スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

冬の朝、白い息を吐きだして

工場の送迎バスの停留所で、在戸(あると)(りゅう)は鼻から息を勢いよく吐き出した。
飯賀の言葉を胸の内で反芻する。


「僕が気にしなければいいだけの話なんだけど」


また鼻息が出る。
ふんっ。
鼻息は白かった。

 

冬の朝である。
在戸が働くタッドリッケ・伊名井工場は2交替制を取っている。
日勤と夜勤を交互に繰り返す勤務形態である。
今は日勤の期間だった。
朝出勤し、夜帰ってくる。

 

バスが来た。
運転手に挨拶をしながらバスに乗る。
バスの中には、まだあまり人がいない。
在戸の寮の最寄りの停留所は工場から遠かった。
これから各停留所にて、工場で働くほかの派遣社員たちを拾いながら工場に近付いていくのである。バスの中の人数も増えていく。
男子寮のあるルートを通って行くバスのため、乗客は男性ばかりになる。

 

しかし、今の車内はガラガラだった。
そのガラガラの車内を見渡すと、後ろから2番目の席に座っている華奢な姿が見えた。
ほかにも乗客はいたが、在戸の知らない顔ばかりだった。

 

「飯賀さん」

 

在戸が声を掛けると、飯賀(いいが)比佐人(ひさと)は顔を上げた。色白のせいなのか、顔色が悪く見える。在戸が飯賀の顔を見ながらそんなことを思っていると、飯賀は在戸を見上げたまま挨拶をした。

 

「おはよう、在戸」

 

在戸が挨拶を返そうとしたとき、バスが動き始めた。慌てるでもなく飯賀の隣に座る。

 

「飯賀さん、俺は本当に、許しません」
「え、僕を?」
「違いますよ。飯賀さんの寮に謎の液体を置いて去ったやつをですよ」
「いや、謎の液体っていうか……。悪意はないみたいだし、そこまで怒らなくても」
「ダーメですよ、そういうこと言ってるからつけあがるんですよ、つけあがって謎汁を玄関に置いていくという迷惑行為をしてしまうんですよ」

 

飯賀は座席の中で少し身を引いた。
在戸の声が大きくなり始めていたからである。

 

「ちょっと落ち着こう、在戸」

 

飯賀は静かな声で言った。

 

「俺はっ……、……俺は、落ち着いています」

 

そう言いながら、在戸も声の音量を落とした。
飯賀は少ししゅんとした在戸にさらに言い募る。

 

「『謎汁』って何だよ、在戸。『謎汁』ではないよ」
「あー。そうっすか」

 

在戸はふてくされた。
それからも飯賀の説教は続いた。

 

謎のパーツを、謎の基盤に取りつける。
それが工場での在戸の仕事だった。
特に謎でも何でもないのかもしれなかったが、自分が今何を作っているのかもよくわかっていない在戸には、謎製品を作っているという自覚しかなかった。

 

誰にでもできるようにするため、タッドリッケ・伊名井工場では作業が最大限細分化されていた。作業を細かく細かく分けた結果、その全体像をつかめる者がほとんどいなくなった。

確かに作業は誰でもできるが、自分が今作っている物が最終的に何になるのか、タッドリッケ・伊名井工場のだいたいの者は理解していなかった。
それでも仕事はできた。だいたいの者はお金を稼ぐことを目的としていたため、それでもかまわない者が多かった。

 

というわけで、在戸は謎パーツの取り付けの仕事をしていた。

謎パーツを取りつけた謎基盤を、トレーの上に置く。
そのトレーは謎基盤を10個収納できた。
10個基盤が溜まったら、トレーを机の横にあるワゴンの下段に重ねて置く。
ワゴンの上段に新しいトレーを置いて、また謎基盤に謎パーツを取りつける。

できた謎基盤を新しいトレーに収納する。

 

そうやっているうちに別のワゴンを押した運搬役が現れ、前の工程の作業机から運んできたトレーを作業机の隅に重ねて置く。そして運搬役は己のワゴンに、この工程での作業が終わったトレーを積み重ね、次の工程の作業机に運ぶ。

その運搬役が飯賀だった。
飯賀は在戸の作業机のそばまで来ると黙ったまましゃがみ、在戸の机の横に置かれたワゴンから、複数のトレーを自分のワゴンに移した。
そのままワゴンを押しながら立ち去ろうとした飯賀の後ろ姿に、在戸は言葉を掛けた。

 

「俺は許さないですからね」

 

飯賀は振り返り、在戸を見てため息をつくような仕草を見せたあと、ワゴンを押して在戸のそばを立ち去った。

 

