スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

イルズクへようこそ

「渡瀬くん、2棟213のお客様、チェックアウトしました。ルームメイクのヘルプよろしく」
「は、はい」

 

加藤は、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」第2棟のスタッフルームに入ってくるなり、そこにいた渡瀬に告げた。
スタッフルームからは、渡瀬と加藤以外の人間は出払っていた。

 

今日のイルズクは忙しい。
渡瀬がやっと昼食にありついたのも、いつもの昼休憩の時間を大幅に過ぎてからだった。
その休憩も今、中断することになり、渡瀬は半分ほど食べた弁当のふたを再び閉じて、それから箸をどこに置くか迷った。
結局、もう一度弁当のふたを開け、半分食べた中身があったところに箸を置き、もう一度フタをぐいぐいと閉じ、それからペットボトルの茶を飲みながら立ち上がった。
その様子を見て、加藤が言う。

 

「すみません渡瀬くん、15時前にはルームメイク終えないといけないから」
「そうですよね」
「食事は213の支度が終わってから、もう1回休憩取っていいから」
「はい」

 

イルズクには、第1棟から第3棟までの宿泊のための建物と、工房と体育館、全部で5つの建物があった。
5つの建物それぞれは、すべて2階建ての、こぢんまりとした建物である。
そのこぢんまりとした建物群に、団体客がやってくる。
明日もやってくる。
さらに言えば、明日の団体客は、ふた組いた。

 

本日やってくる団体客は第2棟に部屋を取っていた。
「Fake flowers」という名の、イルズクまで特急で1時間ほどの場所を活動拠点にしている、地域のサークルだった。

 

渡瀬は加藤の指示通り、スタッフルームを出て行こうとした。
ドアのところで振り返ると、加藤は、弁当を手荷物から取り出そうとしているところだった。渡瀬が食べていたもの同様、朝、出勤前に買ってきたコンビニ弁当だろう。
加藤は、コンビニ弁当を取り出して、ため息をついた。
疲れているのだろうか。渡瀬は一瞬そう感じた。
そう思ったところでどうにもできず、渡瀬は加藤の言葉通り、ルームメイクのヘルプに向かうためにスタッフルームを出た。

 

213号室に向かう。
これから来る団体客、地域サークル「Fake flowers」のメンバーが到着する前に、ルームメイクを終わらせておかなければならない。
イズルクでは、予約の時間にかかわらず、ルームメイクをチェックインの受付開始時刻、15時までに作業を終えることになっていた。

 

ふだん、第2棟の客室整備をメインに担当しているのは女性スタッフ2名である。
渡瀬はふだん、第2棟の客室以外の共有スペースの、備品管理や消耗品の補充などを主に担当していた。

 

だが、本日は忙しい。

イルズクはこぢんまりとした規模の宿泊施設で、忙しい日には、スタッフひとりが何役かをこなすことが多かった。
そういうわけで、本日の渡瀬は、ふだんのメイン業務でないルームメイクのヘルプに入ることになったのである。

 

いつでもどこかのヘルプに駆り出されがちな、イルズクにおける「何でも屋」の役割を担っている渡瀬だったが、上司の加藤に至ってはもっとひどかった。
フロント、コンシェルジュ、備品管理、営業、などなど。
ひとり何役なのか、わからないほど多くの業務を兼任していた。

 

本日の加藤の役割は、監督役である。
客室担当、フロントなどの部署で、客を迎える準備の指揮をとっていた。
ふだんはキレのいい加藤の表情が疲れ気味なのは、任務過多なのかもしれない。
渡瀬はそんなことを思いながら階段を上がった。

 

2階の廊下の中央付近に、ワゴンがあった。
ふだんワゴンの運搬を担当しているのは、甘木莉子という名のスタッフである。
このワゴンも、甘木がここまで運んで来て、置いたものだろう。
だが、本人の姿は廊下には見あたらない。
おそらく客室で作業中なのだろう。
渡瀬は客室整備のヘルプに入るときに、甘木と組むことが多かった。
甘木も213号室にいるのかもしれなかった。

