スイカごっこ

今のところ創作の話を少々のびのびゴロゴロと

またお越しくださいませ

旅はいつか終わる。
新たな旅に出るという形で。
日常に旅に出る。
つまり、家に帰る。

 

台めのバスの中で、加藤杯治(ハイジ) の隣の座席の床沢(ゆかさわ) 健吾が、うつろな目で前を向いたまま言った。

 

「筋肉痛が直らない……。4泊5日のあいだ、ほぼずっと筋肉痛だった」

 

高校生たちの集団はバスに揺られながら、思い思いの会話を交わしていた。
オリエンテーション合宿と銘打った、クラスメイトとの親睦を目的とした行事の帰途である。
行きのバスは静かだったことを思うと、行事の目的は達成されたといってもいい……のかもしれなかった。

 

「わかる。僕もいまだに筋肉痛だよ」

 

杯治も、座席に座って前を向いたままつぶやくように言う。
隣の席の床沢は、宿泊施設でも杯治と同じ部屋だった。
そこで、ともに芋虫のように自由時間をうねうねゴロゴロして過ごすことにした同士だった。
杯治は途中、何度か兄と会うために芋虫を脱皮せざるを得なかったが、同じ部屋で芋虫になったメンバーを、心の中では同士だと感じていた。

 

できればもうちょっとカッコいい同士のほうがよかった気がするが、こんなものなのだろう。
杯治は、ゆるゆるとため息をつき、目を閉じた。
筋肉痛のせいなのか、やたらと眠い。

 

***

 

台めのバスの中では、前のほうの座席に座ったカメラマン餅居(もちい) 一馬が、女子生徒・佐凪(さなぎ) 花穂に困惑させられていた。

 

「カメラマンさんさぁ」
「餅居です、何度も言ってるけど」
「餅居さんさぁ、つきあってるの?」
「つきあってないから。もう席に戻って」
「えぇ~、つきあってないの~? じゃあなんで洗濯室で音田(おとだ) 先生と一緒にいたの~」

 

バスの一番前の座席は、空席だった。
佐凪は、そこに置かれている荷物などをよけて、バスの進行方向とは逆の方向を向いて座席に膝立ちしていた。
そして真後ろの席の餅居に、座席の上から身を乗り出して繰り返し尋ね、話しかける。

 

「『コンタクトォー!』」
「もう勘弁して……。君、顔色悪いのに元気だね」
「顔色マジでさぁ、凍えて以来、なんか戻らないんだよね。今日寝坊したのは悪かったと思ってる、ごめん。朝ごはんのあと2度寝しちゃって。でさぁ、あれは結局、何だったの? コンタクト、先生のだったんでしょ?」
「ああ、洗濯室に落ちてたコンタクト? そう、宿の人がせっかく拾ってくれて、落とし主を捜そうとしてくれたんだけど。音田先生のコンタクトは使い捨てレンズだったから意味がなかったという」
「『捨ててください……』」
「うん」

 

ウワサに上っている当の教師・音田は、1台めのバスに乗っていた。
このバスに乗っている教師ふたりは、互いに何かを話し合っていて、佐凪たちの会話を聞きとがめはしなかった。

 

「なんでふたりで洗濯室で会ってたの?」
「別に会ってたわけじゃないんだよ、音田先生も洗濯してたってだけ。行きのバスの中で、戻した生徒さんがいたとかで服が汚れたと言っていたよ」
「えぇ~。なにそれ、つまんない。じゃあもうさぁ、これを機につきあっちゃいなよ」
「つきあわないよ……」
「つきあっちゃいなよ、餅居」
「なんで呼び捨てにされてるんだか……。つきあいません」
「えぇ~」

 

***

 

台めのバスの中では、真ん中付近の座席に、女生徒4人がぐったりと座っていた。
4人は、ミカンに思いを残していた。
この合宿でミカンに対する執着が生まれた4人組である。

前の座席で4人組のうちふたりが語り合っていた。

 

「来るとき、道の駅で休憩したよね。帰りも寄るみたいだし、道の駅にミカン売ってないかな」
「売ってたら買う。けど、道の駅で買い物してもいいのかな?」
「さあ」


そのふたりの後ろの座席で、目を閉じ、眠っていたかのように見えた三串(みくし) 香織が唐突につぶやいた。

 

「ミカン」

 

三串の隣に座っていた品子(しなこ) 絵里は、その言葉につられて三串のほうに顔を向けた。
三串は目を閉じている。
品子は、なんと声をかけていいのかわからず、ただ三串の頭をなでた。

 

***

 

台めのバスの中では、一番前の座席で、養護教諭・淵見(ふちみ) 梨穂が、メガネの女生徒・小崎衣緒と言葉を交わしていた。

 

「酔い止め、効いてきた?」
「わからないけど、眠くなってきました」
「そう。眠れるなら眠ってしまったほうがいいかも」
「あの宿の人、何だったんだろう……。イケメンだったけど、怪しかった……。もあい
「モアイ?」
のすんごくしい、ケメンのスタッフ」
「ああ」

 

養護教諭・淵見は、それ以上何も言わなかった。

 

***

 

宿泊施設「ログキャビン・イルズク」のスタッフルームでは、スタッフの加藤渡瀬が、上司・加藤兼人(けんと) に報告をしている。

 

「もうすぐトラーリ株式会社さんがチェックアウトするそうです。俺、ちょっとここ抜けて良いですか?」
「え、今ですか? 第2棟の植矢高校のチェックアウトが済んだので、ルームメイクのヘルプに入ってほしいんですけどね」
「すみません、5分だけ」
「ああ、トラーリ株式会社さんの新入社員……、じゃなかった、上司の方が渡瀬くんのお兄さん、でしたっけ」
「いえ、役職ついてない先輩社員のほうが兄です」
「え、そうだっけ。ややこしいですね」
「すみません」
「いいですよ、5分くらいなら。第2棟は甘木さんがいますからね。彼女ならひとりでルームメイクできるでしょうけど、でもヘルプには行ってください」
「はい。すみません、行ってきます」

 

***

 

ルズク第1棟のロビーでは、新人社員のあいだでいさかいが起きていた。

 

「覚えてるがいい、湾田。われわれを罠にかけたことは忘れない」

 

女性の新人社員・英川夏海が、男性の新人社員・湾田翔介に宣言した。

 

「なんで俺だけなんだよ。塔野だって取井だって俺と同じチームだったのに」
「それはもう、なんというか人徳だな。マイナス人徳。あんたがいなきゃ、必要のないリプを延々して先輩にご迷惑をおかけするという事件は起きなかった」
「いや、あれはもう俺らだって信じ込んでたんだよ。罠ではまったくないって。しつこいなもう」
「私の長所は最後まであきらめないことだ」
「あんたもかよ。俺もだよ」
「もうやめときなって……。研修も終わったし、あとは帰るだけだし。ほら一時休戦。続きはプライベートでやってください」

 

言い合うふたりのあいだに、同じく新人社員の椎原澪が割って入った。
しぶしぶ引き下がった英川に、椎原が付き添う。
英川から解放された湾田は、ロビーの隅でのんびり話をしていた同期の新人社員・塔野雪晴と取井一太郎のあいだに割り込んで言った。

 

「帰ったら寿司だぞ塔野、忘れんな」
「わかってるって……。またモメてたのか?」
「モメてない。一方的にイチャモンつけられただけだ」
「ああ帰りたくない」

 

ラウンジからロビーにつながる入り口で、3人の上司・石尾伝二が、大きな声でつぶやいた。入り口付近にいた湾田と塔野と取井が、振り返る。

 

「どうしたんです、石尾さん」
「いや、どうもしない。帰ったら絶対奥さんに怒られるから、帰るのが憂鬱になってただけ。君たちはいいよな」
「またまた」
「燻製食べたら奥さんのご機嫌直るんじゃないですかね、おいしいから」
「どうだろう、奥さんもここに泊まってるから、同じ土産物買ってたりして」
「あ、そうなんですか」
「そう。だけど、見送りにも来ないよ。奥さんのほうがあと1日長くいるのに。そんなもんだよ。ああ憂鬱」
「まあまあ、石尾さん。新商品が出たらしいですよ、土産物屋に」
「そうなの?」
「はい。この棟だけで売ってるらしいので、それだったら土産かぶりもないんじゃないですかね」
「見に行ってくる」

 

石尾は、部下がフロントでチェックアウトの手続きをするのを横目で見ながら、土産物屋に向かって歩いて行った。

 

***

 

が飾られたイルズク第2棟のロビーで、土産物屋の袋を提げた石尾は、不破充香(みちか) に尋ねた。

ロビーに飾られているのは造花だ。充香が主宰する地域サークル「Fake Flowers」の作品たちだった。

 

「花の展示はいつまでですっけ」

「今月いっぱいは置いてくれるそうですよ。ああ、石尾さん、奥さん……志乃枝さんはさっき散歩に行くって言って出て行ってしまったよ。呼び戻そうかい?」
「いえ、いいんです。会っても怒られるだけだし。土産物も買ったし、帰る前にちゃんと展示を見ておこうと思いまして」

 

石尾は、土産物屋のロゴが入ったビニール袋を軽く持ち上げながらそう言った。
充香はそれを見て、鷹揚にうなずいた。

 

「ああそうかい。それはありがとうございます」
「む……、あれですかね、志乃枝が作った花は。なんだか巨大でハデで、うちの奥さんっぽい」
「あれはあたしですね。志乃枝さんが作ったのは、あの蘭」
「……。また外しました」
「そうかい……。まあ、うちのサークルにいる女性はだいたいハデ好きだから、作るものも似てしまうのもあるのかもしれないね」
「なるほど、華やか好きなサークルなんですね」
「主宰者がハデ好きだからかね」
「なるほど」

 

石尾は、充香の服が発する、謎の光に目を向けないようにしながらうなずいた。
そろそろ戻らないと時間的にまずい。

そう思った石尾は、充香に丁寧に挨拶をして、スパンコールが甚だしく主張する服から逃げるように第2棟を出た。

 

***

 

叶太(かなた) は、フロントで渡瀬を呼び出してもらおうとしていた。

イルズク第2棟のロビーである。
しかし、呼び出せたのは渡瀬ではなく、渡瀬の上司・加藤だった。

 

「えっ、渡瀬はいない……?」
「いえ、いないわけではなく……、お兄さんに会いに行くと言っていました。途中で会いませんでしたか?」
「いえ、あ、もしかして」
「会いました?」
「あれが渡瀬だったのかな、さっき自分の服をやたらチェックしながら歩いてる人がいた」
「な……、何でしょうかそれは。渡瀬……ですかね」
「渡瀬だと思います、また後ろ前に服を着てないかどうか、自分でチェックしてたんだと思います」

 

加藤は、いくら服を見ていたからと言って、最近会ったばかりの弟とすれ違っても気づかない、叶太の度を超したおおらかさに関しては触れなかった。
しかし、微妙な表情にはなった。

が、叫太は加藤のそのような表情には気づかないままに話を続けた。

 

「確か第1棟に向かってました。じゃあ俺は第1棟に戻ってみます。あ、研修中、いろいろとお世話になりました、加藤さん」
「ああ、いえ、とんでもございません」

 

叶太は加藤に会釈をすると第2棟の入り口を出て、第1棟に向かった。
外は晴れていた。
まだ雪は残っているが、日差しが温かい。

 

***

 

太は第2棟と第1棟のあいだの道で、探していた人間をやっと見つけた。
第1棟を出て、こちらに向かって歩いてくる渡瀬に声をかける。

 

「渡瀬」
「あっ……にき」
「やっぱりさっきのはおまえだったのか、渡瀬」
「え、どういう」
「いや何でもない、あー、なんだ、その……」
「兄……じゃなくて加藤さん。今、第1棟に行ったらトラーリ株式会社の方たちが加藤叶太待ちになってましたけど、大丈夫……ですかね」
「え、俺? 俺が待たれてた? あ、やべえ、もたもたしてると帰りの特急の時間に間に合わねえ」
「あ、では、はい」
「そうだな、うん。まあ、そうなんだけど。あ、これ」

 

叶太は、スーツのポケットから名刺ケースを出し、そこから名刺を1枚出すと、渡瀬に差し出した。

 

「俺の名刺。俺の名前も勤務先も、もう知ってるだろうけど」
「あ、はい。どうも」
「じゃあ、今は時間ないし、これで。元気でな」
「あ、はい」

 

叶太は第1棟に向かうべく、歩き出した。
が、途中で思い出したように後ろを振り返り、渡瀬に言った。

 

「いいわけ考えとけよ」

 

受け取ったばかりの名刺に両手を添えて、それをぼんやり見つめていた渡瀬は、その言葉に顔を上げて叶太を見た。
唐突な叶太の言葉に、すぐには言葉が出てこない。
叶太は黙っている渡瀬に向かって、さらに言葉を続けた。

 

