回避するために教師の弱み握ろうって思ってる?」
「そんなことないない。純粋な好奇心です」
「つきあってないない。恋愛だけじゃないだろ、一緒にいる理由なんて」
「えー、そうなの? 残念」
「何が残念なんだか」

 

ベッドに腰かけて話していた酒巻の視界の隅に、何か動くものが見えた。
窓の外だ。
窓のそばに近づいて見ると、若い男性が庭をうろついている。

何かを捜しているように見えた。

 

「誰だあれ。なんか捜してんのかな」
「あ、あの人、宿のスタッフの人だよ。イケメンのお兄さんで、みんなウワサしてた」

 

いつのまにか酒巻の隣に来て、酒巻と同じく窓の外を見ていたジャージ女生徒が、ひそひそ声で言った。
酒巻は、ふと疑問を感じ、横にいるジャージ女生徒のほうを向いて問いかけた。

 

「……あの人が捜してんの、あんたじゃなくて?」
「えっ。なんで?」
「先生が頼んだとか」
「マジ? やっべ。私、今、イケメンに捜されてる」
「喜んでる場合じゃないだろ。ほれ、行った行った」
「えっ。……外に?」
「いや、どっちでもいいけど。イケメンと話すチャンスではある。けど」
「別に私、そこまでイケメン好きじゃない」
「どっちでもいいけど。でも」
「教師に見つかったら最初から叱られるよね……」
「え、ちょっと。イケメン好きじゃないと言いつつイケメン好きなのかよ。いや、ちげえ。おとなしく中から戻れ。教師に叱られても寒いよりマシだろ」
「よし、お姉さん、ありがと! じゃっ!」

 

ジャージ女生徒は、酒巻の言うことなどまったく意に介さず、窓を開けると、そこから外に出た。

 

(あ。……)

 

酒巻は、宿のスタッフが本当に何かを捜しているのかどうか、捜しているとしてもそれがジャージ女生徒なのかどうかわからない、とも今さら言えなくなった。
ジャージの女生徒は、ぴょんぴょんと溶けかけた雪の上を跳ねて移動する。
スタッフは、まだ女生徒に気づいていない。

 

(裸足なんだよな、あの子……。やっぱ裸足のまま外に出すんじゃなかった。すまん)

 

酒巻は、ここから大声でスタッフに呼びかけることも考えたが、部屋の中の案田を起こしてしまうことを恐れ、ただ見守った。

 

スタッフが、ジャージの女生徒に気づいた。
やはり女生徒を捜していたらしかった。
ジャージ女生徒とスタッフのあいだにはまだ距離があったが、ふたりが、やや大きな声で会話する声が酒巻にも聞こえてきた。

 

酒巻は窓を閉めた。
閉めたガラス窓から外をそのまま見ていると、ジャージの女生徒が、飛び跳ねながらスタッフに近寄って行った。

 

建物から、ほかの大人が数人出てきて、ジャージ女生徒にタオルやスリッパを手渡すのが見えた。教師だろうか。あるいは、宿のほかのスタッフか。

女生徒は跳ねるのをやめ、スリッパで歩き、宿の正面入り口に入っていった。

 

酒巻はため息をつくと、カーテンを閉めた。

室内には、案田の寝息が聞こえていた。
シャワーを浴びて、自分も寝よう。
酒巻はそう思い、自分の手荷物をあさり、支度をする。

 

シャワールームに行く前に女生徒が腰掛けていた椅子を元の位置に戻す。
その際、テーブルの上にメモがあるのに気づいた。
自分の筆跡ではない。
女性の文字だと酒巻は感じた。
ジャージ女生徒だろうか。いつの間に書いたのだろう。

 

「お兄さん、薬飲んで元気出してね。お姉さんが超心配してるから」

 

なんと。
なんと世渡りのうまい。
いや、そうではない。

 

案田とは話すらもしていなかったはずなのに、下痢に気づいたのか。ここに置かれた薬は、案田のために用意したものだと理解したのか。
その洞察力があるのに、なぜ本気でかくれんぼをしてガチガチ震える羽目に陥るのか。

 

酒巻は、感心するような、あきれるような妙な気持ちになりながら、そのメモと、テーブルの上に出してあった錠剤を並べて置いた。
案田が目を覚ましたら読むかもしれない。

 

ひとまず酒巻は、シャワーを浴びることにした。
酒巻はシャワールームに入り、その扉を静かに閉めた。

 

(おわり 19/30)