 

渡瀬は、ワゴンから、手袋やエプロン、ブラシや洗剤などが入ったバケツ、仕上げ拭き用タオルを手に取ると、213号室の前に立った。
ドアの足元に、小さなストッパーが噛まされていて、オートロックが作動しないようになっている。
イルズクでは、このストッパーは防犯上あまり使わないことになってはいたが、マスターキーを何度も使うことを避けるため、忙しいときにだけ使われることはあった。
渡瀬はそのストッパーを外し、中に入った。

 

ベッドメイクは終わっている。
渡瀬も、ドアストッパーを目にした時点でわかってはいた。部屋の中に人はいない。
会えなかったな、とチラリと思ってから、渡瀬はシャワールームとトイレの清掃に取りかかる。
それが終わると、アメニティグッズ、浴衣やバスローブなどが既定の数セットされていることをチェックした。
洗面所で手を洗い、その周辺を清掃し、仕上げ拭きをする。

 

その仕事を終えると、渡瀬はドアにストッパーを噛ませ、バケツをワゴンに戻し、かわりにワゴンのそばに置かれた掃除機を持ちだした。客室に掃除機をかけ、ドアを閉める。

 

渡瀬はエプロンと手袋、マスクなどと一緒に掃除機をワゴンに戻し、スタッフルームに戻ろうとした。
廊下の角を曲がって階段に差しかかったところで、自分が、取り替えた洗面所のタオルを手に持っていることに、改めて気づいた。


ワゴンに入れ忘れた。


客室清掃にもいろいろなやり方があるだろうが、イルズクでは、使用済みのシーツやタオルなど、洗濯する必要があるものはワゴンにひとまとめに入れておいて、あとでまとめて、そして分別してクリーニングに出すことになっていた。

 

廊下の中央付近、ワゴンが置かれた場所に戻ると、ワゴンを押して立ち去ろうとしている甘木と鉢合わせた。

 

「あ。お疲れ様、甘木さん」
「お疲れ様。タオル?」
「そ、そう」
「こっち入れて」

 

テキパキと指示をする甘木に、黙って従う。
仕事中だ、無駄口はやめておこう。
渡瀬は自分にそう言い聞かせた。

 

「今日は忙しいね。明日もか」

 

渡瀬の思いに反して、甘木のほうが話しかけてきた。
内心のうれしさを外に出さないように苦労しながら、渡瀬は返事をした。

 

「そうだね。団体さんが今日と明日で続くらしいから。甘木さんはお昼食べた?」
「うん。さっき、やっとね。渡瀬はまだなの? じゃあ、早く戻って休憩しないと。そのうち夕食の準備に駆り出されるよ」
「そうする」
「あ、そうだ。今度の休み」

 

立ち去ろうとした渡瀬を引き留めるように、甘木が声をかけた。

 

「渡瀬のアパート前の、雪かき手伝う話。時間とか、あとで連絡するから」
「わかった」

 

今年は暖冬で、どこも雪があまり降っていないらしいというのに、先週末、渡瀬が暮らすアパートの周辺だけ、やたらと雪が降ったのである。
雪が降ったのは渡瀬のアパート周辺だけではなかったが、ニュースになるほど積もりはしなかった。
そのはずなのに、どういう気圧配置の都合なのか、なぜか渡瀬のアパートとその周辺だけが、ひと晩だけの局地的豪雪に見舞われた。
それも数日前の出来事ではあったが、アパートの入り口が北向きであるせいなのか、入り口付近の雪が解けないまま残っていた。
その話を知った甘木が、その雪を何とかしよう作戦を立てたのだった。

 

甘木に心配されてうれしいような、少しだけ重荷なような、そんなこととはまったく関係なく甘木と一緒の休日を過ごせそうでうれしいような、考えてみたらそれはいつものことのような。
そんな、とりとめのない気持ちになりながら、渡瀬は階段を下り、スタッフルームに戻った。