その日の夜、在戸はアパートの前に立っていた。
飯賀が住む寮の部屋の前である。
在戸は、アパートの2階のドアを見上げた。

飯賀の部屋は2階だった。そこの玄関前に謎汁が置かれていたのだ。


明日は在戸も飯賀も仕事が休みだった。
張り込んでやろう、そう考えて在戸はここにやって来た。
在戸の決意を、当の飯賀には言っていなかった。

言えば反対されると思ったからだった。

 

飯賀は謎汁事件自体、もはやなかったことにしたいのかもしれない。

大ごとにされるのが嫌なのかもしれない。
在戸は鼻から息を吐き出した。
冬の夜の空気が、瞬間的に白く濁った。
そしてまた透明に溶けていく。

 

どうやって張り込むか。
夜とはいえ、辺りの目を気にしなくてはいけない。
ここに住んでいるのは飯賀なのだ。在戸は、自分の張り込みのせいで、飯賀がご近所とさらにモメるのは避けたかった。

 

 

謎汁事件。

何か文句があるなら飯賀に直接言うなり、アパートの管理会社なり何なりに連絡して言えばいい。なのにそういう手段をとらずに、謎汁を袋に詰めドアノブに引っかけて置いて行った事件。それが在戸の気にくわなかった。

 

ひとこと、謎汁について説明をしてほしい。
在戸は謝罪を望んでいたわけではない。
謝られても謎汁についての謎は謎のままだ。
それよりも謎汁とはいったい何だったのか、なぜ謎汁を飯賀の部屋のドアに引っかけて置いたのか、在戸はそれが知りたかった。

 

在戸は飯賀から「謎の汁が置かれていた」と聞いただけで、その汁が何だったのか、なぜそんなことになったのか説明してもらえなかったのである。
きっと飯賀にも、謎汁が何なのか、そしてなぜ謎汁を置かれたのかわからないからだろう。なにせ謎汁だから。
在戸はそう思っていた。

 

謎汁が置かれてから2日、まだその後の動きはないらしい。
何かが起きるとしたら今日……という確信は全くなかった。
ただ、「明日が休日だから」という、それだけの理由で在戸は張り込みをする気になったのだった。

 

張り込みである。
周りに怪しまれないよう、動き続けることにした。
アパートの周囲で、立ち止まり、また歩き、立ち止まり、という不自然な動きをしてみた。本人的には不自然にするつもりはなかったが、結果的に不自然になった。

 

これでは不自然すぎる。
自分でもそう思った在戸は何かと一体化することを目指した。
まずは柵と一体化することを試みる。
アパートの周囲には柵が張り巡らされていた。それと一体化することで、擬態できるのではないかと考えてのことだった。

 

しかし失敗した。
どう考えても柵のほうが背が低すぎ、在戸は柵よりも目立っていた。
在戸は身長がわりと高かった。というよりもガタイが良かった。
自分の体を隠せる柵が周囲にないことに気づき、柵と一体化することは諦めた。

 

次に擬態したのは自転車である。
寮の駐輪場には、使う/使わないにかかわらず、派遣会社が用意した自転車が置いてあった。車体に「インダストリアム・ファクトリアス」と派遣会社の名前が書かれたおそろいの自転車2台である。
この自転車に擬態してみた。

 

うまくいった。
在戸はそう思っていた。

止まった自転車のサドルに乗り、じろじろと辺りを見回す。
サドルに乗ったことで今日の仕事の疲労をそれほど感じずに済んだし、なにより駐輪場からは飯賀のアパートのドアが見えた。
誰かが近付いてきたらすぐにわかる。
擬態成功だ、在戸は思った。

 

チラチラ、じろじろとアパートの飯賀の部屋を見つめる。
この様子こそがThe不審人物であったが、在戸はそのことに気づいていなかった。

 

じっと飯賀の部屋のドアを見つめ始めてどれくらい経っただろうか、在戸は作業服の上に着たコートのポケットから携帯を取り出そうとした。
時間を確かめようと思ったのだ。

……が、冬の夜である。
寒さで指がうまく動かず、携帯を落とした。

 

あっと声を上げそうになり、こらえた。

かわりに、落ちる携帯を空中で受け止めようと、とっさに手を差し出した。

手は空中で携帯に当たった。

だが、受け止める/受け止めない以前の問題で、在戸の手が当たった衝撃で携帯はさらに勢いを増し、地面に叩きつけられた。

自分で自分の携帯を、地面によりいっそう激しく叩きつけてしまった。

在戸はその意味不明な現実に、しばし呆然とした。


駐輪場の地面はコンクリート張りだった。
そこから携帯を拾い上げ、画面が割れていないか、何か不調がないか確かめる、一連の儀式が始まった。

どこも割れてはいない。
しかし、何をしても、どうやっても画面は真っ暗なままだ。うんともすんとも言わない。張り込みを続けるよりも、ショップに行って修理なり何なりしてもらったほうがいいのか。それとも新しい端末を買ったほうがいいのか。

