イルズクの洗濯室でコンタクトと叫ぶ
「あなたの叫び声を聞いた人がいるのです」
「どこで! どこで聞いたって言うんです、その人は。ここには誰もいませんでしたよ」
「それは……」
渡瀬は、そこで窓の外を指さした。
「外です!!」
「そ、そんな……!」
洗濯室である。
昨日ここで、ふとしたことから持ち主不明のコンタクトレンズを見つけてしまった渡瀬は、「ヒマな時間に持ち主を探してみよう」キャンペーンを個人的に実施していた。
上司にコンタクトレンズの落とし物のことを報告したとき、やんわりと、落とし主を探すよう指示されたからだった。
渡瀬はここ、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」のスタッフとして働いていた。
客室以外の設備の整備や管理を担当していて、忙しいときには、ほかの場所にもヘルプに入る。
今は夕食と、その片付けのヘルプも終わり、残る渡瀬の仕事は大浴場の清掃だけだったが、大浴場の利用時間が終了する23時までは少し間があった。
そんなわけで渡瀬は、昨夜見つけたコンタクトレンズの持ち主捜しをしていたのである。
「そんな……。外にまで聞こえる大声で叫んでいたなんて……。われを失いすぎました。お恥ずかしい」
先ほどヒザから崩れ、今は床にしゃがみこんでいる餅居が、眉をハの字にした表情でつぶやいた。
うつむいているため、メガネに隠れて眉毛より下の表情はよく見えない。
餅居は、ここイルズクに客として宿泊している。
植矢高校の「オリエンテーション合宿」という行事に、カメラマンとして同行しているのだった。
渡瀬の上司が、コンタクトの落とし主を捜すよう渡瀬にやんわりと指示したのは、学校の合宿で宿泊している団体客のためでもあった。
学生が落とした場合、おそらくフロントに問い合わせる前に教師にコンタクトを落としたことを申し出ねばならず、言い出しにくい雰囲気があったりはしないのだろうか、という想像を上司がしてしまったためである。
実際に、植矢高校の校風が、そこまでかたくななものなのかどうなのか渡瀬にはわからなかったが、上司の指示に逆らう理由はなかった。
渡瀬がなぜ餅居にたどり着いたかと言えば、証言を得たからである。
先ほど、「外で、カメラマン餅居の叫び声を聞いた」という証言を。
「あれは餅居さん、合宿についてきてるカメラマンの人だと思います」
その証言の主はそう言っていた。
窓の外から、叫び声の主を見ていたのである。
証言の主がそんな時間に外で何をしていたのかは、すでに判明していた。
証言をした生徒は、さきほど、だいぶ教師に絞られていた。片はついている。
「餅居さん、あなたはこう叫んでいたそうですね……、『コンタクトォー!』と」
「はい……。うかつに叫ぶものじゃないですね……。どこで誰に聞かれているやら、わからない」
「餅居さん、あなたは、ここでコンタクトをなくされたのではありませんか?」
「その通りです……。もう勘弁して下さい」
「そのコンタクトは、これではありませんか?」
渡瀬は、しゃがみこみ、餅居と視線の高さを合わせると、先ほどから手に持っていた小さなビニール袋を餅居の目の前に差し出した。
中には、昨日拾ったコンタクトが入っている。
だが、餅居はあっさりと否認した。
「いえ、違います」
「えっ」
渡瀬は、ビニール袋を持ち上げたその姿勢のまま硬直した。
「ち、違うんですか?」
「違います。私のコンタクトはもう見つかっています」
「しかし、えっ、すみません、どういうことでしょうか」
「叫び声を上げてしまったのは、コンタクトを見つけたからなんです」
渡瀬は、ようやく手を下ろすと、しゃがんだまま考え込んだ。
考え込んでもわからない。
「あの……、何があったんでしょうか」
「はあ、まあ、要するに、コンタクトは洗濯物に紛れていたんです。……ということに、洗濯が終わってから気づきまして。今日の昼間、山で転んで、服が泥まみれになってしまったので、夜になって洗濯していたわけです。ここの洗濯室はみんな乾燥機能がついてるんですよね」
「はい。あ」
「そう、乾燥が終わった服を取り出してみたら、干からびたコンタクトが床にポロリと落ちまして。ああ、やっちまったと……それで叫んでしまったんです」
「ああ……」
「はい。だから、もうレンズは見つかっているんです」
「そうでしたか……」
「そうなんです。レンズを買った店によると、まだ保証期間中だから、干からびたレンズを持って行けば交換はしてもらえるみたいなんですけど。でも、そんなこと関係なく、叫び声がつい口からほとばしってしまいました。お騒がせしました」
「いえ、あの。すみません、なんだか失礼な感じになってしまって、俺」
「いや、いいんです。『コンタクトォー!』なんて叫び声上げてる時点で、人から何か言われるに決まってるのに、つい叫んでしまった私もアレなので」
「いや、そんな」
しゃがんだまま、お互いに頭を下げ合った。
そののち、ゆるゆると立ち上がった渡瀬が「ではこのコンタクトは誰のものなのだろう」という、元の疑問に戻ってコンタクトの入った袋を見つめていると、やはりのろのろと立ち上がった餅居がさらに言った。
「そのコンタクトはソフトですよね。私がなくしたのはハードレンズですから、何にしても違いますね」
「はい。すみません」
「いえ、かまいません」
確かにおかしい気はしていた。
渡瀬がレンズを拾ったのは昨日だというのに、今日になって叫んでいるのはおかしい。おかしいといえば、「コンタクトぉー!」と叫ぶこと自体がおかしいのだが、それを言いだすとキリがない。
証言した女生徒は、
「昨日、カメラマンの人と一緒にいたときに、先生がコンタクトをなくしたんだよ、きっと。そのあと先生メガネかけてたし。でも今日はメガネかけてなかったんだよね……。がんばって裸眼で見てたのかも。だから、カメラマンの人は今日も先生のレンズを捜してたんじゃないかな。で、見つからなくて、涙とともに『コンタクトぉー!』って叫んだんだよ、きっと」
という推理を披露していたが、今となっては珍推理以外の何物でもない。
渡瀬はため息をついた。
聞いたときは、すごく説得力があるような気がしてしまった。
ため息をついた渡瀬に、餅居は気遣うように言った。
「たぶんソフトレンズの人ですよね、落とし主は」
「そうですね……。あの、俺はコンタクトしないのでわからないんですが、ソフトレンズ……を、落としますかね」
「私もソフトレンズは使いませんが、どうなんでしょう、ハードよりは落としにくいとは聞きます」
「ですよね」
とはいっても、実際にソフトレンズが落ちていたのである。
一般的な落としやすさ指数は関係ないのかもしれない。
「洗濯室ですよね、ここ」
餅居が、周囲を見渡しながら言う。
「ええ」
「洗濯しに来た人が落としたんですかね。というと、学校関係者だと先生のうちの誰かでしょうね。生徒はここ使わないですよね、そのためにいつもジャージ着用を義務づけられてるみたいだし。先生でなければほかのお客さん、ですかね」
「ああ、そう言われればそうですね……。どなただとしても、落とした人がフロントに問い合わせてくれるといいんですが」
「まさか、コンタクトが遺失物として届けられてるとも思わないかもしれませんね」
「それはありそうですね……」
確かにフロントに「コンタクトを落としました」とは言い出しにくいかもしれない。
なぜ自分はコンタクトを見つけてしまったのだろうか。
しかし、見つけてしまったからには遺失物として扱わなければならない。
今いる客が帰ったら、ほぼ確実に落とし主は見つからないだろう。
……なぜ自分はコンタクトを見つけてしまったのだろうか。
渡瀬が、考えても仕方のないことをぐるぐる考えていると、床に光るものが見えた。
それ自体が発する光ではなく、洗濯室の照明を反射している光に見える。
何だろう。
渡瀬はその、光る小さな何かに近づいた。
しゃがんで、よく見てみる。
「……」
コンタクトだった。
またしてもコンタクトを見つけてしまった。
なぜ。
なぜ自分は、見つけても厄介なだけのコンタクトレンズを見つけてしまうのか。
「どうしました」
渡瀬が床の上のレンズを見なかったことにしようかどうしようか迷っていると、背後から餅居の声が聞こえた。
「いえ、あの、何でもないです」
「何か落ちてますね」
「はい、あの、えっと」
餅居は渡瀬の横に並ぶと、ヒザに両手を当てながら上体をかがませ、床を見た。
その姿勢で、渡瀬の視線を追って、床を見る。
「あ、コンタクト」
見つかった。
もはや、見なかったことにはできない。
「はい……。2枚目、ですね」
「増えましたね……」
渡瀬は、床に向かって、人差し指を伸ばした。
床に落ちたコンタクトを指に載せると、ため息をついた。
1枚でも落とし主が見つからないというのに、2枚。
いや、枚数が多いほど落とし主が見つかりやすくなるのだろうか。
どうなのだろう。
よくわからないが、放っておく訳にもいかない。
渡瀬はコンタクトを前に、もう一度ため息をついたのだった。
(おわり 18/30)
ハイド&シーク
「あ、剥がれてる」
「あ、ほんとだ。剥がれてる」
ジャージのふたりは、靴下を脱いで、お互いの足の爪(につけた塗料)についての感想を述べ合った。
植矢高校の「オリエンテーション合宿」(4泊5日)2日目の夜だった。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」第2棟の一室である。
イルズク第3棟には3人部屋と4人部屋があったが、第2棟にはふたり部屋しかない。
この部屋にいるのは、
「せっかくうまく塗れたのに……」
佐凪は落胆した。
おそらく昼間の山歩きの際にであろう、ペディキュアの一部が剥がれてしまったのだ。
ジェルネイルやネイルアートなどを施さない、手軽に塗れて気軽に落とせる素朴なペディキュアだったが、ふたりにとっては冒険だった。
手でも足でも、爪に色を塗ることは、校則で禁じられているからである。
足ならば誰もチェックしないだろう、バレないだろう、との思いから、佐凪は足の爪にネイルカラーを塗ってきた。