「休みくらいあるんだろ、1回飲みに行こう。飲まなくてもいいけど。俺の部屋に来るとかでもいいし」
「あ、はい」
「うん、あとで連絡する、ほんじゃな」
「はい……あの」
「ん?」
「またイルズクにもお越しください、お待ちしておりますので」
「おう」

 

渡瀬は受け取った名刺をどこにしまうか迷ったあと、服のポケットにそうっと入れることにした。


このまま仕事をしていたら絶対にヨレヨレになってしまう。
あとでスタッフルームに戻って、いったん名刺をポケットから避難させなければ。


渡瀬がそんなことを思いながら第2棟の入り口から中に戻ると、ひとりロビーで自分たちの作った花をあちらこちらから眺め回していた叔母・充香に話しかけられた。

 

「おや、さっき叶太がこっちに来て、フロントで何か話したあと急いで出てったけど、会えたのかい? あの子はあんたを探しにここに来たんじゃないのかい?」
「あ、はい。そうです。会えはしました」
「そうかい。何か話せたかい?」
「いえ、まだ何も。兄貴は会社の研修でここに来てますし、帰りの時間があるそうで」
「ああ、まあそうだね。あんただって仕事中だろうし。ゆっくり話せるとこで話したほうがいい」
「はい」
「それで兄弟ゲンカでも何でも好きなようにしたらいい」
「いえ、たぶんケンカはしないですけど」
「なんだい、つまらない兄弟だねえ」
「いえ、あの」

 

またもや叔母に理不尽にケンカを勧められ、渡瀬は戸惑った。
叔母は不敵に笑いながら言う。

 

「あたしたちのサークルの旅行も明日までだ。みんな帰るね。寂しいかい、渡瀬?」
「いえ、寂しくは。あ、いえ、はい、寂しいです」
「どっちなんだい。まあ、あんたにとっちゃ仕事だからね。別れも仕事のうち、かね」
「いえ。あ、はい。でもまたお会いできることを望んではいます。自分としても、仕事としても」
「そうかい」

 

叔母は少し笑うと、ロビーから見える外に視線を移した。

 

「ああ、いい天気だね。春の日差しだ。あたしも帰る前に少し外を散歩しておくかね」
「ええ。ロータリーのそばのツツジが花を咲かせはじめているので、見ていただきたいです。……付き添えないのが残念ですが」
「ああ、いい、いい。仕事に戻りな、渡瀬。あたしはひとりのほうが散歩がはかどる。次に作る花の構想も練りたいからね」
「はい。それでは」

 

渡瀬はその場を辞すと、スタッフルームに戻り、そこに置いていた自分の荷物に名刺を移した。

 

***

 

瀬はスタッフルームを出て、静かな早足で廊下を歩き、階段を上る。

 

「あ、渡瀬。今、1部屋終わったとこ」
「うわ、ごめん、莉子ちゃん……じゃなくて、甘木さん」
「うん。いい。それより早く支度して」
「うん」

 

渡瀬は廊下に置かれたワゴンから、ブラシや洗剤が入ったバケツを取った。
それから、エプロンと手袋とマスクを逆の手に取った。
そしてバケツワゴンに戻した。
急ぎすぎて手に取る順番を間違えた。


些細なミスに慌てる渡瀬を、微笑みたいのをこらえているような表情をした甘木が見守っていた。
渡瀬は、あたふたとエプロンを身につける。

その横から、甘木が言った。

 

「次の休みは会えるのかな~」
「あ、え、や、やすみ?」
「1回キャンセルされた私との約束は守ってもらえるのかな~」

 

渡瀬から目を反らし、そっぽを向きながら軽い調子で甘木が言う。

 

「うん、たぶん大丈夫」
「そう」

 

渡瀬の方を向いて、甘木がにっこりと笑った。
かわいい
いや、そうでなく。

 

プルプルと首を振る謎行動を始めた渡瀬に向かって甘木が尋ねた。

 

「準備できた? じゃあ、次の部屋行きますか。次に来るお客様のために、部屋を準備しましょうか」
「はい」

 

渡瀬はバケツと手袋とマスクを手に取った。

 

またお越しくださいませ。
そう言って別れを告げる。
そして次の客を迎える。
また来る客も、初めての客も。

 

ここへとやって来る旅。
ここから家に帰る旅。
ここからどこかへ向かう旅。
旅の中途で、ひとときの安らぎを提供する。

 

そうして旅立ちを見守った客の気配を部屋から消し去ってから、また次の客を迎える。
次の客の安らぎのために。

 

チェックアウトが済んでいる部屋は、すでに鍵を開けられている。

甘木と渡瀬は、次の部屋のドアに向かった。

 

(おわり 30/30)

 

集合写真を撮りましょう

カメラが計算している。
光と影、色と色。距離と距離。
カメラの中にもうひとつの世界があるかのように。
もうひとつの世界を、カメラのこちら側にいる、撮っている者の世界になるべく近づけるように。

 

餅居一馬は、植矢高校のオリエンテーション合宿(という名の1学年全員参加の旅行)にカメラマンとして付き添っていた。
合宿の4泊5日のあいだ中、植矢高校の今年の1年生が山を登り、山を歩き、山から下りてくる写真などを撮り続けた。

 

とにかく山を歩く合宿だった。
その山の名は耳木兎(ミミズク)山。
山と名はついていても、実際は小高い丘と言ってもよいほどのなだらかさで、その山を歩くのは、登山とも言えぬような、坂をハイキングしているようなものだった。

 

しかし、とにかく歩く。
どういう理由なのか知らないが、合宿には、全日程通して山を歩く以外のイベントがない。餅居が写真を撮ったのも、生徒が山を歩いているシーンばかりだった。

 

そんな、カメラマンの腕の見せ所のような、いくら腕があってもやっていることが平らな山を歩くことだけではどうにもこうにも盛り上がりに欠けるような、なんとも言いようのない合宿は本日で最終日だった。
やっと山以外の写真を撮れる。

 

餅居は、この合宿のあいだ中、筋肉痛に悩まされていた。
筋肉痛に悩まされるのは、自分が中年だからなのだろうか。
高校生であれば、体力があるだろうから筋肉痛などとは無縁なのではないか……と思っていたが、実際は高校生ですら筋肉痛になっているようだ。
まったくもって意味がわからない。
この合宿は、人を筋肉痛に陥れるためだけにおこなわれているのだろうか。

 

そんなわけはない。
餅居は、辺りを見回した。
宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の、正面入り口前のロータリーである。
ここで、帰りのバスに乗る前に、クラスごとの集合写真を撮るのである。
教師たちが生徒を整列させていた。
列ができると、餅居は三脚に載せたカメラのファインダーをのぞいて調整した。

 

2階建ての、宿泊施設としては背の低い建物を背景に入れて撮るために、三脚を低い位置に固定していた。
その低い三脚に載ったカメラのファインダーをのぞくことは、筋肉痛の足腰に地味に響く動作だったが、餅居は顔に出さずにこらえた。

 

「少しかがんでくださーい」

 

かわりに、列になった生徒と教師にそう声をかけた。
「背景に宿泊施設を写してくれ」との学校側の要望だったが、建物がこぢんまりとしているため、生徒の影に隠れて見えなくなる。

餅居は、自分の立ち位置を調節することで建物を画面に収めようとした。しかし、ロータリーで撮っているために場所の融通が利かない。あまり生徒たちから離れすぎると、車の通行の邪魔になる可能性があった。生徒たちにかがんでもらったほうが手っ取り早かった。


餅居が言わんとするところを理解すると、静かなどよめきがクラスのあいだを駆け抜けた。
なにしろ筋肉痛なのである。

しかし、かがむのに使う筋肉は、山を歩くのとは別の筋肉なのか、すぐに中腰体勢の列ができた。

低い建物を背景に入れながら、中腰の生徒を全員画面内に入れる。
全員の顔をハッキリ映さなくては。

 

この合宿中に、餅居はコンタクトをなくすアクシデントに見舞われたが、メガネを持ってきていたので事なきを得ていた。
ふだんはコンタクトをして写真を撮っているため、カメラを若干調整する必要があったが、それももう済んだ。
ふだんかけていないメガネが、ファインダーに取りつけたアイカップに予想外に当たり少々驚くという、ささやかな事件を乗り越えて餅居は慣れてきた。

 

太陽は低い建物の影に隠れているが、被写体のうしろから光が差す、逆光になっていた。
絞り優先モードにしたカメラの、絞りを大きくし、ISO感度を調節する。
カメラの調整OK、自分も慣れてきた、OK。

 

「はい、撮りまーす」

 

全員にピントがあっていることを背面液晶を見て確認したのち、数枚撮る。
三脚に合わせた中腰に、餅居の足腰が悲鳴を上げる。息を止める。
立ち上がり、餅居は息を吐いた。OKだ。

 

「はい、終了でーす、お疲れ様です」

 

撮り終えたクラスが立ち去り、次のクラスが整列するのを待つ。

次のクラスは、多少もたついた。
ひとりが間に合わなかったのである。

 

「間に合わないとは……、体調不良ですか? その生徒さん」

 

教師の言葉の意味がわからず、餅居はそう問いかけた。

 

「ええ、おそらくは」
「そうですか……。どうしましょう、その生徒さんの場所を空けて撮りましょうか。あとでその生徒さんだけ合成することにして。欠席の生徒さんと同じ処理ならできますが」
「あ、いえ……、あと少しだけ待ってあげてくれませんか。せっかく合宿に参加したんだし」

「あ、そうですよね、はい」

 

餅居は待つしかなかった。
手持ち無沙汰な時間が過ぎていく。
整列していた生徒は、ざわざわと列を乱しながら待機の態勢に入っていた。
餅居も雪が残る地面から忍び寄ってくる冷気と戦いながら待った。

 

曇っていた空が、唐突に明るくなった。
雲が流れたのだろう。
低い建物の上から太陽の光が差し込んでくるようになった。太陽が動いている。
逆光だ。
ほかに雲が見当たらない。
しばらく太陽を隠す雲は期待できそうにない。

 

餅居が、筋肉痛の体をプルプルさせながら、背面液晶を確認すると、逆光のせいで画面全体が灰色に染まっていた。
これ以上カメラの調整をするよりは、ストロボを使おう。
餅居は、持参していた収納ポーチからストロボを取り出してセットした。

 

「すみませーん、遅くなりました」

 

教師がそう言いながら、ひとりの生徒を連れてくる。生徒が列に加わる。
生徒を連れてきた教師は、養護教諭らしかった。その後、ほかのクラスと合流した。
餅居はまた足腰をプルプル言わせながらファインダーをのぞいた。

 

遅れてきた生徒を見ると、顔色が悪い。写真を撮っている場合なのだろうか。
餅居は心配になったが、できることと言えば早く撮り終えることくらいしかない。

 

「じゃあ、撮りまーす」

 

かけ声をかけて、シャッターボタンを押す。
数枚撮った。1枚を除いてだいたい誰かしらが目をつぶっていたが、1枚は全員が目を開けている写真が撮れた。OKだ。

 

ふだんだったら、OKの基準は目を閉じているかどうかだけではないはずだったが、体調の悪い生徒がいることと、時間が予定よりも遅れていること、そして、自分の足腰が誰にも聞こえぬ透明な悲鳴を上げていることなどから、少しだけ判断基準が甘くなっているかもしれなかった。

「帰る前に全クラス分の、イルズクの建物入り集合写真を撮らなければいけない」という餅居の使命感がそうさせた。
とはいっても、クラスは全部で4つだ。あとふたクラス分、撮ればいい。

 

先ほど撮り終わったクラスが、バスが泊まっているロータリーに向かうのを見送る。
体調が悪かった生徒も歩いてバスに向かっている。
そのスタスタとした歩きぶりを見ると、顔色ほど体調は悪くないのだろうか、という感想を持った。真偽はわからない。
餅居が前に向き直ると、イルズクの正面入り口の前に次のクラスが整列を始めていた。

 

太陽は動いている。
動いてはいるが、先ほどとあまり光は変わっていない。
相変わらずの逆光である。
餅居は、引き続きストロボを使うことにした。

 

「撮りまーす」

 

生徒が並び終わるとすぐに声をかけた。
先ほどと同じように数枚撮る。
ダメだ。
どの写真でも、誰かしらが目をつぶっている。
ストロボのせいだろうか。
しかしストロボなしだと生徒が影人間のようになる。
影人間というものが何なのか餅居にもわからなかったが、とにかく被写体が影に覆われる。

 

また数枚撮る。
また誰かのまばたきを撮ってしまう。

 

「すみません、目が閉じて映ってしまって。みなさん、いったん目をつぶってください」

 

試しに言ってみる。
生徒たちと教師が、目を閉じる。

 

「開けてください」

 

生徒と教師が、一斉に目を開ける。
その瞬間にシャッターボタンを押す。
また数枚。
それでも、まだ誰かのまぶたを撮っていた。

 

「弱ったな……」

 

もういっそ、できた写真の、目を閉じている者のまぶたに、あとから目を描き足したらどうだろう。
あとから欠席者の画像をはめ込むくらいなのだから、目ぐらい描き足してもそれほど目立たないのではなかろうか。
少なくとも表面積は目の方が小さい。