携帯のショップに行くのはいいが、今は夜である。明日、行けばいい。今は張り込みだ……。

在戸は携帯の画面と同じく真っ暗な気持ちになりながらも、なんとか気を持ち直して顔を上げた。

 

アパートの飯賀の部屋のドアが開いていた。

 

「……!」

 

在戸は息を飲んだ。
目を離した隙に、飯賀のドアが少しだけ開いていた。
部屋の電気はついている。

 

誰も部屋には近付いていない、在戸はそう思ったが、断言はできない。
張り込みをしているとはいっても、擬態するためにアパート周辺の柵のほうに移動したり、駐輪場に移動したり、携帯に気を取られたりしていた。
在戸の気づかないうちに、誰かがドア付近までたどりつくこともできたかもしれない。

 

たとえ周囲に怪しまれようが、ドアの真ん前で仁王立ちしておくんだった。
自分のガタイならそれだけで他人を威圧できたはずだ。相手がよほど無謀もしくは勇敢でない限り。

在戸はそんなことを考えたが、それも一瞬だった。
ふだん、わりとぼんやりしている在戸だったが、こんなときだけ俊敏だった。
一瞬の乱れた思考ののち、走り出していた。

 

アパートの階段を上る。
2階の飯賀の部屋の前にたどりつく。
その勢いのまま、わずかに開いたドアをさらに大きく開けた。

 

「うわっ……」

 

ドアを開けた玄関には見知らぬ男がへたり込んでいた。ドアにもたれていたのか、在戸がドアを急に大きく開けたことで、体勢を崩したらしい。その男は小声でつぶやいた。

 

「……バレた」


バレた? 何が。

男を問い詰めようとした在戸は、動きを止めた。
つぶやいた男のその奥に、飯賀の姿が見えたのだ。
飯賀がいるのは、キッチンのようだった。

 

「飯賀、本人乗り込んできたんだけど」

 

見知らぬ男が体勢を立て直しながら、飯賀を振り向いて言った。
この男は、飯賀の同居人だ。
やっと在戸はそのことに気付いた。
存在は知っていても、飯賀の寮の同居人の顔は覚えていなかった在戸は、今更ながらその男に向かって謝った。

 

「あ、すんません。不審者が入ってきたのかと思って」
「不審者はおまえだろ……」

 

当然のツッコミを入れた飯賀の同居人の後ろから、飯賀本人が顔をのぞかせた。

 

「え、ほんと? あ、ほんとだ。こんばんは、在戸」
「こ、こんばんは」

 

在戸は思わず挨拶を返した。

 

「まあ入って」

 

飯賀の同居人が言った。

 

「お邪魔します」

 

在戸はのっそりとアパートの中に入った。

 

「じゃあ、ま、俺はこれで」

 

飯賀の同居人はそう言って自室のドアを開けて、中に入っていった。

 

「同室の田振(たぶり)さんだよ。どう見ても不審者の君を、野次馬ごころでドアの隙間からずっと観察してた。そりゃそうなるよ……」

 

飯賀がキッチンから、あきれたようにそう説明した。

 

「あ、そうでしたか」

 

在戸は、自分が不審者として見られていたことを初めて知り、どうしたものか去就に迷った。

 

「まあ座って」

 

そう言いながら、飯賀はまだキッチンで何やらごそごそと動いていた。
いい香りがしていたが、いろいろな料理のいい香りが混ざって、在戸には何の香りなのかよくわからなかった。

在戸は一度ドアを閉めに玄関に戻り、それからキッチンとつながっているダイニングだか小さなリビングだかよくわからぬ場所に腰を下ろし、あぐらをかいた。
派遣会社が共有スペースの家具を用意していないため、テーブルも椅子もない。床に直座りである。
正座するのもおかしいかとあぐらをかいたため、尻がひんやりと冷たかった。
だが、体が大きいので立っているのも威圧感を感じさせるだろうと、とにかく勧められたとおり座っていることにした。

 

「今日は君、帰りのバス降りなかっただろ? 自分の寮の場所で」
「あ、はあ」
「その後も僕の後ろをついてきて。どうするのかと思ったら、ずっと見張り始めて」
「はい」
「何がしたいの君」

 

キッチンからこちらを振り向いて飯賀は問うた。

 

「何が、と言われても」

 

何だっただろう。
本日の自分の目的はいったい。

 

「携帯を直さないといけないなって」

 

この部屋に入る前に最後に考えたのが携帯の修理に関することだったことを思い出し、在戸はそう言った。

 

「あ、やっぱり。壊れてる? 既読つかないの、珍しいなと思ってたんだけど」
「あ、はい」

 