色は違えど、同室の水希の足の爪にも色が塗られているのを発見したときに、ふたりのあいだに絆が生まれた。
ペディキュア同盟である。
校則で爪に色を塗ることは禁じられていたが、スマホは禁じられていない。写真が撮れなくなるからである。
いまどき、合宿で写真を撮ることを禁じるのは、人権的な問題があるのではないか。
そんなことを学校側が思っているのかどうか生徒側には不明だったが、とにかく合宿では、スマホだけは自由に使えた。
「でもインスタとかに上げたらダメだよね~」
佐凪が携帯を片手に、水希に向かって問う。
「ダメだろうねぇ。全世界に校則破りを公開してたら、絶対誰かに見つかるし。見つかってチクられるよね~」
「だよね~。そういうエンタメだよね~。調子に乗った校則破り犯をボコボコにするっていう」
「社会的にボコボコにね」
「そうそう」
山歩きで疲労していたため、ふたりともぼんやりしていた。
ノックの音が響く。
「……」
ぼんやりしながら会話していたため、ノックの意味を理解するのに時間がかかった。
「点呼です。ドアを開けて」
ドアの向こうから声が聞こえる。
ふたりは顔を見合わせた。
靴下を履いている時間はあるだろうか。
「佐凪さん、水希さん。ドアを開けて」
時間はない。
そう判断した佐凪と水希は、手に携帯を持ったまま、素早く動いた。
隠れたのである。
水希「隠れなくてもよくね?」
隠れた場所から、交換したばかりのLINEでトークする。
佐凪「ほんとだな! てか、これじゃ先生部屋に入れなくね?」
水希「まさかドアこじ開けたり」
佐凪「えぇ……」
LINEで、お互いがどこに隠れたのかもわからぬまま会話していると、部屋の鍵を開ける音がした。
水希「マスター!」
佐凪「キー!!」
佐凪と水希は、LINEで悲鳴を上げた。
水希「マスターキーで入って来ちゃったっぽいんだけど」
佐凪「あー怒られる。怒られるやつだこれ。めっちゃ怒られるやつ」
水希「えっちょっと、マジこわ、今、目の前通った」
佐凪「私のとこは大丈夫……」
水希「え? てか佐凪、どこ隠れてんの? 教師、部屋中探してるけど」
佐凪「ふっふっふ……、さあどこでしょう!!」
「……」
水希は携帯の画面を見つめた。
しばし考えたが、イラッとした気持ちは変わらなかったので、アプリを終了させた。
どうせ佐凪はすぐに見つかるだろう。
そう思ったのである。
結果から言うと、すぐに見つかったのは水希だけだった。
部屋の入り口にあるクローゼットに隠れていたのである。
水希はその後、ひとしきり教師から小言を食らった。
そのあと、教師に、佐凪の居場所を問いただされた。
「さあ。わかりません」
知らなくてよかった。
知っていても隠しただろうが、知らなければチクりようがない。
水希は内心ほっとしながら、その後も、佐凪の居場所は知らぬ存ぜぬと、本当のことを言い続けた。
その場には、点呼に回っている教師ふたりとは別に、もうひとり人間がいた。
その人間は、教師が部屋の中を捜し回り、その後、水希に詰めよっているあいだ、部屋のドアの外に所在なさげに立っていた。
マスターキーを使う関係上、ここに立ち会った宿泊施設のスタッフだろうか。
(グッドルッキングあんちゃんだな)
水希が密かにそう思っていると、そのグッドルッキングあんちゃんが口を開いた。
「えっと、これだけ探してもいないってことは、外ですかね。俺、外見てきます」
そう言うと、その場から立ち去った。
その言葉を聞き、教師が部屋の窓を開け、窓の外をチェックしたが、やはり佐凪は見つからない。
(どこ行ったんだ、佐凪)
水希はにわかに不安になり、携帯で連絡を取ろうと思ったが、教師の目が気になった。
なかなか佐凪と連絡が取れない。
「水希さん、ほんとに佐凪さんの居場所、知らないの?」
ふたりの教師のうちのひとり、音田教諭が水希に向かって尋ねた。
水希は、今夜何度目かわからない言葉をまた繰り返した。
「わからない」
「LINEは?」
「知らない」
そこだけ嘘をついた。
まずい。
嘘をつくと、だいたいバレる。
時間が経てば経つほど、しゃべればしゃべるほど、バレる確率は上がる。
(もう、このあとの予定は風呂入って寝るだけだし、早く出てきてくれねえかな佐凪)
水希はこの場の緊張感が面倒くさくなり、そんなことを思い始めていた。
その後も佐凪捜索は続いたが、部屋の中にも、部屋の周囲にも佐凪はいなかった。
「まさかとは思いますが、何か犯罪に巻き込まれたとか……」
「まさか」
「いえ、まさかとは思いますが」
不穏な空気が部屋に流れ始めた。
水希は不思議な気持ちになった。
ペディキュアを隠すつもりで、思い思いの場所に隠れたはずだった。
その佐凪が、なぜ犯罪に巻き込まれるのだろう。
どこからやってきた犯罪なのだろう。
教師たちは、いったん廊下に出てひそひそと相談し始めた。部屋の中に取り残された水希は、こっそり携帯をチェックしたが、佐凪からの連絡はない。
水希はLINEを送った。
水希「佐凪、今どこ? 教師、すんごい探してる」
返事はないだろう……と、水希は予想していたが、予想に反してすぐに返事が来た。
佐凪「見つかった。今戻ってるとこ。足が超寒い」
見つかった。
水希は、自分で思っていたよりも安堵した。
隠れている佐凪のために、「見つからなければいい」という願望も心のどこかにはあったが、それよりも佐凪が無事に戻って来れるほうに安心したのである。
だが、このことを教師に知らせてしまうと、「LINEを交換していない」という、水希のささやかな嘘がバレる。佐凪が見つかったことは言えない。
しかし、佐凪が戻ってくるまで、事態が大事にならないように教師たちを引き留めたほうがいいのだろうか。
水希は、廊下で話し込んでいる教師ふたりに近寄った。
「警察に知らせるべきでしょうか」
「時間が遅いですが。その前にほかの先生たちにご意見伺ったほうが。でも急いだほうがいいですよね」
「警察」という単語に驚き、水希は口を挟んだ。
「ちょっ、先生」
「なに。水希さんは部屋に戻って」
「いや、ちょ、警察はちょっと」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう。いいから部屋に戻って」
「えー、あーの、音田せんせー!」
「何ですか」
点呼に回っていたふたりのうち、名指しされたほうの教師・音田が、深刻な顔のまま水希のほうを向いた。
「そのメガネ、かわいい。昼間メガネじゃなかったのに、なんでメガネ? 目の調子悪いとか? 温泉入ったら?」
水希が口から出任せを言うと、音田は顔をしかめて言った。
「温泉じゃないのよ、この旅館の風呂。大浴場はあるけど温泉じゃないのよね。いや、そういうことじゃなく」
「わかってるよ。たぶん大丈夫だよ、佐凪は」
「そうだといいよね、いいからもう部屋に戻って」
「でも音田先生、メガネかわいいのはほんと」
「ありがとう。コンタクトなくしただけなんだけど」
「え。あら」
「ワンデーだから特に困ってもいないけどね。ビックリするくらい吹き飛んだ、コンタクトが。実は昨日も飛ばしちゃったのよね。たぶん私、最初に目に入れるほうのレンズを裏返しのまま入れしまうクセがあるんじゃないかと……。ってそれはどうでもいいんだけど」
「どこでなくしたの?」
「それ今関係あるの……、洗濯室で。さあもう、あなたは部屋に入ってて」
「え、ずるーい。先生だけ洗濯してたの? うちら、ずっと同じジャージ着てるのに」
「だから合宿のあいだだけ、中の体操着はTシャツでもいいことになってるでしょう」
「そうだけど……。あ、佐凪」
「え」
廊下を、こちらに向かって歩いてくる佐凪が見えた。
その後ろから、先ほどの宿泊所のスタッフらしき男、グッドルッキングあんちゃんが付き添っていた。
あの人に見つかったのか。
ということは、佐凪は外にいたのか。
水希は、口には出さず、そんな感想を抱いた。
「佐凪さん! どこに行っていたんですか!」
「まあまあ、音田先生。見つかってよかった」
「……」
佐凪は、震えていた。
歯の根が合わずにガチガチと音を立てる。
「ざ、ざぶい……」
ガチガチいう歯の隙間から、それだけをポツリと言った。
「……」
謎に凍える佐凪を見て言葉を失ったあと、教師ふたりは佐凪の後ろにいる宿泊施設のスタッフを見た。
「コートも着ずにジャージだけで、しかも裸足で外にいたので、まあ凍えますよね……。まだ外、雪が残ってるとこもあるし」
彼はそう言った。
確かにそうかもしれない。その場が、納得したような空気になった。
そのあと教師ふたりは、合宿に引率として参加している養護教諭の元へ、佐凪を連れて行くことになった。
水希は、宿泊所のスタッフが言った「裸足」と言う言葉に反応して、佐凪の足を見た。
素足に、どこで借りたのか、スリッパを履いている。
今は爪が隠れているが、いずれ養護教諭にはペディキュアが見つかってしまうだろう。
(こりゃ、お説教は確実だね)
校則を破っている時点で説教は最初から確実だったが、さらに隠れた分、さらに外に出て行方知れずになっていた分、さらにその行動で凍えた分、いろいろなものが上乗せされた説教を食らうだろう。
水希は天井を仰いだ。
水希は、佐凪が本気でかくれんぼをやっていたことを理解していた。
かくれんぼは、本気で隠れるものじゃない。
水希はそう思っていたが、本気で隠れる佐凪のことを嫌いだとも思えない。
生徒の立場で、教師相手に本気のかくれんぼをしても、怒られるだけだ。
本気でかくれんぼをするなら、大人になってからのほうがよさそうだ。
いつか。
いつか誰にも怒られない大人になったら。
大人なのに、佐凪が本気でかくれんぼをしたがるときがやってきたら。
(付き合ってやってもいいかな)
佐凪はブルブル目に見えて震えながら、教師ふたりに付き添われて階段を下りて行く。
(ま、いい年こいて、本気でかくれんぼなんてしたくなるわけ、ないけど)
階段から見えなくなる佐凪の後ろ姿を見送りながら、水希は少しだけ笑みを浮かべた。
(おわり 17/30)
元の顔に戻れるのか
甘木は目を疑った。
卒業アルバムをもう一度見て、それから目の前にいる渡瀬の顔と見比べた。
違う。
顔が違う!