餅居がそんな思いに駆られていると、そのクラスの教師がすまなそうに言った。

 

「すみません、もう1回チャンスをください」

 

そう言われて、餅居は気を取り直した。
投げ出してはいかん。
餅居は自分を励ました。
おそらく励ましてほしいのは生徒と教師のほうだろうということもわかってはいたが、それでもとりあえず自分を励ました。

 

「先生もあまり硬くならないで、じゃあ行きましょう。もう一度目を閉じてくださいねー」

 

また生徒と教師が目を閉じる。
自分は今いったい何をやっているのだろうか、という思いに駆られる。

 

「開けてくださーい。撮りまーす」

 

集団の目を閉じさせ、また開けさせ。
なんらかの催眠術をかけているような気持ちになりながら、数枚撮る。
今度は全員が目を開けている。
やや不自然なぱっちりとした目の開き方と言えなくもなかったが、これはこれで全員の努力の結晶のような気がしてきた。すばらしい。

 

「OKです、お疲れ様でした」

 

われ知らず笑顔になりながら、そう声をかける。
安堵の笑い声が生徒や教師から漏れる。
撮り終えたクラスはバスに向かい、次のクラスが……、やってこなかった。

 

クラスは4つあるはずだ。
次のクラスはどうしたのだろうか。
餅居が気づかぬうちにすでに4クラス分の写真を撮り終えていたのだろうか。
そんなバカな。

 

「あの、もうひとクラスありますよね?」

 

周囲にいた教師に尋ねてみる。先ほどの、養護教諭だった。

 

「はい。すみません、さっきの待ち時間で、ちょっと」
「ちょっと?」
「はい、あの、すみません、すぐ呼んできますので」

 

そう言った養護教諭は動かない。
すでに呼びに走っている教師がいるということなのか。

 

「さっき待ってるあいだに、ロータリーから出て行く車がいたので生徒たちを移動させたんです。今呼びに行ってて、すぐ戻ってくると思います」

 

養護教諭は申し訳なさそうにそう言った。
餅居が写真に集中しているうちに、車の通行の邪魔になっていたらしい。
今は通常のイルズクのチェックアウトの受け付け時間よりは早い時間帯のはずだが、客の車とも限らない。

餅居が文句を言う筋合いもなく、それ以前に餅居も、まぶたに気を取られているうちに通行の邪魔になっていた可能性に気づき、なぜか若干しょんぼりした。

 

しょんぼりしながら待っていたが、呼びに行ったという教師も生徒たちも、なかなか戻ってこない。

 

餅居は思い出す。
筋肉痛の生徒の、教師の、そして自分のゆるやかな動きを。
痛くてゆるやかにしか動けない。
その現象が今も生徒たちを襲っているとしたら、あとどれだけ待てばいいのだろう。

 

餅居は、白い息を吐きながら、ぼんやりと遠くを見た。
太陽は動いている。
雲は今もまだない。
やはり逆光だ。
ストロボを使うと、またまぶたの写真が増えるのだろうか。

 

もう。

餅居は思った。

もう、建物の写真だけを撮ればいいのではなかろうか。


そこに、あとから生徒と教師の写真を撮り、全員分を合成すればいいのではなかろうか。

 

ダメだ、それでは。
餅居は自分に反論を試みた。
そうしてできた写真は、誰も参加していない、存在しない合宿の写真と何が違うというのか。
バーチャル合宿だ。
仮想上の合宿だったのだ。
そうあきらめてみたらどうか。

 

心の中で、自分の反論に対しぼやき返してみたものの、そんなことを口に出して言えるはずもなく、ただ餅居は白い息を鼻から出した。

 

餅居がくだらない想像をして時間を潰しているあいだに、生徒のゆるやかな歩みがここまで届くことを願うしかなかった。

 

(おわり 29/30)

 

寿司を食べに行こうぜ

新人研修も終わり間近ともなると、大いに疲れがやってくる。
誰の疲れかと言えば、新人の疲れである。
疲れたなどと言える立場ではない。
だから余計に疲れるのである。

 

新人たちは、同期とともに、椅子に座り、基本的なビジネスマナーを、これから働くトラーリ株式会社の来し方行く末を学んだ。
そして、同期とともに協力し、研修のメイン企画の競技でタイムを競い合い、互いの成長を願い合った。

 

その道のりは険しかった。
彼らは味の濃い燻製を肴に、酒を飲んで仲間内でブツブツ言うことで鬱憤を晴らした。

 

研修のカリキュラムが終わった日の夜、宴会が催された。
会場は新人研修が行われてきた宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の第1棟の2階宴会場である。

 

女性に、いや、性別を問わず、「新入社員に飲み物をつがせるとハラスメントになる」と上司が恐れたために、基本的に手酌で宴会は進行した。
進行と言っても、特に芸をするでもない。飲みながら話をする会である。

 

「俺のアレルギーはさ」

 

湾田翔介がアレルギーの話を持ち出したのは、そんな宴会の終わり間際のことだった。
仕事に関する話の種も尽き、仕事とまったく関係ない雑談が始まっていた。

 

「ああ、ラテックス・アレルギーだっけ? 昨日、おまえが指切ったときに、俺が絆創膏渡そうとして断られたやつ」

 

隣にいた塔野雪晴が真っ赤な顔で返事をする。

 

「断わりたくて断ったんじゃねえ。仕方ねえだろ、絆創膏でアレルギー出るんだから」
「まあそうだよな……。大変だな、体質的なものは」

 

塔野は飲み始めから顔が真っ赤になっており、上司に「アルハラを疑われるから、それ以上アルコールを飲むな」との命令を下されていた。
その命令通りにアルコールの入っていない飲料のみを飲んでいたが、一度赤くなった顔はなかなか赤みが引かなかった。

 

「塔野くんはアルコール・アレルギーじゃないの?」

 

湾田と塔野の席のそばにいた女性社員・椎原澪が言った。
椎原は、酒類を一切飲んでいなかった。
「飲み始めるとキリがないから」というのがその理由らしかった。

 

「そうかなあ。顔が赤くなるだけで、ほか特にアレルギーっぽい症状ないんだけど」
「そうなの? じんましんが出るとかはないの?」
「ない。なんで顔だけ赤くなるのかな、飲みたいのに」
「俺のアレルギーにも興味を持ってくれ」

 

ドン。
湾田が、手に持っていたコップをテーブルに置いて言った。
塔野と椎原が、湾田を見る。

 

「ラテックス、まあいわゆる天然ゴムのアレルギーは、医者とかに多いらしいんだとよ。俺の場合は子供のころアトピーがあったり、アトピー関係ない病気で手術する必要があったりで、長いこと入院してたことがあんのよ。で、病気は治ったけどアレルギー発症するっていう。こないだネットで調べたら、日本では医者とか、ふだんラテックス使う職業以外じゃ珍しいって書かれてた。珍しくてもいるっての」
「お、おお」
「どういう症状が出るの?」
「かゆくなったり、腫れたり。俺の場合は、そこまでひどくもないんだけど」
「へえ。ゴムで」

 

塔野は、ゴムがダメなら避妊具を使えないのでは、と思いついたが、言うことを控えた。
上司がハラスメントを避けるべく全力を尽くしているというのに、自分がこんなところで同期にハラスメントをしている場合じゃない、という思いが塔野の頭をかすめたのである。

 

さらに、もうひとつ、塔野の脳裏をよぎった思い出があった。
昨夜、湾田に絆創膏を拒否られたときに言われたことだ。

 

「俺はゴムアレルギーだから、ふだんはラテックスを使っていない絆創膏を使う」と言われたのである。
ラテックスフリーのものが売られているらしい。
ということは、絆創膏以外のゴム製品でも同じことなのだろう。


塔野がそんなことを思い自分を納得させているあいだも、湾田はコップの中のビールをちびりちびり飲みながら、ろれつの怪しい口調で説明を続けていた。

 

湾田いわく、ラテックスに含まれる複数のタンパク質に対し体の中にIgE抗体ができ、過剰に反応することでアレルギー症状が引き起こされる。
その抗体と共通の抗原性を持つタンパク質にもアレルギーが起きる。

 

「それを交差反応つって、要はひとつのアレルギーがあると、ほかのものにもアレルギーが出たりするってことなんだけど」
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な」
「全然違う。別に俺はラテックスを憎く思っているわけじゃない」

 

湾田は不機嫌そうに断言した。
適当に言った言葉に不機嫌になられ、塔野はしばし口をつぐむことにした。

 

「バタフライ・エフェクトみたいな?」

 

椎原が麦茶の入ったグラスをテーブルに置いて問いかけた。

 

「どうだろう、それも違うような」

 

湾田は考えつつ言った。


塔野は、大皿からサーバースプーンを手に取り、アボカドとエビのサラダを小さな皿に移した。旅館が用意した宴会メニューのうちのひとつだった。
小皿に取り分けたアボカドの小さなブロックをフォークで突き刺し、口に放り込む。

 

「それうまいのか?」

 

湾田が塔野に尋ねた。

 

「いや……、アボガドだねって感じ」
「なんだそれ」
「素材そのままの味」

 

塔野は、アボカドをもうひとつフォークで突き刺し、口に入れた。
何も食べずに飲むせいで顔がやたらと赤くなるのかもしれない。
酒以外のものを胃に入れたほうがいいのだろうか。
特に根拠もなくそう思ったのである。

 

「うん、アボガド」

 

味についての感想はこれだけである。
椎原も、アボカドのサラダを取り分け、食べ始めた。
あまりにも言葉足らずな塔野の感想に、自分も食べてみたくなったらしい。
そして咀嚼し、飲み込んでから言った。

 

「ほんとだ、アボカドだ」

 

湾田は、塔野と椎原の顔を順に見たあと言い放った。

 

「アボ『ガ』ドなのか、アボ『カ』ドなのかよくわからんけどさ。俺も食べてみたい」
「食べれば。皿いる?」

 

塔野は、湾田の返事も聞かずに小皿を差し出した。
湾田は、それを受け取ると、受け取った小皿を見つめてうつむいた。

 

「さっきの、アレルギーの話なんだけど。ラテックス・アレルギーがあるやつは、アボカドにもアレルギーある可能性があるらしい」
「そんなんあるの?」

 

塔野が問い返すと、湾田は黙ってうなずいた。
椎原が、横に置いたポーチともクラッチバッグとも言えそうな小さなバッグから携帯を取り出し、なにやら操作したあと、その画面を見ながら言った。

 

「ほんとだ。アボカドだけじゃなくて、キウイとかバナナとかも書いてあるけど」

 

携帯で検索したらしい。
湾田はうんうんと、うなずきながら言う。

 

「そう。俺、手術でアレルギー出るようになったんだけどさ、それまで普通に食べたことあるのよ、キウイとかバナナとかは。唯一食べたことなかったのがアボカドなんだけど、アレルギー出る可能性あるから食えんのよ。だからよりいっそう食いたくなるっていう」
「いや、食っちゃいかんだろ」
「症状が重いとアナフィラキシー・ショックが出る可能性もあるって」

 

椎原が携帯を見ながら言う。
塔野は、先ほど自分が手渡した小皿を、そろりと回収した。
小皿のフチに指をかけ、浮いた手のひらでフタをした塔野を尻目に、湾田は言葉を続けた。

 

「そこまで重く出ないと思う。俺の場合、ラテックスのアレルギーもそこまで重くないし。ちょっと皮膚が真っ赤になるくらいで」
「いや、わからんだろ。食べ物と非食べ物だし。唐突に重いのが来たらどうすんの」
「そうだよ。それに、何もここで試さなくても。家で食べれば良いのに」
「だってみんな食べててうまそうだから」

 

湾田が無愛想に放った言葉に、塔野と椎原がほぼ同時に反応した。

 

「なんでスネてんだよ」
「意味分かんない」

 

が、同期の言葉をまったく聞いていないらしい湾田は、無愛想な口調のまま続けた。

 

「俺も食べたい」
「いや食べんなよ」
「やめなさいってば。アレルギーなめてんの?」
「アレルギーをバカにしてんのはそっちだろ」
「バカにはしてなかったけど、バカにしてるように見えたとしたら、アレルギーじゃなくておまえをだ、湾田。俺はおまえをバカにしてる」
「あんだと?」
「そうだよ、湾田が悪い」

 

塔野と椎原の、湾田に対するディスが最高潮を迎えた。
湾田が、サーバースプーンをつかもうとする。
その湾田の手を、真っ赤な顔のままの塔野が押さえつけた。

 

「やめとけって」
「食べたい。俺はアボカドを食べたいんだ」
「危ないって……」

 

椎原も、湾田の手を押さえる。
塔野は、椎原に向かって言った。

 

「俺が湾田を押さえてるうちにすべてのアボカドを皿に取るんだ、椎原さん」
「わかった」

 