 

スタッフルームのドアを開けると、上司である加藤の姿が目に入った。
ほかのスタッフは相変わらず出払ったままである。
上司・加藤は、自席で、持参した弁当をモリモリ食べていた。

 

「213号室、終わりました」

 

渡瀬は加藤に報告した。
もぐもぐと口を動かしながら報告を聞いた上司は、口の中のものを、茶で流し込んでから言った。

 

「お疲れ様です。渡瀬くんも、今のうちに残りの昼休憩、取ってください」
「はい」

 

「残りの」と言われても、先ほど途中まで取った休憩が残り何分だったか覚えていない。
途中だった弁当をとりあえず食べ終わろう。
渡瀬はそう思い、スタッフルームの自分の机の前に座った。
机の上に置いたままだった、残り半分の弁当のフタを再び開ける。
上司・加藤は、弁当を食べ終え、空になった容器をゴミ箱に入れてから自分の机に戻り、またペットボトルから茶を飲んだ。

 

「『Fake flowers』の予約の電話を受けたの、私だったんですが。主宰の方からのお電話でした」

 

渡瀬が弁当を食す音のみがしていたスタッフルームに、ポツリと加藤の言葉が響いた。
もぐもぐと咀嚼していた渡瀬は、返事をしようと口の中のものを飲み込んだが、渡瀬が何か言う前に、加藤が次の言葉を発した。

 

「主宰の方の希望では、明日からの団体客と部屋を近くできないか、とのお話で。理由を納得いくまで聞かせていただきました」
「……そうでしたか。明日からの団体って、ふた組いましたよね」

 

茶を飲みながら渡瀬は相づちを打った。
まだ弁当は残っている。
弁当に再び箸をつけた渡瀬に、加藤は説明を続けた。

 

「そうです。そのうちのひと組のほうです。4泊5日の新人研修の『トラーリ株式会社』さん。新人研修の……、引率と言っていいんですかね、先輩とベテラン社員の方も新人研修に参加するそうなんですが、そのうちのベテラン社員さんと、サークルのメンバーの女性がご夫妻らしくて。熟年夫婦、とお呼びしていいのかどうかわかりませんが、とにかくそういう人間関係があると」

 

渡瀬は、食べながらうなずいた。
耳で聞いているだけだと、混乱しそうだった。

 

会社の研修と、サークルが夫婦。
それぞれ別の団体客。
近い部屋を取ってほしい。

 

加藤の話をなんとなく理解し、もう一度渡瀬はうなずいた。

うなずいた渡瀬に、なぜか加藤もうなずき返しながら、説明を続けた。

 

「会社の新人研修が、サークルの慰安旅行の日程に会わせたのだと『Fake flowers』の主宰者さんはおっしゃっていましたが、そんなことあるんですかね。会社の研修って、そんなに簡単に日程とか場所を決めていいものなんでしょうか」
「どうなんでしょう。俺は研修旅行というのはよくわからないので」
「私もです。それで、もうひとつ、サークルと会社にはつながりがあるそうなんです」

 

まだあるのか。
上司・加藤は、「Fake flowers」の主宰者から、どれだけの身の上話を聞かされたのだろうか。
渡瀬は箸を口に運びながら、加藤のほうに目をやった。
加藤は宙を見ながら、思いだすように語り始めた。

 

「先ほども言いましたが、新人研修には、ベテラン社員と、先輩社員という立場の方たちが引率するそうなんです。研修の準備をしたりする役割として。その、先輩社員さんたちの中に、サークルの主宰者さんの甥御さんがいらっしゃるらしいんですね」
「……」

 

上司の言葉を聞き、今度は渡瀬が宙を見た。
渡瀬は宙を見たまま、もぐもぐと咀嚼を続ける。

 

「だから、いろいろと人間関係のつながりがあるので、部屋を近くしてほしいと依頼されたんですけど……、無理だったんですよね。主宰者さんが第2棟を希望されたので」

 