ことの起こりは、甘木と渡瀬、ふたりが働く宿泊施設「ログキャビン・イルズク」に、渡瀬の叔母・充香が泊まりに来たことだった。
叔母自身が主宰する「Fake flowers」という地域のサークルの慰安旅行で、イルズクに宿泊しているのである。
実家を飛びだした渡瀬が、地元であるこの町に戻り、イルズクで働き始めたのは2年前のことだ。
そして、すぐに叔母に見つかった。
叔母は強運の持ち主で、渡瀬はハズレを引くことにかけては、他の追随を許さぬハズレ運を持ちあわせていた。
つまり、見つかったのは偶然である。
しかし叔母は、渡瀬の希望を聞き入れた。
実家に居場所を教えないでくれ、という希望を。
そのかわりに、叔母は、なにかというとイルズクに泊まりに来るようになった。
叔母の目的が何なのかは渡瀬にはよくわからなかったが、とにかく渡瀬の希望は聞いてくれている。
渡瀬は実家に戻る気はなかった。
戻ることは許されないと思っていた。
そんな渡瀬の事情とは関係なく、昼ごろ、イルズクでは雷が原因の停電が起きた。
停電とはいっても、非常灯がついていて、廊下も室内も真っ暗ではない。
その中で、渡瀬は上司の加藤とともに、客室を回り、現在の状況を説明して回った。
その中には叔母の泊まる部屋も含まれていた。
叔母は、説明を聞き納得すると、渡瀬を呼び止めた。
そうして、封筒に入った重い何かを渡瀬に手渡して言ったのだった。
「テレビ見てるとさ、犯罪を犯した人は、みんな小学校とか中学校の卒業アルバムと文集を勝手にさらされるそうだよ。あんたも気をつけるんだよ。『今、何かやらかすと、これが日本中に報道されまくる』って常日頃から自分に言い聞かせな」
封筒の中身は、小学校と中学校の卒業アルバムと文集だった。
ろくに荷物も持たず実家を飛びだした渡瀬は、それらを実家の自室に置きっぱなしにしていた。ホコリをかぶったアルバムと文集を、なぜか叔母は発掘して、宿泊施設に持ちこんでいたらしい。
渡瀬に犯罪を犯す気はまったくなかったが、周りから見ると、いつか何かをしでかしそうに見えるということなのだろうか。
しかし、なぜ停電時に渡すのだろう。
そう疑問に思った渡瀬が叔母本人に尋ねると、
「おまえの顔を見て『そういえば』って思いだしたんだよ」
とのことだった。
いつものごとく、渡瀬には叔母が何を思っているのかよくわからなかった。
わからないまま、渡瀬は重い封筒を受け取った。
幸い、数時間で電気は復旧した。
泊り客への説明が終わったため、渡瀬は加藤と別れてスタッフルームに向かっていた。
卒業アルバムと文集の入った封筒を持ち、1階の廊下を歩いていたときだった。
廊下の照明が数秒間消えた。
思わず渡瀬は天井を見上げ、立ち止まった。照明がまた点灯した。
非常用ではない、通常の照明で、廊下がいつもの光に照らされた。
停電が終わった。
渡瀬はそう思いながらまた歩き始め、階段を下りた。
1階の廊下で、甘木と出くわした。
出くわしたのが従業員用のトイレの脇だったせいなのか、辺りにほかの人影はない。
「あ、莉子ちゃ……じゃなかった、甘木さん、お疲れ様」
「お疲れ様~。やっと停電終わって、エレベータ使えるようになった~」
「ワゴン、戻せたんだ。早いね」
「うん。あれ、何持ってるの?」
「あ、これ……、卒アル」
「誰の」
「俺の。叔母が発掘してきたみたいで」
甘木は目をキラキラと輝かせた。
「見たい!」
そして見た。
停電復旧後の廊下にて、アルバムを見たのだった。
そして気づいた。
渡瀬の顔が、中学時代と違うということに。
「なんで? 成長したから?」
「いや、成長してもケツアゴは変わらないと思う」
「ちょっと待って、え? 名前を変えたとか?」
「いや、整形。変えたのは顔のほう」
「……」
驚きの表情のまま、甘木は動きを止めた。
しばらくすると、息を吐き出し、脱力した。
渡瀬は少しだけ不安になった。
自分にとって顔を変えることなど大したことではないのだが、ほかの人間にとっては違うのだろうか。
顔を変えたことが理由で、今まで上手く行っていた、ふたりの関係が悪くなったりするのだろうか。
いや、まさか。
そんなことで気が変わるなんて、自分たちはそんな薄っぺらい関係ではないはず。
渡瀬は、自分を信じることはあまりない、つまり自信があまりない人間であったが、自分が好意を持った人間に対しては、根拠のない信頼をやたら篤く持ってしまう癖があった。
だから今回も、そんなことで嫌われるはずがないという、根拠のない自信があった。
甘木は、そんなに簡単に自分を嫌うような人間ではない、そう信じていたのだ。
が、甘木の反応は渡瀬の思いに反して、好意的とは言いがたいものであった。
甘木は眉と眉のあいだにしわを寄せた、しかめっ面で渡瀬の顔を眺め回した。
そして視線をそらせると、ため息をついた。
その動作を何度も繰り返した。
何度も繰り返されるうちに、渡瀬は悲しくなってきた。
このままでは泣いてしまうのではないかと思ったので、本人に尋ねてみることにした。
「あの……、この顔、気に入らない?」
「え、うん」
はっきりと断言され、なんとも言いようがなくなった渡瀬は黙った。
黙った渡瀬に向かって、甘木はゆっくりと説明を始めた。
「いやぁ、違くてさ。最初から顔が好きではないなと思ってた。けど、渡瀬が好きだったから、顔は別にいいかって」
「……じゃあ、なんで」
顔が好きで付き合っているわけではないのなら、顔を変えていようが何だろうがかまわないはずである。
それなのになぜ、「気にくわない」を絵に描いたような顔に、態度になるのか。
甘木はアルバムを見ながらひときわ大きくため息をついたあと、渡瀬に視線を戻して言った。
「こっちのほうが好き」
「え」
「昔の……、元の渡瀬の顔のほうが、私の好み」
「……ケツアゴだけど」
「それの何がいけないの。パーツじゃなくて、全体のバランスが超好きなんだけど、渡瀬の顔」
「そ、それはどうも」
「いや、昔の渡瀬の顔のほうね」
「今は」
「今ぁ? 今ねぇ……。まあ、好みじゃないなって……」
「……この顔、実はお金かかってるんだけど」
「そうかぁ、無駄だったよねぇ……」
「……」
甘木の言葉に、渡瀬はうなだれた。
なんという。
何という思いやりのない言葉。
でも嫌われたくない。
そもそも当時の知り合いに影響されて整形をしたため、渡瀬は昔の自分の顔が憎いわけではなかった。
憎いわけでもない昔の自分(の顔)を褒めちぎられてよろこべばいいのか、それとも金と手間のかかった今の顔をけなされて怒ればいいのか。
どちらかに感情を振り切ることもできず、渡瀬はぼんやりと床を眺めた。
「だからさぁ……」
うなだれて床を見つめていると、甘木が続けた。
「なんで顔変えちゃったのよって、渡瀬の顔見るたびに思ってしまう」
「……」
「まだわからないけど、これから先もそう思ってしまうのなら私どうしたらいいのか」
どうしたらいいのかわからないのは自分のほうだ。
渡瀬は「嫌われるくらいなら、先に嫌ってやろうか」とチラリと考えた。
先に別れを切り出せば、心が引き裂かれるような思いからさっさと離れられる。
……ダメだ、言えない。
別れなど切り出せない。
甘木と会わない休日をどう過ごせばいいのかわからない。
それだけではないが、それがすべてを象徴しているかのようだと渡瀬は思った。
ずっとうつむいて涙をこらえていたせいで、鼻水が出てきた。
鼻水くらいで甘木が自分を嫌うとも思えなかったが、整形のこともある。
何が甘木に嫌われるのか、もはや渡瀬にはよくわからない、罠だらけの床を歩いている心持ちだった。
とにかく鼻をかもう。
かんだらかんだで、鼻をかんだ紙が汚いだの、手が汚いだの言われるのかもしれなかったが、人からどう見えるか以前に、自分の鼻がむずむずして耐えられそうもなかった。
ポケットからティッシュを取り出そうとした瞬間、鼻水が垂れた。
(あっ)
恥ずかしいような、情けないような、消え入りたい気持ちになった。
「ふはっ」
笑い声が聞こえた。
鼻水を垂らしたまま見ると、甘木が笑っていた。
「ああ、もう、鼻たれてるって……はい、チーン」
渡瀬よりも早く、ポケットからティッシュを取りだしていたらしい甘木が、渡瀬の鼻水をぬぐった。
なんだろう。
なんだろうこれは。
子供扱いなのか。
怒るべきなのかもしれなかったが、そう考えてみるとずっと子供扱いされてきたような気もする。どこから怒ればいいのかわからない。
いや、それはいい。そんなことより甘木の笑顔だった。
莉子ちゃんが笑っている。
ニコニコしている。
かわいい。
いや、そうではない。
「莉子ちゃん、機嫌直った?」
職場では名字で呼ぶことにしていたことも忘れ、渡瀬は尋ねた。
辺りにだれもいないせいなのか、甘木もそれをとがめなかった。
かわりに、甘木は、器用にも顔を瞬時に真顔に戻して言った。
「いや、それとこれとは別」
わからない。
甘木の考えていることがよくわからない。
渡瀬は、甘木にその後も鼻をティッシュで優しく拭かれながら、よりいっそう困惑を深めたのだった。
(おわり 16/30)
春のカミナリ
窓の外がビカビカと光るとほぼ同時に、すさまじい雷鳴がとどろいた。
灯りが消える。
数秒ののち、照明がついた。非常灯だ。
停電した。
非常用電源に切り替わったのだ。
昼間にもかかわらず、雷のせいなのか、外が暗い。
その影響で屋内も暗かったが、非常灯の明かりが届く範囲は明るく照らされていた。
渡瀬は、トイレにいた。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」第2棟1階の、従業員用トイレである。