椎原は、湾田を押さえ込んでいた手を離すと、サーバースプーンと小皿をつかんだ。
料理の入った大皿は何皿かあったが、アボカド入りの皿はひとつだけだった。
その皿から、椎原がアボカドを器用にサーバースプーンですくい上げて小皿に取り分けていく。

 

「あっ、ちょっ、俺も。俺も食べる」
「はいはいダメですよ~」

 

塔野が湾田を押さえ込みながら、なだめる。
自分はいったい宴会で何をやっているのだろうか、という疑問が塔野の脳裏をかすめたが、気にしないことにした。

宴会場からは人が減っていた。
気づくと、いつの間にか上司の姿もない。

酔い潰れて部屋に送り届けられたのだろうか。
塔野は、湾田のアボカドへの謎の執着のせいで、周りの状況がよくわからなくなりつつあった。

 

「取り除いたけどさ、塔野くん」
「おっ、お疲れさん」
「うん。でもさ、アレルギーってあれだよね? 一緒のお皿に入ってたりすると、アボカド自体を取り除いても、同じ大皿の料理食べたら、たぶん症状出るよね?」
「あ、そうか」

 

共通の調理器具を使っているとしたら、湾田は、この場にあるすべての料理を食べられない可能性がある。
しかし、自分では酔っていないつもりでも酔いが回っていたのか、塔野と椎原は、このアボカドの大皿さえ何とかすればいいような気がしてしまった。

 

「じゃあもう、食べるしかないね」
「え」
「私がこのお皿のおつまみ食べとくから。塔野くん、湾田くんを引き続き押さえてて」
「あ、うん」
「ああっなんだよそれ椎原さん」

 

湾田の叫びもむなしく、椎原は大皿のつまみをひょいひょいとフォークで口に運んだ。

 

「ああ……、っていうか、椎原さん、なんでそんなうまそうに食うの……」

 

塔野に押さえつけられ、椎原の食べっぷりを目の前で見せつけられた湾田は、反抗する力をなくした。
おとなしくなった湾田を離すと、塔野はさきほど椎原が取り分けた、小さな山のようにアボカドが積み上げられた小皿に手を伸ばした。
椎原が、口の中のものを飲み込んでから塔野に声をかける。

 

「そっちは塔野くんお願い」
「わかった」

 

何をわかったのか自分でもよくわからなかったが、塔野はとりあえずそう返事した。
アボカドが山盛りになった小皿を見る。
塔野は特にアボカドを食べたいとは思っていなかったが、これも湾田のためである。
アボカドを見ていると食べたくなってしまうのかもしれない。

 

(ならば、俺が食べる――!)

 

塔野は、そんな使命感とともにアボカドをフォークでかっ込んだ。

 

「全部食った……」
「……うぷ」

 

小皿のアボカドを一気に食べた塔野は、何も言うことができなかった。
湾田の呪詛のようなつぶやきだけが辺りに漂う。

 

「覚えてろよ、塔野……。目の前でアボカドを全部持ってかれたうらみ、いつか晴らすからな……」
「別に塔野くんは嫌がらせで全部食べたわけじゃないでしょ」

 

大皿のアボカド(を取り除いた)サラダを平らげて平然としている椎原が、湾田をたしなめた。

 

「がんばって食べたのに、なぜ恨まれるのか……。湾田、おまえひょっとして、性格悪いのか」
「知らん。自分の性格がどうであろうとどうでもいい。エントリーシートには『長所は最後まであきらめないところ、短所は大雑把なところ』とか書いたが、どうでもいい」
「嘘は言っていない気がするのが怖い」

 

椎原がポツリと、湾田のエントリーシートの「自分の長所と短所」に関する感想をこぼした。
最後まであきらめない人間がうらみを抱いた場合、どうなるのだろうか。

 

塔野は、アボカドの脂っこさが残る口の中をどうにかしようと、先ほどから飲んでいたウーロン茶の入ったコップを手に取り、ごくりと飲み干す。

 

「脂っこい。よく言われるけどさ、アボガドをわさび醤油で食うとトロに似てるって。確かに、脂っこさは似てるかもな」
「そういえば、私も『アボカドと卵黄を混ぜるとウニ』とかも聞いたことある」

 

塔野の言葉に椎原が付け足した。
それを聞いていた湾田が、不意に言った。

 

「よし、決定だ」
「何が」
「塔野、椎原さんも。研修終わったら、俺と寿司を食いに行こう」
「寿司を?」
「寿司を。トロとウニを食いに行こう」
「そんな金があると思うのか、俺に……」
「じゃあ、俺がおごる。アボカド寿司もやってるとこがいい」
「それ大丈夫なの? アボカド握ってるお寿司屋さんで握ったお寿司って」
「じゃあ、目の前で握る寿司屋じゃなくていい。どっかでアボカド寿司買って、トロとウニも買う。そんで、俺がトロとウニを食ってるとこを見ながら塔野、おまえはアボカド寿司を食え」
「な……なんだそれは」
「何の意味があるの……」
「それで平等だ」

 

湾田が、自らうなずきながら言った。
塔野は、湾田の言ったことの意味を考えようとして、わけがわからなくなった。

 

胸焼けの予感がしていた。脂っこいものを食べすぎたのだろうか。
なんで俺がこんな目に合わねばならんのか。
それは、すべてのアレルギーの人間が言いたいことと同じなのか。
平等とは何なのか。

 

塔野はぐるぐると渦巻く考えを、ウーロン茶とともに飲み込んだ。
あまりぐるぐるが続くと、胃の中のアボカドが戻って来る予感がしたのだった。

 

脂っこいものを食べたい湾田の気がしれない。
気が済むまで湾田はトロでもウニでも食べればいい。
塔野はそう思い、トロとウニを食べて大喜びする湾田を思い浮かべた。

 

大喜びしているのならいいのかもな、という気がしてきた。

 

塔野は心のメモに、「湾田(と椎原さん)と寿司を食べる」、と書き込むと、またひとくちウーロン茶を飲み込んだ。

 

(おわり 27/30)

 

バトンタッチ・積み木

淵見梨穂は、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」第2棟の正面入り口から外に出た。


第2棟での朝の打ち合わせを終え、自分が泊まっている第3棟に戻るところである。
淵見は、養護教諭だった。
植矢高校にはふたり養護教諭がいて、そのうちのひとりである淵見が、今年の1年生のオリエンテーション合宿の引率として参加していた。

 

淵見は、第2棟と第3棟のあいだにあるイルズクの裏庭を歩いた。
実際は特に名はついていないようだが、日当たりが悪いために裏庭と呼びたくなる狭い空間だ。
日当たりが悪いせいなのか、ほかの人影は見えない。
淵見は、その裏庭を通って第3棟の正面出入口に向かおうとして、ふと思い直した。

 

日当たりが悪いせいなのか、裏庭に溶けないままの雪が残っていた。雪を手に取る。
冷たい。
淵見は防寒用の装備を身につけていなかった。
しかし、冷たさに震えながらも、なぜかその場を離れられない。
学校行事で泊まりに来ているため、ひとりになれる場所が裏庭くらいしかないからだろうか。

 

気づくと、淵見はおにぎりを握っていた。
雪のおにぎりだ。
何をやっているのだろう、私は。
淵見は自分でもそう思い、雪でできたおにぎりを砕いて周りの雪に混ぜようとした。

 

が、もったいないような気がしてきて、もう少しおにぎりに雪を足し、高さが30センチほどの巨大おにぎりにしてみた。
おにぎりが巨大だと驚かれるだろうか。
誰が見るのか、誰が驚くのか自分でもわからなかったが、とにかく淵見はそう思った。

 

巨大おにぎりの面影を消そうと、さらに雪を足し、削り、ならす。
できた。
高さ30センチ、幅30センチ、奥行き20センチほどの三角柱である。
これが何なのかは淵見にもわからなかったが、とにかくおにぎりの面影はないから、おにぎりと間違われることもないだろう。

 

手が冷たい。
早く部屋に戻ろう。
淵見は、その三角柱を裏庭の隅の地面の上に置いて、第3棟に戻った。

 

***

 

「おにぎり握ったこともない人に余計なこと言われたくない」

 

石尾伝二は、先ほどの妻の言葉を思い出した。
イルズクの第2棟を出て、第1棟の正面入り口に向かうところだった。
石尾は会社の新人研修に上司として付き添い、イルズク第1棟に宿泊していた。
時を同じくして、石尾の妻・志乃枝も別の団体の旅行で第2棟に宿泊している。

研修のすきま時間に妻に会いに行き、今日もまたつれない態度を取られたところだった。

 

妻は怒っていたのである。
仕事で来ているのなら仕事に集中しろと。
夫婦で話すのなら、夫婦で旅行に行けばいいと。
そこは別にすれば良いのに、なぜ混ぜてしまうのか。
公私混同をなぜしてしまうのか。
石尾は4泊5日のあいだ、空き時間に妻の様子を見に行っては責められることを繰り返していた。

 

責められたついでに、きつめの言葉を今日もぶつけられた。
それが「おにぎり握ったことない人に」だった。
確かに石尾は、おにぎりを握ったことはなかった。
なぜなら、それほどおにぎりが好きではなかったからだ。
だが、妻は「台所仕事を私ひとりに押しつけて」という含みを持たせた言い方をした。

 

(おにぎりを作るくらいなら俺にもできる)


なぜか石尾はおにぎりに固執した。
妻が言いたいのはおにぎりを握れるかどうかではなく、夫婦の役割分担についてなのだろう、と想像はできた。
が、石尾が直接責められたのは、おにぎりを作れないことである。

 

「きっと妻はこう言いたいのだろう」と想像し、それを外しては妻に怒られることが常だった石尾は、妻が本当に怒っているときは、直接言われたこと以外を勝手に脳内で補完しない習性が身についていた。

察することをやめた理由は「勝手な想像をしても、どうせ外すから」である。


(おにぎりくらい)
(おにぎりくらい俺だって)

 

そんなことを考えながら歩いていると、石尾はいつの間にか狭い場所に出ていた。
第2棟から第1棟に行くだけなら通る必要のない場所だったが、考え事をしていたせいで、ウロウロと狭い空間に迷い込んでしまったらしい。


すでに日が暮れていて、屋外灯がついていたが、この裏庭のような場所には屋外灯の明かりも届かない。
だが、雪が積もっているせいなのか、辺りは薄明るい。

 

「薄明るい」のか「薄暗い」のかわからぬ空間で、石尾は三角柱を目にした。
巨大なおにぎりのような、いやおにぎりにしては巨大すぎる三角柱だ。
何だろうこれは。

 

それは、雪を固めて作ったブロック、のようなものだった。
誰が作ったのだろう。
なぜこんな所に。

 

「……」

 

少々考えてから、石尾は自分も同じものを作ってみることにした。
さきほど同室の部下から連絡があり、ここ20分ほどは部屋に戻れないことが判明したばかりだった。
鍵を持っているのが部下なので、石尾が部屋に戻ったところで入れないのである。

 

フロントに申し出ればスペアキーを借りられるのかもしれなかったが、妻に言われた通り、公私混同を堂々としていたため、なんとなく言い出しにくかった。
20分、部屋に戻るのを遅らせればいいだけだ。
そういったわけで、石尾は時間を潰す必要があったのである。

 

(俺にだって、おにぎりくらい作れる)

 

妻に責められ、少々自信をなくしていたこともある。
作っているのはおにぎりにしては巨大で、おにぎりとは呼べぬ雪のブロックだったが、石尾はかまわなかった。
裏庭の片隅にしゃがみ、スーツに雪がつくのもかまわず、ブロックを形作っていく。

 

そうして、三角柱のような何かを作った。
やり遂げた気分だった。
作っているうちに20分以上が経過していた。


(よし、戻ろう)


石尾は、自分が作った謎の三角柱を、最初の三角柱の隣に並べ、第1棟に戻った。

 

***

 

次に裏庭を通りかかり、謎の三角柱に気づいたのは加藤兼人だった。
加藤はイルズクのスタッフである。
第2棟から出て、その横にある、燻製などを作る工房に向かう途中だった。

 

三角が並んでいる。
奥行きのある三角が。
誰が作ったのだろう。
お客様だろうか。

 

加藤は少し考え込んだあと、雪のブロックをもうひとつ作り、ふたつの三角のあいだに足してから工房に向かった。

 

***

 

翌日。
淵見は、第2棟に生徒の様子を見に行った。
昨夜、なぜか、はだしにジャージのまま外に出て凍えた生徒がいたのである。

 

その生徒は、いつまで経っても顔色が悪いままだった。
もともとこういう顔色だっただろうか、それとも凍えたときのダメージが影響しているのだろうか。
見れば見るほど、見ているこちらが不安になる顔色の生徒を心配して、淵見は朝からその生徒の部屋を訪ねて体調を確認した。

 

しばらくその生徒の様子を見ていたが、顔色はやはり悪いままだった。しかし、顔色が悪いだけで体調が悪いわけではない、らしい。
よくわからない。
それ以上できることもなく、淵見は自分に割り振られた部屋に戻ることにした。