もぐもぐ。

 

「『第1棟だったら、なんとかご要望通りにできる』と言っても、『第2棟がいい』とおっしゃって。『それはできかねる』と言わなければなりませんでした……」
「第2棟は合宿の方たちも来るんですよね、明日から」

 

口の中のものを飲み込み、ペットボトルから茶をひとくち飲んでから、渡瀬は尋ねた。

 

「そうです。高校のオリエンテーション合宿で、入学したての新入生たちが学年ごとやってきます。これは1年前からの予約なので、動かせないんですよね。合宿の方たちには第3棟に主に泊まっていただくんですが、第3棟だけだと部屋数が足りないので、第2棟にもお泊まりいただく。ということで、第2棟に会社の新人研修の方たちの部屋は、部屋数が足りなくなってしまって、取れないんですよね。予約された順で部屋をお取りしているので。知り合いだけで部屋を固める訳にもいかないでしょうし」
「本来の研修とか、サークルの方たち同士で部屋が近いほうがいいんでしょうね」
「そうなんですよ。だから、いろいろ考えてみても『第1棟・新人研修』『第2棟・地域サークル、高校生の合宿』『第3棟・高校生の合宿』という部屋割りしかできませんでした」
「そ」

 

そもそも、なぜ、こんなにこぢんまりとした宿泊施設に、一度に大量の団体客が訪れるのか。そう言おうとして、渡瀬は言葉を飲み込んだ。
これまで生きてきて、思ったことをそのまま物申して無事だったことがないことを思い出したからだ。

 

渡瀬は弁当を食べる作業に戻ることにした。
もぐもぐ。

 

「それにしても、なんで第2棟にこだわられたんですかね、『Fake flowers』の主宰者さんは」

 

加藤が、渡瀬のほうを向いて、言葉を発した。
うつむいて、箸で残った弁当の中身を寄せていた渡瀬は、顔を上げた。

 

「……と、言いたかったのではありませんか? 渡瀬くん」

 

渡瀬は、口をもぐもぐさせながら、曖昧にうなずいた。
実際には違っていたが、訂正する言葉を発する口のスペースが足りなかった。
加藤は、ため息をつき、自分が発した疑問に答えた。

 

「私にもわかりません。第2棟に何か因縁でもあるのでしょうか」

 

渡瀬は微妙な表情でそれまで咀嚼した物を飲み込み、最後に残った、ちくわの天ぷらを口に放り込んだ。
もぐもぐ。

 

渡瀬は、その理由は知っていた。
第2棟には、渡瀬がいるからだ。

 

地域サークル「Fake flowers」の主宰者である不破充香(みちか)は、渡瀬の叔母でもあった。
つまり主宰者の甥だという会社員は、渡瀬の兄である。加藤叶太(かなた)という名だ。

 

……知ってはいるのだが、この情報を今伝えるべきなのだろうか。
加藤の疲労した顔は、このややこしさのせいではないかという気がした。
ただでさえ人間関係がややこしいのである。

そのややこしい事情を予約の際に叔母に気楽に押しつけられ、上司・加藤は頭の中で整理するために疲労したのではないか。


その上、どうにもできない。
人間関係を理解したからと言って、要望をかなえることはできなかった。
それを今思い出し、また疲労しているのではないか。そう渡瀬は思ったのである。

疲労している上司にこれ以上疲労しそうな、「だから何だ」の極みとも言える情報を押しつけてもいいのだろうか。

 

もぐもぐ。
もぐもぐ。

 

この咀嚼が終わり、口の中の食べ物を飲み込み、話をすることができる体勢になるまでに決めなければならない。

 

今言う必要が特にない情報を、いつ伝えるのか。
今言うか。
特に言う必要はない情報なのに。

 

渡瀬は、永遠とも思えるほどの長い時間をかけて、ゆっくりとちくわの天ぷらを咀嚼し続けた。

 

(おわり 01/30)