天井にある、非常灯がひとつ、トイレ内を照らしていた。
隅のほうはやや暗い。が、何も見えないほどの闇ではない。
渡瀬が用を足し、ウォシュレットを使い、温水を止めようと、壁リモコンのスイッチを押そうとしたところで、停電が起きた。
イルズクでは、非常用電源は、主に避難目的に使われる。
非常灯や、誘導灯、消火栓の非常電源などである。
それ以外の電化製品は動かない。
動力源を失ったままである。
トイレのウォシュレットも、動かない電化製品のうちのひとつだった。
渡瀬は、ふだんはウッカリしていたが、緊急時に強かった。
ウッカリ者にとっては、だいたいいつもが緊急時なので、停電したくらいでは、いつもより慌てる理由がなかったのだ。
雷が送電線に直撃でもしたんだろうか。
そんなことを思いながら、渡瀬はトイレットペーパーを操って思う存分拭き、ふたつの種類の「パンツ」を上げ、水を流そうとした。
そこで、リモコンが動かないことを思い出した。
正確には、リモコンは電池式なので、動かないのはリモコンではなく、便座のあれこれのほうだ。
一瞬考えてから、渡瀬はしゃがみ込み、便器の斜め右奥をのぞきこんだ。
確か、便器の奥に手動で水を流すためのレバーがあったはずだ。
思った通り、便器の右奥のくぼみにレバーはあった。
ゆっくりと引く。
薄暗い中、手動で水を流す。
そこでもうひとつ思い出した。
ウォシュレットのスイッチが入ったままだった。
このまま電力が復旧したときに、いきなり温水が噴き出すのだろうか。
渡瀬は、立ったまま便座を見つめた。
どうしようかな、と考えながら。
「今、水を流しました?」
ビクリ。
隣の個室からだろうか、渡瀬がいる個室に向けて呼びかける声が聞こえた。
一瞬、体を震わせたのち、渡瀬は、隣の個室とのあいだを隔てている壁のほうを見た。
薄暗闇の中、壁が見えるだけだったが、渡瀬はそちらを向いて声をかけた。
「はい。流し方ですか?」
「そう、そうです。水流すの、どうやるんですか?」
「便器の後ろについてるレバーを引くんです」
「便器。立ち上がらないと無理?」
「たぶん。えっと、去年、便座を総入れ替えしたときに説明されたと思うけど、ゆっくりと引いて、水が出てきたら、よきところで離すんです」
「あ、はい。あの、俺、去年はここにいませんでした。というか従業員ではありません」
「えっ、あ、そうでしたか、すみませ……ん?」
確かここは従業員用トイレではなかったか。
そう思った渡瀬だったが、客が致し方なく従業員用トイレを使う羽目に陥ったのかもしれない、と思い直した。
その途中で停電に見舞われたのかもしれない。
隣の個室から、あちこちにぶつかるような音がしたのちにトイレットペーパーをカラカラ巻き取る音が聞こえ、なにやらもそもそした音が聞こえたのちに、またあちこちに体をぶつけているような物音が聞こえた。
それから、水が流れる音がする。
無事に流れた水の音を聞き、渡瀬はほっとした。
それと同時に、あちこちに体をぶつけるような音はいったい何だろう、という疑問が湧いた。この個室が狭すぎるのだろうか。
個室の寸法は、だいたい横幅80センチ×奥行き140センチほどである。
多目的用の個室は、いちおうあるにはあり、ふたつの個室のさらに奥に設けられていた。
だが隣の個室は、渡瀬が今いる個室と同じ大きさのはずだ。
この個室が狭いということは、なんと言うのか、巨体、なのだろうか。
それとも、単に個室内で暴れているだけなのだろうか。
「安心してください」
隣の個室から声が聞こえた。
「私はパニックにはなっていません」
なんとも返事のしようがなく、渡瀬は自分の感想をそのまま素直に伝えた。
「そうですか」
それ以外に何を言えというのだろう。
渡瀬は、個室から出ようとして、スイッチが入りっぱなしになっている可能性があるウォシュレットのことを思い出した。
一瞬の迷いののち、渡瀬はウォシュレットのコンセントを抜いておくことにした。
電力が復旧したあと、もう一度差しに戻って来なければならないが、復旧とともに温水がほとばしる(かもしれない)と遠くから恐れているよりは、精神衛生上良いだろうとの判断をしたのだった。
「ここら辺は、春に雷って多いんですかね」
個室から出て手を洗っていると、後ろのほうから声が聞こえた。
個室からだ。先ほどの隣人は、まだ個室にいるらしい。
「そうかもしれません。そういえば、冬とか春先によく雷が鳴ったりしてますね」
渡瀬は、手を洗いながら答えた。
鏡越しに個室の扉を見るが、個室の主が出てくる気配はない。
出てくるのは声のみだった。
「春雷ってやつですかね。春を告げる雷。冬のあいだ地面の中にいた虫が、雷にビックリして出てくる」
「ああ、そうなんですかね」
渡瀬は、特に雷に詳しいわけではなかったので、曖昧な返事をするほかない。
トイレにある窓から、空が光るのが見えた。
「今光りました? わっ、すごい音」
辺りに、地の底に響くような雷の音がとどろく。
「こわぁ。もう、こわぁ。山があるとこって雷が超怖いですよね。雷パワー強いですよね」
個室の主が言う。
そうなのだろうか。
渡瀬は、町を転々と移り住んでいたことがあるが、特に意識して各地の雷の比較をしたことはなかった。
隣の個室の主は恐怖のあまり、落雷のしやすさと、雷の電圧の強さを混同しているのだろうか、と思ったが、確かなことを知らないので渡瀬には何も言えなかった。
ひょっとして、個室の主は、雷が恐ろしくて個室から出られないのだろうか。
渡瀬はそうも思ったが、特にできることもない。
雷を追い払うことはできない。
停電を終わらせることもできない。
しかし、黙って立ち去ってしまうと、個室の主は、ここで延々、見えない相手に話しかけ続けることになるのだろうか。
ひとこと言葉をかけてから立ち去ろう、そう思ったとき、個室の主が言った。
「停電ですよね、これ。灯りはついてますけど」
「そうですね。この灯りは、自家発電した電気を使ってますね。避難のための電気なので、ほかの電化製品は使えないんですよね。ご不便おかけしてすみません」
「あ、いえ。苦情ではないんです。ないんですが」
「が?」
「いや、雷、怖いなって……。建物の中にいる限りは安全でしょうけど……」
語尾が消えかかっていた。
よほど不安なのだろうか。
しかし、先ほどまでと同じく、やはり渡瀬にはどうにもできない。
それ以前に、仕事の途中でトイレに抜けてきていたため、戻らなくてはならない。
客がいる以上、この会話も仕事と言えば仕事なのかもしれなかったが、渡瀬のメイン業務は接客ではなかった。
どうすればいいか迷った渡瀬は、とりあえず個室の主に、ドア越しに尋ねた。
「あの、出られない、わけではない……んですか?」
「出られないと言えば出られない」
「どこか体調が悪いとか」
「いえ、体調が悪いと言えば悪いんですけども、雷がいなくなるまでここにいたいという気持ちのほうが強いです」
「えっと、俺にできることは何かありますか?」
「いえ、特に。お気遣いなく」
そう言われて、渡瀬は本来の仕事に戻ることにした。
「では、俺は失礼します。……あの、本当に大丈夫、ですよね?」
「あ、はい。どうぞ仕事に戻ってください」
渡瀬は相手から見えないにもかかわらず一礼すると、トイレを出た。
「あっ。渡瀬。おなか大丈夫? ぴーぴー」
「うん、あの。うん。大丈夫」
イルズク第2棟2階の廊下である。
廊下の中央付近の壁際にワゴンが置かれている。
渡瀬は、ワゴンに置かれたクリップボード……に固定された紙を見ようとした。
渡瀬と組んでいる甘木が、今、どこの部屋のルームメイクをしているのか確認しようとしたのである。しかし、紙で確認する前に、当の甘木が210号室から廊下に出てきた。
「210号室終わったよ、チェック入れといて」
甘木は210号室から回収したのであろう、シーツや枕カバーの類いをワゴンの下段に入れながら言う。
渡瀬は、ワゴンの上のクリップボードとペンを手に取り、210号室の欄にチェックマークを入れた。
「これで今日のルームメイク終わりだね……、ゴメン、俺、ほとんどトイレにいた」
「まあね。ひとりで終えました。ほかの部屋のルームメイクも全部終わったってさ。といっても、まだチェックイン時間まで間があるから、けっこう時間の余裕あったよ、私ひとりでも」
渡瀬はふだん客室整備担当ではなかったが、団体客が立て込んでいる今だけ、ルームメイクのヘルプに入っていた。
しかしヘルプが本当に必要なのかどうかはよくわからなかった。
トイレにこもる羽目に陥った自分を呪いたい気持ちになった渡瀬は、そのトイレで今しがた遭遇した謎の隣人を思い出した。
「そういえば、従業員用トイレにお客さんがいた」
「あ、そうなの。そういえば、非常口から近いよね、従業員用トイレ」
「ああ、それでか。確かに、非常口からだったら、ほかのトイレより近いかも」
甘木が、ワゴンを押しながらエレベータに向かう。
イルズクは、今ふたりがいる第2棟含め、すべての建物が2階建てだった。エレベータ自体は存在するが、客用ではない。
イルズクにあるエレベータは避難用と従業員用を兼ねたもので、停電している今は、非常用電源で動いている。
甘木はエレベータの横にワゴンを停めた。
「停電のときってエレベータ使わないほうがいいのかな。ワゴン運ぶのは、別に緊急の用じゃないし。復電してからのほうがいいかな?」
「ああ、どうだろ……。加藤さんに聞いてみたほうが」
「加藤さんも忙しいからなあ。さっき見かけたけど、今どこにいるのか……。って、渡瀬、そのトイレのお客さんって、放って出てきてよかったの?」