 

来るときには生徒が気がかりで見落としていた。
部屋に戻る今、やっと気づいた。
昨日、裏庭の片隅、自分が作った三角柱の周囲に、ブロックが増えていることに。

 

何だろう。
淵見が作った三角柱の横にもうひとつ、同じくらいの大きさ、同じ形のブロックができていた。

そのふたつのブロックのあいだに、五角柱、野球のホームベースを分厚くしたようなブロックが挟まっている。

 

何だろうこれは。
誰かが淵見の作ったブロックを見て、創作意欲がスパークしてしまったのだろうか。
しかしこれは何なのだろうか。
ブロックが積まれている以上のものには見えない。

 

淵見は、少々考えたのちに、「凹」の文字に似た形のブロックを作った。
それを、逆さにしてホームベースの上に載せる。
凍りついて地面と一体化しているのか、土台となっているふたつの三角柱は微動だにせず、揺るがない。

 

これでよし。
何なのかがよくわからないので、これでいいも何もない気もしたが、とにかく淵見はそう思った。
それから部屋に戻るべく、第3棟へと移動した。

 

***

 

雪が降りそうだ。

 

石尾は、また部屋を締め出された。
同室の部下が、またもや鍵を持ったまま部屋を出ているのである。


連絡して、どこにいるのか本人に聞いてもいいのだろうか。
今は、研修の合間の休憩時間である。
午前のカリキュラムが終わり、午後からの講習に備える休憩時間である。

 

石尾は、講習に必要なノートPCを、部屋に置いてきていた。
午前の部が終わったらいったん部屋に戻り、午後の準備をする予定だった。

しかし部下がいないので、鍵を持っていない石尾は部屋に戻れない。

 

休憩時間にどこにいるのか聞くのはパワハラなのだろうか。
何のハラスメントなのかは石尾にはよくわからなかった。
しかし、石尾はとにかくハラスメントをしてしまうことを恐れ、部下が戻るのをあと15分だけ待つことにした。

 

待っているあいだ、ヒマだったのでまた妻の部屋を訪ねた。
訪ねて、またもやキツめの言葉をいただいた。

イルズクを10分間放浪することになった。
所在ない。

 

石尾は、妻が宿泊している第2棟から出て、第1棟に向かおうとした。
途中、やることがないので建物の周りを無駄に回った。
そして、第2棟の裏庭で、片隅の雪のブロックが増えていることに気づいた。

誰かが三角柱のブロックに、別のブロックを足している。

 

(しかし、これは……。これはいったい何なのだろう)

 

石尾は、積み重ねられ、時間が経ったことで凍りついているブロックをしばし見つめた。

それから、もうひとつブロックを作った。
今は雪は降っていないが、裏庭は日当たりが悪く、昨日までに積もった雪が溶けきっていないため、材料が足りなくなることはなかった。

 

結局、石尾は、丸い形のブロックを作った。
それを、凍りついたブロックの群れの上に載せる。


これは……、これはいったい何なのだろう。
できたものを見ても石尾はそう思った。
首をかしげながら、石尾は第1棟の中に戻った。

 

***

 

その翌日。
加藤は、第2棟の非常口の鍵を開け、そこから顔をのぞかせて外を見た。

 

「外に足跡はない……。手がかりがあったとしても雪のせいで消えてますね。その男は一昨日の停電のあいだに従業員用トイレにいたんですね?」

 

加藤の背後にいた渡瀬が、うなずきながら答える。

 

「はい。俺はお客さんが従業員用トイレに紛れ込んでいるのかと思っていて……」
「お客様、ですかね……。お客様だとして、どのお客様か……、渡瀬くん、わかりますか?」
「いえ、俺は直接顔を合わせるわけじゃないので」
「そうですよね。フロントも見てないんですよね。非常口からフロントに行ったわけでもなく。ふだん非常口は鍵がかかってるんですが、ここの鍵は停電すると解錠されるタイプですからね」
「一昨日も開いてたってことですね。そこから入って……、トイレを使いたいだけだったんですかね」
「それだったら正面玄関から入ってフロントに言ってもらえれば、お客様用トイレをお貸ししただろうに」
「ですよね……、あの、あれ何ですか?」

 

渡瀬の指摘で、加藤は裏庭の片隅にあるものに気づいた。
加藤が、それを説明するのにしっくりくる言葉を探している様子を見て、渡瀬はさらに問いかけた。

 

「雪像ですかね……?」
「雪像……、雪像ですかね、これ……。一昨日、私がこれを見かけたときよりも、だんだん増えていっていますね。最初はふたつの三角が横に並んでいるだけだったんです。昨日どうなっていたのか、私は休みだったので知りませんが、今日こんなことになっていますね」
「何ですかね、これ」
「私のほうが知りたい。何ですか、これ」
「俺にもさっぱり」

 

ふたりで首をかしげながら、裏庭の片隅の雪のブロックの群れを眺める。
昨日雪が降ったことと、時間が経過していることもあるのか、ブロックは最初の形よりもムクムクと大きくなっているように加藤の目に映った。

 

「人ですかね。メカですかね」

 

渡瀬がポツリと言った。
加藤は、自分の背後にいる渡瀬の顔を見たあと、雪のブロックに視線を戻した。
それからおもむろに口を開いた。

 

「人……、メカ……。そう言われれば……そう見える、よう、な? いえ、やはり雪のブロックに見えますけど」
「上に載ってるのが頭に見えませんか? で、あれが足で」
「ああ、ふむ。なるほど……。で、これをどうすればいいと思いますか、渡瀬くん」
「『どうすればいいか』というと……、これを片付ける方法ですか?」
「いえ、お客様が遊んでいらっしゃるのだろうし、あまり早く片付けすぎてもどうかという感じはします。そうでなく、これに付け足すとしたら何でしょうか」

 

唐突に出された難題に、渡瀬は黙った。
そして、黙ったまましばし考え込んだあと、首をかしげながら答えた。

 

「何だろう……、キャタピラとか」

 

その言葉に、加藤は真顔でうなずいた。

 

「じゃあ、渡瀬くん、キャタピラ作っといてください。今はしばらくヒマでしょう」
「え。俺が、ですか」
「頼みましたよ。それでは」

 

加藤は、工房の方向に去って行った。
裏庭に残った渡瀬は、加藤のうしろ姿をしばし見つめたあと、片隅の雪ブロックの塊に視線を移した。

 

これは何なのだろう。
いや、キャタピラだ。
これが何なのかはわからないが、とにかくキャタピラを作らねばならない。

 

冷えて地面に凍り付いた雪ブロックたちを、キャタピラに乗せることができるだろうか。それ以前に、自分に、一見してそれとわかるキャタピラを作れるのだろうか。
さまざまな疑問がよぎり、消えていった。


渡瀬はその場にしゃがみ、雪をかき集める作業を始めた。

 

 

 

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その後できた雪像

 

(おわり 26/30)

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

文章で立体を説明する、という試みです。しかしマイ文章のこの説明で、この雪像が想像できるのだろうか…。はじめに雪像をザックリと決めて、それを説明する感じで書いております。

しかしこの説明で、この雪像が想像できるものなのか…(2回目)。

説明できている自信がまったくないので絵を描いてみました。

この絵も何か…ちゃんと雪っぽく見えるのだろうか等の疑問がありますが。

 

絵を描いて思ったんですが、この雪像はいったい何なんでしょうかね…。

雪の像だから雪像と言っていいと思うんですけども。

まったく縁もゆかりもない、ただ同じ宿泊施設に泊まっているだけという関係の人たちが、なぜか協力し合って…いるわけじゃないんだけども、まるで協力しあっているかのようにわけがわからないまま適当に行動してたら、最終的にみんなで雪像作ったことになりました、というアレですね。どれなのかよくわかりませんが…。

空気読むのが強制だとつらいでしょうけども、正解は誰にもわからないし、正解しなくても問題ない中、空気で方向性を読む人たち。たぶん全員間違ってるんだと思います。

 

 

あのころの彼らはどこへ

気になる。
塩分が気になる。
あの客たちは、塩分を取り過ぎているのではないか。

 

宿泊施設「ログキャビン・イルズク」の厨房担当・西間紀夫は、燻製工房の入り口で、立ったまま顔をしかめた。
そこには西間ともうひとりの人物がいた。
加藤兼人である。

 

加藤は、イルズクのフロント、コンシェルジュ、備品管理、営業、その他諸々、いくつもの役割をひとりでこなしている。
イルズクは宿泊施設としては規模が小さいため、スタッフひとりが何役かこなすことが多かったが、加藤はその中でもひときわ役割が多かった。

 

「このところ、土産物の燻製が飛ぶように売れています」

 

その加藤が西間に報告する。
西間が、厨房と土産物(食品)の製造を担当しているからである。
加藤はイルズクの建物の中にある、すべての土産物ショップの商品管理をも担っていた。

 

「ああ……、それが問題だな」

 

西間は自分の懸念が当たっていることを予感し、ため息をついた。

 

「これを見てください、西間さん」

 

西間が加藤の差し出す携帯の画面をのぞき込むと、Twitterの画面が表示されていた。

 

「ツイッタってやつか」
「はい。昨日、うちの公式アカウントがした、燻製についてのツイートに彼らがリツイートしていて、そのリツイートに大量のリプライがついています。すべて彼らがつけたものです」
「全部『燻製食った』っつってるな」
「はい。さらに、第1棟の客室担当の千代田さんにも話を聞きました」
「お。千代田さん、なんて?」
「ふだん、お客様のゴミをのぞいたりはしないのに、ゴミがあふれていたので嫌でも目に入ったらしいです。このお客様たちの部屋のゴミ箱に捨てられていた、大量のパッケージが。すべて、うちで販売している燻製のパッケージです」
「もう確実に食ってるじゃねえか……」
「はい」
「塩分取り過ぎじゃねえか」
「おそらく」

 

話題に上っているのは、新人研修で、ここイルズクに宿泊している団体客である。
彼らが泊まり始めてから、イルズクの中にある土産物屋の売り上げが急上昇した。
土産物として売っている、手作りの燻製がやたらと売れ始めたのである。
それだけならよかった。
土産物として買っているのなら、むしろ喜ばしきことだった。

 

しかし、途中でそれは懸念に変わった。

土産物として買っているにしては、売れすぎている。
商品を補充するたびに売れるのである。
持ち帰るために買っているのではなく、その場で食べるために買っているのではないか。
そんな疑念を、西間や加藤が感じるまでに時間はかからなかった。


そして本日、なんとなく感じていた雲行きの怪しさを、加藤はあえて言葉にした。
西間は、腕組みしながら加藤に尋ねた。

 

「しかしだ。俺らが、お客様にそこまでおせっかいしていいのかい? 塩分取り過ぎですよ、なんて」
「ええ。われわれは彼らのお母さんでも主治医でもないので、確かに干渉しすぎな気がします」
「だよな」
「しかし、それとは別に、このイルズクに泊まりに来たお客様がもしかしたら体調を崩されるかもしれない可能性があるということです」
「誰かがここで倒れるかもしれないってことか」
「倒れるかどうかはわかりませんが、その可能性はあります」
「あるよな。高血圧だの何だの、可能性はあるよな。なにしろ急に塩分取り過ぎだし。いくら若いとは言っても。そもそも我々が知らされていないだけで、持病持ってるお客さんがいないとも限らんし」
「はい」
「作ろうと思えば、減塩メニューを作ることはできるよ。塩分を減らした分、ほかの風味で補えばいい。だがそうすると、風味を足すためにほかの食材を使うことになる」
「待ってください、特にリクエストされたわけでもないのに減塩メニューですか」
「だって仕方ないだろう、このままではほぼ確実に誰かが体調を崩す、だけど助言すらもできない、なぜならお母さんみたいだから」
「……」

 

西間は手をひらひらと振った。

 

「その状況で、俺たちにほかにできることがあるかい? 加藤さん」
「トラーリ株式会社の社員さんに、新人さんたちの健康管理に関して、相談してみることにします」

 

加藤はそう言うと、工房の入り口から離れ、イルズクの客室棟に戻って行った。

 

あとにひとり残された西間は、ため息をつくと、工房の中に戻った。
入り口で、マスクと防塵服、そして手袋を再び身につけ、滅菌処理をしてから工房の中の作業台に近づく。
在庫が少なくなりつつあった燻製を作る作業の途中だった。

 

食材に下味をつけてから塩抜きをし、乾燥させてから燻煙し、熟成させる。
それを真空パックにパッケージングして完成である。
できるまでに4日ほどかかる。
今、研修で宿泊している団体客は、今作っている燻製が土産物屋に並ぶころには研修を終え、イルズクを発っているだろう。

 

だから今から作る燻製は、今まで通りでいい。
問題は燻製が品薄になっているあいだに土産物屋に何を並べるかということと、塩分過多になっている研修中の社員たちの食事メニューを、減塩のそれに変えるかどうかということだった。

 