飯賀はお盆の上に湯気の立つお椀を載せ、手とお盆の隙間に割り箸を横にして挟み、在戸のそばにやって来た。テーブルも何もないため、飯賀は床に直接お盆を置いた。

 

「どうぞ」
「は」

 

在戸は意図がわからず、戸惑った。

 

「お味噌汁だよ。体が温まるよ。今日は僕の晩ごはん、和食じゃないんだけどね。予定外に慌てて作ったから味は保証しない」

 

飯賀はそう言いながら、手に持っていた割り箸を在戸に渡した。

お椀からは、温かな湯気が立っていた。キッチンに漂うバジルやニンニクなどの香りでよくわからなかったが、これは味噌の香りだった。そう言われればそうだ。在戸は納得した。味噌汁の具はタマネギだった。

 

「今タマネギくらいしかなくて。具に関しての文句も受け付けない」
「は、いえ。タマネギ大好きです。いただきます」

 

ずぞぞ。

はふう。


在戸は味噌汁をひとくちいただき、のどや胃、そして体全体が温かくなるのを感じた。

 

「うまいっす」

 

ずぞぞ。ぞぞ。
黙々と味噌汁をいただく。
飯賀は、ため息をついた。

 

「それ食べたら帰ってね。もう僕のことは気にしなくていいし」

 

在戸は、口の中のタマネギを慌てて咀嚼し、飲み込んでから言った。

 

「でもですね」
「味噌汁だよ」
「あ、はい。ごちそうさまでした」

 

在戸は食べ終えた味噌汁の椀を盆の上に戻し、手を合わせた。

 

「はい。ご丁寧にどうも」

 

飯賀は手を合わせた在戸に対して、少し戸惑ったように言った。戸惑ってはいても、「お粗末様」とは口が裂けても言わない意思を感じさせる口調だった。

体が温まったことで少しリラックスした在戸は、そんな飯賀に抗議を始めた。

 

「いやあ、しかし謎汁って何なのかわからないと気になってしょうがないんですけど。いきなり何も言わずに汁を置いてくって何だったんですか。気になるじゃないですか」
「だから味噌汁だったんだよ。謎汁じゃなくて」
「みそ」

 

在戸は目を見開き、口を「そ」の形にしたまま固まった。飯賀は、その様子を見てため息をつきながら説明を続けた。

 

「そう。近所の人がね、工場に勤めてる男ふたり暮らしなら、味噌汁なんてふだん飲んでないだろうって気を遣ってくれて」
「みそしる。……を、袋に詰めて?」
「まあ、そこんとこがね、ちょっと驚きの原因だったんだけど。容器を返すのも大変だろうって、また気を遣って袋に詰めてくれたみたい。たぶんだけどね」
「ああ……。そうか、そういったわけでしたか」
「そういったわけだよ。僕がそこら辺を気にしなければ謎でも何でもなかったんだよ。だからね、はじめから誰も戦ってないの。なのに君ときたら、謎の闘志をもって謎汁謎汁ってさ」
「いや、だって飯賀さんが謎汁っていったから」
「僕は『謎汁』とは言ってない。『謎めいた汁物』とは言ったけど、『謎汁』とは言ってない。味噌汁が袋に入ってドアノブに引っかかってたことに驚いた話をしたかったんだけど、君にうまく伝わらなかった」
「あ、そうでしたか」
「そうだよ。まったく」

 

飯賀はプリプリ怒りながら、からのお椀と割り箸を載せた盆をキッチンのほうへ持って行った。そして洗い物をするべく、流しで水を出しながら言った。

 

「言ったよね、『食べたら帰れ』って」

 

先ほど擬態しようとした柵から出て、在戸は夜の空気を吸い込んだ。

ひんやり冷たい。
飯賀に「帰れ」と言われたので帰るところである。

謎は解けた。

今日はもう満足だった。


明日は休日だが、予定ができた。
携帯のショップに行かねばならない。
長く使っていたし寿命だよなあと言う気持ちもあり、買い換えに前向きな気持ちになっていた。

 

「謎汁」に関して、初めから飯賀の話を注意深く聞いていれば防げた勘違いをしていたのだが、在戸は特にそんなことを反省してはいなかった。

ただ、味噌汁おいしかったなあ~と思っているのみである。
体に染み入る暖かさだった。

 

はふう。
在戸は、やや上を向き、夜空に向かって息を吐き出した。
息は白く濁り、そして夜の空気に溶けた。

 

(おわり 017/030)

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

↓飯賀さんの目線で見た、謎汁事件…というか、伊名井市。

suika-greenred.hatenablog.com

↓謎汁事件の犯人たちの目線で見た、事件の全貌。

suika-greenred.hatenablog.com

↓内容に直接つながりはないですが、同じく朝のバス停から始まる話。

suika-greenred.hatenablog.com