「本人に聞いたら、『大丈夫だ』って言うんで出てきた。しゃべってる声も特に体調悪そうじゃなかったし……」
と言いながらも、渡瀬は少し不安になってきた。
あとで様子を見に行ったほうがいいのかもしれない。
どっちみち、停電が終わったらウォシュレットのコンセントを入れ直しに行かねばならないのだ。
窓の外では、まだ稲光が見えた。
少し経ってから、雷鳴が低く響く。
甘木が窓の外を見ながら言う。
「この停電って雷が原因だよね?」
「たぶん」
「まあ、掃除機は充電で動くし、こっちは電気止まってても何とかなるけど、ほかのとこは大変なのかな。フロントとか。カードの処理とか……、何だろ、電気使ってるよね、たぶん」
「ああ、そうか……。長引かないといいけど」
甘木と渡瀬は、ワゴンを廊下の端に寄せてそこに置いたまま、階段を下りた。
階段にも非常灯はついていて、暗くはない。
階段の踊り場の窓からは、低く垂れ込めた雲が見えている。
「空は相変わらずだけど、もうあまり光らないね。そろそろ終わりなのかな、雷」
踊り場で立ち止まり、甘木が窓の外をのぞきこみながらそう言った。
渡瀬はその横に並び、自分も窓の外をのぞきこむ。
そして、ふと思いだして甘木に問いかけた。
「山の雷のほうが強いのかな。そのお客さんが言ってたんだけど」
「さあ、どうだろ。雷が嫌でトイレにこもってたの? そのお客さん」
「ああ、うん。そう言ってたかも」
「雷、怖いよねぇ。さっき、加藤さんが、『昨日、防災訓練をやったばかりなのに』ってブツブツ言ってた。自家発電機に問題ないのは昨日の訓練でわかってたけど、『試験運転後、こんなにすぐ使うことになろうとは』って」
「ああ。ここら辺、雷多いわりに、ふだん停電ってあまりしないよね」
「うん。で、配電盤とかで雷サージ対策はしてるから、客室の電化製品が壊れることはないだろう、とも言ってた。それ言われて思ったけどさ、寮はどうなんだろ。寮で暮らす勢としては、寮も心配なんだけど」
「あ、そうか。というか、うわぁ、俺、寮じゃないけど、俺もうちが大丈夫か心配になってきた」
「コンセント差してなければ大丈夫だろうけどね」
「うん……。差しっぱのが何個かある。機械は雷が苦手なんだな……」
しばしふたりで話していたが、停電が終わる気配はなかったため、ふたりとも階段を下り切り、1階のスタッフルームに戻った。そこにいた加藤の指示を仰ぐ。
1時間ほどして、イルズクは停電から復旧した。
雷のせいなのか客は数えるほどしか来ず、電気がなくともできる仕事も終えてしまい、渡瀬と甘木は、スタッフルームで待機していたところだった。
リネンルームにワゴンを戻しに行く甘木を見送ると、渡瀬は再び従業員用トイレに向かった。
機械は雷が苦手。
先ほど自分が言った言葉を、心の中で反芻する。
それから、雷を恐れていた隣の個室の主の声を思い出す。
個室の主は、機械ではないはずだが、姿を見ていない渡瀬には確信がなかった。
停電が起きて、非常用電源に切り替わったのだろうか。
あの個室の主も、また。
コンセントで動く、充電するタイプの巨大ロボットを思い浮かべ、首を振る。
そんなわけはない。
だが、あの、どこかにぶつかるような音。
巨大ロボットがトイレの中で方向転換しようとして壁にぶつかった音だとしたら。
しかし、先ほどからかなり時間が経っている。
普通ならもうトイレから出て行っているだろう。
何かトイレにとどまる理由でもない限り。
トイレで人知れずコンセントから充電していたら停電が起き、身動きが取れなくなったのだとしたら。
渡瀬は、従業員用トイレの前で立ち止まった。
そんなわけはない。
充電したいのなら部屋ですればいい。
トイレのコンセントで充電したいなら、客室にもトイレはついている。
渡瀬は気づいた。
部屋を取っていないのだろうか。
チェックインしている客ではないから、コソコソとトイレで充電する羽目に陥ったのだろうか。
それでは電力泥棒だが、だからこそ堂々と個室から出にくかったのか。
電力が復旧して、充電が完了すれば個室から出てくるのだろうか。
まさか。
巨大ロボがトイレで充電しているなんて、そんなまさか。
おまけに途中で停電になり、充電が完了していなくて個室から出られないなんて。
ありえないと思いつつ、渡瀬は従業員用トイレに足を踏み入れた。
個室のドアはすべて開いていた。
そこには誰の姿もない。
渡瀬は、ほっと息を吐いた。
個室に入り、停電時に抜いたコンセントを再び差し、トイレから出ようとして、入り口付近の洗面台に目が行った。
洗面台の上についている、でっぱりのような棚に何かが置いてある。
小さな紙のメモと、USBメモリだった。
「トイレノナガシカタ オシエテクレテ アリガトウ USBメモリ ツカッテクダサイ」
メモにはそう書かれていた。
「ロボ語……!?」
特にロボ語ではないが、カタカナで書かれているというだけでロボ語のような気がした渡瀬だった。
「トイレの流し方を教えてくれてありがとう」、メモのメッセージは渡瀬に向かって書かれたもののようだった。
メッセージを読んで、メモと一緒に置かれていたUSBメモリは、遺失物ではないと渡瀬は判断した。
メモに、USBメモリの中身の説明はない。
最初に渡せは、イルズクにあるPCで中を見ようとして、何かに感染するのかもしれない、という恐怖に襲われた。
失礼なのかもしれなかったが、その恐怖は去らなかった。かといって自分や周囲の人間のPCで見ると、そのPCが何かに感染するのかもしれない。
そう思うと、どうやっても中身を見られないまま時が過ぎた。
きっと、あのUSBメモリには。
渡瀬は、その後、USBメモリの中身に思いを馳せる機会があるたびに思った。
きっとあのUSBメモリには、ロボットのためのアプリが入っているに違いない。
いや、USBメモリ自体が、ロボットの体の一部なのかもしれない。
お礼のために、体の一部をくれたのかもしれない。
そう思って、渡瀬は今日も、中身が謎のままのUSBメモリを外から眺めて満足するのだった。
(おわり 15/30)
アイ・マミエル、リネンルーム
「あのー」
「ほわっ」
背後から突然声をかけられ、甘木莉子は飛び上がるほど驚いた。
リネンルームで、棚からクリーニング済みのリネン、つまりシーツや枕カバーをワゴンに移そうとしていたところだった。
時刻は午前11時。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」では、これからルームメイクをする時間帯だった。甘木は、その準備をしていたのである。
「な、なんでしょう」
驚きがまだ収まらないまま、甘木は突然リネンルームに入ってきた男性に尋ねた。
男性は、イルズクのスタッフではない。
客だ。
イルズクには、客室棟が3棟、そして土産ものなどを作るための工房がひとつ、そして体育館、全部で5つの棟があった。
といっても、建物ひとつひとつは2階建ての、こぢんまりとした宿泊施設だった。
イルズクには制服がなく、動きやすい、ラフな私服で皆働いていた。作業をする際にはエプロンなどを身につける。
だから制服でスタッフかどうか見分けることはできない。
とはいえ、さすがに同じ宿泊施設で働く人間の顔は覚えている。
甘木は、リネンルームの闖入者の顔に見覚えがなかった。
しかし、顔には見覚えがないのにもかかわらず、どこかで見たという印象が拭えなかった。
闖入者はスーツを着ていた。
スーツの男は言う。
「お尋ねしてもいいでしょうか」
「え、あ、はい」
いいのだろうか。
本来、客室の整備をメインに担当している甘木は、接客がメイン業務ではない。
が、こぢんまりとした宿泊施設でスタッフが少ないゆえに、自分の業務外だとも言っていられない。
「人を捜しているのですが」
「……はい」
ごくり。
突然何を言い出すのだ、このスーツマンは。
「こちらに、加藤という名前のスタッフさんはいらっしゃいますか?」
「あ、はい……、あの」
スタッフの名前を教えていいのだろうか。
イルズクには制服がなく、名札着用も義務づけられてはいない。
しかし、加藤という名字の人間はひとりだけではない。
ひとりだけではないなら、言ってしまってもいいような気がした。
「3人おります」
「さ、さんにん?」
「まあ、多いんですけど……」
甘木は、つぶやくように言った。
スタッフのあいだでまことしやかにささやかれている「イルズクは加藤姓の人間を集めているのではないか」「加藤姓だというだけで採用されるのではないか」「同じ姓の人間を集めてイルズクはいったい何をしたいのか」というウワサは、もちろん教える気はなかった。
「何をしたいのか」も何も、単なる偶然なのだろう。
それはウワサしている当人たちにもわかっていることだった。
このまま話を聞いていていいのだろうか。
甘木はどうすべきか、ためらった。
ルームメイクをしなくてはいけない。
客室担当のスタッフは甘木のほかにもいて、甘木がリネンを運んでくるのを各フロアで待っているはずである。
フロアと言っても建物が2階建てのため、待っているのもふたりだったが、待っていることに変わりはない。
そもそも、なぜスタッフ以外立ち入り禁止のリネンルームに客が入り込んでくるのだろうか。
接客がメイン業務ではない甘木が、こんなところで客とふたりきりで話していることが職場の誰かにバレたら、サボっていると思われるのではないか。
さらにいうと、甘木は女性である。
客に対して失礼な感想なのかもしれなかったが、甘木はこの状況が少々怖かった。
フロントで聞いてもらいたい。
甘木は、思っても仕方のないことを思った。
フロントに行ってもらおう。