加藤の言うとおり、特にリクエストされたわけでもないのに減塩メニューに変えるのも問題がある。
本人たちが望んでいるわけでもないメニューを、勝手に出してもいいのだろうかという問題だ。


そのほかには、コスト面の問題がある。風味を補うための食材は、塩よりも高価なことが多い。イルズクではそれほど廉価な塩を使っているわけではないが、それでもほかの食材よりは安い。

西間はそんなことを思いながら、下ごしらえ用のソミュール液を作り、サーモンの下ごしらえを済ませた。
つけ込んでいるサーモンに透明な覆いを掛けると、次の下ごしらえにとりかかる。次はニシンである。

 

「トラーリ株式会社の方とお話をしました。少々お母さんチックですが、新人社員の方々に、塩分を控えるよう言ってもらえることになりました」

 

加藤が工房の前で報告した。
塩分過多への懸念を話し合った翌日のことである。

 

「そうか。じゃあ、食事の問題は解決したってことでいいのか」
「いえ、それはまだ。先輩から注意されて、新人さんたちが言うことを聞いて塩分を自ら控えるかどうか、わからないので」
「子供か……」

 

西間は工房の前で、頭を抱えた。

 

「まあまあ。西間さんが責任を感じすぎないようにしてください」

 

加藤は取りなすようにそう言って、立ち去ろうとした。

 

「加藤さん、待った。土産物屋に並べる物なんだが」

 

西間はそう言って加藤を呼び止めると、いったん工房の中に戻り、バットに入った試作品を持って工房の外に戻ってきた。

バットのラップをまくり上げ、加藤に勧めてから言う。

 

「次の燻製ができるまで、土産物屋の棚に空きができてしまうだろ。そこにこの燻製を置いたらどうかね」
「これは……」
「パウンドケーキの燻製。第2棟の甘木さんが昨日、差し入れ持ってきてくれたろ。マドレーヌを。別に対抗するわけじゃないが、俺も焼き菓子を作ってみた。これだったら塩漬けと塩抜きの工程がない分、すぐにできるし」

 

加藤は、バットに添えられていた、小さなトングのようなものを手に取り、パウンドケーキの燻製を一切れつまみ、ひとくち食べた。

 

「……これは……。なるほど。これを置きましょう。すぐに取りかかってください。この試作品、持って行っても?」
「どうぞ」

 

加藤は自分がつまんだ燻製をすべて口に放り込み、バットにラップを再びかけると、それを持ってイルズクの第1棟に向かって戻って行った。

 

数時間後。
加藤は、イルズク第1棟ロビーにある土産物を販売するコーナーに、ワゴンを押して近づいた。
ワゴンには、新商品のパッケージが積まれている。

 

「川越さん、燻製が売れて、空いている棚にこれを置いてください」
「あ、はい。新しい燻製ですか? わぁ、ケーキですか?」
「ええ、パウンドケーキの燻製です。今、塩味の濃い、いつもの燻製も西間さんに作ってもらっているところですが、できるまでのあいだ、甘いものを燻製にするのもよいだろうということで。正式な商品ではないですが、お店に並べる話は通してあります」
「あ、はい。わかりました」

 

第1棟の土産物販売コーナーの担当者・川越は、すでにパッケージに入れられているパウンドケーキの燻製を加藤から受け取ると、棚に並べた。
加藤は、パッケージングされた商品とは別の、簡易包装のパウンドケーキを川越に渡してから言った。

 

「これは、試食用です。あとで食べてみてください」
「はい」

 

本日のトラーリ株式会社は、イルズクにて講習会を1日中おこなうと聞いている。
夜になるまで研修は続く。
社員たちが燻製を買って食べるのは、夜になるだろう。
加藤は、そう考え、土産物売り場をあとにした。

 

***

 

「ひとつも売れていない……ですって……!?」
「はい……。並べ方が悪かったんですかね。もっとたくさんPOPを立ててみましょうか」
「いえ、様子を見ましょう」

 

夜になって、スタッフルームにて顔を合わせた土産物ショップの担当者・川越から、期間限定販売品の売れ行きについて報告を受けたのだった。

 

ひとつも売れていない。
ひとつも。
川越の言葉が、加藤の胸の内でぐるぐると回りながら沈んでいく。

 

どうしたことなのだろう。
甘いせいなのだろうか。
塩けのあるものでないと売れないのだろうか。
トラーリ株式会社の社員たちは、人間以上に塩分を欲する何かを体内に宿しているとでもいうのか。甘みではダメなのか。塩分のみを糧とする生き物が体の中にいるのか。

 

そんなわけはないと思いつつも、加藤は自分の想像にぞくりとする。
今夜は、眠ったら、塩をなめる妖怪の夢を見そうだ、という予感を感じた。

 

翌日も、甘い燻製の売れ行きは芳しくなかった。
甘い燻製だけではない。
第1棟のすべての土産物の売れ行きが落ちていた。

 

第1棟には新人研修のトラーリ株式会社の社員たちしか泊まっていなかった。
その全員が土産物を買うことをやめたのである。

 

(体内の妖怪が塩分を欲するあまりに、宿主の土産物購買欲をコントロールしているのか……)

 

などと思って現実から目をそらそうとした加藤だったが、そうではないことに気づいてはいた。

おそらく、金がつきたのだ。

 

身もフタもない上に客に対して失礼な物言いなので、決して口には出さなかったが、加藤はそう感じていた。
土産物が高いというそれだけの理由なのだろう。
値下げしたところで効果があるとは思えなかった。
研修の残り日数はあと1日だ。
いや、残り日数が何日であろうと、もうすでに土産用の商品は買い終わっていたのかもしれない。

 

いや違う。
そもそも土産物が毎日バカ売れするということ自体が不自然だったのだ。
全国的に人気のある商品ならそういうこともあるのかもしれないが、イルズクの土産物はそこまでの知名度を誇ってはいなかった。
思ったよりもおいしかった、とは思いこそすれ、毎日毎日食べたいかというと、そうでもなかった。
所詮は付け焼き刃の小ブーム。
そういうことなのだろう。

加藤は、胸の内に風が吹き抜けるのを感じながら、諦観の境地に至った。

 

もはやできることもない。
予定通り西間さんには、塩けの多い燻製を作ってもらう。
自分は、ただ仕事をするのみ。

 

そう己に言い聞かせる加藤の脳裏に、猿のような、猿にしては骨ばっていて背が高いような、妖怪としかいえぬ生き物の姿が浮かんだ。
塩分を欲する妖怪である。
また誰かの体内に入り込み、塩を欲する発作を起こしてほしい。
いや、そんなことはするな。

 

いつもの業務をこなすべく移動しながら、加藤は己の空想をもてあそんだ。
いつか名前をつける日が来るのだろうか。
すぐに忘れるのだろうか。

 

存在しない妖怪は、愛嬌のある顔をこちらに向け、とぼけた顔で尻をかいている。

 

(おわり 25/30)

 

ハズレのマドレーヌ

甘木莉子は迷っていた。

 

そもそもの始まりは、去年のバレンタインだった。
バレンタインにチョコをもらってしまったのである。
もらってしまった、と言っても、迷惑だったわけではない。
むしろ、うれしかった。
男性から女性にチョコを贈る、という発想そのものが甘木にとっては好ましかった。

 

くれたのは渡瀬という人物である。
そこから、お付き合いと言えるのかどうかよくわからない行き来が始まり、今に至る。
今年のバレンタインもチョコをもらった。
ホワイトデーに何か返さなくては。

 

そう思っていた甘木は、渡瀬から、とある告白をされた。
愛の告白ではない。不倫でもない。ウィルスも関係ない。
そうではない告白をされてしまい、甘木は衝撃を受けた。

そして根本的な疑問に行き当たり、迷った。

 

今は、告白の内容については語らない。
語るべきは、甘木が行き当たった根本的な疑問である。


「私は、この人のどこを好きなんだろうか?」

 

好きだと思っていた部分は、どこだったのだろうか。
好きなところは、どこにある?

 

甘木は考え込んだあげく、よくわからなくなり、やけくそでお菓子を作りたくなった。
揚げ物をひたすら揚げるのもよかったが、今の甘木はお菓子を山ほど作っては食べたいという欲求に駆られていた。
そして作った。

 

途中でだんだん飽きてきた。
ただ甘い物を作って食べることに飽きたのである。
そこで、お菓子の中にクジを入れた。


甘木が作っていたのは主に焼き菓子だった。
今日の運勢を食用インクのペンで書いて、菓子の中に入れて焼く。
どの結果を引くかは運次第。

 

それはそれで楽しくもあったが、甘木は次なる問題に行き当たった。
ひとりでは食べきれない問題である。
食べることも目的のひとつではあったが、そもそもがやけくそで作っていたものだ。
作る量が多すぎて食べる量が追いつかない。
くわえて、これ以上作ったら材料費で破産する。
スイーツ破産である。

 

さらに言えば、太りはじめていた。
スイーツ増量である。
普通といえば普通だし、そうでもないといえばそうでもない。

 

しかし、このまま体重が増え続ければ、持っている服が入らなくなり、総買い替えが必要になるだろう。
スイーツで増量&破産したのちにファッションでも破産しそうな勢いである。
そう何度も立て続けに破産できるものでもないだろうが、甘木は出費を控える決意をした。

 

ここら辺でやけくそも切り上げねばなるまい。
しかし、答えはまだ出ていない。
まず答えを出さなくては。
自分はどうしたいのか。
考え始めるとまたわからなくなり、甘木はさらにお菓子を作った。
大量のお菓子を目の前に途方にくれた甘木は、作ったお菓子を職場におすそ分けすることにした。

 

悩みの元凶の渡瀬は、同じ職場の人間である。

甘木と同じく、宿泊施設「ログキャビン・イルズク」で働いている。
イルズクには、職場恋愛についての掟は特に存在しなかった。
しかし、職場には、ふたりの関係を特に大っぴらに言ってはいなかった。
最初は特に意味もなく、そして今では、どこが好きなのかもよくわからなくなっている状態で大っぴらにしても、という思いが働き、積極的に隠すようになっていた。

 

甘木は焼き菓子を作り始めてから、プライベートで渡瀬と会うのを避けていた。
だから渡瀬は、甘木が焼き菓子をがむしゃらに焼いては食べる、むやみに甘い日々を送っていたことは知らない(はずだ)。
体からバニラエッセンスとシナモンとキルシュワッサーが混ざったにおいを発しながら甘木は思った。
運を天に任せよう。

 

具体的には、渡瀬がどのマドレーヌ(のクジ)を引くかで、この先の自分の行動を決めようという方針である。
迷うくらいであるから、どういう結果が出てもいいのである。
選択肢の均衡が取れているときにしか迷いは生まれない。
甘木はそう考えた。

 

なぜマドレーヌなのかといえば、最近作ったのがたまたまマドレーヌだったからだ。
甘木はマドレーヌの型を持っていなかった。
代わりに、アルミの型を買ってきて使った。
円形の底に、蛇腹のようなひらひらが横についている、使い捨ての型である。
形だけで言えば、店で売っている弁当に付け合わされているポテトサラダやゴマ和えなどが入っている、小分けカップあるいはフードカップと呼ばれるアレに似ていた。
もしくは、カップケーキのカップ部分である。

 

そのアルミの型が、50枚セットで売られていた。
だから甘木は、何も考えずマドレーヌを50個焼いた。
手袋をした手で、中にクジを入れて。
できたマドレーヌを小さなビニール袋に個別に入れ、密封する。
イルズクの職員は50人以上いたが、甘木が毎日顔を合わせるイルズク第2棟の人間は50人より少ない。
少し多いが、差し入れの数としては妥当なのではなかろうか。甘木はそう考えた。

 

というわけで、甘木はマドレーヌを焼いた翌日の昼、イルズクのスタッフルームで差し入れを声高に宣言した。
一番食べてほしかった渡瀬とはまだ顔を合わせていなかった。それでも、いつかはスタッフルームにやってくるだろう。
渡瀬はいないものの、昼休憩で食事をしていた数人のスタッフたちが甘木の差し入れをよろこんで受け入れてくれた。

 

「クジが入ってるのか」
「フォーチュン・マドレーヌ?」
「はい。あまり小さい紙だと飲み込んでしまうかと思って、けっこう大きい紙が折りたたまれて入ってます。飲みこまないように気をつけてくださいね」
「へえ。何が書かれてるんだろ」
「私の本心が」
「ぶほ」

 

それまで和気藹々としていたスタッフルームの雰囲気が一気に重くなった。
何が書かれているというのか。
バレンタインもすでに終わっていて、特に何のイベントでも行事でもない謎のタイミングで何を伝える気なのか。
そういった戦々恐々とした気持ちに、一同たたき落とされたのである。

 

周囲のそんな思いとは裏腹に、甘木はそわそわしていた。
渡瀬はいつやってくるのだろう。

 

「あ、入ってた」

 

ひとりが、手でマドレーヌを割って中のクジを取り出した。
脂でテカった紙が折りたたまれた状態になっている。

 