甘木はそう決断すると、それをそのまま言葉にした。
「フロントにひとりいます、加藤が。その加藤が、お客様のお尋ねの加藤さんどうかはわかりませんが、そちらで聞いていただければ」
「フロント、に」
「はい」
正確には、その加藤はフロント担当ではないので、いつもフロントにいるわけではない。
だが、フロントにいることは多い。そこにいなくとも、フロントで加藤を呼び出すこともできるだろう。
イルズクは規模の大きなホテルではないために、ひとりが何役か兼ねている場合が多い。
フロントによくいる加藤は、フロントとコンシェルジュと備品管理とが混じったような役割をしている加藤だった。
営業もかねていることがあるため、たまにスーツを着ている。今日もスーツを着ていたはずだ。
スーツマンはスーツマンに任せよう。
と、甘木が思ったわけではないが、結果的にそういうことになりそうだった。
しかし、そのスーツの客はフロントに行くどころか、リネンルームから出て行く気配を見せない。
「あいつがフロント」
「え」
「フロントができるような感じじゃないんです、捜してる加藤は。接客業というイメージじゃなくて」
甘木はリネンルームの壁にかかった時計をチラリと見た。
視線をスーツの客に戻すと、男は甘木を見ていなかった。ぼんやりと自分の足元を見つめながら、考え込んでいる。
甘木はもう一度時計を見た。
スーツの客がこちらを見ていると確信するまで時計をガン見した。
たっぷり時間を掛けて時計をねめつけていると、スーツの男がようやく何かに気づいたようだった。
「あ、すみません、お仕事中に。いえ、捜してるのは身内で。今までフロントであいつを見ていないし、それ以前に俺が知ってるあいつは要領が悪くて、とても接客に向いてると思えなくて」
「……」
なぜ身内を、見ず知らずの人間の前でこきおろすのだろうか。
甘木にはその気持ちがよくわからなかったし、接客業に向いていないのはおそらくスーツの男も同じなのだろうという予感がした。
一族みな、多かれ少なかれ似た部分を持っているのだろう。
が、そんな感想をわざわざ口に出すことはなかった。
「申し遅れました、私は社員研修でイルズクさんを使わせてもらっています、トラーリ株式会社の加藤と申します」
唐突に加藤による自己紹介が始まった。
ポケットをごそごそしているのは、名刺を捜しているのだろうか。
見つからないでほしい。甘木は名刺を持っていない。そもそも接客や営業担当ではないのだ。
「甘木です。主に客室の整備を担当しています」
甘木は、とりあえず挨拶を返した。
「あの、今、あいにく名刺を切らしているんですけど、すみません。今お仕事中なのはわかってるんですけど、仕事が終わったあと、話とかできませんか?」
「あ、すみません、私好きな人がいますので、そういうのはちょっと」
甘木は反射的にそう返した。
時間がないのである。
そういう意味で誘っているのかいないのか、断ることが失礼に当たるのかどうかを考えている余裕がなかった。
これといった定型お断り文句を思いだせなかったために、少しずれた定型お断り文句を言ってしまった気が自分でもしたが、まさかこれを真に受ける者もいないだろうと甘木は思っていた。
「あ、え、いえ、そういう意味ではなくて、加藤さんについてお尋ねしたかったんですが」
真に受けたのかどうかは不明だったが、目の前の加藤は食い下がった。
「あの、フロントで聞いたほうがいいと思います。お捜しの加藤さんがフロントの加藤ではなかったとしても、フロントの加藤がほかの加藤についてお話しできるかもしれません」
「いえ、まあ、そうなんですけど。俺は甘木さんに話を聞きたくて」
なぜ。
なぜ私なのか。
甘木はそう思ったが、特に悪い気はしなかった。
ずっと思っていたことだったが、目の前の加藤というスーツマンの顔が好みだったのである。一般的に言われるようなイケメンではない。
だが、甘木の好きな顔だった。
しかし、それとこれとは話が別で、時間がないことに変わりはなかった。
仕事をしなくてはいけないのである。
甘木がリネンを積み終わったワゴンに手をかけ、どう切り出したものか考えていると、加藤が慌てたように言った。
「あの、じゃ、すみません、最後にひとつだけ」
「なんでしょう」
「甘木さんが好きな人って、3人の加藤のうちのひとり、ですか」
「……」
甘木は息をのみ、目の前のスーツの加藤を見つめた。
なぜわかったのだろう。
スーツの加藤は、甘木が口から出任せを言っていると思えば思えたはずなのに、そうは思わなかったのだろう。甘木は本当のことを言っていると判断した。そしてそれは当たっている。
甘木の表情で答えがわかったのか、加藤はにこりと笑った。
「いえ、わかりました。お邪魔してすみませんでした」
「あの、ちょっと待って。いえ、そうなんですけど、あなたは……」
甘木の思い人、の、身内、なのだろうか。
突然そんなカンが働き、甘木はリネンルームを出て行こうとした加藤を引き留めた。
甘木の言葉に、出ていこうとした加藤は、ドアに開ける前に足を止めた。それから振り返ると、考えながら言葉を紡いだ。
「どんなやつです? そいつ」
「えっ。えーと、確かになんというのか、台風の目のような人で、接客に限らず、生きることに不器用な感じではあります」
スーツの加藤はうなずいた。
「だけど、ハデ好きで」
そこで、スーツの加藤は絵に描いたような「あれっ?」という顔をした。
甘木は、視線をスーツの加藤から外し、宙を見ながら話題に上っている人物のことを考えていたため、加藤のその表情に気づかず、話を続けた。
「いえ、本当にハデ好きなのかどうかは聞いたことがないので、わかりません。ただ、ハデな服が好きなのかなぁって思ったことがあって。あと、ハスキーボイスです。それで、ものすごくきれいな二重まぶたで」
目の前の加藤は、ものすごくきれいな一重まぶただった。
身内で顔が似ていないこともあるだろう、甘木はそう思いはしたものの、顔の印象があまりにかけ離れていることが、少しだけ気になっていた。
「それは……、すみません、俺の早とちりだったかも」
「あ、はあ。お捜しの加藤さんとは違いますか」
「うーん、たぶん。あれ……なんだろう、これ」
加藤はひとりブツブツとつぶやいた。
どうやら違っていたらしい。
甘木こそ「なんだろうこれは」と言いたい心境だったが、今、そんなことを言っている場合ではなかった。
加藤は、最終まとめのような感じでひときわ心を込めて謝ると、ドアを開けてリネンルームから歩き去った。
その加藤のうしろ姿を見ていて、甘木は気づいた。
歩き方だ。
歩き方が甘木の思い人に似ているのである。
それでスーツの加藤が部屋に入ってきたときに、どこかで見たような印象を受けたのだと気づいた。
「……」
しかし、それが何だというのか。
スーツの加藤は、甘木の思い人の特徴と、捜している自分の身内とは違うと言った。
身内ではないということだ。
ならば、なぜ歩き方が似ているのだろう。
甘木の思い人である加藤の下の名前を勝手に出すのはまずいような気がして、ずっと出さないままだった。
もし、目の前のスーツの加藤が、本当は、甘木の思い人・加藤の身内でも何でもなかったら? という疑念があったからだ。
それに、必要ならフロントでフルネームでの人捜しをするだろうと思ったこともあった。
「……」
謎だ。
なんだかよくわからない。
わからないが、仕事をしなければならない。
甘木はしばしぼんやりしたあと、気持ちを切り替えた。
壁の時計を見る。
時間はそれほど経ってはいない。
それでも待たせている。
急がないと。
甘木はワゴンを押して、加藤が少しだけ開けっぱなしにして出て行ったドアを大きく開くと、ワゴンとともに廊下に出た。廊下から身を乗り出し、リネンルームの電気を消す。
そして、それからリネンルームのドアを閉めた。
暗くなったリネンルームは、また静寂を取り戻した。
(おわり 14/30)
はしごの上から見た世界
「では、防災訓練を始めます。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「加藤さん、消防署の方たちは」
「正面入り口と、出火するつもりの部屋に別れて待機してもらっています」
「加藤さん、火をたくの? 発煙筒とか用意してないけど」
「いえ、そういう設定というだけで、火は使いません」
「加藤さん、もう館内放送していい?」
「いえ、非常用電源の試験も同時に行うので、電源が自家発電に切り替わってからでお願いします」
本日は、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の防災訓練の日である。
渡瀬は、イルズク第2棟の燃えさかる部屋から脱出する……という想定で、特に火の気のない部屋から避難ばしごをおろして降りる役目をすることになっていた。
イルズクには2階建ての建物しかなかったため、渡瀬が脱出するのも2階の部屋からである。
それでも渡瀬は緊張していた。
理由はふたつあった。
渡瀬は高いところが怖かった。
たとえ2階建ての低めの建物であっても、はしごで下りることに不安しかなかった。
もうひとつの理由は、自分のうっかりミスの多さを自覚していたからである。
はしごからウッカリ手を滑らせてしまいそうだ。
渡瀬はそんな不安におびえていたが、だからといって仕事を放棄するわけにも行かず、脱出のときを、ドキドキそわそわしながら待つしかなかった。
「渡瀬くん、部屋に移動してください」
加藤が、スタッフルームで気もそぞろになっていた渡瀬に声をかけた。
「は、はい」
気づくと周りにいたスタッフがほとんど自分の持ち場に散っている。
渡瀬は、ギクシャクと手足を動かし、脱出予定の部屋に向かった。
***
「や、やっと着いた……」
杯治たち植矢高校の1年生たちは、学校の「オリエンテーション合宿」で、この宿泊施設「ログキャビン・イルズク」に宿泊していた。
今も集団行動中である。
防災訓練を見守るためにロータリーに列をなしてやってきたところだった。
昨日は、宿に到着したばかりだというのに、さっそく山歩きがおこなわれた。
この合宿に参加しているほぼ全員が、早くも筋肉痛になり始めていた。
おのおのの筋肉が、ちょっとした階段の上り下りなどで他人には聞こえぬ悲鳴を上げる中、杯治たちはようやっと目的地に着いた。
客のすべてが防災訓練に参加するわけではなかったが、杯治の高校は参加することにしたようだ。
参加といっても、ロータリーの隅に集まって、防災訓練をするイルズクのスタッフを見守るだけである。
イルズクの正面入り口前にあるロータリーには、杯治たち高校生だけでなく、自主的に防災訓練を見守ろう、という宿泊客が集まってきていた。
「杯治、おはよう」
その場でやることもなく、列の前後に並んでいるクラスメイトとたわいない言葉を交わし、そのあとは本格的にやることをなくしていた杯治に、声をかけてきた女性がいた。
「おはよう、叔母さん」
列のそばまで来ていた叔母に、杯治は挨拶を返した。
杯治の叔母は、イルズクに、地域のサークルの慰安旅行という名目で宿泊しているらしい。
「なんというか……、ハデですね」
杯治の叔母、不破
「ああ、花の作業しようと思ってたところだからね。作業中は髪が邪魔にならないようスカーフを巻いているから」
叔母はそう言ったが、寒いのか、今もスカーフを外そうとはしない。防寒用も兼ねているのかもしれない。
しかし、スカーフとメガネは作業用だとしても、コートにつけられた、見る者の度肝を抜くような、目を射抜くかのようなファーの色の説明にはならない。
赤、黄、青、グレー、茶、ピンク、オレンジ。
原色だけではない、複数の色に染められたファーがコートのフチを彩っている。
叔母は単にハデ好きなのではないか。
杯治は、うっすらとそのことに気づいていたが、特に何も言わなかった。
「おや、
叔母はロータリーに集まった、あまり多くない人混みの中から知っている人間を見つけたらしく、大きな声で呼びかけた。
周囲の視線が集まる。列の前後が少し距離を置く。
しかし杯治は、特に何も感じなかった。
こういう場面で、恥ずかしいと思う人間もいる、ということを知ってはいた。
自分は、羞恥に関する感受性が生まれつき死滅しているのかもしれない。
杯治は、なんとなくそんなことを思った。
「おはようございます、叔母さん。早いですね」
人混みから、スーツの上にコートを着た叶太が近寄ってきて、叔母に挨拶をした。
叶太は、杯治の兄である。会社の新人研修でイルズクに宿泊しているらしい。
スーツを着ているし、今は仕事中のはずだが、研修の合間の空き時間に防災訓練を見物しに来たのだろうか。
叶太は「見物」という、どことなく不謹慎な単語がしっくりくる不真面目さをまとっている、杯治は兄のことをそう評価していた。
叔母が叶太に返事をする。
「特に早くもないだろう。今から防災訓練だって言うから見守りに来たのさ。渡瀬がいるからね」
「あいつもこの訓練に参加してるってことですか」
「何をやるのかまでは知らないけど、参加はしているだろ、一応職員なんだから」
渡瀬は杯治の兄で、叶太の弟だった。
ただいま家を飛び出て、行方不明の真っただ中である。
その兄が、この訓練で見つけられるかもしれない。
杯治は、少しだけ緊張した。
渡瀬が家を出たのは6年前のことだった。
一番上の兄・叶太は当時すでに大学生だったが、杯治は小学生だった。
自分が生まれる前の家族を撮った動画などを見たことはあったが、自分が渡瀬を見つけたとしても、本人だとわかるだろうか。
杯治は渡瀬を見分ける自信がなかった。
本人の不安が反映されてか、まったく関係ないのか、本人にも自覚はなかったものの、杯治はいつしか、やや列から離れ、叔母や兄と寄り添うようにして立っていた。
もともと列はそれほどきっちりとまっすぐにはなっておらず、ぐだぐだと蛇行していた。杯治の立ち位置が多少変わったところで、注意する教師は誰もいなかった。
消火器がいくつか、ロータリーの中央に置かれた。
それに加え、消火器の的にするのであろう、カラーコーンが、少し離れたところに置かれる。
ロータリーには、消防車が停まっていた。その消防車の近くに、制服を着た消防士が数人、立っている。
あとで消火器を使う何かをするのかな、そう思いながら杯治がイルズクの建物に目を移すと、第2棟の2階の窓が開いた。
ほかの棟でも訓練が始まっているのかもしれなかったが、ロータリーの片隅から見えるのは第2棟の裏の窓だけだった。意外と近くに見える。
窓から顔をのぞかせたのは、杯治が以前にも見たことがある顔だった。
(あのときのイケメンの人だ)
昨日、ロビーで見かけた顔だ。
客が部屋の窓から顔を出した可能性もあるが、その男は直後に、部屋の中から外に向かって、避難ばしごを下ろした。
やはり、イルズクのスタッフなのだろう。
(どこかで見た気がするのは何だろう)
杯治は一瞬そう思い、叔母や叶太の顔を見たが、ふたりとも、特に何の反応もなく訓練を見守っている。
違うのか。
そもそも、渡瀬
杯治はそう自分を納得させると視線を戻し、訓練を見守った。
***
「廊下で出火が起きました。避難してください」
館内放送が聞こえた。訓練はもう始まっている。
ドアを開けて廊下を見ると、「訓練です、火事です」と知らせて回る声が聞こえる。
上司の加藤だった。
加藤は打ち合わせ通り、そのまま渡瀬のいる部屋の中に入ってくると、窓を開け放った。
「渡瀬くん、はしごを下ろしてください」
加藤は、決められたセリフではない言葉を、渡瀬に言った。
実際に火災が起きたときにも、スタッフである加藤がいるのに客にはしごを下ろさせるのだろうか、と思わないでもなかったが、本日は訓練である。
職員が避難用のはしごの下ろし方を知っておくという意味もあるのだろう。
渡瀬は、窓の下の壁のそばに置かれている「避難ばしご」と書かれた箱の扉を開け、中からはしごを取り出した。
窓から顔を出し、下を見てから、調整済みのフックを窓枠に引っかけ、窓の外に下ろす。
あとははしごを下りるだけである。
それだけのことである。
窓から外、特に下を見てから、渡瀬は加藤に言った。
「寒いです」
「わかってます、私も寒い」
「絶対手を滑らせる、そんな予感がする」
「不吉なこと言わないでください。いいから、早く下りて」
「せめて手袋」
「ほんとに火災が起きたら手袋なんてしてる余裕ないから。コートだって取りに行けないから。いいから下りて」
手袋も、コートも身につけている間もなく避難しなければならないほど切羽詰まった火災からの避難だ、という設定を今さら知った渡瀬は、それ以上何も言わず、窓の枠を乗り越え、体を反転させながら、はしごに足を下ろした。
大丈夫だ。
これは訓練だ。
実際に火災は起きていない。
これほど緊張しているのは自分だけだ。
なぜなら、緊張する理由がないからだ。
そう自分に言い聞かせようとしても、渡瀬のはしごを握る手に、冷や汗がにじんだ。
片足を下ろす。
下を見たいが、見ることができない。
それほど厚着をしているわけではないが、自分の体に隠れて、足元が見えない。
上半身をはしごから離しすぎることを恐れて、下が見られない。
それでも渡瀬は、着実に一歩一歩、はしごを下りていった。
途中、はしごの次の段に伸ばした足が、ずるりと滑った。
慌てて、はしごをつかんだ腕で体を支える。
足の位置を、元に戻す。
なぜ。
なぜ冷や汗だらけの手ではなく、靴を履いている足が滑るのか。
気持ちを平静に保たなくては。
でなければ、また連鎖的にウッカリミスをしてしまいそうだ。
そう思った渡瀬は、いったん、辺りを見渡した。
はしごとその周辺しか見えていなかった渡瀬の目に、見慣れた低い山が映った。
すうう、はああ。
深呼吸をする。
山を見て気分を落ち着かせた渡瀬は、はしごに視線を戻そうとして、地面付近をチラリと見た。
「!?」
なんだ今のは。
気のせいだろうか。
もう一度、地面付近を見た。
具体的には、ロータリーの片隅に集まっている、訓練を見守る宿泊客たちのほうを見た。意外と近くに見える。
白と黒の、パキッとしたゼブラ柄のスカーフが最初に目に入った。
目を突きさすような強いコントラストのスカーフの主は、黒いメガネをかけ、世界中にある色を集めたようなファーがついたコートを着ていた。
目立つ。
ハデだ。
叔母だ。
叔母の隣にいるのは、顔を変える前の渡瀬に似た顔の男だった。
渡瀬の兄だ。
叔母の、兄とは反対側の隣にいるのは、弟だろうか。
以前の面影はあるが、あまりほかの兄弟に似ていない上に、しばらく見ないうちに背が伸びている。
叔母と兄のそばに立っていなければ弟には気づかなかったかもしれないが、どういう巡り合わせか、渡瀬は気づいてしまった。
「……」
渡瀬は、黙って視線をはしごに戻した。
なんだろうこれは。
家族旅行でもないはずなのに、なぜ家族、いや、親族が集合しているのか。
向こうは顔を変えている渡瀬には気づかないかもしれなかったが、こちらは気づいた。
なんだろうこれは。
渡瀬は、恐怖を忘れ、先ほどよりも正確に、そして素早く、はしごを下りた。
それよりも気がかりなことができた。
高い所を恐れている心の余裕はなくなっていた。
なんだろうこれは。
なんでみんないるの?