(マドレーヌはクジを入れるには向いてなかったかな)

 

甘木が心の中で反省していると、クジの第一発見者が折りたたまれた紙を開き、中に書かれた文章を読み上げた。

 

「いつもお疲れ様です。感謝しております。今日はハッピーな1日」

 

一瞬静まりかえったあと、スタッフルームに「おお~」という謎の歓声が響いた。
クジのメッセージの方向性がつかめたからである。
ほかのスタッフが、マドレーヌを食べながら紙を口の端でキャッチして、取り出す。

 

「どれ、僕のは……。『恋人が迷っています。どうか話を聞いてあげて』? 僕、恋人なんていないけど」
「あはは」
「あたしは……『来年も一緒にいられればいいと思ってたのに』……。『のに』って何」
「ふ、不吉」
「ははは」

 

存在しない恋人が迷っているらしいことがわかったり、誰だかわからない相手と来年一緒にいられないフラグを立てられたりしながら、ランチタイムは過ぎていく。

 

「お疲れ様です」
「お疲れ様です。あ、加藤さん、甘木さんがフォーチュン・マドレーヌ差し入れてくれたんですよ」

 

スタッフルームに入ってきた加藤に誰かが声をかけた。

 

「フォーチュン? 未来のマドレーヌですか?」
「クジが入ってるんですよ」
「どれ……、いただきます、甘木さん」
「あ、はい。どうぞ」

 

加藤はマドレーヌをひとくちかじり、紙を取り出した。もぐもぐと口を動かしながらメッセージを読み上げる。

 

「『いつも働く姿に元気をもらっています。体調に気をつけてすごすといいかも』」

 

加藤は、傾いたような奇妙な笑顔を見せ、残りのマドレーヌを平らげた。
加藤が読み上げたメッセージを聞いていて、甘木はあることに気づいた。

 

そうなのだ。
クジを書いたときは、すでに差し入れをするつもりでいた。

渡瀬が引いても、職場の人間が引いてもいいように書いた。
甘木は自分の運命を試したかっただけで、特に誰かほかの人間を試す意図はなかった。嘘は書いていない。渡瀬を含め読んだ人が、少しだけでも楽しい気持ちになればいいな、と思ってはいた。
何も匂わせてはいないし、本人の意思に関わらず何かが匂ったとしても、正直に話せる範囲のことしか書いていない。

 

しかし、甘木が作ったクジは、どれもひとつの未来しか指し示していなかった。

自分の運命を試すつもりでいたのに、そもそも別れを選ぶ文章を書いていなかった。
クジの文面を読み上げられたことで、ようやく甘木はそのことに自分でも気づいたのだった。

 

「あ、渡瀬くん、お疲れ様です。甘木さんが差し入れしてくれたんですよ」

 

スタッフルームに入ってきた渡瀬に、加藤が声を掛けた。

 

「え、甘木……さんが?」

 

なぜか動揺したかのように、渡瀬が恐る恐る甘木に向かって問いかける。
甘木もまた、なぜか必要以上に堂々と胸を張って答えた。

 

「はい。おひとつどうぞ、渡瀬さん。くじが入ってるので、それは飲みこまないようにしてくださいね」

 

マドレーヌが入った箱を渡瀬の目の前に差し出す。
半分以上がすでになくなっていたが、まだ選ぶ余地はある。
とはいっても、もう甘木は渡瀬がどのマドレーヌを選んでもいいと思っていた。
自分は迷っているつもりで、迷っていなかった。そのことに気づいたからだ。

 

「……」

 

渡瀬がマドレーヌをひとつ選び、手に取った。それをかじる。
もぐもぐと口を動かし、やがて不思議そうな顔になった。
マドレーヌのかじり口を見つめたあと、もうひとくちかじりついた。
そしてやはりもぐもぐと口を動かしながら、不思議そうな顔をする。

 

「……?」

 

どれを選んでもいいとは思っていたが、こうも不思議そうな顔をされる理由がわからなかった。
甘木は少し不安になった。
不安になったので、直接本人に不思議フェイスの理由を聞いてみようとした。

 

「あの、渡瀬さ」
「あ、私のクジ、ふたつクジが入ってますね」

 

甘木の言葉の途中で加藤が言った。

そのままもうひとつのクジの紙を広げ、読み上げる。

 

「『落とし物が見つかるかも。捜してたものは意外と身近にあるのかも』。ほう」
「あ、それでですかね。俺の、クジ入ってないです」
「え」

 

甘木は、渡瀬の言葉に呆然とした。
渡瀬は加藤に向かって言葉を続ける。

 

「いや、クジ飲みこんでしまったのかと思ったんだけど、たぶんこれ、俺のには最初から入ってない感じですね」
「……あ、すみません。私のミスですね」
「え、いや、えっと甘木さんを責めてるわけでは」

 

いいのだが。
もはやどれを選んだところで自分の行動は変わらないであろうことには気づいたから、いいのだが。
しかしそれにしても。
人為的ミスにより、予期せぬ「ハズレ」になったクジをドンピシャで引いていく渡瀬の、ある意味強運ぶりを思い知ることになった甘木だった。

 

チラリと渡瀬が甘木のほうを見た。
甘木はその視線を受け止めた。
たぶん、これだろう。
ハズレのないクジのハズレを発生させているかのような力と。
あとは得体の知れない感情を呼び起こさせる何かと。

 

好きなところはそこなのだろう。
考えてもよくわからない、ということだけしかわからない。

 

甘木は渡瀬に向かって少しだけ微笑むと、視線を外した。
ホワイトデーに何を贈ろうか、考えながら。

 

(おわり 24/30)

 

まだ遠い、あの灯りを目指して

足が沈む。
雪に沈む。
それほど積もっているわけでもない雪に体が沈んでいく感覚があった。

 

雪が降っている。
寒い。
体が重い。
なぜ。
なぜ俺は今こんなことに。

 

叶太(かなた)は、弟を背負いながら、一歩、また一歩、歩みを進めた。

進んでいるつもりなのだが、さきほどからまったく進んでいない気がしていた。
どこから間違えたのだろう。

 

研修の、あと片付けをしに耳木兎(ミミズク)山に入ったところだろうか。
いや、それは仕事なので、間違えていたとしてもほかの行動をとることはできなかった。

 

弟・杯治(ハイジ)に「話がある」と言われ、その研修の片付けに同行してもらったところだろうか。
そうかもしれない。
そこら辺から間違えていたのかもしれない。

 

だいたい今日は、間違えてばかりだ。

 

何が間違いで何が正しいのか、本来ならどちらとも言い切れぬものだろう。
叶太にもそれはわかっていた。わかっていたはずだったが、今日は間違っているとしか言いようのない選択肢を選び続けている気がした。

 

弟・杯治は高校の「オリエンテーション合宿」のため、兄・叶太は会社の新人研修のために宿泊施設「ログキャビン・イルズク」に滞在していた。
家族旅行ではない。はずだ。
そのはずだったが、イルズクに、現在、行方不明になっている3兄弟の真ん中、渡瀬がいるとの情報が入った。
渡瀬がスタッフとしてイルズクに勤めているというのだ。
彼を探すという極秘任務が発生した。

 

極秘任務を言い渡したのは兄弟の叔母である。
繰り返すが、家族旅行ではない。親族旅行でもない。
叔母は叔母で、地域のサークルの慰安旅行でイルズクに宿泊していた。

 

家族(親族)旅行でもないのになぜか親族がそろってしまう、そんな謎の現象自体も間違っている。
何もかも間違っている。


だからといって、正解が何なのかもわからないが、叶太は「とにかく間違っている」と口の中でつぶやくことで気力を保った。

 

叶太が山に入ったのは、仕事のためだった。
具体的にはポールの回収のためだ。午前中の研修の企画で使った数本のポールを回収しなくてはならなかった。

 

出かけるときに、雪は降っていなかった。
宿泊施設から出て空を見上げると、灰色の雲が垂れ込めていた。
携帯で見た天気予報は、「曇り、ところにより雪」。
降らないように祈るしかなかった。

 

耳木兎山は、山といってもそこまでの急斜面と高さを備えているわけではない。
本格的な登山装備がなくとも気軽に登れる、登れるというか歩ける山、というのが耳木兎山の売りだった。

宿の前に掲げられた看板によると、イルズクと山のあいだの距離は、約1200メートル。

歩けない距離ではない。叶太は徒歩で山まで行くつもりだった。

 

「叶太(にい)、話があるんだけど」

 

叶太が宿泊施設のロビーを正面入口に向かって歩いていると、土産物屋の付近で、弟・杯治に声をかけられた。
杯治は連日の山歩きで筋肉痛らしく、声だけは朗々と辺りに響き渡ったが、いかんせん足がプルプルよろよろして本体が追いついていなかった。

 

牛歩よりも遅い杯治の歩みを待ち、事情を聞くと、今は自由時間だと言う。
杯治は4人部屋に泊まっていた。
同じ部屋のメンバーは、雪が降りそうな外の寒さと、学校側がなぜかかたくなにジャージ着用を義務づけていることと、連日の山歩きで筋肉痛である……などの理由から、部屋で芋虫のようにうねうね寝転んでいることを選んだらしい。

 

杯治は確かにジャージを着ていた。
ジャージのみである。コートは着ていない。

 

「なんでおまえんとこの学校、コートは着ちゃダメなの?」

「コート禁止はジャージのときだけね。理由はわからない。体を動かして汚れるからかもしれないし、寒さなんか感じないほど常に動けってことなのかも、ジャージ着てるからには」

 

叶太は、なだらかとは言え、山に登るということで、モコモコ着込んでいたコートを杯治に手渡しながら言った。

 

「これ着とけ。校則違反かもしらんが、今自由時間らしいし、ここは学校じゃないし、着てもいいだろ、もう」
「叶太兄が寒いでしょ、スーツだし。そのスーツが、どんな気象条件も相殺できる機能スーツだとかいうなら話は別だけど」
「そんなスーツねえだろ。そんなんじゃないけど、俺はポール片付けるだけだし、そんなに時間かからんだろ。いいから着とけ」

 

1着のコートを互いに押し付け合いながら、そんな会話をした。
今日の昼過ぎのことだ。まだそれほど時間が経っているわけではないはずだが、もう遙か昔の出来事のように叶太には思えた。

コートを杯治に渡したことが間違いだったとしても、ほかにどうしようもなかった。
考えても仕方がない。

 

雪が降り続いている。吹雪とはいえぬ、ちらほらした降り方で、道を見失ったり、歩きにくくなるとまでは言えなかったが、寒い。

 

イルズクから1200メートルの道のりを歩き、耳木兎山に到着した。
耳木兎山のふもとには駐車場があった。

 

「ここもイルズクの駐車場らしい。で、駐車場の管理事務所には『カトウ』って名字のスタッフがいるという情報をゲットした。……から、ちょっと仕事の前にここで話を聞いていこうかと思って。いいか?」
「いいけど、ここに? 渡瀬兄が?」
「いる、のかもしれない」

 

結果から言うと、いなかった。
駐車場の管理事務所にいる人間は、叶太や杯治、そして目的の渡瀬と同じ「カトウ」という姓ではあったが、「歌藤」と表記するカトウさんだった。
渡瀬ではなかった。

 

「カトウという名字は多いからね、なぜかイルズクは」

 

通称「ウタさん」であるらしい、駐車場の歌藤さんにそう言われながら、ふたりは建物から離れた。

 

「いなかったね。『カトウ』が多いって何なんだろう。まるで僕たちを狙っているかのようなこの謎トラップ」
「別にトラップじゃねえだろ……」

 

そこで叶太は思い出した。

 

「おまえ、なんか話があるって言ってなかった?」
「ああ、うん……、今じゃなくてもいいんだけど。帰ってからでも」
「いや、気になるから今聞きたい。帰ってからだと、住んでるとこ別々だから余計に話しにくいだろ。もちろん、今おまえのほうの時間が大丈夫なら、だけど」
「僕も、しばらく自由時間になっててヒマだったから今でも別にいいんだけど。なぜかうちの担任の先生が寛大で、多少出歩いてもいいって言われてるし。商店街とかでお土産買ったり」
「じゃあ、おまえも山に一緒に来てくれ、すぐ終わるだろうから」

 

この決断も間違っていたのだろうか。
ここで宿に戻ればよかったのか。
それもそうだ。杯治は学校の行事でここにいるのだ。
勝手に連れ出すべきではなかった。
自分は仕事で山に行く用があったが、せめて杯治だけは帰せばよかった。

叶太は、考えても仕方がないことを考え続けた。

 

ふたりが耳木兎山を歩くうちに、空がどんどん暗くなってきた。
杯治は筋肉痛を抱えていたため、あまり積極的に歩こうとしなかった。
のろのろとあとからついてくる杯治に、叶太は「もうちょっと速く歩けないか」と何度か言おうとして、こらえた。
筋肉痛の人間にキビキビ歩けというのも酷な話だと思い直したのだ。