(おわり 13/30)
朝のイルズク散歩(陸上コース~テニスコート)
光がまぶしい。
今、すでに雪はやんでいたが、昨夜のうちに、新たに雪が降ったらしい。
朝から庭のあちこちで、雪かきが行われていた。
その様子を見ながら、志乃枝は早朝の散歩を続けた。
後ろからついてくる男がいる。
年齢は志乃枝と同じくらい、つまり50代中盤くらい。
服装は、スーツの上にベージュのコートを着ていた。
「いつまでついてくるんです、あなた」
「いつまでって……、夫婦なのにそれはないだろう」
「夫婦だからといって、一緒に散歩しなきゃいけないわけじゃないでしょう。私は用があるんです」
「何だ、用って」
「何だっていいでしょう」
「良くない。そんなにめかし込んでどこに行くつもりだ」
志乃枝は、赤い、大輪の花模様が描かれた、足首まであろうかというマキシ丈のワンピースの上に黒いロングコートを羽織っていた。
「めかし込むも何も、旅行にお気に入りのワンピースを持って来たってだけのことです。持ってきたどの服も似たようなものよ。私がどういう格好で朝の散歩をしようが別にかまわないでしょう、放っといて」
志乃枝はプリプリと怒ったまま、スピードを緩めずに散歩を続けた。
ここは宿泊施設イルズクの庭である。
イルズクは背の低い建物が3つと工房と体育館がひとつずつ、そして広大な庭から成り立っていた。
庭には、陸上コースやテニスコートなどがあった。
志乃枝は、雪かき中の陸上のコースを、雪かきの邪魔にならないよう横切ると、相変わらずスピードを緩めずに歩き続けた。
志乃枝の後ろを歩く男は、スピードを緩めない志乃枝に置いて行かれそうになりながら、また追いつき、また引き離され、を先ほどから繰り返していた。
「なんでそんなに怒ってるんだ、志乃枝」
「あなたがここにいるからです」
そう言われた男は、傷ついたような表情を見せ、追いかけるスピードを落とした。
志乃枝は、それを機に、男と距離を広げるために、さらに歩くスピードを上げた。
志乃枝が履いている靴は、雪でも歩ける滑り止めのついた、ショート丈のブーツだった。靴底が複雑な形をしている。
一方、男のほうは滑り止めのついていない革靴だった。
つるりと滑りそうになって、慌てて体勢を立て直す。
男のそんな様子をチラリと見た志乃枝は、ややスピードを落とした。
「足下に気をつけて。転ばれても困ります」
「ああ、わかってる。……俺が心配なのか」
「あなたが入院でもしたら、旅行を途中で切り上げて私も付き添わなきゃいけないでしょう」
志乃枝は、やっと、「常識的」と言えるスピードまで、歩く速度を落とした。
「君の旅行の邪魔をするつもりはなかったんだ、ただ夫婦水入らずの旅行気分を味わえたらなと思って」
「それならそれで夫婦水入らずの旅行をすればいいじゃあありませんか、私とふたりで。私が言いたいのは、なぜついでにやろうとするのかということです!」
志乃枝はぴしりと言った。
あまりにもぴしりと言われ、少しひるんだ夫に対し、志乃枝は言葉を続けた。
「私は地域のサークルの旅行で、あなたは会社の新人研修でここに泊まりに来てるんです。どこに夫婦が水入らずで過ごす余白が残っているんですか。夫婦水入らずは別枠でやったほうがいいじゃありませんか」
「いや、枠とかで区切らなくともいいじゃないか」
「区切る区切らないではなく、ついでにやろうとしないでと言っているんです」
「えええ……。いや、うちの社の新人研修は、数年前、新人社員だったような先輩社員が準備する伝統だから、新人時代なんてもはや『いにしえの時代』と呼ばれてる俺がやることはあまりないし、自由になるというかヒマな時間が結構長くて、だから」
「だから妻の尻を追いかけているのですか、今」
「……」
志乃枝の夫は黙った。
「まあ、そうなんだけど」
そして認めた。
「情けない」
吐き捨てるように志乃枝が言った。
「とにかく、これじゃせっかく旅行に来たというのに家と同じじゃありませんか。なにが悲しくて家の中にいるかのようにあなたにつきまとわれなきゃならないんです」
「つきまとうって……、つきまとうとは何だ、つきまとうとは。夫に向かってその口の利き方は何だ」
「はいはい、失礼いたしました! 夫ですからね! あなたは偉いですからね!!」
周囲の
皮肉であると、伝わるように。
「朝っぱらから大きな声を出すな、家とは違うだろう。同じ部屋に寝起きしてる訳じゃないんだから」
「これを機に、家も寝起きも別にしたい」
「こんなところで、ついでに願望を言わないように」
ため息をつくと、志乃枝の夫は足を止めた。
地面が凍っている。
改めて見ずともずっと道は凍っていたが、改めて見ることで、「ああ、やっぱり凍っているな」という確認ができた。特に意味のない確認だ。
顔を上げると、普通の歩幅で歩く志乃枝との距離がまた広がっていた。
志乃枝は、陸上コースを出て、テニスコートに差しかかっていた。
「テニスができるのね、ここ」
そう言うと、なぜかフェンスを開けて、テニスコートに入って行こうとした。
「おい、どこを歩こうってんだ、雪かきの邪魔になるだろう」
「お邪魔はしません」
志乃枝はさらに歩を進め、そこで雪かきをしていた青年に挨拶をした。
「おはようございます、渡瀬さん」
「あ、おはようございます」
それから、二言三言、言葉を交わした。
夫はそれをフェンスの入り口付近から見て、ふてくされた表情を浮かべていた。
青年との話が終わったのか、志乃枝は夫のほうへ戻ってきた。
「ロビーで加藤さんに昨日の夜のお話を伺って、そのときに渡瀬さんがお手伝いしてくれたと教えていただいたんです。だから、渡瀬さんにお礼を言わなければと思って。加藤さんに、『渡瀬さんはたぶん陸上コースにいる』と伺ったんですけど、実際にいらしたのはテニスコートでしたね」
「ああそう」
経緯がまったく理解できていないため、妻の言葉を半分も理解できていないことを隠そうともせず、志乃枝の夫は返事をした。
これに関しては、志乃枝は特に夫を責めなかった。
わかりにくい説明をしている自覚があったからだ。
これまでの経緯を説明していないのは自分でもあり、夫ばかりの責任でもない。
そのことは志乃枝にもわかってはいた。
「では、戻りますか」
「おい、もうちょっと俺と散歩したっていいだろう」
「あなた酔っ払ってるんですか? このクソ寒い中、誰が好き好んで長時間の散歩をしますか。私は用があったからここに来たんです。最初に言ったでしょ」
「酔っ払いとは何だ、酔っ払いとは。俺はこのためにわざわざスーツに着替えたんだぞ」
「はいはい、スーツをひとりで着られて偉いですね」
志乃枝はそう言うと、夫のほうを見もせず、フェンスから出て宿に戻ろうとした。
志乃枝の言葉にカチンときた夫は、その志乃枝の腕を捕まえ、自分のほうを向かせようとした。
「あっ」
思いもしないタイミングで腕を後ろから引かれ、志乃枝は体勢を崩しかけた。
後ろに倒れそうになる。
しかし、そこで闘志に火がついた。
がん!
地面に激しく打ち付けられた靴が、大きな音を立てた。
志乃枝は何か考えるよりも早く、前に出していた足を後ろに引き、凍った地面の上で踏ん張ったのだった。
複雑な形の靴底で、凍った地面ごと踏み抜く勢いだった。
倒れそうになりながらも倒れなかった志乃枝は、バランスを崩した原因となった夫の腕を振りほどこうとした。
「えっ」
しかし、振りほどく勢いが、自分で思ったよりも強かった。
すでに火がついていた闘志が、腕の勢いを強めていたのかもしれなかった。
今度は、志乃枝の腕を取っていた夫が体勢を崩した。
――転ぶ!
――しかも後ろ向きに!
夫がそんなことを考えて自分の後頭部の心配をしているときには、すでに志乃枝は動き始めていた。
体を低くし、夫の体を抱きかかえるように、支えるように、倒れ込む方向をコントロールした。
ずばっしゃあん!
空が見える。
青空だ。
昨夜は雪が降っていたのに。
夫が雪に包まれながらそんなことを思っていると、志乃枝の怒声が聞こえた。
自分の背後、下からだ。
「ちょっと、重い! あなた、ほんとにいい加減にしなさいよ!」
夫が我に返って体を起こすと、志乃枝が雪山に埋もれていた。
とっさに夫の背後に回り込み、まだできたばかりで柔らかい雪山……、雪山というよりも、ただ雪をふわりと重ねたもの、そこに突っ込むように、倒れる方向を操ったのだった。
「おまえの身のこなしはいったい何なんだ……。どこかのエージェントなのか」
慌てて立ち上がり、志乃枝が起き上がろうとするのに手を貸しながら、夫は言った。
「あなたね、何を言ってるの。私が殺し屋に見えるって言うんですか」
夫に助け起こされながら、志乃枝はプリプリと怒った。
夫の言う「エージェント」という言葉が、「スパイ映画に出てくるような、華麗なアクションを繰り広げるような人間」を指していることは、言わずともわかった。
だからといって殺し屋とは限らなかったが、志乃枝は殺し屋を真っ先に連想したのだった。
夫は特にそれを訂正せず、むしろ志乃枝のその発言に乗っかった。
面白がっているらしい。
「いや、見える、なんかハデだし。ベテランの殺し屋に見える」
そんな夫の心ない言葉を黙って聞き流し、志乃枝はコートについた雪を払った。
そこで何かに気づくと、突然、今まで自分が倒れていた雪山の前にしゃがみ込んだ。
志乃枝は何かを拾った。
志乃枝の様子に気づき、何を拾ったのか見ようと近づいた夫に、志乃枝は自分が今拾ったものをこれ見よがしに見せつけた。
「ミカン?」
雪山の中にミカンが入っていたらしい。
志乃枝はミカンを手に、なぜか勝ち誇ったような笑みを見せた。
黙って皮を剥くと、その場でミカンを食べ始めたのだった。
シャクシャク、シャクシャク。
ミカンは凍っていたのか、志乃枝の咀嚼とともに軽やかな音を立てた。
「お、おい。大丈夫なのかそれ、洗ったりしなくて。というか、それ誰かが隠しておいたものじゃないのか……」
そんな夫の声もむなしく、志乃枝はミカンを食べ終わった。
ひとつ食べ終わると、その皮を持ったまま、次のミカンに手を伸ばす。
雪山にはひとつだけでなく、複数のミカンが隠されていた。
志乃枝が雪山から発見して食べたミカン、その数、4つ。
志乃枝は、食べ終わった4枚のミカンの皮を、自らのコートのポケットから取り出したティッシュに包むと、それをまたポケットに入れ直した。
「もういいでしょ、ケンカの続きは家に帰ってからやりましょう」
謎のミカンを食べ終えた志乃枝は、満足したのかそう言うと、くるりときびすを返して、宿に戻ろうとする。
どんどん距離が離れていく志乃枝のうしろ姿に、夫は呼びかけた。
「おーい」
志乃枝は、その声が聞こえないかのように歩き続ける。
「……ありがとう」
ぴたり。
かなり距離が離れていたにもかかわらず、声が聞こえたのか、志乃枝は立ち止まって夫を振り返った。
そして夫のほうを見つめたまま待った。
待たれていることに気づいた夫は、慌てて志乃枝に駆け寄ろうとして、地面が凍っていることを思い出し、慎重に歩みを進めた。
志乃枝のそばまで近寄ると、夫は腕を差し出した。
腕ぐらい組みたくなったのではないか、志乃枝の気持ちをそう想像してのことである。
しかし志乃枝は夫の腕をバシリと叩いた。
「腕なんか組んで、また転んだらどうするのよ。バカね」
「そうか」
また外したのか。
夫は少し悔しくなり、余計なことを言ってみたい気持ちに駆られた。
「雪の季節が終わったら、また来よう。今度はテニスをしに」
「え」
「テニス、したいんだろ?」
「いえ、別に」
志乃枝は真顔でそう答えた。
どうやら本格的に外したらしい。
夫は、もっと志乃枝の戸惑った顔が見たくなった。
さらに余計なことを言おうとして、何を言えば相手が戸惑うのか考えているうちに、当の志乃枝が夫の方を向いて言った。
「テニスはやったことがないし、やりたいとも思っていなかったんだけど……、そうね、また来るというのはいいアイデアね。今度は本当に夫婦水入らずでね」
戸惑う志乃枝の顔が見たくて策を練っていた夫は、自分が戸惑う顔をすることになった。
「どうしたんだ、急に改心したのか」
「ちょっと……、どういう意味ですか。人を悪役のように。私は悪役じゃありません。悪の親玉は、あなたよ」
それからも立て板に水とばかりに、あのときあなたはああだった、このときもあなたはこうだった、というふたりの思い出話をする志乃枝の声を心地よく聞きながら、夫は少し先の地面を見つめて歩いた。
それから宿に戻るまで、ふたりは肩を並べて歩き続けた。
(おわり 12/30)