 

山を歩き回り、ポールを2本回収したところで、暗くなった空から雪が降り始めた。
ひらり、はらり。
雪が舞う中、左脇にポールを2本抱えながら歩いていた叶太は、空を仰ぎ見た。

 

「降ってきた……」

 

息を白く吐き出しながら立ち止まり、杯治のほうを見た。杯治も白い息を吐きながら言った。

 

「早くポールを集めよう。あと何本?」
「あと2本」
「全部で4本あるのね、わかった」

 

ポール自体は全部で11本使ったが、3人で片付け作業を分担しているため、ひとりだいたい4本である。どのポールを回収するかの割り当てはすでに決まっている。

叶太はポケットから地図を取り出して見た。
研修で使った、カードに描かれた大雑把な地図である。ポールの場所が記されている。
地図で次のポールの位置を確認してから、ポケットに地図をしまい、また歩き始める。

 

「で、話したいことって何だ、杯治」
「ああ、うん」

 

じゃり、じゃり。
杯治がなかなか話し始めないため、ふたりが歩く音がやけに耳についた。
雪は音も立てずに降り続いている。

 

「渡瀬兄のことなんだけど」

 

杯治はそう言ったきり、また黙った。
叶太が先を促そうと言葉をかけようとしたところで、ようやく杯治が話し始めた。
先ほどの一言が、あとの言葉の栓をしていたかのように、次の言葉の群れはよどみなく流れた。

 

「渡瀬兄を見つけたってこと、叔母さんは『まだ親に知らせるな』って言うけどさ。あ、『親』って僕たちの親ね、父さんとか母さんとかに。ほんとに内緒にしてていいのかな? いちおう親なんだから、知らせといたほうがいいんじゃないのかな?」
「ああー……、というか、渡瀬を、まだ見つけられてないけど」
「でも叔母さんは見つけたって言ってた」
「言ってたけど、どうなんだろう……。こんなこと言ったらいけないのかもしれんけど、叔母さんの頭の中にしか存在しない渡瀬という可能性がある」

 

杯治は、叶太の言葉の意味を考えるように、一瞬、間を置いてからうなずいた。

 

「あるかもね。そうか、僕らが見つけるまではやっぱり黙ってたほうがいいのかな」
「うーん。俺らは一度家に戻るよう渡瀬を説得するつもりなんだから、説得が成功してからでもいいような気はする」
「ああ、説得が失敗して、渡瀬兄が『戻りたくない』って言った場合か……。確かにそれは、『見つけた』って教えてしまうと言い出しにくいよね……。渡瀬兄の選択の自由のためにも叔母さんの指示通りにやったほうがいいってことか」

 

納得したのか、杯治はそう言ってうなずいた。
3本目のポールにはまだたどり着いていない。
叶太は、「もっと速く歩いてくれ」と催促しようとしてこらえる、という何度めかの内なる戦いを経て、杯治に対する提案を思いついた。

 

「よし、おんぶしてやる。来い」
「え。嫌だけど」
「だったらもうちょっと速く歩いてくれ」

 

ついに叶太は言ってしまった。今までこらえていた言葉を。
それは叶太の心からの言葉だったが、杯治は特に心を動かされた様子もなく、さらりと言った。

 

「僕がおんぶしてもらう必要はないんだけど、そういえば叶太兄、寒いよね? 僕がコート取っちゃったから」
「いや、取ったわけじゃないだろ」
「叶太兄のコートを着た僕を背中に背負ってれば、叶太兄もあったかいかもね。ポールも僕が持ってさ」

 

一度は断ったわりに、杯治は意外と乗り気だった。
自分が提案した手前、今さら後に引けなくなった叶太は、杯治をおぶった。

 

3本目のポールにはすぐにたどり着いた。
早く宿に戻りたい一心の叶太が、杯治を背負いつつ速く歩いたからである。

 

間違っていた。
あんな提案するなんて、どうかしていた。
叶太は重い足を動かして4本目のポールに向かう途中で考えていた。

 

確かに暖かい。
しかし、それ以上に重い。
何メートルも積もるほど激しく雪が降っているわけでもないのに、地面に足が沈み込むような錯覚を起こすほど重い。
あんなに小さかった弟がこんなに大きくなっていたのか、という親父っぽい感慨を抱けるほど叶太は大人ではなく、ただひたすら重みに耐えるのみの道のりだった。

 

4本目のポールを目指す途中で、杯治が叶太の背中からポツリと言葉を発した。

 

「うちの親、渡瀬兄の失踪届を、ほんとに出すと思う?」

 

回収した3本のポールを叶太の背中に載せ、その上に覆いかぶさるように叶太に背負われながら、である。

 

「出さんだろ」

 

叶太は簡潔に答えた。呼吸が苦しかったために、長く答えることができなかった。

 

「そうだよねぇ……。行方不明者届けを出して7年経つと、裁判したり、なんやかやすれば失踪届を出すことができて、失踪届を出すと死亡者扱いになるって言ってもさぁ。さすがに7年経ったからって、すぐに『ハイ死亡』とはやらないよね、うちの親も」
「……」

 

叶太は答える気力がなかった。
早く、早く、4本目のポールにたどり着かねば。
足が持たない。

 

やがて、4本目のポールにたどり着いた。

 

「杯治、いったん下りてくれ」

 

叶太は、ポールの場所にたどり着くなりそう言った。
杯治がポールを抱えて背中から下りると、叶太はスーツが汚れるのにもかまわず、その場にしゃがみ込んだ。
雪が降り続いている。
叶太の頭の上には雪が少し積もっていた。


一方、叶太のコートのフードをかぶっていた杯治は、手に持った3本のポールをその場に置くと、ジャージのポケットから携帯を取り出した。

 

「帰れなかったときのためにLINE送っといたほうがいいのかな。Twitterのほうがいいのかな」

 

ブツブツとそんなことを言う。

 

「いや帰れるよ」

 

しゃがみ込んだまま、うつろな目で休憩を取っていた叶太が即座に断言した。
杯治はその叶太の言葉には答えず、携帯を操作しながら淡々と言う。

 

「渡瀬兄のことだけど。さっき叶太兄が言ったことを考えるとさ、渡瀬兄が行方不明になってから7年経っていても別に急ぐこともない気がしてくるけど。別に今のままでもいいような」
「……今はいいけど、家族に何かあったときが問題だろ。いろいろ」
「あ、そうか。あと、僕らが出くわすのって、ここだけなのかもしれないものね」
「……」
「今を逃したらもうずっと会えないのかもしれないよね」
「まあ、な」

 

そろそろ立ち上がって帰らなくてはならない。が、叶太はそのときを引き延ばすかのように言った。

 

「おまえは渡瀬に戻ってきてほしくないのか?」
「僕は……、渡瀬兄が家を出たとき10歳とかだったから、あまり記憶自体がない」
「いや、あるだろ、10歳だったら」
「うーん。突然家を出たいほど何かを思っていたってことにも気づかなかった。ああいう人だと思ってた。あのまま、あんまりしゃべらない、よくわからない人として年を取って人生を終える人だと」
「……」
「でも、そうではなかったのかな、とも今思ってる。別に帰ってきたからといって、今までの印象が変わるほどの何かが起きるとも思ってないけど」
「そうだな」
「それでも、渡瀬兄が特に嫌じゃなければ、一度くらいは戻ってきてもいいんじゃないのかなあ、主に親のために。とは思う」
「うん……」

 

確かにそうだ。
これ以上のことは言えない。
これ以上の思い入れを持ってくれる家族だったら、きっと渡瀬は家を飛び出しはしなかったのではないか。

叶太はそんなことを思い、これ以上ここで考え込んでいても仕方がないと首を振ると、立ち上がろうとした。

 

そのとき、シャッター音がした。
杯治だった。

 

「あ、ゴメンいきなり撮って。てかこれ、叶太兄スクワットしてるみたいに見える」

 

叶太が杯治の携帯の画面をのぞき込むと、確かにそこには、なぜか頭に雪が積もったままスクワットをする自分がいた。

 

「ふざけてる場合か。帰るぞ」
「うん。あ、わかった。コートをふたりで着ればいいんじゃないかな。相合コート」
「アイアイ」

 

叶太が口の中で、その奇妙な響きの言葉を繰り返していると、杯治は自分が着ていたコートを脱ぎ、自分と、隣に立った叶太の上にふわりと広げて載せた。

 

「最初からそうしてくれ……」

 

疲労のため、うつろな目をしながら叶太がブツブツ言っているうちに、杯治は周辺に置いていたポールを拾って叶太に差し出した。
叶太がポールを受け取り、ふたりで歩き始めた。

 

「もっと速く歩いてほしいんだけど」

 

今度は杯治がそう言った。
杯治が文句を言うほど、往路に比べ、明らかに叶太の歩みは遅くなっていた。

叶太は何かを言い返す気力もなく、ただ歩き続けた。のろのろと。

 

遠くに駐車場の管理事務所の灯りが見えた。
まだ日没までは時間があったが、空が暗いため、灯りのついた建物が浮かび上がって見える。
あそこにたどり着ければいい。
黙ったまま、ふたりはそこを目指して歩いた。

 

「なかなかたどり着かないね……」

 

もはや言葉を交わす元気もなく、何かを言っても会話にならない。
ただぽつり、ぽつりと言葉が空気に放たれては消えていく。

 

どれほど歩いただろうか。
自分たちの歩みが異常に遅いことと、空が暗いこともあり、時間の感覚がなくなり始めていた。
そんなとき、杯治が声を上げた。

 

「あ、LINE。叔母さんだ。さっきの見てくれたんだ」
「……」

 

そうか。
というかおまえ、よく携帯チェックする余裕があるな。

 

それくらいしか言うことがなく、今のテンションで思ったことをそのまま言ってしまうと、とんでもなく陰気な、なおかつ不満を表明しているような言い方になってしまいそうで、叶太は言葉を発することなく気持ちの上だけで相づちを打った。

 

「……? 叔母さん、じゃないのかな?」

 

杯治が不思議そうな声を上げる。叶太が杯治の方を向くと、杯治が説明をした。

 

「いきなり謎のLINEが飛んできた。叔母さんなのかなこれ、名前は叔母さんなんだけど『叫太、サケタ』『間違えた、キョウタ』『今どこにいる?』って。兄貴の名前って『キョウタ』じゃなくて『かなた』だよね? 字も『叫ぶ』って字になってる。これ叔母さん? 乗っ取り? 何だろこれ」

 

その言葉を聞いた瞬間、何かを思うよりも早く、言葉が叶太の口をついて出た。

 

「渡瀬だ」

 

自分でも驚くほど、とっさにそう言葉を発していた。

 

「え、これ? 渡瀬兄? 今、叔母さんと一緒にいるってこと?」

 

杯治が戸惑ったように叶太に尋ねる。叶太は黙ってうなずいた。
経緯はよくわからないが、このLINEは渡瀬が送ったものだ。

 

今日は間違ってばかりいたが、これだけは合っている。
これだけは間違っていない。
これだけは正しい。
根拠はないが、そんな確信が叶太にはあった。

 

「昔、あいつ、俺の名前を間違ったんだよ。学校の何かで家族の名前を書くことがあって、それでなぜか『叫ぶ』のほうのキョウタって書いてて。『なんだよサケタって』と思ったけどさ、あんまり漢字書けないことを責めても仕方ないのかと思って我慢したことがある」
「ああ、それで微妙な関係になったんだね……」
「いや、別にそこまでは」
「言いたいこと我慢されたら微妙な感じになるでしょ、普通」

 

杯治の言葉に、叶太は反論できなかった。
そんな叶太には構わず、杯治は携帯を再び見てから言った。

 

「そうかー……。じゃあ、こっちも状況の説明しておこう。えーと……、……、……よし。で、最後に叶太兄の写真置いておこう」
「なんでだよ」
「『僕らはスクワットできるくらい元気ですよ」って意味を込めて」
「おまえ映ってないだろ……」

 

そんなことを言っていると、駐車場の灯りがやや近くに見えてきた。
もう少し。
もう少し歩けば、たどり着く。日没までにはたどり着けるはずだ。
道さえ間違えなければ。

 

間違ってばかりの今日、ひとつだけ正しいものが見えた、その残りの今日。
あとはまた間違ってばかりの時間が待っているのかもしれない。

 

この道で合っているはずだ。
やや近づいた駐車場の光を目指して進む。
そこに道を間違える余地はないような気がしたが、今日の間違えっぷりを考えるとわからない。
まだ俺は間違うのか。
また俺は。

 

間違いを恐れて立ち止まっている時間はない。
ただ進むしかない。

 

叶太はゆっくりとまばたきをした。
白っぽい景色が続いて、目が疲れていた。
鼻から白い息が漏れる。

 

休もうとしても、今となっては叶太よりも速く歩いている隣の杯治にコートが引っ張られ、叶太も足を動かすほかはない。
叶太はだるくなった足をまた一歩進めた。

 

(おわり 23/30)